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第02話

Auteur: あおはな
last update Date de publication: 2025-06-13 17:55:22

 夜が深くなるにつれて、窓の外の景色はぼんやりと溶けていく。

 山の稜線も、木々の輪郭も、雨に滲んで曖昧になり、ただ灰色の闇が外に広がっているようだった。

 風は止み、代わりに、しとしとと細い雨が降り出し、雨粒が軒先を打つ音は、まるで誰かが指先で木を叩くように、規則的で、けれどかすかだった。

 時折、古びた木の柱が小さくきしみ、梁の奥で何かが軋むような音がする。

 その音が、やけに湿った空気の中で遠く、響くように思えた。

 深い森の奥で何かが息をひそめ、微かに呻くような音を立てているのかもしれない――そんな想像が、ふと脳裏をかすめた。

 時計の針の進む音がないこの家の中では、そんな小さな音すらも、俺の鼓動よりも近くに感じられた。

 自分の呼吸の音が、耳の奥で浅く響き、その合間に聞こえる雨の音や、時折混じる葉擦れの音が、どこか遠くの世界から届いているようで、現実感が薄れていく。

 胸の奥に何かがじんと滲み、息をするたびに、どこかしらざわざわとした不安が喉元までせり上がってくるようだった。

 縁側に座り、足元に置いた煙草の箱を指先で弄ぶ。

 箱の角が少し潰れていて、紙の手触りがざらついており、無意識のうちに箱の縁をなぞり、爪で軽く引っかくと、薄い紙がわずかに毛羽立つ感触が伝わった。

 指先が冷たい――掌も少し湿っている気がした。

 箱から一本取り出し、口に咥える。

 震える指先でライターを擦ると、火花が散り、小さな火が揺れた。

 それは頼りない明かりで、すぐに夜の闇に呑まれてしまいそうだった。

 煙草の先端がじわりと赤く染まり、ふっと煙が立ち上り、細く揺れるその煙は、縁側を抜ける冷たい空気の中で歪み、ゆらゆらと不規則に揺れて、やがて薄く消えていった。

 吸い込むと、肺の奥にじんとした熱が広がり、喉の奥をかすめ、ゆっくりと細い煙を吐き出すと、冷たい夜気に触れた吐息が淡く白んで、目の前で儚く消えた。

「……あんなに狭いアパートじゃ感じなかったのに、やけに、空気が重い」

 ぽつりと呟いた声が、煙の向こうで溶けて消えていき、言葉は誰にも届かず、どこにも触れず、ただ夜の空気の中に滲んでいった。

 都会にいた頃、こんな静けさを感じることはほとんどなかった。

 駅前の喧騒や、アパートの上の階から聞こえる足音、車のクラクション、テレビの音、誰かの笑い声――そんな音に囲まれて暮らしていたのに、いざ離れてみると、今こうして耳に届くのは、雨音と、木の軋む音と、自分の呼吸だけだった。

 この空気の重さは、ずっと前からここにあったものなのか、それとも、俺が久しぶりに帰ってきたから、そう感じるのかが、分からなかった。

 そもそも、ここに来るつもりなんて、本当はなかったんだ。

 祖父の訃報を知らせる封書が届いたのは、ちょうど仕事を辞めた翌日で、アパートの郵便受けに無造作に放り込まれていた。

 ――死亡届に必要な書類と荷物の整理をお願いしたい。

 淡々とした言葉が並んだ文面は、役所の発行した機械的なものだったはずなのに、どこか冷たく、突き放されたような響きを持っていた。

 気がつけば、荷物をまとめて、この山奥の村へ来る決心をしていた。

 理由は何故か、よく分からない。

 祖父の遺品なんて、もう誰かに処分を任せても良かったのに。

 それなのに、どうしてか、自分の手でこの家の扉を開けなくちゃいけない気がしていた。

 ただの義務感だったのか、あるいは、他に行く場所がなかったからなのか。

 自分でも、分からないままだった。

 煙草の火が少し短くなり、先端の灰がかすかに崩れて膝の上に落ちた。

 それを指で払いながら、ふと視線を森へと向けた。

 雨に濡れた枝葉の向こうに、黒い影がじっと佇んでいるような気がして――胸の奥が、きゅっと痛むように締めつけられた。

 どこにも届かず、誰にも触れず、ただ夜の空気の中に溶けていく。

 吐き出した言葉も、煙草の煙も、ふっと漂って、やがて静かに消えていき、それが妙に、心の奥をじわじわと冷やしていった。

 煙草の先を灰皿の縁に軽く叩くと、ぱさり、と乾いた灰が落ちた。

 その音が夜の帳に吸い込まれず、むしろ空気の奥に深く沈み込むように、ひどく耳に残っており――小さな音なのに、心臓の鼓動と重なり合って、やけに重たく響く。

 誰もいないはずなのに――なのに、どうしてだろう?

