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暁を待つ獣
暁を待つ獣
Author: あおはな

第01話

Author: あおはな
last update Last Updated: 2025-06-13 17:54:10

 冬馬《とうま》は山を覆う霧が、薄い紗のように枝葉の隙間を滑り落ちていくのが見えた。

 霧は風に流されるでもなく、重たく澱んだ空気の中で、ただそこに留まり、森の奥へと溶け込んでいくようだった。

 葉の縁に溜まった雫が、ぽたり、と落ち、石の上で小さな音を立てた。

 か細く消え入りそうなその音は、しかし冬馬の耳の奥に、残響のように微かに残った。

 灰色の空は低く垂れ込み、雲の輪郭は滲んで、空と山の境目が曖昧だった。

 視界の奥で、細い枝が風に揺れ、かさりと葉擦れの音が微かに聞こえる。

 その音に、冬馬は無意識に目を向けたが、そこには何もいなかった。

 けれど、その「何もいない」が、余計に胸の奥をざわつかせる。

 風が頬をひやりと撫で、通り過ぎていった。

 車の窓をほんの少しだけ下ろすと、冷えた空気が指先に触れた。

 思った以上に冷たく、一瞬、指を引き込めそうになったが、冬馬はそのままじっとしていた。

 湿った木の匂いが、風の中に混じって流れ込んできた。

 苔、濡れた土、落ち葉の発酵しかけた匂い。

 それらが薄い靄の中で溶け合い、鼻腔をくすぐり、胸の奥にじんわりと染み込んでいく。

 冬馬は深く息を吸い込んだが、喉の奥に鈍い痛みが広がり、思わず細く息を吐き出した。

 ――こんな場所だったか。

 だが、そもそも冬馬はこの場所を、ちゃんと覚えてなんていなかった。

 祖父の葬儀で耳にした『山奥の村』という響きと、幼い頃の曖昧な記憶が頭の奥で擦れ合っているだけで、景色としての輪郭は残っていない。

 幼い頃に一度だけ来たことがあったはずなのに、それも夢の中で見たものだったのか、あるいは作り上げた記憶だったのか、自分でも確信が持てないでいた。

 目の前に広がる鬱蒼とした山道。

 雨に濡れて黒ずんだ石段。

 枝葉の合間から覗く、苔むした岩肌。

 それらはどれも見覚えがないはずなのに、なぜか冬馬の皮膚の裏側がじわりと冷たくなる。

 じっとりとした視線を浴びているような感覚が、背中の中心に触れるような錯覚を呼び、呼吸が浅くなった。

 無意識に肩を竦め、首筋をすくめたところに、冷たい風が入り込み、ひやりとした冷気が背中を這った。

 車のタイヤが石を踏み、ぐり、と小さな音を立てる。その音が無性に耳障りで、冬馬は思わず息を止めた。

 ハンドルを握る指先には、じわじわと汗が滲んでいた。

 ぬめりとした感触が掌に広がり、嫌な汗だ、と心の中で呟く。

 拭おうとしたが、ハンドルから手を離すのがためらわれ、そのまま強く握りしめた。

 ゴムの匂いがふっと立ち上り、鼻の奥に刺さり、息を浅く吸い込み、もう一度深く、ゆっくりと長く吐いた。

 喉の奥で、かすれるような音が漏れた。

 白い息にはならなかった。季節のせいだろうか。

 それとも、自分の体温がまだ正常だからだろうか。

 そんなことを考えながら、車のフロントガラスに散った霧の粒を指先でなぞると、指の跡が残り、じんわりと曇りが広がった。

 見上げた空は、ますます重たく、低く、今にも崩れてきそうな気配を孕んでいた。

 遠くで小さな鳥の声が一声だけ響き、またすぐに静寂が戻る。

 その静けさは、むしろ耳に圧し掛かり、喉の奥が詰まるような感覚を残した。

 ――なんだ、この感じは。

 誰もいないはずなのに、誰かがいる。そんな空気が、指先から背骨の奥へとじわじわと這い上がってくる。

 無意識に車の外へ視線を送ると、石段の脇に佇む狼の彫像が、霧に霞んで輪郭をぼやかせていた。

 まるでじっと、こちらを見ているように感じられた。

 目が合ったような気がして、冬馬の心臓がひとつ、強く脈打つ音を立てた。

 車を停め、外に出た瞬間、空気がひどく重たく感じられた。

 湿気を帯びた冷たい空気が肌にまとわりつき、呼吸するたび、喉の奥にぬるりとした感触が広がり、肺の奥まで満たされるのは、乾いた都会の空気とは違う、どこか湿った、深い森の匂いだった。

