先輩の部屋の蛍光灯は、少しだけジリジリと音を立てていた。
白い天井に広がるその光は、容赦なく藤並の肌を照らしていた。脱がされたシャツが、ベッドの端に落ちる音が微かに聞こえた。指先が小刻みに震えているのを、先輩に悟られないように、肩をすくめる。「ほんと、綺麗な身体してんな」
先輩はそう言って、唇の端を吊り上げた。
その笑い方が、どうしても好きになれなかった。目は笑っていないのに、口だけが軽々と笑う。男がこんなふうに笑うときは、たいてい何かを壊そうとしていると、どこかで知っていた。だから、怖かった。でも、もう逃げられなかった。冷たい指先が、首筋を撫でた。
汗で湿った肌を、ゆっくりと触れる。ぞわりと鳥肌が立つ。先輩の手は、優しいようでいて、どこか冷たかった。触れられているうちに、呼吸が浅くなっていく。胸の奥が、じわじわと熱くなる。心は凍ったままなのに、身体だけが熱を帯びていった。「恥ずかしがるなよ」
そう言われたとき、首筋のあたりがじんわりと痺れた。
息を呑んで、視線を天井の染みに向けた。見たこともないような形の染みが、蛍光灯の光で薄く浮かんでいた。そこに目をやることで、今されていることから、ほんの少しだけ心を切り離せる気がした。先輩の手が、肩から背中に滑る。
触れられるたびに、肌が粟立つ。けれど、逃げられなかった。もう、ここまで来てしまったから。途中でやめると言われても、もう遅い。そう思った。自分は流されるまま、ここにいる。それが、自分の選択だったと、思い込もうとした。先輩の手が腰に回り込む。
指先が腹のあたりをなぞると、腹筋が微かに震えた。心とは裏腹に、身体は正直だった。恥ずかしいと思うのに、股間は膨らみ、下着の中で湿り気を帯びている。呼吸が荒くなりそうなのを、必死に押さえた。けれど、止められなかった。「気持ち
湯浅は目を閉じることができなかった。藤並の背中を見つめたまま、静かな夜の時間だけが過ぎていく。薄暗い部屋の中で、シーツがわずかに動くたび、藤並の肩が小さく震えているのが分かった。眠っているのか、それとも起きているのか、湯浅には分からなかった。けれど、その微細な震えが、胸の奥に引っかかる。藤並は、まだ怯えている。今も、何かを思い出しているのだと、湯浅は確信していた。「本当に、救えたのか」心の中で、自分に問いかける。あの夜、藤並を抱いた。抱くことで、藤並の心と身体を繋ぎ直せたと、少しだけ思った。だけど、それはたぶん、自分の傲慢だったのだろう。藤並の背中は、まだ固い。肩甲骨のあたりがわずかに盛り上がり、呼吸のたびに胸がせり上がる。その動きを、湯浅は目を凝らして見ていた。息をしていることに安心しながらも、その震えに胸が締めつけられる。「俺が抱いたことで、傷をえぐっただけなんじゃないか」その思いが、喉の奥に詰まる。美沙子に抱かれていた身体を、俺は自分のものにした。だけど、それは本当に救いだったのか。藤並が欲しかったのは、抱かれることじゃなくて、もっと違う何かだったのかもしれない。そう考えると、胃の奥が重くなった。「でも、もう離せない」湯浅は心の中で呟いた。手のひらが、藤並の背中の線をなぞる。ほんの少し触れるだけで、また藤並の身体がびくりと反応した。その震えが、余計に心を痛めた。だけど、触れることをやめる気にはなれなかった。「俺は、こいつを抱きしめるしかできないんだな」自嘲のような笑みが、湯浅の唇に浮かぶ。自分がどれだけ強がっても、どれだけ会社で冷静を装っても、この腕の中にいる藤並だけは、他の誰とも違う。誰にも渡せないし、もう手放せない。壊さずに、抱きしめ続けるしかない。それが正しいのか、間違っているのかは分からなかった。で
