ログイン「夏希っ!」耳元で、二人の悲鳴が同時に弾けた。ナイフがこのまま私の体に沈み込むと思ったその瞬間。大きな手が、そのナイフをしっかりと掴み止めたのだ。次の瞬間、直人に腕を引かれ、私は素早く後ろへ退いた。私が無事だと分かると、繁人の肩から一瞬だけ力が抜ける。そして、ナイフで切られて血まみれになった手を上げ、怒りにまかせて何度も未来に拳を叩きつけた。未来は悲鳴を上げ、ついにひざまずいて許しを乞う。殴りつける音が止んだ頃、繁人は泣いているのか笑っているのか分からない顔で、私に問いかけた。「……もう、俺たち……本当に無理なのか?」私は冷えた目で見返しただけで、返事はしなかった。彼は口元を引きつらせて笑った。泣き顔にも似た。「……分かったよ。俺が悪い。全部、俺のせいだ」そして、今度は縋るように目を上げた。「夏希、警察だけはやめてくれないか?今すぐ彼女を連れて帰国する。もう二度と、お前の前に出させないから……」ちょうどそのとき、直人が怒りを込めた低い声で吐き捨てた。「……出てけ」その一言で、ようやくあの二人は去っていった。ショックを受けて、その夜、私は悪夢に沈んだ。夢の中で、繁人は未来を抱き寄せたまま、私の腹を見下ろして鼻で笑っていた。「夏目夏希、助けてもらったくせに、恩を仇で返すのか?俺と結婚できたのは隙に入り込んだからな。子どもまで使って俺を縛る気?」次の瞬間、景色が途切れて変わる。私は大学の構内にあった、あの日の池へ落ちた。水は底が見えないほど深くて、必死にもがきながら繁人に助けを求めた。けれど岸の上にいる繁人は、何もせずに立っているだけだった。また景色が急に切り変わる。今度はあの暗い裏路地にいる。怖くて、チンピラたちを追い払ってくれた人の顔がうまく見えない。焦りと恐怖に震えたそのとき、背後から誰かが叫んだ。「繁人!」その声に、そばの人が振り向く。まばらな街灯の光がちらっと当たり、彼の顔が少しずつはっきりと見えてくる。直人と、まったく同じ顔だった。そこで私は、息を呑んで目を覚ました。震える手で、午前四時ちょうどに直人へ電話をかける。電話がすぐつながり、耳元に彼の焦った声が飛び込んできた。直人が何か言っているのに、言葉が頭に入ってこない
大学のころ、うちは裕福じゃなかった。生活費はほとんどバイトでまかなっていた。ある日、バイトで家に帰るのが少し遅くなった。寮の門限に間に合わせようとして、人通りのない裏路地を急いで抜けた。けれど運が悪かった。チャラついたチンピラが二人、そこにいて絡まれた。彼らに腕をつかまれ、どうしても振りほどけない。もう駄目だとあきらめかけたときだった。まるで神様のように、繁人が突然現れて助けてくれた。それ以来、私は彼に引っかかったまま、抜けられなくなった。翌朝。身支度を整えて職場へ向かうと、繁人が一定の距離を保ちながらついてきた。会社のビルの前まで来ると、ようやく彼は立ち止まった。まもなくして、私のデスクには軽い朝ごはんやミルクティーなどひっきりなしに運ばれてくる。同僚たちがざわめいて、私は呆れて笑ってしまった。どうして海外まで追いかけてきて、まだ私を放っておいてくれないの。浮気したのはそっちなのに、どうしてこんなにも当然のように、許してもらえると思ってるの?私が欲しいのは、ただ静かな日常だけなのに、どうしてこんなに難しいんだろう。私は机の上のものを全部抱えて外に出た。繁人の目の前で、それらを一気にゴミ箱に放り込んだ。「いい加減にして。いつまでこんなことを続けるつもりですか?私が狂うまで続けるつもりですか?」彼は叱られた子供のように、しょんぼりとした声で言った。「お、俺は、夏希が朝ご飯を食べてないんじゃないかと思って、心配して」その弱さが、かえって腹立たしくなる。「繁人、もうやめて。そんな情けないことばっかりしてたら、もっと嫌いになりますよ。あなたと未来のやったくだらない真似が、私がよく知っています。前にスクショで送ったものとは限らないですよ。結婚記念日の日、会社であなたたちが何をしてたか、全部知ってますから」皮肉なことに、私たちの結婚記念日は、未来の誕生日だった。だから繁人は、私を置いて彼女のところへ行った。そしてその日、私は彼の浮気の事実を掴んだ。繁人の顔から見る間に血の気が引いた。立っているのもやっとで、体がふらついている。「夏希、大丈夫?」車を降りてきた直人が、こちらへ駆け寄ってきた。張りつめた空気を感じ取ったのか、直人は私のそばに立ち、繁人をまっすぐ
