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第2話

Author: カンカンドド
猛り狂う炎が燃え広がり、火災報知器が狂ったように鳴り響く。

その混乱に紛れて、澄人は別の出口から外へ出ると、道端の電話ボックスを見つけ、ある番号にかけた。

「ソフィア、五年以内なら、いつでもオーケストラに戻れるって言ってたよね。まだ有効かな?」

女の澄んだ声が電話口から響く。

「もちろんよ、私の愛しい澄人。北欧のファンたちは、あなたを恋しがって胸を痛めてるわ」

「ただ、今の僕の立場が少し厄介でね。出国手続きに五日間かかる」

「どうやって港町を抜けるつもり?私の知る限り、瑠璃はそう簡単にあなたを手放したりはしないわよ」

澄人は瞳を深く沈め、低く言う。

「彼女には僕の遺体を届けるつもりだ」

瑠璃は俊也に澄人を演じさせている。

ならば、彼は彼女の人生から、跡形もなく消えてやる。

突然、細い腕が彼の腰に回り、彼女だけの香りがふわりと押し寄せてくる。

瑠璃は彼の肩に顔を埋め、震える声で言う。

「あなた……無事でよかった。もしあなたに何かあったら、私も生きていけない」

「澄人、瑠璃はあなたがまだ中にいるって思い込んでて……あなたは目が不自由だからって、どうしても助けに入るって聞かなくて。火はすごい勢いで、シャンデリアが落ちてきて、もう少しで瑠璃が下敷きになるところだったの」

祈が胸を押さえ、まだ怯えの残る顔でそう言った。

そのとき初めて澄人は気づいた――

瑠璃の腕には火傷が走り、服は大きく裂け、目は煙で真っ赤だ。

息が詰まり、心臓に無数の針が刺さるような細かな痛みが広がる。

瑠璃、君は僕のためなら命さえ惜しまない。

なのに、どうして君の心は、二人の男を同時に愛せるんだ。

「藤堂社長」

背後から、聞き覚えのある男の声がした。

白いシャツ姿の俊也が、スーツケースを引きながら、二人が抱き合うのを見て、目の奥に暗い影が走った。

澄人は腕の中の瑠璃がはっきりと身を強張らせたのを感じた。そして、彼女はすぐに彼から身を離す。

瑠璃は一瞬だけ澄人の目を確かめて、ほっと息をつくと、顔色ひとつ変えずに嘘を口にする。

「澄人、取引先が来てるの。少し待ってて」

続けて瑠璃は足早に歩み寄り、俊也の腕に自分の腕を絡めると、手話でそっと伝える。

「俊也、どうして一人で来たの?今夜、あなたのところへ行くって言ったじゃない?」

俊也も手話で返す。

「君に会いたくて……それに、安部さんの世話をして償いたいんだ。彼のふりをしたことは、僕の罪だから」

「あなたは悪くないわ。他人の名を背負わせた私こそ、あなたに申し訳ないのよ」

そう言って瑠璃は俊也の唇に口づけ、瞳にあふれそうなほどの痛ましさを宿す。さらに小腹に手を添え、手話で続ける。

「私たちの赤ちゃんの名前、もう決めたの。男の子なら藤堂悠真(とうどうゆうま)、女の子なら藤堂紗和(とうどう さわ)」

――藤堂悠真?藤堂紗和?

澄人はその光景を茫然と見つめ、胸が刃で細かく刻まれるような痛みに襲われる。

ちょうど一年前、瑠璃は澄人の子を身ごもったとわかった。

「澄人、私、ママになるの!

私たちの赤ちゃんの名前、もう決めたの。ひとりはあなたの姓にして、もうひとりは藤堂にする。名前は、男の子なら悠真、女の子なら紗和」

彼女は有頂天になり雪山の中腹にある温泉山荘をまるごと貸し切ったうえで、澄人に一枚のディスクを贈った。そこには、自ら吹き込んだ9999の愛の言葉が収められていた。

澄人がそれを開こうとしたまさにそのとき、瑠璃に一本の電話がかかってきた。受話口の向こうから、微かに、男の悲鳴が混じる。

瑠璃ははっとしたように慌ててスマホを握りしめた。喜びに満ちた顔の澄人を見つめ、ひと呼吸ためらったものの、結局こう告げた。

「澄人、会社で急ぎが入ったの。すぐ戻るから、待ってて」

澄人は疑わなかった。雪山で、静かに待ち続けた。

日が暮れ、夜が明け、瞳の奥の光は薄れ、呼吸はどんどん苦しくなり、ほとんど窒息しそうになった。

高地の空気は薄く、二年ぶりに喘息の発作が出て、胸は今にも破裂しそうだった。

澄人は地面に倒れ込み、必死に耐えながら瑠璃に電話をかけた。だが受話口から返ってきたのは、女のかすかな吐息と、男の荒い息遣いだった。

しかし、聞きただす前に、天地を覆う雪崩が襲い、すべてを飲み込んだ。

九死に一生を得て目を覚ましたとき、澄人が耳にしたのは、瑠璃が自分を案じるあまり流産した、という悲報だった。あのときの彼は愚かにも、自分が二人の子を死なせてしまったのだと責め続けていた。

だが今にして思えば、あれは二人の行為があまりに激しかったせいではなかったのか。

いま、瑠璃が俊也の手を自然に自分の腹へ導く仕草を見て、澄人は苦く笑う。

結局、あの雪崩に閉じ込められていたのは、彼ひとりだけだったのだ。

「澄人、最近ちょっと忙しくてね。だから、あなたの身の回りを世話する専属のボディーガードを雇ったの。名前は俊也よ」

瑠璃は俊也の腕に絡み、その瞳には甘やかな愛情がにじんでいる。

「安部さん、こんにちは」

俊也は一見すると恭しく挨拶したが、その目の奥にはあからさまな挑発が潜んでいる。

澄人の視線は、俊也の唇に残る女の歯形に数秒間とどまり、指先が手のひらに食い込む。

そのとき、ふいに体が温もりに包まれた。瑠璃の指示で執事が、カシミヤのコートを澄人の肩に掛けたのだ。

「外は寒いわ。帰ろう、あなた」

彼が反応する間もなく、次の瞬間には俊也が素早く「わかった」の手話を示し、瑠璃から恥じらうような口づけを受け取っていた。

澄人は、二人が手をつなぎ、親しげに並んで前を歩いていくのをただ見つめる。

本来なら油の匂いを何より嫌うはずの瑠璃が、俊也のために料理を作るとエプロンを身につけ、髪をまとめ、換気扇の轟音の中で楽しげに笑っている姿を、彼はただ見つめる。

瑠璃がいつものように気遣わしげに自分のためにスープをよそいながら、その直後には俊也の口元についたご飯を自らの唇でそっと取る姿を、彼はただ見つめる。

「俊也、ゆっくり食べて。食べたいものがあれば、また作ってあげる」

瑠璃は手話でそう伝え、目元にはやわらかな温もりが宿っている。

澄人は温かい粥を口にしながらも、胸が締めつけられ、喉が塞がったようで、飲み込めなかった。

心はさらに沈み、暗い底へ落ちていく。

かつて瑠璃に愛されたからこそ、彼女の仕草や視線を目にしながら、澄人はついに認めざるを得なかった。

彼女は、本当に俊也を愛してしまったのだ。
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