湯浅の腕の中で、藤並はゆっくりと呼吸を整えていた。行為の直後、まだ心臓の鼓動は胸の奥で小さく跳ねていた。けれど、湯浅の手が背中を撫でるたびに、その鼓動は少しずつ落ち着いていった。汗が肌に貼りつき、冷えていく感覚があった。シーツに落ちた汗の線が、背中にひやりと触れている。けれど、藤並は動かなかった。この夜の余韻を、もう少しだけ味わいたかった。窓の外には、ビルの灯りがぼんやりと滲んでいた。都会の夜景は、まるで水彩画のように、輪郭を失っている。酔った目で見れば、もっと滲むのだろうけれど、今はただ、静かにその光を眺めていた。藤並は目を閉じた。その瞬間、胸の奥に何かがざらりと蘇った。湯浅の手の温度ではなく、もっと冷たい記憶だった。「蓮、もっと自分から動いて」美沙子の声が、耳の奥に響いた。その声は甘くて柔らかいのに、喉の奥を締め付けるような冷たさを持っていた。思わず身体が微かに震えた。肩がひとつ、わずかに跳ねた。「もう終わったはずだ」と思った。今夜は、湯浅と繋がったはずだった。身体も心も、あの瞬間は確かに一つになった。なのに、記憶は止められなかった。美沙子の指先が、胸元を撫でる感触が蘇る。首筋をなぞる爪の感覚。「綺麗な身体ね」と微笑んだときの目線。その一つひとつが、藤並の身体に焼き付いている。心の中で「違う」と叫んでも、身体はそれを覚えていた。湯浅の腕の中にいる今でさえ、過去は消えない。耳の奥で、美沙子の声がまた囁く。「もっと自分から腰を動かして。そう、いい子ね」その声に、喉の奥がぎゅっと縮んだ。唇を噛みしめた。噛んだ唇からは、ほんの少しだけ血の味がした。だけど、それでも止められなかった。記憶は、まるで自動再生のように繰り返される。「俺は、もう終わったんだ」と思いたかった。けれど、身体が言うことを聞かない。
湯浅の指先が、藤並の背中をゆっくりと撫でた。その動きは、壊すためのものではなかった。これまで幾度となく触れられてきた手とは違う。所有するための触れ方でも、支配するためのものでもなかった。ただ、そこにいる自分を受け止めるための手だった。藤並は、湯浅の胸元に額を寄せた。涙がじわりと滲み出て、湯浅のシャツに染み込んだ。けれど、湯浅は何も言わず、そのまま髪を撫で続けた。その温かさに、藤並の心が少しずつ緩んでいった。「好きになってもいいのか」心の奥で、ふいにその言葉が浮かんだ。でも、すぐには受け入れられなかった。それを認めたら、また壊れるかもしれない。それでも、胸の奥から、もう止められない何かが滲み出していた。湯浅の唇が、耳元に触れた。微かな吐息が耳の奥に流れ込む。身体がびくりと反応したが、藤並は逃げなかった。そのまま、ゆっくりと湯浅の手が肩から腕へ、そして腰へと滑る。その動きは、あまりに丁寧で、逆に胸の奥が震えた。欲望だけで動く手ではない。そこには、確かな意図があった。藤並を繋ぎ止めるための手。それが分かってしまったから、逃げられなかった。シャツのボタンが一つずつ外されていく。肌に触れる指先が、静かに胸元を撫でた。乳首に触れられると、身体がわずかに跳ねた。それは、条件反射だった。けれど、今回は違った。ただ反応しているのではなく、心が追いついてきた。「気持ちいい」と思ってしまった。それが、自分の本当の感情だと、はっきりと分かった。「蓮」湯浅が名前を呼んだ。その声は低く、優しかった。その呼び方だけで、胸の奥が熱くなった。名前を呼ばれるだけで、涙が溢れそうになる。誰にもこんなふうに呼ばれたことはなかった。湯浅の手が、ズボンのベルトを外した。動きはゆっくりで、慎重だった。無理やりではな
湯浅はコーヒーカップをテーブルに置くと、ゆっくりとソファの隣に座った。距離は近かったが、藤並は身を引かなかった。肩と肩が、わずかに触れそうな距離。その緊張が、藤並の背中に微細な震えを走らせた。けれど、それは不快なものではなかった。むしろ、心の奥で安堵している自分に気づいた。湯浅の手が、静かに肩に触れた。その手のひらは、思ったよりも温かかった。藤並は、呼吸を止めた。この手が自分をどうするのか、知っている。だけど、今回は違うかもしれないと、どこかで思っていた。だから、逃げなかった。「お前は、もう誰のものでもなくなっていい」湯浅の声が耳元に落ちてきた。その言葉が、胸の奥にじんと染みた。だけど、藤並はすぐに反射的に首を横に振った。「そんな…簡単に言わないでください」声はかすれていた。目の奥が熱くなるのを、必死で抑えた。何年もかけて染み込んだ「商品」という意識が、簡単に拭えるはずがなかった。身体を差し出してきた過去も、美沙子との倒錯も、全部ここに残っている。なのに、「誰のものでもなくなっていい」なんて、そんな言葉を受け取れるはずがなかった。湯浅は、無理に肩を引き寄せることはしなかった。ただ、その手を置いたまま、もう一度呟いた。「嫌なら、やめる」その声が、藤並の胸を締め付けた。「やめる」その選択肢があること自体が、藤並には怖かった。いつもなら、命令されれば動けばよかった。何も考えず、身体だけを差し出せばよかった。だけど、今は違う。「嫌なら、やめていい」と言われることが、何よりも怖かった。自分で選べと言われることが、怖かった。「俺…」藤並は喉の奥で言葉を詰まらせた。視線は下を向いたまま、膝の上で拳を握った。手のひらがじっとりと汗ばんでいる。だけど、その震えを止めることはで
