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昔の笑顔、遠くなりし夢
昔の笑顔、遠くなりし夢
Penulis: 心原蔵之

第1話

Penulis: 心原蔵之
椎名育也(しいな いくや)と結婚した望月絵里(もちづき えり)は、お嬢様生活を捨て、夫と息子のために全てを捧げてきた。

だが、どれだけ尽くしても報われることはなく、むしろ犬扱い。

最期の瞬間に、絵里が聞こえたのは息子の歓声──「やった!ママ死んだ!これでやっと颯花さんを堂々と迎えられるのだ!」

絵里はようやく悟った──いわゆる「真心には真心が返る」なんて、まったくの嘘だった。

生まれ変わった絵里が、財産も要らず、さっぱり離婚。夫も息子も、もうこりごりだった!

……

「お望み通り、椎名育也と離婚するわ。今後、あの男はあなたのものよ。息子も」

カフェで、絵里は無表情で離婚届を小林颯花(こばやし さやか)に差し出した。「ただし、この書類は颯花さんが持っていってサインをもらってきてちょうだい。私が渡せば、あの人は承知しないから」

「身一つで離婚して家を出ることになってもいいの?」颯花が信じられない様子で聞いた。

フン、ウケる。

身一つって?

絵里は椎名家で、もともと何一つ持っていなかったのだ。

「ええ、喜んで」

その口調は、朝ごはんのメニューを話すように平坦だ。

「絵里さん、わざと身を引くフリ?」

颯花は眉をひそめて言い放った。「あの時私が海外に行って育也君とすれ違わなきゃ、あんたが椎名家の夫人になるはずなかったんだよ。そんな小手先の真似、やめたほうがいいわ」

「本気だって言ってるでしょ」と絵里は繰り返した。

颯花は書類をじっと見つめ、「じゃこっちも喜んでもらうわ」

颯花は絵里の目の前で電話をかけ、相手が応答するやいなや、べったりとした甘い声で言った。「育也君、今会社のカフェにいるの。ちょっと助けて欲しいことがあるんだけど、来てくれない?」

たちまち、10分とも経たずに父子が来た。

二人の視線は絵里という存在を微塵も認めないようにただ通り過ぎ、まるで空気でも見るようだ。

絵里は冷淡な苦笑いを浮かべた。目の前で、息子の瑛多(えいた)が颯花に抱きついた。「颯花さん、会いたかったよ!」

その熱烈で従順な様子は、颯花のほうが実母であると言わんばかりだった。そして瑛多は絵里に鋭い一瞥をくれて聞いた。

「颯花さん、ママに意地悪されてない?」

育也も、絵里に警戒の眼差しを向けた。その言動の端々に、まるで彼らこそが家族であり、絵里は余所者であるようだ。

絵里は、自分がもう涙も流せないほど傷ついたと思い込んでいた。だが、育也の冷たい目線と瑛多の憎たらしい表情を見て、拳を強く握りしめ、心臓が締め付けられるように痛んだ。

ここ半月、どれだけ泣いて哀願しようが、育也は一度も家に帰ってこなかった。息子は、彼女の世話より、保育園に預けられる方を選び、彼女に迎えに来てもらうことすら嫌がっていた。

なのに、颯花のたった一本の電話で、二人はすぐに駆けつけた。

五年間の結婚生活……絵里はいったい何だったんだろう。

颯花はかばんから書類を取り出し、育也に手渡した。「育也君、弟が結婚するんだけど、資金が足りなくて……」

育也は一秒の躊躇もなく、高級ペンでサインした。

「そんな遠慮はいらない。言われなくても小林健一(こばやし けんいち)に家を買ってあげるつもりだ。叔父さんの体調も思わしくないし、叔母さんもご高齢だし、君に余計な負担をかけたくないからな」