柳瀬先輩がそのまま私を病院まで送り、付き添ってくれた。現場の安全事故として手続きを回している最中、初めて知ったことがあった。柳瀬先輩の上司は、私の知り合いだった。同じクラスで学年トップの優等生、そして校内でも目立っていた朝倉直人(あさくら なおと)が、今や私の上司にもなっていた。私がケガをしたと聞いて、彼は焦るように病院に駆けつけてきた。処置が終わって、きゅっと結ばれていた唇が、ようやく少しだけゆるむ。「夏希……どうしていつも、自分をそんなにボロボロにするんだよ」私は苦笑しながら、直人を見つめた。「たぶん、運が悪いだけ」以前もそうだった。繁人を追いかけて、何度も恥をかいて、そのたびに都合よく直人が現れて、私を助けてくれた。直人は眉を寄せたまま黙り込んだ。その時、柳瀬先輩のスマホが鳴った。「やばい。嫁が産気づいた!」「後で僕が夏希をホテルまでは送るから」直人がそう言ったので、先輩は安心して、慌ただしく走っていった。すると、直人は何も言わずに腕を差し出し、慎重に私を車まで支えながら車へ連れて行ってくれた。「ここに来ようと思ったのはどうして?」「国内にずっといるのが疲れちゃって。ちょっと外の空気、吸いたくなったから」「篠原さんのことを置いて?」私は表情は変えずに、笑って答えた。「離婚するつもりなの」直人の目の奥に、気づかないほどの小さな光が一瞬走った。それ以上、彼は何も聞いてこなかった。代わりに、現地の人や気候、料理や景色について話してくれる。それから、何気なく口にしたように誘った。「この先に、評判のいい店がある。まだ食べてないだろ?一緒にどう?」昔の同級生の誘いを断る理由はなかったので、私は笑顔でうなずいた。店に着いて車を止めると、「ちょっと待ってて」と言っていったん姿を消した彼は、戻ってきたとき、車いすを押していた。そして、私をそっと座らせてくれた。注文の時でも、彼が選んだのは私の口に合いそうなものばかりだった。こんなふうに気を回されたのは、五年ぶりだった。私は思わず口を開いた。「直人って、誰にでもこんなに優しいの?」彼の目が一瞬揺れて、なぜか少し緊張してるように見えた。「そんなわけないだろ。普段は仕事で手一杯だよ」その言い訳
人の適応力って、ほんと不思議だ。十数時間にも及ぶフライトだったのに、私の少しも疲れを感じなかった。迎えに来てくれた柳瀬先輩の、まずはホテルに一度寄ろうという提案を断り、そのままプロジェクトの現場へ向かうことにした。柳瀬先輩は片手で顔を覆いながら、冗談めかして私をからかった。「相変わらず無茶する仕事の鬼だ」その間、スマホの電池が切れてしまったので、甘音へ無事に着いたって知らせてほしい、と柳瀬先輩に頼んだ。ようやくホテルに戻り、充電ができた。すると、画面が明るくなったその瞬間、通知が一気に押し寄せてきた。未読メッセージ、着信履歴、そして何件もの留守電まで、ほとんどが繁人からだった。彼が私を探し回って、完全に取り乱しているようだった。【どういうつもりだ?家にお前の物がどこに行った?どういうことだよ、説明しろ】同じことばかり繰り返していた。そして、未来から挑発的な画像が一枚届いた。妊娠したことを示すエコー写真だった。さらに続けて、短い一文が添えられていた。【私は繁人の子どもを妊娠したよ。身の程をわきまえて、さっさと身を引いて】私は無言で何度も鳴っていた繁人からの電話を次々に切った。ついでにこの二人を同じグループに追加して、今送られてきたメッセージをスクショして、グループに投げ込んだ。【あんたたち二人の話を、もう私のところに持ち込まないでください。汚いです。見るだけで不快です】そう送ると、私はすぐに退会した。スマホがやっと静かになった。そう思ったのに、またしても着信音が鳴り始める。繁人からのだ。本当にしつこい。私は無言で通話に出た。「夏希……違う、違うんだ。お前が見たのは、そういう意味じゃない!」繁人の声には、無理やり作った笑いが張り付いていた。「今日、エイプリルフールだろ?未来は……ただ、ちょっと悪ふざけをしただけなんだよ。お前、今どこにいる?迎えに行くから、飯でも食いながら話そう。未来にちゃんと謝らせるから、な?」私は目を閉じて眉間を揉んだ。「繁人。冗談かどうかなんて、もうどうでもいいです」「どうでもよくないだろ!なんでお前は、いつも俺のことを信じないんだよ。……もう、電話じゃ話にならない。今どこだ?位置情報を送って」「もういいです」「夏希……」