店を出ると、夜風が頬を撫でた。昼間の湿気を含んだ空気が、夜になってわずかに冷えていた。藤並はネクタイを少しだけ緩め、胸の奥に溜まった息を静かに吐き出した。足元のアスファルトに、ネオンが滲んで映っている。雨は降っていないはずなのに、足元が濡れて見えるのは酔いのせいかもしれなかった。「もう一軒、行くか」湯浅の声が、隣から聞こえた。いつもの穏やかな口調だった。それは命令でも誘いでもない、ただの提案のように聞こえた。けれど、藤並の心は小さく跳ねた。「このまま終わるわけにはいかない」そんな思いが、胸の奥に浮かんだ。自分でも、その理由は分かっていた。美沙子の部屋で感じる虚無と、今のこの夜は違っていた。湯浅とこうして歩いているだけで、どこか身体の芯が熱を持っている気がした。それを、どう処理すればいいのか分からなかった。「はい」藤並は小さく返事をした。その声が少しだけ掠れていることに、自分で気づいた。二人は並んで歩いた。繁華街の雑踏を抜け、少し裏通りに入る。ネオンの光が遠のき、足音だけが夜の中に響いた。歩きながら、藤並は胸の奥にある感情を押し殺していた。「こんなこと、していいのか」その疑問が、何度も頭の中を巡る。けれど、足は止まらなかった。むしろ、自分から歩幅を合わせていた。この夜が終わらないことを、どこかで望んでいた。「タクシー、捕まえるか」湯浅がそう言って、手を上げた。ちょうど一台の車が止まった。藤並は何も言わず、助手席のドアを開ける湯浅を見ていた。後部座席に滑り込むとき、心臓が少しだけ早く脈打った。どこに行くのか、もう分かっていた。でも、拒む気持ちはなかった。むしろ、自分から檻に入るように、足を動かしていた。タクシーの中は、静かだった。運転手が行き先を聞くと、湯浅は自宅マンションの住所を答えた。
「飲もう」湯浅の声は、いつもと同じ調子だった。電話越しでも、その声色は変わらない。命令でもなく、懇願でもない。ただ、穏やかに言われた一言だった。それなのに、藤並の胸は、微かにざわついた。断る理由は、いくらでもあった。美沙子に呼ばれるかもしれないとか、仕事が溜まっているとか、明日も早いとか。けれど、どれも言い訳にならなかった。「はい」短く返事をして、通話を切ると、すぐにスマホの画面が暗くなった。画面に映る自分の顔が、少しだけ笑っている気がして、藤並はすぐに目を逸らした。待ち合わせの場所は、いつもの居酒屋だった。店の奥にある個室の引き戸を開けると、すでに湯浅が座っていた。ジャケットを脱いで、ネクタイを緩めた湯浅は、ビールのグラスを片手にしていた。その姿は、ただの上司だった。けれど、藤並の胸の奥は、妙に落ち着かなかった。この席に座ること自体が、どこか異様に感じられた。「遅かったな」湯浅は笑いながら、もう一つのグラスにビールを注いだ。藤並は黙って座り、そのグラスを受け取った。泡が静かに消えていくのを見つめながら、息を吐いた。「お疲れ様です」そう言うと、湯浅は「おう」とだけ返した。乾杯の音もなく、二人はグラスを口に運んだ。しばらくは他愛もない話だった。仕事のこと、営業の数字、最近のクライアントの愚痴。湯浅は、いつも通りの口調で話していた。けれど、そのうち話題が変わった。グラスが半分空になった頃、湯浅はふいに視線を上げた。「社長のこと、少しだけ話す」その言葉に、藤並は手を止めた。視線はグラスの中の泡を見ていたが、耳は湯浅の言葉を拾っていた。「料亭の名義、もうすぐ動くぞ」声は低かったが、明らかに確信を持った口ぶりだった。藤並は顔を上げた。けれど、表情は変えなかった。無表情のまま、次の言葉を待った。「裏帳簿も手に入った。鷲尾と黒瀬が