INICIAR SESIÓN翌日、退院の準備を整えている美琴のもとに、麻衣がやって来た。
「お伝えしようか悩んだのですが……」
千尋に頼まれ、このはを診察することになったと説明する。
「すみません。こんな話をしたって、困らせてしまいますよね」
「気にしないでください。それに、赤ちゃんに罪はありませんから」
麻衣は昨日のように頭を下げ、美琴も応えた。顔を上げた2人はほほ笑み合った。
「あ、大槻先生、お願いをひとついいですか?」
美琴の言葉に首を傾ける。
「ええ。何でしょう」
「千尋には、わたしのこと——妊娠していたけれど、その子を失ってしまったことを、言わないでください」
麻衣の目が大きく開く。
「いいんですか? せめて千尋に罪の意識を——」
「いいんです。昨日先生がおっしゃっていたように、謝ってもらえたとしても、命は帰ってこない。それにもし謝られなかったら、そっちのほうが惨めです。だから、いいんです」
麻衣は唇の内側を噛んだ。何もかももどかしかったが、美琴の意思にうなずいた。
午後になって、鈴之宮メディカルセンターに千尋とこのはがやって来た。
「彼女がこのはだ。今日は頼むな」
千尋はあっけらかんと麻衣に紹介した。このはも上目遣いに麻衣を見上げる。
白衣のポケットの中では麻衣の拳が握られていた。それでも患者は患者だ。邪険に扱うことはできない。
「……どうぞ、こちらへ」
千尋と一緒に診察室に案内した。
今日と明日で行う検査の内容を簡単に説明しながら、麻衣は、千尋がこのはの手を握っているのを視界に入れないよう努めた。それでも、時折見上げるこのはに応じる千尋に、思わず書類を持つ手に力が入った。
「麻衣?」
千尋の声ではっとする。紙にはくしゃりとシワが寄っていた。
「ごめんなさい。少しぼーっとして」
出来るだけ平静を装い、このはに検査着を渡した。千尋には先に病室に行くよう指示をした。
心が複雑なぶん、作業は淡々とこなした。今日の検査を終えて、麻衣は、このはよりも先に病室に戻ってきた。1人用ソファに腰かけてスマホを触っている千尋に声をかける。
「検査、終わったよ。明日にも精密なものは行うけど、あの感じじゃあ、特に問題はないと思う」
「よかった」
千尋は顔を上げない。
「……それが愛人の検査結果を聞く態度?」
ツカツカと歩いていって、千尋の手からスマホを奪い取る。
「おい! 取り引き先へのメールを打ってたんだぞ」
「もっと気にするべきことがあるでしょ!」
少しの間睨み合い、千尋は黙って手を出す。麻衣がその手のひらにスマホを乗せると、またメール画面を開いた。
「あと、このはを愛人なんて呼ぶな」
「じゃあ何だっていうの? 子どもまで作って」
「美琴とは離婚する」
その言葉に、病室の扉に向けていた目をいとこに戻した。
「……正気? 何考えてるのよ、あんなにいい奥さんを捨てるつもり? あんたのせいで、あんたたちのせいで美琴さんは——」
「静かにしてくれよ。文面がまとまらないだろ」
まるで興味もない口ぶりだ。麻衣は腕を組んだ。
「……焼け石に水ね。もういい。どうせ明日の検査も何も出ないから、結果を渡したらさっさと出て行って」
「そのつもりさ。鈴之宮にいたくもない。お前と違って」
「何とでも言えばいい。でもこれだけは忠告しておく」
麻衣は白衣をひるがえして扉に近づいた。ふり返り、肩越しに吐き捨てる。
「あんたは絶対後悔する」
病室を出、力任せにスライドドアを閉めた。ドアは壁にぶつかって跳ね返ると、中途半端な位置で停止した。
退院の手続きを終え病院を出た美琴に、電話がかかってきた。スマホに表示された発信元を見てドキッとする。美琴の母が入院している病院からだった。
強張った気持ちのままスマホを耳に当てる。
「はい、小川美琴です」
「中央病院の者です。お母さま、意識が戻られましたよ」
「ほ、本当ですか!」
美琴は天を仰いだ。長く病床にいる母は、美琴の唯一の肉親だ。母の高額な治療費は、結婚したとき、千尋が会社の分配金から払うと約束してくれていた。
ほっと胸を撫でおろしたとき、電話口の向こうから遠慮がちな声が聞こえた。
「それで、大変申し上げにくいのですが……治療費が滞納されておりまして……」
「え……?」
「3か月分です。そろそろお支払いいただけないかと……」