 その匂いは土の匂いであり、草いきれであり、遠くで流れる水の音がかすかに混じり合った、山の呼吸そのもののようだった。

 鼻腔をくすぐるその匂いは、何年も前の記憶の底をかすめるようで、けれど何を思い出すのかは、うまく形にならず、ただ胸の奥がじんわりと疼いた。

 耳の奥で心臓の鼓動がひとつ、強く響く。

 血が脈打つ音が、いつもよりも大きく、くぐもって聞こえた気がして、冬馬は思わず喉の奥をきゅっと詰まらせた。

 肩がわずかに震える――理由のわからないざわめきが、背中の中心から這い上がり、首筋に冷たいものを落とす。

 足元に目を落とすと、苔に覆われた石段がゆるやかに森の奥へと続いていた。

 雨に濡れたその緑は色濃く、触れたらぬるりとした感触がしそうで、靴の裏が自然と躊躇した。

 だが、ほんの少し重心を移しただけで、靴底が石の上でわずかに滑り、ぬめりとした感触が足裏から伝わってきた。

 思わず息を呑み、足元を確かめると、小さな石が転がり落ち、足元でカラン、と鈍い音を立てた。

 その音が、やけに遠くまで響いた気がして、耳の奥がじんと痺れた。

 振り返ると、車の後ろに冬馬の足跡がくっきりと残っていた。

 しっとりとした土に、靴底の模様が細かく刻まれ、その奥に深い黒い土が滲んでいる。

 誰もいないはずの道が、ただそこにあるだけなのに、その空間が、何かを待っていたような、何かを孕んでいたような、そんな息苦しさを纏って見えた。

 喉を鳴らし、唾を飲み込むと、ぬるりとした感触が喉を滑り落ちていく。

 深く息をつこうとしても、肺の奥まで冷たい空気が満ちていくばかりで、浅い呼吸しかできなかった。

 石段を上がった先に、祖父の家がある。

 だが、そこにはもう誰も住んでいない。

 木造の、古びていて、少し傾いだ家。瓦屋根の隅は苔で黒ずみ、ひび割れた軒先が雨水を含んで重たげに沈んでいるように見える。

 軒先の柱には、黒ずんだ木彫りの像がひとつ、ぽつりと置かれていた。

 それは狼のようでいて、けれど正確には狼と断言できない、不確かな獣の姿をしていた。

 口を閉じたその顔は、笑っているのか、怒っているのか、判別できない曖昧な表情で、けれどその目だけが、何かを静かに見据えているようで、冬馬の胸の奥がきゅうっと締めつけられた。

 目が合った、と思った瞬間、背中のあたりがざわりと粟立ち、反射的に肩をすくめた。心臓がひとつ、大きく鳴った。

「……じいちゃん、ほんとに、ここに住んでたんだな」

 小さく漏れた冬馬の声は、湿った空気に吸い込まれて消えていった。

 残ったのは、自分の呼吸の音と、森の奥でかすかに揺れる葉擦れの音だけだった。

 震える指先で玄関の引き戸に手をかけると、木が軋む低い音が響き、奥の方から、古びた家の中が呼吸するような気配が立ち上がった。

 古い木の匂いが鼻腔の奥にゆっくりと広がる。

 畳の匂い、埃の匂い、そして、どこか湿った獣のような匂い――何かが潜んでいるような、そんな匂いがわずかに混じっていた。

 その匂いに、喉の奥がざらつき、微かにむせそうになったが、冬馬は咳を飲み込んだ。靴を脱ぐと、足裏に畳の感触がじわりと染みてきた。

 冷たく、少し湿り気を帯びたその感触が、じんわりと体の奥にまで広がっていく。

 胸の奥が、重くなる。

 息をするたび、胸の中で何かがずしりと沈んでいくような感覚があった。

 薄暗い居間には、祖父が使っていたであろう座布団がひとつ、少しだけ傾いて置かれていた。

 手を伸ばせば、まだ誰かの体温が残っているのではないかと思わせるような、そんな気配が、空気の隙間に漂っていた。

 その奥――柱の影に隠れるように、小さな祠がぽつりと置かれていた。

 紙垂が結ばれた注連縄がゆるく垂れ、その足元には、白く乾いた骨のようなものがいくつか散らばっており、それが何の骨なのかは分からなかった。

 だが、視界の端でそれがわずかに揺れたような気がして、冬馬は思わず息を呑んだ。

 喉の奥で何かがせり上がる感覚があったが、声にはならなかった。

 背後から、誰かの気配がじっとこちらを見つめているような錯覚が、背中に張り付いて離れなかった。

 振り返ろうと思ったが、体は動かなかった。

 ただ、指先がじわりと冷たくなり、足元の畳が湿気を含んで少し沈む感触だけが、やけに鮮明に残っていた。

 ここは、祖父の家だったはずなのに。

 なのに、今、この空気の中で呼吸をしている冬馬は、まるで――誰かの巣に、無断で足を踏み入れてしまったような気がしてならなかった。

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