INICIAR SESIÓN「美琴」
病棟の談話室の椅子から千尋が片手を挙げた。
「検査が終わったばっかりのこのはを置いて来てるんだ。早く終わらせよう」
「終わらせるって……何を?」
テーブルを挟んで千尋と向かい合った。クリアファイルに入った1枚の紙が差しだされる。
そこに書かれた文字はファイルの反射に遮られることなく、真っ直ぐ美琴の目に届いた。それでも尋ねずにはいられない。
「……これは?」
「電話でも言っただろ。離婚協議書だよ。さ、サインしてくれ」
「本気だったんだ……」
千尋は突きつけるようにボールペンを寄越した。
「このはのことは遊びだって言いたいのか? 俺は本気だよ」
美琴はボールペンは受け取らず、テーブルの書類に目を落とした。そこある言葉は、ふたりの3年間をすべて否定するかのようだった。
「……どういうこと?」
「その通りだよ。会社の持分は返して、これまでデザインした宝石の権利も放棄してもらう。離婚するんだから当然だろ」
「でもっ、あのデザインは——」
思わず身を乗り出した。美琴が必死に、ひたむきに、自分にできることに向き合って作り出したもの。それを簡単に手放して、置いていけと言うのか。
美琴の手が膝の上で握られる。千尋はボールペンの頭でテーブルをコツコツと叩いた。
「なあ、もういいだろ。早くこのはのところに戻ってやりたいんだ」
「待って、待って……」
美琴は声を震わせながら片手で協議書を示した。
「これだけ、せめてこれだけは消して。離婚も持分の返還も分かった。受け入れる。だからデザインまで、わたしから——」
『奪わないで』。
そんな美琴の願いは、千尋のため息に吹き飛ばされた。
「自分が特別だとでも思ってるのか?」
その声はいつになく平坦だ。
「デザイナーなんてこの世にごまんといるんだ。美琴の代わりくらい簡単に見つかる」
耳の奥がキィンと鳴った。テーブルの上で握りしめた美琴の手の甲に、千尋のボールペンが当たる。
「ちょっと上手くいって、ちやほやされたからって、気持ちよくなってたんだろ。自分は天才だとでも思ってたのか?」
その言葉を吐き出すのは、3年前の、純白のウエディングドレスを綺麗だと褒めた唇と同じものだろうか。目を合わせるのが怖くて美琴はじっと下を向いていた。
もうひとつのため息とともに、千尋が乾いた声で言った。
「そこまで嫌がるなら、いいよ、サインしなくて。その代わり、君のお母さんの治療費は自分で払うってことだよな?」
はっと顔を上げた。そこにいるのは夫としての千尋ではなかった。美琴に投げる視線はあくまで冷たく、まるで温度を感じない。
千尋はもう1度ボールペンを揺らした。その目が「これで最後だぞ」と念を押している。
美琴は強張る手でそれを受け取った。受け取るしか、なかった。
唇を噛みながら、いつもより歪んだ線で、離婚協議書に名前を記した。千尋は満足げに書類を取ると、「じゃ、これで」と短い挨拶だけ置いてテーブルを離れた。最後に目を合わせることも、片手をあげることも、結婚生活の感謝も謝罪も、送られることはなかった。
椅子から立ち上がれないでいる美琴に、若い看護師が近づいてきた。
「小川さん、先生からお話があるそうです」
美琴の顔を覗きこんだ彼女がぎょっと目を開く。
「大丈夫ですか? 顔色が悪いようですが……」
「だい、大丈夫です。すぐ行きます」
肩を支えようとした看護師の手を柔らかく断り、テーブルについた腕で身体を持ち上げるようにして立ち上がった。
案内された部屋に、母の主治医の先生が待っていた。美琴が座ると簡単な挨拶を済ませ、すぐ「本題なんですが」と切り出した。
「お母さまのご容態は、今は安定されています。これまでは気を抜けない状態が続いていましたが、ひとまずは安心です。そこでですね」
パソコンの電子カルテを指さしながら説明される。
「今のうちに、より新しい設備のある鈴之宮メディカルセンターに移られたほうがよろしいかと思われます。医大との連携もありますし、お母さまのご病気を扱った実績もありますから」
そこで1拍おいた。片眉をひそめながら美琴に向き合う。
「まあ、治療費は多少、ね。そのあたりのことも考えて、出来るだけ早くご決断いただければ……」
はい、とうなずいて美琴は部屋を出た。母の病室へ行くと、母は眠っていた。起きるまで待っていようと、かたわらの簡素なスツールに腰かけたが、しばらくしてまた立ち上がった。
