Share

沈黙の午後会議

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-08-02 09:52:23

午後三時過ぎ、会議室の中は静かだった。

白い蛍光灯の光が、テーブルに並んだ資料の表紙を無機質に照らしている。窓の外は、梅雨の中休みで、薄い雲が光を受けてぼんやりと明るかった。だが、その光は会議室の緊張感を和らげるものではなかった。

湯浅律は、会議室の隅の席に座っていた。営業部主任として、正式に異動してきて最初の会議。表面上は、新任者としての礼儀を守る顔をしている。だが、実際のところは資料にはほとんど目を通していなかった。

湯浅の視線は、ただ一人の男を追っていた。

藤並蓮。

この会社に来て、最初に名前を覚えたのは彼だった。もちろん「顔がいいから」という噂は耳にしていた。取引先の受けもいい、社内でも評判だと誰もが言う。だが湯浅は、そういう評判を鵜呑みにしない。人間は、表に出す顔だけで判断できるものではない。

「では、今回の提案内容についてご説明します」

藤並の声が、静かに会議室に響いた。

声色は柔らかい。トーンも完璧だった。緊張も見せず、滑らかに話を進めていく。その言葉遣いも、間の取り方も、まるで台本でもあるかのように整っていた。

湯浅は、その声を聞きながらも、資料には目を落とさなかった。藤並の「表情」「声色」「手の動き」だけを見ていた。

「……どこか、不自然だ」

心の中でそう呟いた。

完璧すぎるのだ。表情も、声も、動作も。すべてが計算され尽くしている。それ自体は営業マンとしては優秀だと言える。だが、湯浅は「完璧さ」にこそ違和感を感じた。

「こちらが、コスト削減のグラフになります」

藤並は、スクリーンを指し示す。指先は滑らかだった。けれど、湯浅の目には、その動きが「機械的」に映った。

「目が笑っていない」

それが、湯浅の第一印象だった。

営業トークに合わせた微笑み。口角はきれいに上がっている。目尻も柔らかい。だが、目の奥は冷たい水の底のようだった。そこには感情がない。

「演技だな」

湯浅は確信した。だが、その理由は分からなかった。営業職だから、仮面をかぶるのは当然だ。だが、藤並のそれ

Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 支配されて、快楽だけが残った身体に、もう一度、愛を教えてくれた人がいた~女社長に壊された心と身体が、愛されることを思い出   喫煙所の距離感

    会議が終わった直後、藤並は資料を抱えて席を立った。足取りは滑らかだった。周囲に見せる顔も、いつも通りの営業スマイルだった。けれど、その背中には、どこかぎこちなさがあった。湯浅はそれを見逃さなかった。何も言わずに立ち上がり、藤並の後を追った。目的は決まっていた。喫煙所だ。ガラス張りの廊下を抜け、十二階の西端にある喫煙スペース。外はまだ薄曇りで、東京のビル群が灰色の輪郭をにじませている。藤並は無言でポケットからタバコを取り出した。金属製のライターで火をつけ、煙を吸い込む。吐き出された煙が、ガラス越しの景色に重なる。湯浅は、隣に立った。自分のタバコには火をつけなかった。藤並は、一瞬だけ視線を動かした。その目は何も言わなかった。けれど、体は正直だった。タバコを持つ右手が、わずかに湯浅から離れた。「……」湯浅は何も言わなかった。ただ、黙って隣に立つ。「お前、肩……固いな」心の中でそう呟いた。だが、声には出さなかった。藤並は、また煙を吸い込んだ。煙を吐き出すとき、指先がわずかに震えた。けれど、それを自分で誤魔化した。「煙のせいだ」そう思い込むように、もう一度タバコを口に運ぶ。湯浅は視線を外さなかった。目の端で、藤並の仕草を観察していた。「営業で気を張っているだけか?」心の中で問いかける。「それとも、もっと深い何かを隠しているのか?」藤並は、表面上は完璧な営業マンだ。顔も整っているし、声も滑らかだ。社内では「顔がいいから得している」と言われている。けれど、湯浅はそれだけで判断しなかった。「こいつは、何かを抱えている」それだけは分かった。「だが、それが何なのかは分からない」同性を意識的に拒絶しているのか。それとも、ただの営業疲れか。モヤがかかっていた。湯浅はあえて距離を詰めなかった。横に立つだけで、言葉をかけることはしなかった。藤並