足もとがぐにゃりと歪む心地がした。混乱した頭のまま謝り、すぐに払うと言って電話を切った。すぐさま千尋に連絡をとる。
「もしもし千尋?!」
「なんだよ……今このはの検査が終わったところなんだ。離婚の手続きなら——」
「お母さんの治療費は? 払ってくれてるんじゃなかったの?!」
ああ、と間の抜けた声が返ってきた。
「忘れてた。こっちだって忙しかったんだ」
「だからって……!」
唇を噛む。母の命がかかっているのに、『忘れてた』のひと言で済ませるつもりなのか。
「そうだ、じゃあ」
言葉を失った美琴に、千尋が妙に明るい声を出した。
「離婚協議書にサインしてくれ。そうしたら滞納分は払うよ」
耳が遠のいていく。その後も『お互いにメリットだろ』『このはもお前を許すって』と千尋の言葉は続いていたが、もはや美琴の脳には届かない。
「とりあえず、そっちの中央病院まで行ってやるから。詳しくはそこで話そう」
千尋はそれだけ言って電話を切った。美琴は呆然と立ち尽くしていたが、はっとして、慌ててタクシーを止めた。
「中央病院までお願いします」
退院の荷物を持ったままタクシーに乗り込んだ。頭を抱える。
千尋の後ろ盾がなければ母に治療を受けさせることはできない。しかし、せめて滞納している分は払わなくてはならない。それは美琴が簡単に出せる金額ではなかった。
「どうしたらいいの……」
答えは出ないまま、いつの間にかタクシーは中央病院に着いていた。
次の日、美琴と司沙は病院の談話室で会った。できるだけ母のそばを離れたくないという美琴の気持ちを汲んで、司沙が足を運んでくれたのだ。奇しくも千尋に離婚協議書を渡されたのと同じテーブルだった。「条件があります」 向かい合って座り、美琴は人さし指を立てた。「まず、1年後には必ず離婚すること」 司沙が首を縦に振る。「2つめに、母の治療費は借金という形をとらせてほしいの。いつか絶対に返すから」 司沙の動作も表情も変わらない。美琴は3本目の指を立てた。「3つめ、今後のデザインにはわたしの名前を入れること」「もちろんだ」 司沙は深くうなずいた。 最後の条件をあっさり呑まれ、美琴は拍子抜けした。拒まれるか、気乗りしない返事が返ってくることを覚悟していた。 美琴の心に気がついたのか、司沙が少し顔を寄せて言った。「デザイナーの名を記すのは当然のことだ。気にしなくていい」「でも、どうしてそんなに……」 弱気になってしまう美琴のほうに、司沙はわずかに手を動かした。が、すぐに引っ込め、テーブルの上で指を組んだ。「言っただろう、君のデザインには価値があると。jewelry otsukiの業績からも明らかだ」 それから少し迷うように間を置き、司沙は言った。「俺は……ずっと分かっていたよ」 温かいものが広がる。表情を緩め、美琴はうなずいた。千尋に、デザイナーとしての矜持を傷つけられたあとだからだろうか、司沙の言葉は真っ直ぐ胸に届く。 信じよう、そう思えるのだ。 美琴はカバンから、預かっていた契約書を取り出した。手帳に挟んでいたペンで丁寧に署名する。それをくるりと司沙のほうに回し、差し出した。 司沙は表情を変えることなく受け取った。ファイルに挟んでカバンに入れ、代わりに書類を2つ出して美琴の前に並べた。「母上の転院の準備はすでに始めている。少しばかり態勢を整える時間が必要だったんだ。明日にでも移れる」 美琴はダブルクリップで綴じら
HCUが見えるソファに美琴は座っていた。 時計は見ていないが、長い時間が経ったことは、美琴を心配して声をかけてくれる看護師たちの様子で分かった。 やがて医師に呼ばれた。最初に「ひとまずは安心です」と前置きされ、ずっと力んでいた肩がすとんと落ちた。 涙をこらえる美琴に、医師はゆっくりと告げた。「でもね、ここからの回復は、お母さまの頑張り次第です。うちも小さい病院ではありませんが、正直限度があります。昨日お話ししたことは覚えていますか?」 美琴はうなずいた。鈴之宮メディカルセンターに移ったほうがいいという話だろう。「今回のようなことをくり返すと、お母さまのお身体にも負担がかかりますからね。出来るだけ早めにご決断いただいたほうが……」 医師との話を終え、部屋から出たところへ、誰かが小走りで駆け寄ってきた。「美琴さん、大丈夫ですか?」「麻衣さん……どうして」「鈴之宮メディカルセンターで、小川さんを受け入れる準備が始まったんです。