LOGIN「……あんなに狭いアパートじゃ感じなかったのに、やけに、空気が重い」
ぽつりと呟いた声が、煙の向こうで溶けて消えていき、言葉は誰にも届かず、どこにも触れず、ただ夜の空気の中に滲んでいった。
都会にいた頃、こんな静けさを感じることはほとんどなかった。
駅前の喧騒や、アパートの上の階から聞こえる足音、車のクラクション、テレビの音、誰かの笑い声――そんな音に囲まれて暮らしていたのに、いざ離れてみると、今こうして耳に届くのは、雨音と、木の軋む音と、自分の呼吸だけだった。 この空気の重さは、ずっと前からここにあったものなのか、それとも、俺が久しぶりに帰ってきたから、そう感じるのかが、分からなかった。 そもそも、ここに来るつもりなんて、本当はなかったんだ。 祖父の訃報を知らせる封書が届いたのは、ちょうど仕事を辞めた翌日で、アパートの郵便受けに無造作に放り込まれていた。――死亡届に必要な書類と荷物の整理をお願いしたい。
淡々とした言葉が並んだ文面は、役所の発行した機械的なものだったはずなのに、どこか冷たく、突き放されたような響きを持っていた。
気がつけば、荷物をまとめて、この山奥の村へ来る決心をしていた。 理由は何故か、よく分からない。 祖父の遺品なんて、もう誰かに処分を任せても良かったのに。 それなのに、どうしてか、自分の手でこの家の扉を開けなくちゃいけない気がしていた。 ただの義務感だったのか、あるいは、他に行く場所がなかったからなのか。 自分でも、分からないままだった。 煙草の火が少し短くなり、先端の灰がかすかに崩れて膝の上に落ちた。 それを指で払いながら、ふと視線を森へと向けた。 雨に濡れた枝葉の向こうに、黒い影がじっと佇んでいるような気がして――胸の奥が、きゅっと痛むように締めつけられた。 どこにも届かず、誰にも触れず、ただ夜の空気の中に溶けていく。 吐き出した言葉も、煙草の煙も、ふっと漂って、やがて静かに消えていき、それが妙に、心の奥をじわじわと冷やしていった。 煙草の先を灰皿の縁に軽く叩くと、ぱさり、と乾いた灰が落ちた。 その音が夜の帳に吸い込まれず、むしろ空気の奥に深く沈み込むように、ひどく耳に残っており――小さな音なのに、心臓の鼓動と重なり合って、やけに重たく響く。誰もいないはずなのに――なのに、どうしてだろう?
胸の奥がざわざわと波打つ感覚があって、背中のあたりにひやりとした気配がまとわりつく。
ただの夜風じゃない。 そんな生ぬるいものじゃない、もっと粘り気のある、見えない手で背中を撫でられているような――そんな感触が、うっすらと皮膚の下に残った。「……誰も、いないはずだろ」
呟きは自分の耳にしか届かず、言葉を発した唇がわずかに震える。
不安を打ち消すように煙草の火を灰皿に擦りつけると、じゅ、と小さな音がして、煙の匂いが鼻先をかすめた。 その匂いもまた、すぐに夜の冷たさに飲まれ、薄れていった。ふう、と浅い息を吐き出し、目を閉じたまま、肺の奥の重みをゆっくりと吐き出そうとした、その時だった。
――……ォォォオオオ……
低く、湿った夜気を揺らすような声が、遠くの森の奥から響いてきた。