  • 支配されて、快楽だけが残った身体に、もう一度、愛を教えてくれた人がいた~女社長に壊された心と身体が、愛されることを思い出   沈黙の午後会議

    午後三時過ぎ、会議室の中は静かだった。白い蛍光灯の光が、テーブルに並んだ資料の表紙を無機質に照らしている。窓の外は、梅雨の中休みで、薄い雲が光を受けてぼんやりと明るかった。だが、その光は会議室の緊張感を和らげるものではなかった。湯浅律は、会議室の隅の席に座っていた。営業部主任として、正式に異動してきて最初の会議。表面上は、新任者としての礼儀を守る顔をしている。だが、実際のところは資料にはほとんど目を通していなかった。湯浅の視線は、ただ一人の男を追っていた。藤並蓮。この会社に来て、最初に名前を覚えたのは彼だった。もちろん「顔がいいから」という噂は耳にしていた。取引先の受けもいい、社内でも評判だと誰もが言う。だが湯浅は、そういう評判を鵜呑みにしない。人間は、表に出す顔だけで判断できるものではない。「では、今回の提案内容についてご説明します」藤並の声が、静かに会議室に響いた。声色は柔らかい。トーンも完璧だった。緊張も見せず、滑らかに話を進めていく。その言葉遣いも、間の取り方も、まるで台本でもあるかのように整っていた。湯浅は、その声を聞きながらも、資料には目を落とさなかった。藤並の「表情」「声色」「手の動き」だけを見ていた。「……どこか、不自然だ」心の中でそう呟いた。完璧すぎるのだ。表情も、声も、動作も。すべてが計算され尽くしている。それ自体は営業マンとしては優秀だと言える。だが、湯浅は「完璧さ」にこそ違和感を感じた。「こちらが、コスト削減のグラフになります」藤並は、スクリーンを指し示す。指先は滑らかだった。けれど、湯浅の目には、その動きが「機械的」に映った。「目が笑っていない」それが、湯浅の第一印象だった。営業トークに合わせた微笑み。口角はきれいに上がっている。目尻も柔らかい。だが、目の奥は冷たい水の底のようだった。そこには感情がない。「演技だな」湯浅は確信した。だが、その理由は分からなかった。営業職だから、仮面をかぶるのは当然だ。だが、藤並のそれ

  • 支配されて、快楽だけが残った身体に、もう一度、愛を教えてくれた人がいた~女社長に壊された心と身体が、愛されることを思い出   戻らない呼吸

    フロアに戻ると、いつもの音が耳に入ってきた。キーボードを打つ音、電話のベル、誰かが立ち上がる椅子のきしみ。藤並は、自分のデスクに向かった。椅子に腰を下ろし、背筋を伸ばす。動作は滑らかだった。何度も繰り返してきた動きだ。そこに迷いはない。けれど、胸の奥が妙にざわついていた。パソコンの画面に目を向ける。メールソフトを開くと、件名のリストがずらりと並んでいた。取引先からの返信、社内の連絡、確認依頼。いつもの業務だ。けれど、手が止まった。マウスを持つ右手が、わずかに震えている。「どうしたんだ」自分に問いかける。けれど、答えは出なかった。「大丈夫。何もおかしくない」心の中で繰り返す。だが、胸の奥が冷たい。「呼吸を整えよう」意識して、息を吸った。肺の奥まで空気を入れる。けれど、うまく入らなかった。吸い込んでも、奥まで届かない。「……おかしいな」そう思いながら、また息を吐く。けれど、浅い。「大丈夫。いつも通りだ」パソコンの画面を見つめる。メールをクリックしようとした。だが、指が動かない。クリックしようとした瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。「戻らない」呼吸が、戻らなかった。「大丈夫。大丈夫だ」心の中で繰り返した。けれど、胸の奥は冷たかった。さっきから、何度も呼吸をし直しているのに、うまくいかない。「このまま、誰にも気づかれず壊れていけたら楽なのに」ふと、そんなことを思った。気づかれなければ、そのまま静かに壊れてしまえばいい。誰にも迷惑をかけずに、誰にも知られずに、ただ壊れていく。それが一番楽だ。けれど、もう誰かに気づかれてしまった。湯浅の視線を思い出す。会議室で、喫煙所で、あの目は確かに自分を見ていた。外側ではなく、内側を見ていた。「どうして、気づかれたんだろう」そう思った。けれど、答えは出ない。「でも&hel

  • 支配されて、快楽だけが残った身体に、もう一度、愛を教えてくれた人がいた~女社長に壊された心と身体が、愛されることを思い出   煙草と距離感

    午後四時過ぎ、営業フロアの空気が少し緩んだ時間帯。デスクワークの手を止め、藤並は静かに立ち上がった。「煙草を吸いに行こう」心の中で呟いた。いつもの習慣だった。昼と午後の間に一度、気持ちを切り替えるための喫煙時間。けれど、切り替えているのか、ただ無感覚なまま時間を消費しているのか、もう分からなくなっていた。オフィスビルの十二階。西側の片隅にある小さな喫煙所。ガラス張りの壁から、曇り空が見えた。東京のビル群は、午後の湿度を含んだ光で霞んでいる。藤並はポケットからタバコを取り出し、ライターで火をつけた。煙を吸い込む。肺の奥まで入れ、ゆっくりと吐き出した。細く長い煙が、ガラス越しの景色に溶けていった。そのときだった。扉が開く音もなく、気配だけが近づいてきた。「……湯浅さん」視界の端で確認する前に、分かった。湯浅律が、何も言わずに藤並の隣に立った。藤並は、ほんの少しだけタバコを持つ手を遠ざけた。無意識だった。肩がわずかに緊張する。けれど、それもすぐに隠した。視線を動かすことなく、煙を吐き出す。だが、横顔には確かに湯浅の視線を感じていた。「……」湯浅は黙っていた。タバコを取り出す気配もない。ただ、隣に立って、藤並を見ている。その視線が、胸の奥をざわつかせた。「なぜこの人は俺を見てくるんだ」心の中で、そう呟いた。他の上司や同僚とは違う。誰もが藤並を「顔で得している営業マン」として扱うのに、湯浅だけは違った。「欲望の目」ではない。「羨望の目」でもない。ただ、観察している。まるで、藤並の中身を見ようとしているかのような目だった。煙を吐きながら、指先がわずかに震えた。けれど、それを「煙のせいだ」と思い込んだ。「大丈夫。何もおかしくない」心の中で繰り返す。だが、肩は確かに固くなっていた。湯浅は何も言わなかった。