わたしは午後から非番なので、もしかしたらと、居ても立っても……」 美琴は視線を落とした。かすかに唇の端を上げる。「今、何時ですか?」「えっと、14時半です」 やはり午後になっていたのか。それほどの時間、自分はただ治療室の外で祈るしかできなかった。「美琴さん」 麻衣が美琴の手に触れた。「あなたは1人で頑張り過ぎです。よければ聞かせてください。好きなだけ、吐き出してください」 麻衣は美琴の手をとったまま近くのソファに誘導した。しばらく黙っていたが、麻衣は手を離さなかった。 ぼんやりと、天井の蛍光灯を反射するライトグレーの床を眺めながら、美琴は口を開いた。「今朝……母の病室に、赤井このはの母親が来たんです」 麻衣はやはり何も言わず、ただ首を縦に動かす。「偶然、入院中に仲良くなったのなら、別にいいんです。でもあの人は……娘さんから、千尋やわたしたちのことを聞いて、わざとその話を母に聞かせたんだと思います」
母からの、「来てくれていたのに気づけなくてごめんね。おかげでよくなりました」のメッセージで、美琴はやっとほほ笑むことができた。心が少しだけ落ち着く。 大槻家を追い出され、病院からも出た美琴は、長らく留守になっている実家に帰ることにした。司沙のくれたお金は充分過ぎた。 家に着いたとき、もう日は暮れかかっていた。夕日を受けてオレンジ色に染まる玄関ドアを撫でる。カバンから鍵を取り出し、ゆっくりと差し込んで回した。「……ただいま」 返ってくる声はない。 父親は美琴が物心つく前に死んでしまったと聞かされている。家の管理を頼める兄弟も、親戚もいない。久しぶりの実家は、あちこちに埃が溜まっていた。 美琴はリビングの1番大きな窓を開けた。薄いカーテンがふわりとなびいて風を誘いこむ。 ふっと力が抜けてそこに座り込んだ。しばらくの間、美琴は、カーテンが揺れながら家に新しい風を通しているのを眺めていた。 翌日、道中でお見舞いのゼリーを買って、母のいる病院に向かった。実家からは決して近くはないが、歩いて行くことにした。節約にもなるし、その時間で頭の中を整理しておきたかった。 いくらか落ち着いた思考で病院に着き、受付を済ませる。 母の病室の前まで来たとき、中から話し声が聞こえた。母の声ではなく、無遠慮な笑い方は、看護師のものとも思えない。 ノックをしてドアを開けた。ベッドの傍らのスツールにいたのは、院内着を身につけた、母と同年代らしい女性だ。彼女は入ってきた美琴を見とめるなり、まるでここが自分の部屋だとでも言いたげに眉をひそめた。母が焦ったように紹介する。「わたしの娘です。美琴、こちらは同じ病棟の赤井弘美さん」「はじめまして。娘の小川美琴です」 頭を下げながら、美琴の心臓はドクンと鳴った。『赤井』という苗字がやけに響いてしまう。特別珍しい名前ではないのだからと、弘美の見覚えのある目もとを気にしないようにした。 しかし、弘美はパチンと手を叩くと「じゃああなたが、わたしの娘の恋人にちょっかいをかけた人ね?」
「……あは。なに、結婚って。冗談でしょう?」 思わず笑いながら司沙と目を合わせた。司沙はイエスともノーとも言わずに、かたわらに立て掛けた杖に視線をやった。「……継母が、自分の息子を跡継ぎにしようとしている。1年以内に結婚しなければ、俺は鈴之宮グループの重要株式を得ることができない。そうしたら、継母の思うつぼだ」 静かな声だった。ラウンジを流れる控えめなBGMにさえ紛れてしまいそうなほど。美琴は自然とうなずく。 司沙の視線はまた正面に戻った。3本の指を立てる。「条件はある。まず、これは1年間だけの契約結婚だ。夫婦らしいことは何も求めない。1年後、綺麗に離婚する」 3本のうち、人さし指を折る。「第2に、君の母上をうちの病院で診る。費用はもちろん受け持つ」 美琴は目を見開いた。司沙はさらに中指を折る。「最後に、君には鈴之宮の百貨店で行われるジュエリー展のメインデザインを担当してもらいたい」 すべての指を折り、司沙はかすかに頭を前に傾けた。「どうだろうか」 美琴は言葉を失った。疑うほうが簡単だ、こんな虫のいい話。 疲れているはずの頭を回転させる。1年だけの、形だけの結婚なら、確かに問題はない。母にも治療を受けさせられる。それに——。「わたしが、デザインを? どうして……」「価値がある」 躊躇いもなく司沙はそう口にした。「2年前から、『jewelry otsuki』の宝石デザインが一新した。業績も伸びた。君の活躍があったんだろう? 名前が表に出ることはほとんどなかったが」 真面目な瞳で言う。「その才能を発揮する場を提供したい」 美琴は胸の奥が震えるのを感じていた。 大槻家では当たり前のように利用され、たったさっき当たり前のように奪われた力を、この人は認めてくれる。それは美琴にとっての心の救済だった。 母の医療費という金銭的な問題は、この先どこかで働けば、時間はかかっても解決できるだろう。 しかし美琴が大槻家