甘音が私をぎゅっと抱きしめてきた。「ねえ、夏希。追いかけてさ、あいつのこと二発くらい蹴り入れてこない?」私は思わずぷっと笑ってしまう。そのあと甘音と夕飯を食べてから、私は家へ戻った。けれど家の前についたところで、足が止まった。酔いつぶれた繁人が、未来を抱きしめたまま、どうしても手を離そうとしない。そして駄々をこねる子どものように、口の中で何かをぶつぶつ呟いていた。「なんで……お前は、もうちょっと分かってくれないんだよ……」私の姿に気づいた未来は、わざとらしく繁人に顔を寄せ、唇にそっと触れる。口調は甘くなだめるようだったけど、その目は私に向けてあからさまに挑発してきた。「大丈夫。これからは、繁人の言うとおりにするから」もし昔の私なら、未来の腕から繁人を引き剥がして、「恥知らず」なんて怒鳴って泣いていたに違いない。でも今は違う。私は無表情で鍵を取り出し、黙ってドアを開けた。二人のほうへ目をやることすらしない。すると、未来は一人で必死に繁人を支えながら、部屋の中へ運び込み、ソファに寝かせた。ようやく立ち上がったと思ったら、今度はわざとよろめいてみせる。「きゃっ……」小さな悲鳴とともに、未来はそのまま繁人の胸に倒れ込んだ。繁人は目を閉じたまま、反射的に彼女を抱き寄せ、酔った声で呟いた。「……やめろ」未来は芝居がかった仕草でもがいて、甘ったるい声でささやいた。「繁人、だめ……そんなことしたら、見られちゃう」それを聞いた繁人は、逆に腕に力を込めた。「見られちゃうって……?だれによ」そして体の向きを変えると、未来の言葉を塞ぐように唇を重ねた。寝室にいる私は、もう離れると決めたのに、それでもなお胸が刃物で抉られるように痛んだ。繁人、そこまで急ぐ必要なんてあるの?それでもいい。ここまで見せつけてくれるなら、私はもっと身軽になれる。喉が渇いて、コップを持ってキッチンへ向かった。それから間もなく、服の襟元は乱れ、唇の端がわずかに腫れた未来が、ゆっくりと入ってきた。「そのみっともない格好では、繁人の心を掴めなくても仕方ないわ。私がいなくなって五年も経つのに、あなたは何ひとつ変わってない。私だったら、恥ずかしくて壁に頭ぶつけて死ぬわ」私は未来をまっすぐ見て、挑発
繁人はほんの一瞬だけ言葉を失った。そして、彼は私に向けて笑みをそっとこぼした。「参ったな。まだ拗ねてんのかよ。未来とはもう終わったんだよ。今、夫婦やってるのは俺とお前二人だろ。自分の旦那をちゃんと信じろよ」そう言いながら、繁人は私の頭に手を乗せ、軽く撫でた。子供をなだめるような口ぶりで続けた。「腹がちょっと減った。なんか作ってくれない?」それはまるで、話をそらそうとしているようだった。でも、私に断られた。「自分でやって」断られるのが初めてだったのか、繁人はほんの少しだけ戸惑った。これ以上彼の話に付き合う気にもなれず、私は身をずらして彼の横をすり抜け、部屋へ戻ろうとした。けれどその瞬間、彼に腕をぐいとつかまれた。「夏希……具合が悪いのか?」彼の声は相変わらず優しい。まるで、私のわがままを寛大に受け止めているかのような態度だった。私は彼を突き放すように言い放った。「具合が悪かったら、何だっていうの?結婚して五年間、あなたが本気で私のことを気にしたことがある?」「夫婦だろ。お前のことを気にしないで、誰のこと気にすんだよ」「じゃあ聞くけど。私の生理はいつ来るか知ってる?」繁人は口をわずかに開けたまま、言葉が出なかった。知っているわけがない。私が妊娠して、彼の前で何度もつわりで吐いたときでさえ、繁人は適当に「胃薬でも飲め」と言っただけだ。「でも、未来さんのは知ってるのね」私は涙でぐしゃぐしゃになりながら彼を見つめる。きっと彼が怒鳴り返してくるか、あるいは、慌てて未来との関係を言い訳でもするか、と思った。でも繁人は、どちらもしなかった。ただどうしようもなさそうに息をついただけだ。「……お前、いったん落ち着け。今夜は会社で残る」またそれだ。私がぶつけようとすると、彼は残業を盾にして逃げる。こんなモラハラと何ら変わらないようなやり方を、繁人はやけに上手く使った。もう我慢できなかった、私は手にしていたリモコンを思いきり投げつけた。彼は避けきれず、額の端に当たって、そこが薄っすら赤くなった。繁人の目に、怒りの炎が燃え上がった。「夏希……わがままにも限度ってもんがあるだろ」そう言い捨てて、彼はドアを叩きつけるように出ていった。部屋はしんと静まり返り、崩れたのは私だけ