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第13話

Author: レモン精をフルボッコ
遅れて訪れた真実は、終わりのない豪雨のように雅人の世界を容赦なく打ちつけ、彼は溺れる者のように、果てしない悔恨だけを頼りに必死で浮かび上がろうとしていた。

雅人は、咲良が亡くなる前に暮らしていた部屋を探し当てた。

扉を開けた瞬間、馴染みのある甘やかな香りがふわりと漂う。かつて彼を深く酔わせたその匂いは、今では掌から零れ落ちる煙のように、そよ風とともに静かに消えていった。

咲良の部屋は狭く、一目で全体が見渡せた。小さな窓からは弱々しい光が差し込み、その窓辺には小さな鉢植えが元気に葉を伸ばし、この静まり返った空間にわずかな生命感を添えていた。

隅には古びた箱がひとつ。雅人はしゃがみ込み、ゆっくりと蓋を開けた。

中には二人の思い出が詰まっていた――大学時代のツーショット、彼が贈ったスカーフ、一緒に観た映画の半券。

そこには古い携帯電話も入っていた。

充電器を差し込むと画面が灯り、雅人は息を呑んだ。

待ち受けは二人の写真。咲良が雅人の背中に頬を寄せ、満面の笑みを浮かべている。雅人は振り返って彼女を見つめ、その瞳には限りない優しさが宿っていた。

雅人はアルバムを開いた。恋人同士になってからの、若く甘い日々が一枚一枚に刻まれている。

彼の白いシャツを着てキッチンで悪戯をする咲良、海辺を手をつないで歩く二人、咲良が月華を連れ病院を抜け出してハンバーガーを食べに行った日……

さらにその先には、ヴァルティア帝国での咲良の診療記録と請求書が続いていた。

厚く積み重なった書類の一枚一枚に、彼女の苦しみの軌跡が刻まれている。

抗がん剤治療の記録、増え続ける鎮痛剤と抗がん薬の投与量、そして高額な医療費の請求書――。

雅人の目に、働く咲良の写真が映る。安っぽいウェイトレスの制服を身にまとい、やつれた顔で、それでもカメラに向かって必死に口角を上げていた。

咲良の荷物は驚くほど少なかった。薄い古着が数枚と、ベッド脇に置かれた小さなノートパソコンだけ。

開いてみると、キーボードには使用の痕跡があるのに、中身は空だった。

雅人は技術者を呼び、データ復元を依頼する。その間、ずっと部屋に留まり、夜は咲良のシングルベッドで身を丸め、まるで過去に戻って咲良を抱いて眠っていた頃のように過ごした。

数日後、雅人の前に五百本を超える動画が復元された。

最も古い映像は、咲良がヴァ
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