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暮雪は歳月を明々と照らし

暮雪は歳月を明々と照らし

By:  レモン精をフルボッコCompleted
Language: Japanese
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佐伯雅人(さえき まさと)は、岡田咲良(おかだ さくら)が一時の気まぐれで囲っていた男性モデルだった。彼のしつこい執着から逃れるため、彼女は遠くヴァルティア帝国へと渡る。それから五年――彼は最先端テクノロジー業界で頭角を現し、資産は国内トップ10に名を連ねるまでに成長していた。一方の彼女は破産して零落し、帰国。診断結果は骨肉腫の末期で、余命はわずか一か月。そして二人が再び顔を合わせたのは――お見合いの席だった。

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Chapter 1

第1話

佐伯雅人(さえき まさと)は、岡田咲良(おかだ さくら)が気まぐれに付き合っていた男性モデルだった。そのしつこさから逃れるため、彼女は遠く離れたヴァルティア帝国へ渡った。

別れてから五年。雅人はテック業界の新星となり、資産は国内トップ10に入るまでになっていた。

一方、咲良は破産し、すっかり落ちぶれて帰国。さらに骨肉腫の末期と診断され、余命はわずか一か月だった。

二人の再会は――お見合いの席だった。

……

南浜市の街角にあるカフェ。

男の声は低く艶やかだったが、氷のように冷たかった。

「咲良さんの『サービス』は、一時間いくらだ?」

その嘲るような一言に、咲良はまるで氷の底に突き落とされたような感覚に襲われた。背筋に寒気が這い上がり、骨の隙間からせり上がる痛みは一層鋭くなっていく。彼女は無意識にに奥歯を噛み締め、激痛に耐えた。

雅人は咲良の正面に座っていた。完璧に仕立てられたチャコールグレーのスーツが、広い肩と引き締まった腰を包み込む。五年の歳月で、彼は青臭さがすっかり消え、全身から気品と冷ややかな鋭さが漂っていた。

かつて咲良だけを見つめ、愛情を注いだ深い瞳には、今や冷たい視線と嘲笑しか残っていない。

まさか、ただ依頼人の代理として臨時でお見合いを引き受けただけなのに、五年前に自ら捨てた元恋人と出くわすことになるとは――一体誰が想像できただろう。

咲良は胸の奥がきゅっと締め付けられ、今すぐ立ち去りたい衝動を必死に押し殺し、心の中で何度も言い聞かせた――

咲良と雅人はもう五年前に別れた。今日は依頼人のためにこのお見合いを壊しに来ただけ。これは仕事なのだ、と。

こわばった舌がようやく動き、彼女は営業スマイルを作って、乾いた張り詰めた声で口を開いた。「九条紅葉(くじょう もみじ)さんが二千円で、私に代理お見合いを依頼されました。雅人さんが紅葉さんのご両親に性格が合わないとおっしゃってくだされば、私の任務は完了です。どうか紅葉さんを困らせないでください」

