翌朝、マリアンヌは重い身体を起こした。
その瞬間、世界の空気が昨夜とは決定的に違うことを感じ取る。陽光はいつもと同じように窓から差し込んでいるはずなのに、まとわりつく空気がひどく澱んでいた。まるで、世界から色彩が一つ失われてしまったかのようだ。昨夜の亀裂は、気のせいなどではなかった。
その確信は、王命の使者が彼女を召喚しに来たことで、より一層強固なものとなる。父と妹と共に通されたのは、神殿に併設された王族専用の謁見の間。磨き上げられた大理石の床が、居並ぶ人々の姿を冷たく映し出している。
玉座には国王と王妃、その傍らには婚約者であるジュリアス王太子が、腕を組んで苦虫を噛み潰したような顔で立っていた。ずらりと並んだ重臣たちの視線が、値踏みするように責め立てるように、マリアンヌ一人に突き刺さる。(これは、私を裁くための場なのだ)
そう理解するのに、時間はかからなかった。
重々しい沈黙を破ったのは、妹のアニエスだった。彼女は一歩前に進み出ると、その美しい顔を悲痛に歪め、今にも泣き出しそうな声で訴え始めた。芝居がかった動きだが、誰も気づいた様子はない。
「陛下、並びに皆様。まことに、まことに申し上げにくいのですが……昨夜、お姉様は祈りの最中に、お倒れになりました」
場がざわつく。
アニエスは濡れた瞳でマリアンヌを振り返り、慈しむような眼差しを向けた。一見すれば優しげな目だったが、マリアンヌにはわかる。優しさとは程遠い、蔑みと嘲笑の色がちらついている。「そして、その直後……聖女の血を引くわたくしには、確かに感じられたのです。我が国を守る大結界が、か細い悲鳴を上げるのを!」
待っていましたとばかりに、ジュリアスが床を靴音高く踏み鳴らした。
「聖女ともあろう者が祈りの最中に倒れるなど、前代未聞! これは聖務に対する怠慢であり、国家への裏切りに等しい!」
怒りと侮蔑を込めて、彼はマリアンヌを指差した。
「結界の揺らぎは、マリアンヌ、お前の力不足が原因ではないのか! この期に及んで、何か弁明はあるか!」
高圧的な声が、広い謁見の間に響き渡る。
マリアンヌは顔を上げることができなかった。俯いた視線の先には、自分のつま先が見えるだけだ。 意識を失ったのは、事実。 結界に異常が生じたのも、事実。 だが、その原因が長年の奉仕による疲弊であると、今ここで誰が信じてくれるだろう。それはただの言い訳、無様な自己弁護にしかならない。疲れ切ってすり減った心では、反論の言葉を探す気力すら湧いてこなかった。何を言っても、無駄だ。
ただ、血が滲むほど唇を強く噛みしめる。それが彼女にできる、唯一の抵抗だった。国王も並み居る重臣たちも、王太子の言葉を制止しようとはしない。誰もが眉をひそめ、役立たずになった道具を見るような冷たい視線を彼女に投げかける。父ガルニエ侯爵もまた、沈黙という名の刃で娘の心を突き刺している。この場に、マリアンヌの味方は一人もいなかった。
(どうして、こうなったのだろう)
マリアンヌはぼんやりと考えた。
聖女の守護は古来より続くもの。王も貴族も民衆たちですら恩恵に慣れきって、当たり前のものとして扱っていた。 あって当たり前。不具合が生じれば、マリアンヌのせい。 そもそも守護がなくなれば、何が起こるのか。 大きな厄災を封じるため、と言い伝えられている。けれどそれはあまりに不明瞭で、伝説の域を出なかった。 伝承は既に風化して、正しい内容を教えてくれない。聖女本人でさえ知らない、遠い過去に消え去った物語。 何のための守護なのか不明であれば、軽んじられるのも当然だった。彼女の沈黙を、罪の肯定と断じたのだろう。ジュリアスは嘲るように鼻を鳴らした。
「答えられぬか! やはり図星ということだな!」
勝利を確信したように声を張り上げる。
「もはやお前は聖女ではない! その責務を全うできぬばかりか、我々を欺いていた偽りの聖女だ!」
マリアンヌの存在そのものを否定する、あまりにも残酷な宣告だった。
「偽りの聖女」――。
その言葉が、マリアンヌの胸に突き刺さった。身を削り、心を殺し、ただ国のためだけに捧げてきた日々。そのすべてが、この一言で音を立てて崩れ去っていく。
アニエスがここぞとばかりに涙を流し、王に向かって跪いた。「そうですわ、陛下! このままでは、いつ厄災が蘇るか分かりません! この国が、危うございます!」
四方八方から突き刺さる非難と侮蔑。信じていたはずの婚約者からの、あまりにも無慈悲な断罪。家族にすら見捨てられて、マリアンヌは完全な孤立無援の闇に突き落とされた。