 胸の奥がざわざわと波打つ感覚があって、背中のあたりにひやりとした気配がまとわりつく。

 ただの夜風じゃない。

 そんな生ぬるいものじゃない、もっと粘り気のある、見えない手で背中を撫でられているような――そんな感触が、うっすらと皮膚の下に残った。

「……誰も、いないはずだろ」

 呟きは自分の耳にしか届かず、言葉を発した唇がわずかに震える。

 不安を打ち消すように煙草の火を灰皿に擦りつけると、じゅ、と小さな音がして、煙の匂いが鼻先をかすめた。

 その匂いもまた、すぐに夜の冷たさに飲まれ、薄れていった。

 ふう、と浅い息を吐き出し、目を閉じたまま、肺の奥の重みをゆっくりと吐き出そうとした、その時だった。

 ――……ォォォオオオ……

 低く、湿った夜気を揺らすような声が、遠くの森の奥から響いてきた。

 風に乗って届いたその声は、かすれて掠れて、それでも耳の奥にしっかりと残り、骨の奥を震わせるようだったが、狼の遠吠えのような、けれどそれだけではない。

 もっと深い、胸の奥をざわりと撫でるような、濡れた声だった。

 何かを呼んでいるようであり、あるいは、何かを嘆いているようでもあり――それが何なのか、わからないまま、ただ息が浅くなる。

 喉の奥が、きゅう、と狭まる感覚があった。

 胸の奥がずしりと重たくなり、指先がわずかに震えた。

 怖い、という言葉が頭に浮かんだが、それを認めた瞬間、何かが壊れてしまいそうで、必死でその感覚を押し殺した。

 けれど、無意識に指が膝の上で強く握りしめられ、爪が掌に食い込む。

 呼吸が浅くなり、心臓が強く脈打つ音が、耳の奥で脈打った。

 そっと目を開けると、雨は少し強まっていて、縁側から見える森の輪郭が、さらに滲んで霞んでいた。

 雨粒が枝葉に落ち、葉の重みに合わせてゆっくりと弧を描いて落ちる様が、微かに視界に揺れて見えた。

 その合間、濡れた木々の隙間。

 黒く沈んだ影が、そこに、じっと佇んでいた。

 何かの形を成しているのか、ただの闇なのか、判別できないほどの曖昧な黒。

 けれど、確かに『視線』だった。

 濡れた空気の奥から、真っ直ぐこちらを射抜くような何かが――目が合った、そう思った瞬間、背筋にひやりとしたものが走った。

「……っ」

 見ては、いけない気がした。

 思わず声が漏れ、反射的に身体を引く。

 しかし、足元が、ずるり、と滑った。

 雨で濡れた縁側の板が、靴下越しの足裏にぬるりとした感触を伝え、重心が後ろへ傾いてしまい、目の前の景色がぐらりと揺れ、縁側の柱が遠ざかり、天井の梁が、雨粒の彼方に霞んで消えていく。

 雨音が一瞬だけ遠のき、代わりに、耳鳴りのような静寂が耳の奥に広がった。

 畳の匂いが鼻腔をかすめ、雨の匂いが胸の奥にじんわりと満ちていく。

 意識の底で、雨音が遠ざかっていく。

 ぽつ、ぽつ、と水が落ちる音が、どこか別の世界の出来事のように微かに響き、やがて消えた。

 しかし、暗闇の中で、遠くに何かが揺れていた。

 小さな光の粒のようなものが、ひゅう、と風に流されては、また戻ってくる。

 目を閉じたままなのに、なぜなのか、薄い皮膚の裏側で、何かの視線がじっとこちらを覗き込んでいるような感覚があった。

 胸の奥に、じわりと熱が滲む。

 それは恐怖の熱ではなかった。

 もっと曖昧で、得体の知れない熱。

 呼吸が浅くなり、喉の奥がひゅう、と細い音を立てた。

 雨の匂いが、胸の奥に入り込んでくる。

 濡れた土の匂い、草の匂い、そして――獣の匂い。

 何か、湿った毛皮のような匂いが鼻腔をかすめ、その感触が皮膚の表面に触れたような錯覚を残した。

 意識の縁で、誰かが名を呼んだ気がした。

 低く、かすれた声で、耳の奥に触れるように――

「……おまえ――」

 言葉は、すぐに水音にかき消され、夜の底へと溶けていった。

 でも、確かに呼ばれた。

 呼ばれたのだと分かった。

 その声が、自分の名前を呼んだのだと、理解するよりも早く、胸の奥が熱を帯びた。

 ふいに、温もりが頬に触れた。

 ざらりとした指先――いや、指ではない。

 何か柔らかく、湿ったものが、頬の皮膚をゆっくりと撫でていく。

 冷たい夜気の中で、その熱は異様に生々しく、血の通った体温を持っていた。

 反射的に顔を背けようとするが、身体は動かず、ただ浅い呼吸が震え、胸の奥で音を立てるばかりだった。

「……帰ってきたのか」

 低く、湿った声が耳の奥で震え――その声には、熱があった。

 けれど、そこには感情の輪郭が掴めない。

 嬉しいのか、怒っているのか、欲しているのか――その全てが滲み、溶け、ただ重たくのしかかるような響きだけが残った。

 また、何かが頬に触れた。

 鼻先が髪を梳くようにゆっくりと滑り、雨で濡れた襟足に触れる。

 その感触が、皮膚の奥にまで入り込み、血の流れを静かに熱くした。

 意識の奥で、何かがじわじわとほどけていく感覚があった。

 遠ざかっていく雨音。

 皮膚に残る温度。

 そして、胸の奥に残る低い声の余韻――ふっと、身体が持ち上がるような感覚があった。

 俺は、何かに抱き上げられた。

 その腕は無骨で、けれどなぜだろう、ひどく慎重で、乱暴ではなかった。

 頬が、ざらりとした毛に触れる。

 それが獣の毛皮であることを、意識の奥では理解していたが、恐怖は不思議と湧かなかった。

 冷たいはずの雨に濡れた髪が、額に触れ、その冷たさと対照的に、抱き上げられた胸元から伝わる体温が、じわじわと肌に沁みていく。

 心臓が、ひとつ、ふたつ、と静かに鼓動を打ち、その音が腕の中の温もりと重なり合った。

 意識がまた、深い暗がりへと沈んでいった。

 けれど最後に、確かに感じたのだ。

 あの夜気の中で、雨の音を背後に、誰かがそっと名を呼び――そして、その腕の中にいるのが、自分だということを。

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