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濡れた夜景と、滲む記憶

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-08-23 10:15:24

雨が上がったばかりの夜だった。

帰宅途中の電車の窓に、藤並は自分の顔を映していた。

都会の夜景がガラス越しに滲んで、その奥にあるはずの自分の輪郭も、はっきりとしない。

目元だけが笑っていなかった。

唇はいつもの営業スマイルを形だけ保っているけれど、目は、完全に他人事のように虚ろだった。

それが怖かった。

何かを見ないふりをしている顔だと、自分でも分かっていた。

電車は地下に潜る手前で減速し、しばらくの間だけ、夜の街が窓に流れた。

濡れたアスファルトが街灯に照らされて、まるで光が地面に染みこんでいるようだった。

その光景が、なぜか湯浅の部屋の床を思い出させた。

あの夜、足元がふわふわしていた。

肌に触れる手のひらが、微かに震えている気がして、けれどそれは自分の方だったのかもしれないと、今でもわからなかった。

「大丈夫だ。俺が抱く」

湯浅の低い声が、耳の奥で反響していた。

あの夜、藤並は初めて「快楽と心が一致する瞬間」を知った。

身体が気持ち良いと感じているときに、心も安心していること。

そんなのは初めてだった。

だから、怖い。

このまま、自分は変わってしまうのかもしれないと、そんな予感がする。

人を好きになるなんて、してはいけないことだった。

愛されたかっただなんて、思ってはいけなかった。

心のどこかで、ずっとそう思い込んできた。

だから、あの夜は良かった。

でも、同時に怖かった。

湯浅の手が、自分の鎖をほどいてしまうんじゃないかと、本能的に怯えていた。

自分は商品だ。

欲望を満たす道具で、それ以上でも以下でもない。

そのラベルを剥がされたら、何も残らなくなる。

指先が冷たかった。

スマホを握る手のひらが、じっとりと汗ばんでいる。

駅名がアナウンスされるけれど、聞き流す。

電車の窓に映る自分の目を見た。

そこには、湯浅に触れられたときの記憶がまだ、残っていた。

湯浅の手は優しかった。

だけど、それが逆に怖
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