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05

Author: さぶれ
last update Last Updated: 2025-08-07 06:00:30

「了解」

 本部長は一枚の紙をスッと差し出した。「これが婚姻届だ。名前だけ書いてくれればいい。提出は今週金曜を予定している」

「今週……!?」

 離婚して、結婚して、それでご挨拶するなんて――

「祖父――会長に妻を見せなくてはならない。だから君が引き受けてくれて助かったよ」

 その瞬間、急に現実味が押し寄せてきた。

「本当にやるんですね……私たち、“夫婦”になるんですね」

「形式だけだ。お互いの人生に踏み込むつもりはない」

 私は、紙を見つめたまま笑った。「不思議ですね。“愛”が無くても夫婦になれるなんて」

「感情は不確実だ。だが、信頼と利益は計算できる」

(やっぱりこの人、どこまでも合理主義)

「中原こそこんな突飛な提案をすぐ了承するなんて、切羽詰まっている証拠だろう」

「…誰でもよかったってことですか?」

「勘違いするな。精査した結果、君を選んだ。昨日も言っただろう。中原のことは信頼している」

 その言葉にドキっとする。

「じゃあ、すぐにでも引っ越しの手続きを進めようか。業者はこちらで用意するから」

「でも荷造りなんかまだしていませんが…」

「業者にさせるから問題ない。部屋はすでに用意して整えてあるから心配するな。数日分の着替えを持って、うちに来てくれたらいい。今日から早速帰ってきてくれ」

 住所のメモとカードキーを渡された。彼は合理主義だけでなく、どこまでも用意周到な男だった。

 ※

「え、ひかり。結婚って、あんた、昨日離婚したばっかりでしょ!?」

「うん、そう。……でも、今回はちょっと事情があって」

 その日、マンションに戻って私は実家の母に電話をかけた。本当に結婚するので、報告はしておかなきゃいけないと思ってのことだ。昔は離婚し

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