「美琴」 病棟の談話室の椅子から千尋が片手を挙げた。「検査が終わったばっかりのこのはを置いて来てるんだ。早く終わらせよう」「終わらせるって……何を?」 テーブルを挟んで千尋と向かい合った。クリアファイルに入った1枚の紙が差しだされる。 そこに書かれた文字はファイルの反射に遮られることなく、真っ直ぐ美琴の目に届いた。それでも尋ねずにはいられない。「……これは?」「電話でも言っただろ。離婚協議書だよ。さ、サインしてくれ」「本気だったんだ……」 千尋は突きつけるようにボールペンを寄越した。「このはのことは遊びだって言いたいのか? 俺は本気だよ」 美琴はボールペンは受け取らず、テーブルの書類に目を落とした。そこある言葉は、ふたりの3年間をすべて否定するかのようだった。「……どういうこと?」「その通りだよ。会社の持分は返して、これまでデザインした宝石の権利も放棄してもらう。離婚するんだから当然だろ」「でもっ、あのデザインは——」 思わず身を乗り出した。美琴が必死に、ひたむきに、自分にできることに向き合って作り出したもの。それを簡単に手放して、置いていけと言うのか。 美琴の手が膝の上で握られる。千尋はボールペンの頭でテーブルをコツコツと叩いた。「なあ、もういいだろ。早くこのはのところに戻ってやりたいんだ」「待って、待って……」 美琴は声を震わせながら片手で協議書を示した。「これだけ、せめてこれだけは消して。離婚も持分の返還も分かった。受け入れる。だからデザインまで、わたしから——」 『奪わないで』。 そんな美琴の願いは、千尋のため息に吹き飛ばされた。 「自分が特別だとでも思ってるのか?」 その声はいつになく平坦だ。「デザイナーなんてこの世にごまんといるんだ。美琴の代わりくらい簡単に見つかる」 耳の奥がキィンと鳴った。テーブルの上で握りしめた美琴の手の甲に、千尋の
翌日、退院の準備を整えている美琴のもとに、麻衣がやって来た。「お伝えしようか悩んだのですが……」 千尋に頼まれ、このはを診察することになったと説明する。「すみません。こんな話をしたって、困らせてしまいますよね」「気にしないでください。それに、赤ちゃんに罪はありませんから」 麻衣は昨日のように頭を下げ、美琴も応えた。顔を上げた2人はほほ笑み合った。「あ、大槻先生、お願いをひとついいですか?」 美琴の言葉に首を傾ける。「ええ。何でしょう」「千尋には、わたしのこと——妊娠していたけれど、その子を失ってしまったことを、言わないでください」 麻衣の目が大きく開く。「いいんですか? せめて千尋に罪の意識を——」「いいんです。昨日先生がおっしゃっていたように、謝ってもらえたとしても、命は帰ってこない。それにもし謝られなかったら、そっちのほうが惨めです。だから、いいんです」 麻衣は唇の内側を噛んだ。何もかももどかしかったが、美琴の意思にうなずいた。 午後になって、鈴之宮メディカルセンターに千尋とこのはがやって来た。「彼女がこのはだ。今日は頼むな」 千尋はあっけらかんと麻衣に紹介した。このはも上目遣いに麻衣を見上げる。 白衣のポケットの中では麻衣の拳が握られていた。それでも患者は患者だ。邪険に扱うことはできない。「……どうぞ、こちらへ」 千尋と一緒に診察室に案内した。 今日と明日で行う検査の内容を簡単に説明しながら、麻衣は、千尋がこのはの手を握っているのを視界に入れないよう努めた。それでも、時折見上げるこのはに応じる千尋に、思わず書類を持つ手に力が入った。「麻衣?」 千尋の声ではっとする。紙にはくしゃりとシワが寄っていた。「ごめんなさい。少しぼーっとして」 出来るだけ平静を装い、このはに検査着を渡した。千尋には先に病室に行くよう指示をした。 心が複雑なぶん







