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第2話

Penulis: 心原蔵之
父子が絵里の部屋の前まで来ると、二人そろって眉をひそめた。

瑛多が鼻をつまんで二歩下がった。「なにこの匂い!」

「うわっ、マジ最悪!ママ、どうして部屋をこんなに散らかすのよ?」

育也は眉を寄せて、床に散らばった灰を見つめた。「何を燃やした?家で火を使うのがどれだけ危ないか分かってるのか?火事になっちゃうぜ」

「もう消えたでしょ」絵里は顔も上げず、自分の荷造りを続けた。「忙しいから、自分で何か作って食べてください」

瑛多はぷうぷうと頬を膨らませた。「颯花さんだって忙しいのに、いつもちゃんとしてくれるよ!ママ、自分がだらしないのはともかく、ご飯さえも作らないの?僕とパパを飢え死にさせようってわけ?ひどいよ!」

そう言うと育也の手を引っ張って甘えた。「パパ、颯花さんを呼んで!ママなんて家政婦さん以下だよ!母親失格!」

育也は瑛多の頭をぽんと撫でた。「行っておいで」

瑛多は甲高く笑いながら弾む足取りで階段を駆け下りた。

振り返った絵里と、育也の冷たい視線がぶつかった。

「5分で片付けろ。みっともない」

そう言い捨て、彼も去っていく――まるで彼女の傷みなんて、どうでもいいかのようで。

誰も気付かないゴミ箱の中には、捨てられた指輪と、瑛多のために手縫いした小さな服があった。

この家での彼女に関わる全ては、消しゴムのカスに等しいほど取るに足らない存在だ。

スーツケースを引きずって部屋を出ると、廊下で瑛多が電話をしていた。

「颯花さん、ご飯一緒に食べて!家政婦さんに颯花さんの大好物作らせるから!豚の角煮と鰻の蒲焼きね!」

絵里は嗤った。家族にとって彼女はただの「無料で働く家政婦」――妻でも母親でもないようだ。

感謝の一言もなく、侮辱されるだけの日々、もう、こりごりだった。

すぐに階下でドアが開く音がして、瑛多が「颯花さーん!」とはしゃぐ声が聞こえた。

階下から漂ってくる料理のいい匂い。

それでも絵里は顔を上げることさえしなかった。

考えなくてもわかる――あの食卓に、自分の席はなかったのだ。

絵里はまとめ済みのスーツケースを押入れの奥に隠すと、静かに階下へ向かった。

リビングでは、育也と颯花が並んで食事をしている。横では瑛多がせっせと颯花のお皿に料理を取っている。

「颯花さん、これ、美味しいよ!絶対気に入るよ!」

颯花は「あら、ありがとう」と笑みを浮かべつつ、絵里の存在を完全にスルーした。

颯花は嬉しそうに目を細めて言った。

「瑛多、どうして私の好物全部覚えてるの?もう、そんなことまで気にかけてくれるんだ」

瑛多は胸を張って言った。「だって、颯花さんのこと大好きだもん!もし颯花さんが僕のママだったら、好きな料理全部覚えるよ!大人になったら、颯花さんのためだけに作ってあげる!」

絵里の足が止まった。胸の奥に、無数の針で刺されるような痛みが走った。

もうどうでもいいと思っていたのに、瑛多の言葉には、やっぱり無理。

前世、息子がほんの少し優しく話しかけてくれるだけで、何日も嬉しくなったものだった――ましてや自分のために何かしてくれることなど、夢にも思わなかった。

絵里はその場にもう一分も居られなかった。振り返りもせず、二階へ駆け上がった。

ドアを閉め、すべてを外へとシャットアウトした。

あと一月、たった一月だけ我慢すれば――この息苦しい場所から逃げ出せる。

しばらくして、階下の喧騒が次第に静まっていった。

絵里がそろそろ出かけようとした時、ドアの外から瑛多の甘えた声が聞こえた。

「颯花さん、帰らないで!僕、颯花さんに寝かしつけしてほしいな」

颯花は甘やかすような口調で答えた――もう完全な母親モード。

「はいはい、じゃあ部屋に行こう」

絵里は拳を握りしめ、バルコニーへ出た。

設計上、彼女の部屋は瑛多の部屋と隣接していて、いつでも子供の世話ができるようになっていたのだ。バルコニーのドアを開けると、颯花が瑛多に絵本を読んであげる声が聞こえてきた。

その声に耳を傾けながら、絵里の頬を涙が伝った。

前世と今生を合わせて、二世分生きているのに、自分はどうしても息子とこんなに親しくなれない。

なのに、颯花には簡単にできた。

部屋では、颯花がソファに座り、育也に優しい眼差しを向けた。「私たち二人、瑛多に付き添ってね」

育也が傍に座ると、颯花はうっとりとした表情で彼の横顔を見つめた。「育也君、瑛多のためにも、私のためにも、いつ望月絵里と別れるの?あなたたちの結婚って、形だけなんでしょ?」

「私、瑛多のママになりたい。彼も私のことが大好きだし……そして私たちも、もう一度やり直せるよね」

育也は眉をひそめて彼女を見つめた。

沈黙が続き、彼は視線を逸らして、ようやく重い口を開いた。「絵里には……責任があるんだ」

会話が絵里の耳に届いて、彼女は嗤った。瞳には嘲笑がにじんでいる。

責任って?

「無料の家政婦」が手放せないだけだろう。

颯花は諦めきれない様子で詰め寄った。「まさか、彼女に未練が?」

育也は即座に否定した。「ありえないだろ。だが、彼女は瑛多の実の母だ。少なくとも瑛多には、形だけでも、ちゃんとした家庭を与えたい」

この二人のやり取りが瑛多の耳に届いた。

颯花をびっくりさせようと寝たふりしてたのに、それを聞いて布団の下で小さな手がぎゅーっと握った。

ママなんて、大嫌い。

ママがいなきゃ、颯花さんが新しいママになってくれるのにな。

ママにはどこか遠くに行ってほしい。

大人の声が消えたのを確認して、ようやく目をこすりながら起きたふりをした。

部屋にはもう育也の姿はなく、颯花だけがベッドサイドで絵本を片付けている。

「颯花さん、パパは?」瑛多はそっと彼女の服の裾を引っ張り、小さな声で尋ねた。

振り返った颯花は、瑛多のふっくらした頬をつんとつまんで言った。「パパはお仕事があるから、書斎に戻ったよ」

「もう起きちゃった?もう少し寝ようか」

瑛多は首を振り、彼女の腕を揺すりながら甘えた。「颯花さん、明日遊園地に連れて行って!お願い!」

颯花は少し困ったように笑って、優しく断った。「でも明日は学校でしょ?今度の休みに連れて行ってあげるね」

「いやだ!絶対明日行く!」ぶーたれ顔の瑛多は涙が零れそうな目で訴えた。「颯花さん、遊園地ずっと行ってないんだもん!お願い!学校のほうは、なんとかするから!」

しつこいお願いに根負けした颯花は、小さくため息をついた。「はいはい、わかったよ。明日用事が終わったら、迎えに来てあげる」

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