冬馬《とうま》は山を覆う霧が、薄い紗のように枝葉の隙間を滑り落ちていくのが見えた。 霧は風に流されるでもなく、重たく澱んだ空気の中で、ただそこに留まり、森の奥へと溶け込んでいくようだった。 葉の縁に溜まった雫が、ぽたり、と落ち、石の上で小さな音を立てた。 か細く消え入りそうなその音は、しかし冬馬の耳の奥に、残響のように微かに残った。 灰色の空は低く垂れ込み、雲の輪郭は滲んで、空と山の境目が曖昧だった。 視界の奥で、細い枝が風に揺れ、かさりと葉擦れの音が微かに聞こえる。 その音に、冬馬は無意識に目を向けたが、そこには何もいなかった。 けれど、その「何もいない」が、余計に胸の奥をざわつかせる。 風が頬をひやりと撫で、通り過ぎていった。 車の窓をほんの少しだけ下ろすと、冷えた空気が指先に触れた。 思った以上に冷たく、一瞬、指を引き込めそうになったが、冬馬はそのままじっとしていた。 湿った木の匂いが、風の中に混じって流れ込んできた。 苔、濡れた土、落ち葉の発酵しかけた匂い。 それらが薄い靄の中で溶け合い、鼻腔をくすぐり、胸の奥にじんわりと染み込んでいく。 冬馬は深く息を吸い込んだが、喉の奥に鈍い痛みが広がり、思わず細く息を吐き出した。 ――こんな場所だったか。 だが、そもそも冬馬はこの場所を、ちゃんと覚えてなんていなかった。 祖父の葬儀で耳にした『山奥の村』という響きと、幼い頃の曖昧な記憶が頭の奥で擦れ合っているだけで、景色としての輪郭は残っていない。 幼い頃に一度だけ来たことがあったはずなのに、それも夢の中で見たものだったのか、あるいは作り上げた記憶だったのか、自分でも確信が持てないでいた。 目の前に広がる鬱蒼とした山道。 雨に濡れて黒ずんだ石段。 枝葉の合間から覗く、苔むした岩肌。 それらはどれも見覚えがないはずなのに、なぜか冬馬の皮膚の裏側がじわりと冷たくなる。 じっとりとした視線を浴びているような感覚が、背中の中心に触れるような錯覚を呼び、呼吸が浅くなった。 無意識に肩を竦め、首筋をすくめたところに、冷たい風が入り込み、ひやりとした冷気が背中を這った。 車のタイヤが石を踏み、ぐり、と小さな音を立てる。その音が無性に耳障りで、冬馬は思わず息を止めた。 ハンドルを握る指先
最終更新日 : 2025-06-13 続きを読む