絶望の色に染まっていく彼女の瞳に、冷酷な決意を固めたジュリアスの姿が映る。 彼が次に口にする言葉は、彼女から最後の拠り所さえも奪い去る、最後の宣告となるだろう。謁見の間に響いた静かな問いかけは、湖面に投じられた一石のように、その場の空気を揺るがした。婚約破棄が成立したかを問う確認。それは、この断罪劇を締めくくるはずだった誰の言葉とも違う、異質な響きを持っていた。「ヘンリー王子……!」 最初に我に返ったのは、ジュリアスだった。驚愕と隠しきれない苛立ちを声に滲ませて、彼は声の主を睨みつけた。「なぜ貴殿が口を出す! これは我が国の内政問題だ。他国のあなたが口を挟むことではない!」「隣国の王子……?」「ヘンリー王子が、なぜ……」 ジュリアスの言葉で青年の正体を知り、それまで傍観に徹していた重臣たちの間に激しい動揺が走る。外交問題に発展しかねない、予期せぬ闖入者だった。 だが、ヘンリーはジュリアスの苛立ちなど意にも介さない。彼は学友である王太子を一瞥もせず、ただ困惑する臣下たちに向かって、優雅に一礼してみせた。その所作はどこまでも穏やかで、しかし誰もが逆らえぬ王族の気品に満ちている。「ご存知ない方々のために。私は隣国より留学中のヘンリーと申します。どうぞ、お見知りおきを」 場の空気を完全に掌握したヘンリーは、穏やかな笑みを浮かべたまま、眼差しだけを氷のように凍らせた。断罪者たちを一人ずつ見据える。「王太子殿下。同じ学舎で論を交わした仲として忠告しますが、あなたのその浅慮さには心底失望しました」 静かな、しかしよく通る声が響く。「長年、貴国のためにその身を削ってこられた聖女を、憶測のみで『欠陥品』と罵り、公衆の面前で辱める。これが次期国王の裁定ですか。実に嘆かわしい」 次に、彼の視線がアニエスへと移る。恐怖に引きつる彼女に、ヘンリーは吐き捨てるように言った。「そしてそちらのご令嬢。実の姉を陥れてまで手に入れたい地位とは、それほど魅力的なものですか。その浅ましさ、見ていて胸が悪くなります」 最後に、彼はガルニエ侯爵へと視線を向けた。まるで路傍の石でも見るかのような、何の感情もこもっていない眼差しだった。
ジュリアスの放った「偽りの聖女」という言葉が、刃となって謁見の間の空気を切り裂いた。 マリアンヌへの疑念はもはや確定された事実として、その場にいるすべての者に受け入れられたようだった。重臣たちは侮蔑と憐れみの入り混じった視線をマリアンヌに向け、王と王妃はただ冷ややかに玉座からこの茶番を見下ろしている。(偽り……) マリアンヌの心の中で、その言葉が木霊する。この身を削り、魂をすり減らして捧げてきた祈りの日々。そのすべてが、偽りだったと断じられたのだ。 この好機を、妹のアニエスが見逃すはずもなかった。 これまでの悲劇のヒロイン然とした仮面をかなぐり捨て、隠しきれない優越感に唇を歪ませながら一歩前に出た。その瞳は、もはや姉を憐れむ色さえ浮かべてはいなかった。勝者が敗者を見下ろす、残酷な喜びに満ちている。「ああ、お姉様……! やはり、こうなる運命でしたのね」 その声は蜜のように甘いが、明らかな毒を含んでいた。「傍流の、しがない伯爵家の血を引くお姉様には、聖女の務めは荷が重かったのですわ。この国の未来を護る大任は、本流たる侯爵家の血を受け継ぐわたくしこそが担うべきだったのです!」 それは、アニエスがずっと抱き続けてきた歪んだ渇望の叫びだった。聖女の血が母方に宿っているかもしれないとは、露ほども考えない。彼女にとって重要なのは、自分が本流で、姉が傍流であるという事実だけ。それこそが、自らの正当性を証明する唯一の根拠なのだ。 アニエスの勝利宣言に、場の空気は完全に固まった。皆の視線が、最後に残された裁定者――一家の長であるガルニエ侯爵へと注がれる。彼が娘を庇うのか、それとも見捨てるのか。マリアンヌの心の片隅に、針の先ほどの淡い期待が生まれたが、それは父の次の一言で無残に砕け散った。 侯爵は、初めてまともにマリアンヌの顔を見た。だが、その目に親子の情など欠片も宿ってはいない。価値が暴落した資産を前に、どう処分すべきか思案するような、冷え切った眼差しだ。「……フン。お前の母親の血も、この代で終わりか」 吐き捨てるような声だった。「我がガルニエ家に何の益ももたらさぬとは、期待外れも甚だしい」 ああ、やはり。 マリアンヌの心に、最後のひびが入った。 私はただ、聖女の力をこの家に繋ぎ止めるための「資産」でしかなかったのだ。その価値がなくなった今、父親に