颯花は照れくさそうにうつむいた。「育也君……私の事、そんなに大切に思ってくれてありがとう」

絵里の胸は、締め付けられるような痛みに襲われた。

あの寵愛に満ちた笑顔……彼が絵里に微塵たりとも見せたことのない優しさ。

「育也、これがもし、私との離婚届だったら?」

彼の顔は一瞬で凍りついた。「言っただろう。颯花さんは互いを理解し合う特別な存在だ。くだらない嫉妬はよせ」

絵里は立ちすくんで、激痛に押しつぶされそうだ。もう限界。ここでもういられない。必死で感情を抑え、なんとか涙をこらえた。

すると瑛多が、彼女の苦悶の表情を怒りと勘違いして、不機嫌そうに呟いた。「ママってケチ!颯花さんがママだったらよかったのに。颯花さんは絶対にこんなにケチじゃない!」

悲しみのあまり、絵里は笑いがこみ上げ、涙で曇った目であの親子を見つめた。

育也はその痛々しい表情に一瞬動揺したが、すぐに冷たく言い放った。「大人しくしてくれ。先に帰ってくれ、瑛多と用事があるから」

絵里が返事する前に、育也はすでに颯花に視線を移し、たちまち口調を柔らげた。「瑛多が今日は君と遊園地に行きたいって。もうチケットも取ってあるから、行こうか」

颯花は目を細めてにっこりした。「二人とも先に車で待っていてくれる?私、すぐに行くから」

彼らが去るのを見届けると、勝ち誇ったドヤ顔で颯花が絵里を見た。

颯花は書類を絵里に投げつけ、見下すように言い放った。

「分かったよね、あんたは育也君にとって、どうでもいい存在なのよ。あ、そうだ、忘れないでね、身一つで出て行くって。椎名家からもらったものは、針一本も持って出られないよ」

カフェの外では、育也と瑛多が颯花を待ちわびている。

夫は颯花の乱れた髪の毛を整え、息子は嬉しそうに彼女の手を繋いだ。

窓越しに映る三人は、誰がどう見ても、ひとつの家族だった。

三人の姿が視界から消えるのを確認してから、絵里は棒のように立ち上がり、五年間も育也と共に暮らした別荘へと戻った。荷物を一つ一つ整理していく──スーツケース、衣類、そして……アルバム。

分厚いアルバムの表紙にはほこりがかぶっている。手で払いのけ、震える指でページを開くと、写真に写っている自分と息子の姿に、懐かしい記憶が一気に押し寄せてきた。

前世、二人は家同士の政略結婚で結ばれた。

絵里は知っていた――育也にとって、幼馴染が一番大事な存在だ。だから彼女は愛なんて期待していなかった。ただおとなしく、お互い敬意を払う仮面夫婦を演じ続けた。

けれど、彼がここまで自分を憎んでいるとは思わなかった。骨の髄までの憎悪だった。

彼が憎んだのは、彼女が「椎名家の夫人」の座を奪ったこと。彼女のせいで、颯花が居づらい立場になっていること。息子の瑛多でさえ、颯花に心を寄せ、ママの絵里には嫌悪の眼差しを向けるばかり。

夫の愛情も、息子の尊敬もなく、踏みにじられるだけの人生を、彼女は惨めに生き抜いた。

人生の二周目、絵里はついに目が覚めた。

手に入らない男は、もういらない。恩知らずの息子も、捨てる。

全部、きれいさっぱり手放してやる!

育也が颯花と結ばれたいなら、どうぞご自由に。

瑛多が颯花を母親と呼びたいなら、この母親の役も譲ってあげる。

彼女は苦笑いしながら、アルバムの中の数少ない写真を燃やした。揺れる炎に、涙ぐんだ目がちらりと光った。

絵里は手を上げてそっと頬の涙を払った。離婚が正式受理されるまでに時間がかかると知ると、スマホを取り出して航空会社に電話をかけた。

「もしもし、30日後のM国行きの航空券を一枚お願いします」その言葉が終わらないうちに、寝室の外から子どもの苛立たしげな声が聞こえてきた――

「ママはどこ?なんでご飯も作らないの?掃除もしてないし!ほんとダメだなぁ……颯花さんとは比べものにならないよ」
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