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第8話

Author: 灯火かすむ
システムの音声が消えたあと、律の胸に鋭い違和感が走った。

その傍らで、誠司はまだのんきに言葉を続けていた。

「子ども好きだろ?だったら、継真くんをお前の養子にしたらどうかな?」

その瞬間。

長いあいだ心の奥に押し込めていた怒りと憎しみが、じわじわと膨れ上がっていった。

そして――ついに、堰を切ったように、律の口から言葉が飛び出した。

「……じゃあ、私の子どもたちは?あの子たちは、どうなるのよ!」

尖った奥歯が唇の内側を切り裂き、血がにじんだ。

律は、三つ並んだ小さな骨壺を指差しながら、次々と問い詰めた。

「珠希!東條珠希!あんた、あの子は『天から授かった宝物』だって言ったよね?生まれたら大事に育てるって……

それから、心平。あの子も珠希と同じように三ヶ月もたないかもって……怖くて、『無事に生きてほしい』って、それだけ願って心平って名付けたんでしょ?

心平をお腹に抱えていた夜、私が寝返りを打っただけで、すぐ病院に連れていこうとした。流産が怖くて、また失うのが怖くて……」

目元は真っ赤に染まり、頬には大粒の涙が静かに伝い落ちていく。

彼女の顔は、紙のように白かった。

誠司は思わず抱きしめようと手を伸ばしたが――

律はそれを力いっぱい払いのけた。

その反動で、最後の骨壺が床に転がり、砕け散った。

――ガシャン。

それは、ふたりの三番目の子どもだった。

脳内が真っ白になり、律の思考は完全に停止した。

しばらくその場で茫然と立ち尽くしたまま、ただ砕けた壺を見つめていた。

やがて、彼女は膝をつき、震える手でひとつひとつを拾い集めようとした。

壺の破片が手のひらを切り裂き、血が灰と混ざって固まっていった。

「俺がやる、俺が拾うから!」

誠司が慌てて駆け寄ろうとするも――

律は黙って彼を押し退け、なおも灰と破片を手にかき集め続けた。

「律!お前の手が血だらけだぞ!」

喉が詰まり、声が掠れる。

誠司は泣きそうな顔で叫んだ。

「やめろよ……お願いだから、自分を傷つけないでくれよ……!」

彼は何度も近づこうとした。

だがそのたびに、律は容赦なく彼を突き放した。

「触らないで!あんたなんかに……触る資格ない!」

その瞬間、律の目が、深く、鋭く、憎しみの色に染まった。

その眼差しに射抜かれた誠司は、その場で凍りついた。

胸がぎゅうっと締めつけられるような苦しみに襲われ、息を吸うのさえ困難になる。

なぜだ。

なぜ、こんなことになってしまった?

俺は――ただ、彼女を想っていただけなのに。

「如月!もういい加減にしろ!」

彼は怒鳴り声をあげ、残っていたふたつの骨壺を床に叩きつけた。

――ガンッ!ガシャアッ!

砕け散る音が響いた瞬間、律の手が止まった。

「もう死んでるんだよ……!

たかがお前の腹にいた肉片だろ!いい加減、過去に囚われるのはやめろよ!」

彼は律の肩を掴み、その体を無理やり抱き上げた。

「お前には俺がいる!継真くんもいる!

継真くんを養子にして、大事に育ててやれば――きっと本当の母親だって思ってくれる!

なぁ、もう……そんなふうに自分を傷つけるのはやめてくれよ……

医者が言ってたんだ。これ以上身体を壊したら、一生治らないって!

お前がもし死んだら、俺はどうすればいい!?……俺は……どうやって生きていけばいいんだよ!」

感情が崩壊し、誠司は泣き叫んだ。

律は、ただじっと彼を見つめていた。

その瞳の奥に浮かぶのは、言葉にできないほどの複雑な感情。

そして――

彼女は、ふっと笑った。

その笑みには、誠司の理解が及ばない冷ややかな嘲りが混ざっていた。

何かを言いかけたそのとき。

喉の奥から、熱くて鉄の味がするものが突き上げてきた。

次の瞬間――

律の口から鮮血が噴き出し、誠司の顔に降りかかった。

慌てて彼女を抱きとめたとき、律の意識はすでに薄れていた。

目を覚ましたときには、病院のベッドの上だった。

誠司が顔を蒼白にしながら、彼女の手を握っていた。

「怖がるな……大丈夫だって。医者が言ってた。たいしたことない。ちょっと……疲れてただけなんだって」

律は、何も言わずに、ゆっくりと手を引き抜いた。

その動きに、誠司の目が揺れた。

傷ついたような顔で、彼はかすれた声を絞り出した。

「俺が悪かった……もう子どもなんていらない。誰の子どもも……いらないから……」

その言葉が口からこぼれた直後――

律のスマホが光った。

ディスプレイに表示された番号は、見覚えのあるものだ。

誠司が画面を覗き込むと――

そこに映っていたのは、杉山継真の名前が「東條継真」に書き換えられた情報の写真だ。
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