風に乗って届いたその声は、かすれて掠れて、それでも耳の奥にしっかりと残り、骨の奥を震わせるようだったが、狼の遠吠えのような、けれどそれだけではない。 もっと深い、胸の奥をざわりと撫でるような、濡れた声だった。 何かを呼んでいるようであり、あるいは、何かを嘆いているようでもあり――それが何なのか、わからないまま、ただ息が浅くなる。 喉の奥が、きゅう、と狭まる感覚があった。 胸の奥がずしりと重たくなり、指先がわずかに震えた。 怖い、という言葉が頭に浮かんだが、それを認めた瞬間、何かが壊れてしまいそうで、必死でその感覚を押し殺した。 けれど、無意識に指が膝の上で強く握りしめられ、爪が掌に食い込む。 呼吸が浅くなり、心臓が強く脈打つ音が、耳の奥で脈打った。 そっと目を開けると、雨は少し強まっていて、縁側から見える森の輪郭が、さらに滲んで霞んでいた。 雨粒が枝葉に落ち、葉の重みに合わせてゆっくりと弧を描いて落ちる様が、微かに視界に揺れて見えた。 その合間、濡れた木々の隙間。 黒く沈んだ影が、そこに、じっと佇んでいた。 何かの形を成しているのか、ただの闇なのか、判別できないほどの曖昧な黒。 けれど、確かに『視線』だった。 濡れた空気の奥から、真っ直ぐこちらを射抜くような何かが――目が合った、そう思った瞬間、背筋にひやりとしたものが走った。「……っ」
見ては、いけない気がした。
思わず声が漏れ、反射的に身体を引く。
しかし、足元が、ずるり、と滑った。 雨で濡れた縁側の板が、靴下越しの足裏にぬるりとした感触を伝え、重心が後ろへ傾いてしまい、目の前の景色がぐらりと揺れ、縁側の柱が遠ざかり、天井の梁が、雨粒の彼方に霞んで消えていく。 雨音が一瞬だけ遠のき、代わりに、耳鳴りのような静寂が耳の奥に広がった。 畳の匂いが鼻腔をかすめ、雨の匂いが胸の奥にじんわりと満ちていく。 意識の底で、雨音が遠ざかっていく。 ぽつ、ぽつ、と水が落ちる音が、どこか別の世界の出来事のように微かに響き、やがて消えた。 しかし、暗闇の中で、遠くに何かが揺れていた。 小さな光の粒のようなものが、ひゅう、と風に流されては、また戻ってくる。 目を閉じたままなのに、なぜなのか、薄い皮膚の裏側で、何かの視線がじっとこちらを覗き込んでいるような感覚があった。 胸の奥に、じわりと熱が滲む。 それは恐怖の熱ではなかった。 もっと曖昧で、得体の知れない熱。 呼吸が浅くなり、喉の奥がひゅう、と細い音を立てた。 雨の匂いが、胸の奥に入り込んでくる。 濡れた土の匂い、草の匂い、そして――獣の匂い。 何か、湿った毛皮のような匂いが鼻腔をかすめ、その感触が皮膚の表面に触れたような錯覚を残した。 意識の縁で、誰かが名を呼んだ気がした。 低く、かすれた声で、耳の奥に触れるように――「……おまえ――」
言葉は、すぐに水音にかき消され、夜の底へと溶けていった。
でも、確かに呼ばれた。 呼ばれたのだと分かった。 その声が、自分の名前を呼んだのだと、理解するよりも早く、胸の奥が熱を帯びた。 ふいに、温もりが頬に触れた。 ざらりとした指先――いや、指ではない。 何か柔らかく、湿ったものが、頬の皮膚をゆっくりと撫でていく。 冷たい夜気の中で、その熱は異様に生々しく、血の通った体温を持っていた。 反射的に顔を背けようとするが、身体は動かず、ただ浅い呼吸が震え、胸の奥で音を立てるばかりだった。「……帰ってきたのか」
低く、湿った声が耳の奥で震え――その声には、熱があった。