  • 支配されて、快楽だけが残った身体に、もう一度、愛を教えてくれた人がいた~女社長に壊された心と身体が、愛されることを思い出   鏡越しの自分

    会議が終わり、藤並は無言で会議室を出た。手には資料を抱えたまま、足音を殺すように歩く。周囲は営業フロアの喧騒に包まれていたが、その音は耳の奥で遠く反響しているだけだった。「大丈夫」心の中で呟いた。何もおかしくない。表情も声も、完璧にやりきった。それでも、心の奥にはざわつきが残っていた。湯浅の視線が、背中にまとわりついている気がした。エレベーターホールの脇を抜け、誰もいないタイミングを見計らって、藤並は男子トイレに入った。一番奥の鏡の前に立つ。無意識にネクタイに触れる。指先で結び目をなぞり、少しだけ整えた。鏡の中の自分が、こちらを見ている。「……誰だろう」そう思った。目の前の男は、今日も完璧だ。黒髪は一筋の乱れもなく、白いシャツは皺ひとつない。ネクタイの結び目も美しく整っている。けれど、その顔の奥にあるものは、自分でも分からなかった。「これが、俺なのか?」鏡の中の自分は、いつも通りの営業スマイルを浮かべている。口角だけが、形よく持ち上がっている。だが、目は笑っていなかった。「違う」心のどこかで、そう呟いた。「これは、本当の俺じゃない」けれど、その考えを打ち消すように、もう一度口角を上げた。「感情は要らない」それが、自分を守るルールだった。鏡の前で、もう一度微笑みを作る。口元だけを、ゆっくりと持ち上げる練習をする。目の奥は動かさない。それが、長年染みついた癖だった。「顔と数字だけでいい」心の中で繰り返した。そうすれば、きっと何も感じずに済む。けれど、そのときだった。ほんの一瞬、眉が震えた。自分でも気づかないくらいの、小さな揺らぎだった。「だめだ」眉間に皺が寄りそうになるのを、必死で抑えた。口角は上げたまま、眉だけを平らに戻す。「まだ壊れちゃいけない」そう思った。「まだ、誰にも気づか

  • 支配されて、快楽だけが残った身体に、もう一度、愛を教えてくれた人がいた~女社長に壊された心と身体が、愛されることを思い出   湯浅の視線

    午後一時、会議室の空気は冷房の風でひんやりとしていた。窓から見える曇り空は、午前中と変わらず、色を持たない灰色だった。藤並は、資料を手にして立っていた。白いシャツの袖口はきちんと留められ、ネクタイの結び目は昼休みの後にもう一度整えている。結び目はきれいだった。完璧だと、自分に言い聞かせた。「それでは、今回の見積もりについてご説明します」会議室に響く自分の声が、少し遠く感じた。自分で発したはずなのに、どこか他人事のようだった。会議室には、営業部の面々が座っている。だが、今日の会議はいつもと少し違った。湯浅律が正式に同席するのは、今日が初めてだった。湯浅は藤並より五歳年上。三十三歳。肩書は営業部主任、つまり藤並の直属の上司になる。異動してきたばかりの男だった。背は高い。目立つほどではないが、並ぶと分かるくらいの差がある。黒髪は短く整えられ、スーツの着こなしも控えめだ。だが、姿勢には無駄がなかった。動作も、余計なことはしない。何より目だ。湯浅の目は、他の誰とも違った。会議室の端の席に座り、藤並の発表を聞きながら、彼はじっと藤並を見ていた。視線が、痛い。他の社員は資料を見たり、メモを取ったりしている。ときおり相槌を打つ者もいる。けれど、湯浅だけは違った。ずっと、藤並の目を見ていた。まるで何かを観察するかのように。「欲望の目」ではない。女たちが向ける目とも違う。男たちが向ける羨望の目とも違う。ただ、じっと、観察している。藤並は資料をめくり、次のページを示した。「こちらが、今回のコスト比較になります」声は滑らかだった。喉の奥でつくる営業トーン。けれど、心の中はざわついていた。「見られている」その感覚が、背中に突き刺さる。表面をなぞる視線ではなく、皮膚の奥にまで届いてくるような目だった。「この人は、俺の仮面を見透かしているのかもしれない」そう思った。だが、顔は崩せなかった。崩せるわけがなかった。「営業は、顔と数字」心の中で繰り返した。それだけが、今の自分を支える言

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status