今、母が起きたとしても、どんな顔をすればいいか分からない。一気にいろいろなことが起こり過ぎた。どうにか取り繕ってきた表皮が母親の前では崩れ、弱音を吐いてしまいそうなのが怖かった。
カバンから手帳を取り出し、後ろのページを破り取る。症状が落ち着いてよかったということと、また明日必ず来るということを書いて、病室を立ち去った。
中央病院の自動扉を出た瞬間に、どっと身体が重くなった。
千尋は約束通り滞納分は払ってくれるだろう。だけどそのあとは? 鈴之宮メディカルセンターに移って、治療費を払い続ける能力は自分にあるだろうか? 大槻家という味方を失った、もはや無職の女に。
「……違う」
ぼんやりと呟いた。
「味方じゃなかったんだ、たぶん最初から」
タクシー乗り場のベンチにふらりと座り込んだ。そこへ、1台の黒い車が停まったのが視界の端に映った。場所を空けようと腰を上げて、気がついた。
「鈴之宮くん……?」
運転席から出てきた司沙が杖をつきながらこちらに歩いてくる。驚く美琴を見、つかの間黙ったあと、手を差し出した。
「場所を変えて話したい。乗ってくれないか?」
停まった車を示す。
なんだろう、鈴之宮メディカルセンターで助けてもらった費用のことだろうか。美琴は力なくうなずき、その手を取った。
乗せられた助手席のソファは美琴の身体をゆったりと包み、思わず目を閉じた。車は静かに発進した。
着いたのは高級ホテルのエントランスだった。
戸惑う美琴の半歩先を司沙が歩く。スタッフの1人が、司沙を見るなり礼をしながらラウンジに案内した。
突然の慣れない場所に、つい表情を強張らせて座る美琴の前に、司沙は1枚の契約書を出した。
「小川美琴、俺と結婚してくれないか」
次の日、美琴と司沙は病院の談話室で会った。できるだけ母のそばを離れたくないという美琴の気持ちを汲んで、司沙が足を運んでくれたのだ。奇しくも千尋に離婚協議書を渡されたのと同じテーブルだった。「条件があります」 向かい合って座り、美琴は人さし指を立てた。「まず、1年後には必ず離婚すること」 司沙が首を縦に振る。「2つめに、母の治療費は借金という形をとらせてほしいの。いつか絶対に返すから」 司沙の動作も表情も変わらない。美琴は3本目の指を立てた。「3つめ、今後のデザインにはわたしの名前を入れること」「もちろんだ」 司沙は深くうなずいた。 最後の条件をあっさり呑まれ、美琴は拍子抜けした。拒まれるか、気乗りしない返事が返ってくることを覚悟していた。 美琴の心に気がついたのか、司沙が少し顔を寄せて言った。「デザイナーの名を記すのは当然のことだ。気にしなくていい」「でも、どうしてそんなに……」 弱気になってしまう美琴のほうに、司沙はわずかに手を動かした。が、すぐに引っ込め、テーブルの上で指を組んだ。「言っただろう、君のデザインには価値があると。jewelry otsukiの業績からも明らかだ」 それから少し迷うように間を置き、司沙は言った。「俺は……ずっと分かっていたよ」 温かいものが広がる。表情を緩め、美琴はうなずいた。千尋に、デザイナーとしての矜持を傷つけられたあとだからだろうか、司沙の言葉は真っ直ぐ胸に届く。 信じよう、そう思えるのだ。 美琴はカバンから、預かっていた契約書を取り出した。手帳に挟んでいたペンで丁寧に署名する。それをくるりと司沙のほうに回し、差し出した。 司沙は表情を変えることなく受け取った。ファイルに挟んでカバンに入れ、代わりに書類を2つ出して美琴の前に並べた。「母上の転院の準備はすでに始めている。少しばかり態勢を整える時間が必要だったんだ。明日にでも移れる」 美琴はダブルクリップで綴じら
HCUが見えるソファに美琴は座っていた。 時計は見ていないが、長い時間が経ったことは、美琴を心配して声をかけてくれる看護師たちの様子で分かった。 やがて医師に呼ばれた。最初に「ひとまずは安心です」と前置きされ、ずっと力んでいた肩がすとんと落ちた。 涙をこらえる美琴に、医師はゆっくりと告げた。「でもね、ここからの回復は、お母さまの頑張り次第です。うちも小さい病院ではありませんが、正直限度があります。昨日お話ししたことは覚えていますか?」 美琴はうなずいた。鈴之宮メディカルセンターに移ったほうがいいという話だろう。「今回のようなことをくり返すと、お母さまのお身体にも負担がかかりますからね。出来るだけ早めにご決断いただいたほうが……」 医師との話を終え、部屋から出たところへ、誰かが小走りで駆け寄ってきた。