けれど、そこには感情の輪郭が掴めない。 嬉しいのか、怒っているのか、欲しているのか――その全てが滲み、溶け、ただ重たくのしかかるような響きだけが残った。 また、何かが頬に触れた。 鼻先が髪を梳くようにゆっくりと滑り、雨で濡れた襟足に触れる。 その感触が、皮膚の奥にまで入り込み、血の流れを静かに熱くした。 意識の奥で、何かがじわじわとほどけていく感覚があった。 遠ざかっていく雨音。 皮膚に残る温度。 そして、胸の奥に残る低い声の余韻――ふっと、身体が持ち上がるような感覚があった。 俺は、何かに抱き上げられた。 その腕は無骨で、けれどなぜだろう、ひどく慎重で、乱暴ではなかった。 頬が、ざらりとした毛に触れる。 それが獣の毛皮であることを、意識の奥では理解していたが、恐怖は不思議と湧かなかった。 冷たいはずの雨に濡れた髪が、額に触れ、その冷たさと対照的に、抱き上げられた胸元から伝わる体温が、じわじわと肌に沁みていく。 心臓が、ひとつ、ふたつ、と静かに鼓動を打ち、その音が腕の中の温もりと重なり合った。 意識がまた、深い暗がりへと沈んでいった。 けれど最後に、確かに感じたのだ。 あの夜気の中で、雨の音を背後に、誰かがそっと名を呼び――そして、その腕の中にいるのが、自分だということを。――雪解け水が、山の小川をさらさらと流れている。 凍てつく冬の終わりを告げるように、透明な水音が谷に響き、湿った空気が土をほどいていく。 梅の蕾がふくらみはじめ、朝の光が少しずつ長くなっていく。 陽だまりにはやわらかなぬくもりがあり、湿った土の匂いが春の到来を告げていた。 囲炉裏の火が、ぱちり、と小さく弾ける。 そのそばで、冬馬は静かに茶を淹れていた。 鉄瓶から立ち上る湯気が天井へと昇っていく。蒸気の白さが朝の光に溶け込み、ゆらゆらと家の中にやさしく揺れていた。 隣の布団には、まだ朔夜の気配が残っている。 わずかに乱れた寝具と、温もりを帯びた空気。 そこに彼がいた証が、確かに息づいている。 冬馬はふと立ち上がり、障子を開けた。 外には朝靄がまだわずかに残っていて、庭先の石畳に水滴がきらめいていた。 小さな春草が、土の隙間から顔をのぞかせている。 その色は淡く、けれど強く、何もなかった場所にしっかりと命を刻んでいた。 一羽の小鳥が、いつの間にか軒先に止まっていた。 細い声で、ひとこと囁くように鳴く。 ――ああ、春が来たんだ。 冬馬はその場にしゃがみこみ、小鳥と同じ目線で空を見上げた。 風が、枝を撫でる音がする。 何もかもが、すべてが、やさしくなっていた。 茶碗を手に取り、縁側に腰を下ろす。 吸い込む空気には、もうあの冷たい刺すような冷気はなかった。 代わりにあったのは、どこか甘さを含んだ春の匂い。「……起きてたのか」 背後から声がした。 低く、落ち着いた、けれどどこか眠たげな朔夜の声。 冬馬が振り返ると、彼は寝癖のついた髪を無造作にかき上げながら、まだ少し緩んだ着物のまま、縁側にやってきた。 その体温が近づくだけで、心の底まであたたかくなる。「起きたばかり。茶、飲む?」「……ああ」 茶碗を手渡すと、朔夜は静かにそれを受け取り
風の音が変わった。 かつては冷たさを運んでいた山の風が、いまはただ、やわらかく頬を撫でるだけだった。 冬馬は、村の奥にある古びた家の縁側に腰を下ろし、庭に舞い散った落ち葉をじっと見つめていた。 あの祭りの夜から、いくつの朝を迎えただろう。もはや数えるのもやめていた。「ここ、思ってたよりも……悪くないな」 ぽつりとこぼれた独り言に、背後から静かな気配が重なる。 振り返ると、朔夜が土のついた手で鍋を運んでいた。 肩には湯気がふわりとかかっていて、ほんのりと味噌の匂いがする。「少しずつ、住めるようになってきた」 そう言って、朔夜は座敷の上に鍋を置き、冬馬の隣に腰を下ろした。 湯気がふたりの間をやわらかく揺れ、冬の名残の冷気をやさしく溶かしていく。