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春風は尽きず、愛は静かに永く
春風は尽きず、愛は静かに永く
Author: カンカンドド

第1話

Author: カンカンドド
結婚から五度目の正月、藤堂瑠璃(とうどう るり)は突然と姿を消した。

安部澄人(あべ すみと)が警察署に駆け込み、失踪届を出した。対応した警察は事情聴取を終えて記録に目を通すと、顔つきを一変させ、妙な表情を浮かべる。

「奥さまが藤堂瑠璃だとおっしゃいましたね。では、あなたのお名前は?」

「僕は安部澄人です。妻のことで何か分かったんですか?」

彼は白杖をぎゅっと握りしめ、普段は冷ややかに沈んだ黒の瞳が、この時だけ不安を映して揺らいでいる。

警察は眉をひそめ、机を強く叩く。

「ふざけないでください。本当の名前を言いなさい!」

澄人は眉をわずかにひそめる。

「僕は確かに、安部澄人です」

背後で金髪の若者たちがどっと嘲笑を噴き出す。

「この目の見えないやつ、似てるからって本人のふりなんかできると思ってんのかよ。

この港町じゃ誰だって知ってるんだよ。藤堂瑠璃は、安部澄人との子どもができた祝いに、彼に二千億円のヨットを贈ったんだ。安部澄人はSNSに連日投稿していて、何日間もトレンドに上がってたじゃねえか。

それでお前が安部澄人だって?なら次は、自分が御曹司だって言ってみろよ!」

ちょうどその話を裏づけるかのように、正面のLEDスクリーンに瑠璃の生中継のインタビューが映し出される。

「昨日は大晦日でしたが、藤堂社長の新年の願いは何ですか?」

「もちろん、澄人の子を無事に産めることです」

「愛してるよ、瑠璃」

耳に届いたのは、聞き覚えのある井上俊也(いのうえ しゅんや)の澄んだ声だ。澄人の頭の中で何かが爆ぜたように混乱し、顔色が真っ白に変わった。

……

五年前、二人が結婚する前夜のこと。

澄人は交通事故で視力を失い、瑠璃は深い絶望に沈んだ。

港町の誰もが口をそろえて言った――この街一番の名門令嬢が、盲目の男に嫁ぐはずがない、と。

中には、澄人にそっくりな貧しい大学生を探し出し、密かに瑠璃の部屋へ送り込む者までいた。

瑠璃は激しく声を張り上げ、護衛にその少年――俊也を取り押さえさせ、危うく命を奪わせるところだった。

艶やかな瞳は怒りに燃えるように赤く染まり、胸の奥で渦巻く感情を必死に抑え込んだ。

「出ていって!私が愛してるのは澄人だけよ。似ている誰かなんて、見るだけで胸が悪くなる!」

真夜中、瑠璃は車を飛ばして病院へ向かい、澄人を力いっぱい抱きしめた。熱い涙が彼の肩にぽろぽろと落ちる。

「澄人、明日籍を入れよう。あなたを堂々と私の夫にしたいの。夫婦別姓でいい、あなたを正式に藤堂家に迎え入れたいの」

誰もが知っている――瑠璃は澄人を狂おしいほど愛し、俊也を心底憎んでいる、と。

なのに今、堂々と瑠璃の隣に立っているのは、澄人に成り代わった俊也なのだ。

澄人の心に、大きな裂け目が走り、冷たい風にさらされているようだ。

いったい、何が起きているのか?

彼は瑠璃に会って、確かめなければ。

警察署をふらつきながら出たところで、落下してきた看板に頭を打たれ、澄人はそのまま意識を手放した。

意識を失う直前、澄人の耳に狂おしいほど切羽詰まった女の声が届く。

「あなた!どうしたの!」

次に目を開けたとき、目前のまばゆい白光に思わず目が痛む。

そしてその瞬間、澄人は驚愕に目を見開いた。

視界が戻っている。奇跡のように、はっきりと。

目の前の見知らぬ世界を見渡す間もなく、扉の外から瑠璃と親友の江崎祈(えざき いのり)の声が聞こえてくる。

「瑠璃、いつまで俊也に澄人のふりをさせるつもり?もう丸五年よ!」

瑠璃はため息を吐き、苦しげに言う。

「私だって分からないの。当時、藤堂家の古株の取締役たちが、盲目の人との結婚は絶対に認めないって……でも私は澄人を愛しすぎて、彼の目が治ったと嘘をついて、俊也に澄人のふりをさせるしかなかったの」

「でも、あの古株の取締役たちはもうみんな亡くなったのよ!なのにどうして、あなたはまだ……」

「どうしようもないのよ!私、俊也の子を身ごもっているの!」

瑠璃は食い気味に遮り、苛立った声をこぼす。

「それに、自分でも分からないけど、芝居を続けているうちに、本当に俊也なしでは生きられなくなったみたいなの。だって、彼は私の子の父親でもあるんだから……」

祈は息をのむ。

「正気なの?俊也に情が移ったっていうの?忘れたの、あの事故の加害者は俊也の飲んだくれの父親だったってことを。

もしあれがなければ、澄人が失明することなんてなかったのよ。もし澄人にこのことが知られたら……」

「もうやめて!」

瑠璃は眉をきつく寄せた。

「俊也は無実よ。あの罪は彼の父親のものよ。私はあの酔っぱらいを刑務所に送ったし、二度と外には出られないわ。

澄人は失明してから外に出たがらないし、ここには電波も届かない。この私が設えた豪奢な邸宅で暮らしている限り、一生このことを知るはずがないよ」

部屋の中で、澄人は唇を固く結び、震える両手をどうしても抑えられない。

この邸宅の中は一年中春のように穏やかなはずなのに、全身の骨の髄まで凍りつくような寒気に襲われる。

彼は枕元から、精緻な絵を束ねたファイルを取り出した。瑠璃が自ら描いたもので、彼との過去が刻まれている。

一枚目は、瑠璃と彼が砂漠の探検で出会った日の絵。彼女は脚を折って命も危うかったが、澄人は三日三晩、彼女を看病し続けた。

三枚目は彼に振り向いてもらうため、彼女はただ一人、四千メートルの雪山に登り、彼の喘息を癒やすために雪蓮を摘んできた場面。

八枚目は、澄人がジャズダンスが好きだと口にしたとき、瑠璃は何千億円もの大金を惜しげもなく投じて、北欧各国のジャズダンスの巨匠たちを総勢で招き、彼の誕生日を盛大に祝った場面。

十五枚目は、瑠璃が澄人のために特別に設えた、視覚に障がいがあっても暮らしやすい豪奢な邸宅。華やかで荘厳、そして安全で快適な空間だった。

指輪を彼の指にはめながら、瑠璃は言った――「澄人、これからは私があなたの目になる。あなたは、私の心でただ一人の人よ」

絵の中の男は比類なき美貌を備え、穏やかなまなざしを浮かべて彼女を抱き寄せている。

澄人は苦笑を浮かべ、口の端をわずかに歪めると、その絵を一枚ずつ火にくべた。

そして燃え上がるそれらを、すべてベッドの上に投げ落とした。

瑠璃、君のその愛は汚れてしまった。もう、僕はいらない。
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