「美琴さん、大丈夫ですか?」「麻衣さん……どうして」「鈴之宮メディカルセンターで、小川さんを受け入れる準備が始まったんです。わたしは午後から非番なので、もしかしたらと、居ても立っても……」 美琴は視線を落とした。かすかに唇の端を上げる。「今、何時ですか?」「えっと、14時半です」 やはり午後になっていたのか。それほどの時間、自分はただ治療室の外で祈るしかできなかった。「美琴さん」 麻衣が美琴の手に触れた。「あなたは1人で頑張り過ぎです。よければ聞かせてください。好きなだけ、吐き出してください」 麻衣は美琴の手をとったまま近くのソファに誘導した。しばらく黙っていたが、麻衣は手を離さなかった。 ぼんやりと、天井の蛍光灯を反射するライトグレーの床を眺めながら、美琴は口を開いた。「今朝……母の病室に、赤井このはの母親が来たんです」 麻衣はやはり何も言わず、ただ首を縦に動かす。「偶然、入院中に仲良くなったのなら、別にいいんです。でもあの人は……娘さんから、千尋やわたしたちのことを聞いて、わざとその話を母に聞かせたんだと思います」
母からの、「来てくれていたのに気づけなくてごめんね。おかげでよくなりました」のメッセージで、美琴はやっとほほ笑むことができた。心が少しだけ落ち着く。 大槻家を追い出され、病院からも出た美琴は、長らく留守になっている実家に帰ることにした。司沙のくれたお金は充分過ぎた。 家に着いたとき、もう日は暮れかかっていた。夕日を受けてオレンジ色に染まる玄関ドアを撫でる。カバンから鍵を取り出し、ゆっくりと差し込んで回した。「……ただいま」 返ってくる声はない。 父親は美琴が物心つく前に死んでしまったと聞かされている。家の管理を頼める兄弟も、親戚もいない。久しぶりの実家は、あちこちに埃が溜まっていた。 美琴はリビングの1番大きな窓を開けた。薄いカーテンがふわりとなびいて風を誘いこむ。 ふっと力が抜けてそこに座り込んだ。しばらくの間、美琴は、カーテンが揺れながら家に新しい風を通しているのを眺めていた。 翌日、道中でお見舞いのゼリーを買って、母のいる病院に向かった。実家からは決して近くはないが、歩いて行くことにした。節約にもなるし、その時間で頭の中を整理しておきたかった。 いくらか落ち着いた思考で病院に着き、受付を済ませる。 母の病室の前まで来たとき、中から話し声が聞こえた。母の声ではなく、無遠慮な笑い方は、看護師のものとも思えない。 ノックをしてドアを開けた。ベッドの傍らのスツールにいたのは、院内着を身につけた、母と同年代らしい女性だ。彼女は入ってきた美琴を見とめるなり、まるでここが自分の部屋だとでも言いたげに眉をひそめた。母が焦ったように紹介する。「わたしの娘です。美琴、こちらは同じ病棟の赤井弘美さん」「はじめまして。娘の小川美琴です」 頭を下げながら、美琴の心臓はドクンと鳴った。『赤井』という苗字がやけに響いてしまう。特別珍しい名前ではないのだからと、弘美の見覚えのある目もとを気にしないようにした。 しかし、弘美はパチンと手を叩くと「じゃああなたが、わたしの娘の恋人にちょっかいをかけた人ね?」
「……あは。なに、結婚って。冗談でしょう?」 思わず笑いながら司沙と目を合わせた。司沙はイエスともノーとも言わずに、かたわらに立て掛けた杖に視線をやった。「……継母が、自分の息子を跡継ぎにしようとしている。1年以内に結婚しなければ、俺は鈴之宮グループの重要株式を得ることができない。そうしたら、継母の思うつぼだ」 静かな声だった。ラウンジを流れる控えめなBGMにさえ紛れてしまいそうなほど。美琴は自然とうなずく。 司沙の視線はまた正面に戻った。3本の指を立てる。「条件はある。まず、これは1年間だけの契約結婚だ。夫婦らしいことは何も求めない。1年後、綺麗に離婚する」 3本のうち、人さし指を折る。「第2に、君の母上をうちの病院で診る。費用はもちろん受け持つ」 美琴は目を見開いた。司沙はさらに中指を折る。「最後に、君には鈴之宮の百貨店で行われるジュエリー展のメインデザインを担当してもらいたい」 すべての指を折り、司沙はかすかに頭を前に傾けた。「どうだろうか」 美琴は言葉を失った。疑うほうが簡単だ、こんな虫のいい話。 疲れているはずの頭を回転させる。1年だけの、形だけの結婚なら、確かに問題はない。母にも治療を受けさせられる。それに——。