「……俺さ、外に出なきゃって、ずっと思ってた」 冬馬の声は低く、どこか遠くを思い出すようだった。 「……」 朔夜は黙ったまま、隣でじっと耳を傾ける。「でも今は……なんかもう、いいかなって」 素直な本音だった。誰に向けるでもなく、ただ心から零れた声。 朔夜は、言葉の代わりにそっと冬馬の手を握った。 指先から伝わるぬくもりが、まるで静かな誓いのようにじんわりと沁みていく。 村人たちは、もはや冬馬を避けることはなかった。 ときおり誰かが玄関先に山菜を置いていき、子どもが遠巻きに笑いながら手を振っていく。 ――神の伴侶。 誰も口に出さない。だが確かに、そう『扱われている』ことを、冬馬は知っていた。 けれど、それでもう構わなかった。 朔夜が隣にいて、自分を必要としてくれて――この場所で共に生きている。 それだけで、もう十分だった。「朔夜……お前が、何者でもいい。俺は……お前といたい」 静かに言った言葉に、朔夜が応える。「……その言葉だけで、俺はここに在ることができる」 言葉の代わりに、指が優しく絡み合う。 火の入った鍋の中で、ぱちりと音が弾けた。 小さな音が、ふたりの空間にやさしく染み渡っていく。 冬馬は、そっと肩を寄せた。 そのぬくもりは、これまでに感じたどんな温もりよりも、確かだった。 夕暮れが近づいていた。 山の稜線が、ゆるやかに黄金色へと染まりはじめる。 陽は傾き、空の色が少しずつ赤みを帯びていく。 鳥たちの声も、いつの間にか遠のいていた。 夜の帳が、静
熱に浮かされたような夜だった。 外は、まだ深い夜の帳に包まれているというのに――冬馬の身体は、まるで火照りに飲み込まれるように、じんわりと熱を帯びていた。 薄い寝巻き一枚では、とても足りない。 だが、熱いのは肌ではない。 もっと奥――胸の真ん中から、焦げつくようにゆっくりと広がっていく、そんな熱だった。 「……朔夜……」 名前を呼ぶ声は、意識の底から滲み出たように微かだった。 ただひたすらに、求めるように。懇願するように――喉の奥で震えながら絞り出された。 その瞬間だった。 ――ふ、と。 閉ざされたままの戸が、音もなく開いた。 軋みひとつなく、まるで風が押したわけでもないのに。 部屋の空気が、かすかに揺れる。 そして、闇の中から、じんわりと沁み出すように、懐かしい『気配』が忍び寄ってきた。 朔夜――。そう思ったときには、冬馬の膝が床に落ちる。。 意思ではなく、身体が、自然と動いていた。 視線を上げる。 夜の影の奥、静かにそこに立つ男の姿が目に映った。「……どうして……来なかったんだ」 喉が震えた。 怒りでもない、責めるでもない。 ただ――寂しさが焼けるように胸を焦がしていた。 朔夜は、答えない。 ただ静かに、音もなく歩み寄ってくる。 その歩みは、まるで夜の帳をまとった影のようだった。 光に溶けることも、闇に沈むこともなく――ただ、滑らかに近づいてくる。 やがて冬馬の目の前で、彼はそっと膝をつく。 そして、言葉もなく、顔を寄せ、額と額をそっと重ね合わせた。「……悪かった」 それだけだった。 けれど、その一言で――冬馬の中に溜まっていたすべてが、崩れていった。 凍っていた想いが、ひとつ、またひとつと、静かに溶けてゆく。「あんたがいないと……俺、どうにかなりそうだった……」 声は震え、指先が朔夜の衣を掴む。 胸元に顔を埋めると、そこには――確かに、朔夜の体温があった。 熱い――けれど、それは自分を焦がす炎ではなく、帰る場所のような暖かさだった。「……怖かったんだ。お前が壊れるのが」 囁くような声が、耳元に落ちる。 朔夜の手が背中をやさしく撫でるたび、心がほどけてゆく。「けれど――もう、離さない。お前が望まなくても、縛りつける」 その低い声に、冬馬の心臓が跳ねた。 次の瞬間、強く、腰を抱き