翌朝、マリアンヌは重い身体を起こした。 その瞬間、世界の空気が昨夜とは決定的に違うことを感じ取る。陽光はいつもと同じように窓から差し込んでいるはずなのに、まとわりつく空気がひどく澱んでいた。まるで、世界から色彩が一つ失われてしまったかのようだ。 昨夜の亀裂は、気のせいなどではなかった。 その確信は、王命の使者が彼女を召喚しに来たことで、より一層強固なものとなる。 父と妹と共に通されたのは、神殿に併設された王族専用の謁見の間。磨き上げられた大理石の床が、居並ぶ人々の姿を冷たく映し出している。 玉座には国王と王妃、その傍らには婚約者であるジュリアス王太子が、腕を組んで苦虫を噛み潰したような顔で立っていた。ずらりと並んだ重臣たちの視線が、値踏みするように責め立てるように、マリアンヌ一人に突き刺さる。(これは、私を裁くための場なのだ) そう理解するのに、時間はかからなかった。 重々しい沈黙を破ったのは、妹のアニエスだった。彼女は一歩前に進み出ると、その美しい顔を悲痛に歪め、今にも泣き出しそうな声で訴え始めた。芝居がかった動きだが、誰も気づいた様子はない。「陛下、並びに皆様。まことに、まことに申し上げにくいのですが……昨夜、お姉様は祈りの最中に、お倒れになりました」 場がざわつく。 アニエスは濡れた瞳でマリアンヌを振り返り、慈しむような眼差しを向けた。一見すれば優しげな目だったが、マリアンヌにはわかる。優しさとは程遠い、蔑みと嘲笑の色がちらついている。「そして、その直後……聖女の血を引くわたくしには、確かに感じられたのです。我が国を守る大結界が、か細い悲鳴を上げるのを!」 待っていましたとばかりに、ジュリアスが床を靴音高く踏み鳴らした。「聖女ともあろう者が祈りの最中に倒れるなど、前代未聞! これは聖務に対する怠慢であり、国家への裏切りに等しい!」 怒りと侮蔑を込めて、彼はマリアンヌを指差した。「結界の揺らぎは、マリアンヌ、お前の力不足が原因ではないのか! この期に及んで、何か弁明はあるか!」 高圧的な声が、広い謁見の間に響き渡る。 マリアンヌは顔を上げることができなかった。俯いた視線の先には、自分のつま先が見えるだけだ。 意識を失ったのは、事実。 結界に異常が生じたのも、事実。 だが、その原因が長年の奉仕による疲弊であると、今ここ
しんと静まり返った神殿の最奥、至聖所。 高い天井から差し込む月光が、床に刻まれた巨大な魔法陣を白銀に照らし出している。その中央で、マリアンヌは独り跪いていた。 月光を集めて編んだような、緩いウェーブのかかった銀髪。その輝きは今や色褪せ、痩せた肩にかかる様はひどく頼りない。祈りのために固く組まれた指は、骨が浮くほどに細い。伏せられた睫毛の奥にある、冬の空を思わせる青い瞳は虚ろで、何の感情も映してはいなかった。(また、今日が始まる) 唇から紡がれるのは、神への賛美でも民への慈愛でもない。ただ、古の契約に従い、自らの生命力を捧げるための詠唱。足元の魔法陣が淡い光を放ち、マリアンヌの体から魔力と生命力――マナをゆっくりと、しかし確実に吸い上げていく。全身の血を少しずつ抜き取られるような、鈍い苦痛を伴う儀式だった。 吸い上げられたマナは、目に見えない奔流となって天蓋へと注がれる。王都全体を覆い、かの「古代の厄災」を封じる大結界。その封印の「蓋」を維持することこそ、聖女である彼女に課せられた唯一の使命である。 もう何年、こうしているだろうか。 聖女として見出されたあの日から、マリアンヌの世界はこの至聖所だけになった。かつて抱いていた民を思う心や、聖女としての誇りは、終わりの見えない奉仕の中でとっくに摩耗しきっていた。 ――私は、国という器にマナを注ぎ続けるだけの、ただの道具だ。反抗する気力など、もうどこにも残ってはいない。 諦めだけが心を支配している。 長い祈りが終わりを告げ、魔法陣の光が収まる。ぐらりと傾いだ身体を、控えていた侍女が慌てて支えた。「マリアンヌ様、お疲れ様でございます」 その声すら、どこか遠くに聞こえる。侍女の肩に体重を預け、鉛のように重い足を引きずって回廊を進む。その先に、見慣れた二つの影が待ち構えていた。「マリアンヌ」 父であるガルニエ侯爵の、氷のように冷たい声だった。娘の体調を気遣う言葉はない。ただ値踏みするように、その全身を一瞥するだけだ。「今日の祈りはどうだった。近頃、結界の輝きに揺らぎが見られるとの報告だが、お前の力が衰えたわけではあるまいな?」「……問題、ありません。お父様」 かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほどにか細かった。「本当ですの? お姉様、お顔の色が優れませんこと」 父の隣で、妹のアニエスが