「わたしが、デザインを? どうして……」「価値がある」 躊躇いもなく司沙はそう口にした。「2年前から、『jewelry otsuki』の宝石デザインが一新した。業績も伸びた。君の活躍があったんだろう? 名前が表に出ることはほとんどなかったが」 真面目な瞳で言う。「その才能を発揮する場を提供したい」 美琴は胸の奥が震えるのを感じていた。 大槻家では当たり前のように利用され、たったさっき当たり前のように奪われた力を、この人は認めてくれる。それは美琴にとっての心の救済だった。 母の医療費という金銭的な問題は、この先どこかで働けば、時間はかかっても解決できるだろう。 しかし美琴が大槻家
「美琴」 病棟の談話室の椅子から千尋が片手を挙げた。「検査が終わったばっかりのこのはを置いて来てるんだ。早く終わらせよう」「終わらせるって……何を?」 テーブルを挟んで千尋と向かい合った。クリアファイルに入った1枚の紙が差しだされる。 そこに書かれた文字はファイルの反射に遮られることなく、真っ直ぐ美琴の目に届いた。それでも尋ねずにはいられない。「……これは?」「電話でも言っただろ。離婚協議書だよ。さ、サインしてくれ」「本気だったんだ……」 千尋は突きつけるようにボールペンを寄越した。「このはのことは遊びだって言いたいのか? 俺は本気だよ」 美琴はボールペンは受け取らず、テーブルの書類に目を落とした。そこある言葉は、ふたりの3年間をすべて否定するかのようだった。「……どういうこと?」「その通りだよ。会社の持分は返して、これまでデザインした宝石の権利も放棄してもらう。離婚するんだから当然だろ」「でもっ、あのデザインは——」 思わず身を乗り出した。美琴が必死に、ひたむきに、自分にできることに向き合って作り出したもの。それを簡単に手放して、置いていけと言うのか。 美琴の手が膝の上で握られる。千尋はボールペンの頭でテーブルをコツコツと叩いた。「なあ、もういいだろ。早くこのはのところに戻ってやりたいんだ」「待って、待って……」 美琴は声を震わせながら片手で協議書を示した。「これだけ、せめてこれだけは消して。離婚も持分の返還も分かった。受け入れる。だからデザインまで、わたしから——」 『奪わないで』。 そんな美琴の願いは、千尋のため息に吹き飛ばされた。 「自分が特別だとでも思ってるのか?」 その声はいつになく平坦だ。「デザイナーなんてこの世にごまんといるんだ。美琴の代わりくらい簡単に見つかる」 耳の奥がキィンと鳴った。テーブルの上で握りしめた美琴の手の甲に、千尋の
翌日、退院の準備を整えている美琴のもとに、麻衣がやって来た。「お伝えしようか悩んだのですが……」 千尋に頼まれ、このはを診察することになったと説明する。「すみません。こんな話をしたって、困らせてしまいますよね」「気にしないでください。それに、赤ちゃんに罪はありませんから」 麻衣は昨日のように頭を下げ、美琴も応えた。顔を上げた2人はほほ笑み合った。「あ、大槻先生、お願いをひとついいですか?」 美琴の言葉に首を傾ける。「ええ。何でしょう」「千尋には、わたしのこと——妊娠していたけれど、その子を失ってしまったことを、言わないでください」 麻衣の目が大きく開く。「いいんですか? せめて千尋に罪の意識を——」「いいんです。昨日先生がおっしゃっていたように、謝ってもらえたとしても、命は帰ってこない。それにもし謝られなかったら、そっちのほうが惨めです。だから、いいんです」 麻衣は唇の内側を噛んだ。何もかももどかしかったが、美琴の意思にうなずいた。 午後になって、鈴之宮メディカルセンターに千尋とこのはがやって来た。「彼女がこのはだ。今日は頼むな」 千尋はあっけらかんと麻衣に紹介した。このはも上目遣いに麻衣を見上げる。 白衣のポケットの中では麻衣の拳が握られていた。それでも患者は患者だ。邪険に扱うことはできない。「……どうぞ、こちらへ」 千尋と一緒に診察室に案内した。 今日と明日で行う検査の内容を簡単に説明しながら、麻衣は、千尋がこのはの手を握っているのを視界に入れないよう努めた。それでも、時折見上げるこのはに応じる千尋に、思わず書類を持つ手に力が入った。「麻衣?」 千尋の声ではっとする。紙にはくしゃりとシワが寄っていた。「ごめんなさい。少しぼーっとして」 出来るだけ平静を装い、このはに検査着を渡した。千尋には先に病室に行くよう指示をした。 心が複雑なぶん