祭りが終わった村には、奇妙な安堵が漂っていた。 子供たちは再び表を駆け回り、老婆たちは縁側で茶を啜っている。 男たちは畑に戻り、女たちは水を汲みに行く――一見、何も変わらぬ日常が戻ってきたかのようだった。 けれど、冬馬にはそれが『静かすぎる』ことに気づいていた。 鳥の声すら、妙に遠い。 風が吹いているのに、木々が揺れていないように見える。 足を止め、耳を澄ませても、何かが足りない。空気の層が一枚、ぴたりと自分だけに張りついているような、そんな感覚があった。「……誰も、俺を見ていない」 いや――そうではない。 村人たちは、確かに視線を向けている。 ただ、それは人を見る目ではなかった。 まるで、もう『人』ではない何かに対する、敬いと畏れが入り混じった視線。 以前のような拒絶でも嫌悪でもない。だが、それ以上に遠くて、触れられない。 『穢れ』の扱いから、今や『神の伴侶』のように。 それは、身を清められ、選ばれしものとして神に捧げられたという意味だった。 祭りの夜に『選ばれた』者として、冬馬の立場は変わった。 老婆たちは誰も口に出さぬが、その目は言っていた。 ――あの子はもう人ではない。神の隣にいる者だ、と。 冬馬は、ふと視線を落とした。 自分の手が、自分のものではないように思えた。 皮膚の下に、別のものが流れている気がする。 体温が変わったのではない。自分の“重心”が、どこか別の場所へ移動してしまったような感覚だった。 『村を出よう』と思っていた気持ちが、いつのまにか霧のように薄れていることに気づき、ぞっとした。 どこかへ行きたいわけではない。ただ、ここにいることが――妙に『自然』に感じてしまう。 「……まずいな」 自分でもその感覚の異常さに、舌打ちしたくなる。 そして、もうひとつ気づいたことがあった。 ――朔夜が、現れない。 あれから、何度夜を迎えても、戸が開く音はなかった。 耳を澄ませても、あの匂いは流れてこない。 まるで、朔夜という存在が、この村から『抜け落ちた』かのように。 けれど、冬馬は知っていた。 朔夜は『いる』。 確かにこの村のどこかに。 ただ、それが人の姿である必要は、もうないのだ。 ――神は姿を持たぬもの。 今、朔夜は『村の外』に姿を隠したのではない。 『村そのもの』に溶けている
指が、唇が、肌に刻むように伝えてくる。 ここにいる、お前は俺のものだ、と言っているかのように。 朔夜の舌先が、冬馬の鎖骨をなぞった瞬間――「……ぁ……っ……」 短く震えた吐息が、思わず唇から漏れる。 それは拒絶でも、困惑でもない。 むしろ、堪えようとしても溢れてしまった、無垢な反応だった。 肌を撫でる手が、まるで見えない縄のように冬馬の身体を縛っていく。 押しつぶされそうなほどの熱に包まれて、思考も感覚も朧になっていく。「さく、や……っ……」 その名を呼ぶ声さえ、吐息にまぎれて震える。 まるで誰にも聞かせたくないように、けれどどうしても抑えきれないように。 朔夜の指先が、腰に触れる。「や……っ、そこ……だめ……っ」 甘く途切れた声に、朔夜の目が細められる。 それはどこか愉しげで、けれど真剣な熱を孕んでいた。「言っただろ。もう、逃がさないって……」 そして彼は、躊躇なく冬馬の奥へと踏み込んだ。 声にならない声が、夜の静けさの中に溶けていく。 ――ふたりだけの、ひそやかな再契り。 鼓動と吐息、肌と肌が何度も何度も重なって、まるで過去の欠片までも溶かすように。 冬馬は、目を閉じたまま感じていた。 朔夜に刻まれていく痛みと快さ、それがまるで「生きている証」のように思えて。「……朔夜……っ……」 声が、泣きそうに震えた。 それは悦びであり、許しであり、心の奥からあふれ出た、愛の名残だった。 吐息の熱が肌をなぞり、指先が、胸元からゆっくりと下へ滑っていく。 触れられるたび、冬馬の身体が小さく震え、目元が赤く染まっていった。「朔夜……そんな、触れ方……っ」 震える声に、朔夜はわずかに口角を上げる。 けれどその目には、余裕よりも深く沈んだ熱情が揺れていた。 いつもは無表情に近いその顔が、今は獣のように飢えて見える。 けれどそれは、ただの欲ではない――喪ったものを取り戻そうとする、切実な飢えだった。「痛くしない……だから、力を抜け」 囁きとともに、そっと太腿を押し開かれる。 羞恥よりも先に、冬馬の奥底で何かが疼いた。 深く、満たされたい――そんな感情が、自分の中にあることに気づき、息が詰まる。 準備を整えられたその瞬間、朔夜が腰を落とす。 熱を孕んだものが、冬馬の奥へとゆっくり沈んでいく。「……ぁ、く…
夜は静かすぎた。 虫の声もなく、風さえ鳴らない。 まるで世界から音がひとつ、またひとつと抜け落ちていくように。 冬馬は部屋の隅で、膝を抱えていた。 薄い布団は掛けているはずなのに、身体の奥からじくじくとした寒さが這い上がってくる。 いや、寒いのではない。ただ――熱が足りないのだ。「……おかしい……」 かすれた声で呟き、腕を擦る。指先がひどく冷たい。 だが、それ以上に、胸の奥が痛かった。誰かに呼ばれている気がして、何度も夜の窓を見た。 けれど、あの気配はもう何日も姿を見せない。 ――来ない。朔夜が、来ない。 来なくていいと、あんな風に拒絶したくせに。 けれど来ないことが、こんなにも苦しいなんて、知らなかった。 気配すらない夜に、冬馬の肩は細かく震えていた。「……さく……や……」 喉の奥から、掠れたような声が零れた。 震える唇が、その名をようやく紡いだ瞬間だった。 ――ぎぃ、と音もなく、戸が開いた。 風のないはずの夜。 けれど、その隙間から染み出すように、濃く、熱い匂いが這い込んでくる。 それは冬馬の肌に染みついていたはずの香り――忘れたくても、忘れられなかった、朔夜の匂い。 冬馬は息を詰め、ゆっくりと顔を上げた。 視線の先、そこに――朔夜がいた。 闇の中で、朔夜の瞳だけがはっきりと輝いている。 黒曜石のようなその目は、凪いだ夜の湖底のように深く、そしてひどく飢えていた。 何も言わない。ただ、静かに、じっと冬馬を見つめていた。 けれどその視線が触れるたび、まるで身体の奥の奥まで舐められているような錯覚を覚え、冬馬はひくりと背筋を震わせる。「……どうして……今まで、来なかった……」 ようやく紡いだその声は、涙の膜を纏っていた。 熱と戸惑いと、胸を焦がす不安が、喉を焼いて掠れていく。 朔夜は、答えずに一歩、また一歩と近づいてくる。 踏みしめられた床板が、わずかに軋むたび、冬馬の心臓が跳ねた。 息を呑み、逃げようとした脚は動かなかった。 背中が壁につき、動けなくなる。 それなのに、心のどこかでは――待っていた。あの熱を、あの腕を。「……やっと、素直になったな」 低く湿った声が、耳に届いた瞬間、身体がひくりと跳ねる。 それはまるで、囁きというより――噛みつく寸前の獣の吐息だった。 そして次の瞬間、朔