「困らせる」という言葉を発した瞬間、咲良は自分は言葉を間違えたことに気づく。恐る恐る視線を上げると、案の定、雅人の表情は暗く沈んでいた。

かつて咲良は、この言葉で彼を深く傷つけたのだ。

五年前、岡田ホールディングスが経営破綻し、国内資産はすべて買収され、さらに咲良は骨肉腫を宣告された。

雅人を巻き込みたくない一心で、彼女は彼のプロポーズを冷たく拒んだ。

あの日は暴風雨だった。雅人は咲良の家の前に丸一日一夜立ち続け、高熱で意識を失っても、うわ言のように彼女の名を呼び続けた。

そして目覚めた彼に、咲良が投げつけた第一声は――「あなたは私が遊んだだけの男性モデルよ。もう飽きたの。これ以上つきまとわないで」

咲良のまぶたが震え、四肢に細かな刺痛が走る。押し寄せる痛みが波のように全身を呑み込んだ。

次の瞬間、雅人の冷たい嗤いが響く。「二千円か。かつて何千万も投げ打って男性モデルと遊んでた咲良さんが、そこまで落ちぶれるとはな」

「五年前のように、好き放題侮辱できると思っているのか?」その声は氷のように冷ややかだった。「値段を言え」

咲良の爪が掌に食い込み、雅人の言葉は鋭い刃のように胸を貫いた。「お断り――」

言い終えるより早く、雅人は「パシン」と鋭い音を立てて札束を机に叩きつけた。

あまりの勢いで、束ねられた紙幣が舞い散り、床いっぱいに広がる。

喉が詰まり、拒絶の言葉を飲み込んだ。視界が滲み、咲良は慌てて顔を伏せる。そのせいで、雅人の瞳に一瞬だけ浮かんだ後悔の色を見逃した。

今の雅人の仕草は、十年前の出会いのときと同じだった。

あの日、友人にそそのかされて男性モデルを呼んだ咲良は、ずらりと並んだ媚びた笑顔の男たちの中から、所在なげに立つ雅人を一目で選んだ。

冷ややかで距離を置いた空気をまとい、水晶のシャンデリアの光がその顔にだけ金色の粒を散らすように輝いて――咲良の視線は釘付けになった。

彼女は豪快にカードを差し出した。「二千万円、あなたを選ぶわ」

そして今、かつて雅人に与えた屈辱が、十年の時を経て彼女のプライドを打ち砕いた。

仕返しだと分かっていても、咲良は背中に走る痛みに耐え、唇を噛んで呻き声を押し殺し、震える指で一枚一枚金を拾い集めた。

五年間の治療で積み重なった莫大な医療費。咲良はプライドを捨てても、生きるために必死で金を稼いできた。この程度の屈辱など、取るに足らない。

雅人はそのやせ細った背中を見つめ、複雑な眼差しをして、眉をわずかにひそめた。

岡田家の破産が、かつて誇り高く傲然としていた咲良に、たった二千円のためにここまで耐えさせる――その事実が胸を締め付ける。それでも彼は動かなかった。

咲良が最後の一枚を拾い終えたとき、雅人の重い声が落ちた。「金を受け取った以上、それなりの『態度』を見せろ。ついて来い」

そう言って、雅人は揺れる感情を押し隠し、背を向けた。

その言葉は咲良の張り裂けそうな心に重く響き、痛みが全身を駆け巡った。

涙で視界が滲む中、彼の背に向かって、咲良は震える指で薬瓶を開け、錠剤を数粒飲み込み、目元を拭いながら机を支えに立ち上がった。二秒ほど息を整え、ふらつきながらも彼の後を追った。

ベンツの車内には、雅人の爽やかなシトラスの香りが満ちている。彼は無表情で前を見据え、エンジンをかけた。

咲良は後部座席の斜め後ろに座り、彼の視界に入らない位置からその横顔を名残惜しそうに見つめる。自然と記憶が甦った。

咲良の「遊び」の申し出は、雅人の強い拒絶で終わった。それでも咲良は、お嬢様としてのプライドを捨て、三か月かけて彼を追い続けた。

高価なブランド品を贈っても、彼はすべて突き返した。

街中の赤いバラを買い占めて告白しても、彼は冷ややかに受け流した。

病気の妹を転院させ、費用を全額負担しても、彼は借用書を書いて距離を取った。

だが、妹の手術のために額と膝を血まみれにして手に入れた数珠――そのとき初めて、この冷酷な男は心を開いた。

五年間の恋人時代、雅人の世界は咲良で満ちていた。

誕生日パーティーが両親の喧嘩で台無しになったとき、雅人は彼女を窒息しそうな家から連れ出し、希少な「青い涙」を見に行った。

胃腸炎で入院した彼女に、一日三食を手作りし、一口ずつ食べさせた。

一日二時間しか眠らず、三つの仕事を掛け持ちして、彼女が何気なく口にしたブランドの新作ブレスレットを贈った。

その頃の二人は、普通の恋人たちと同じように幸福だった。

町の端から端まで手をつなぎ、彼女の好きなケーキを買いに行った。

卒業旅行では海に沈む夕日を見に行き、空いっぱいの茜色が海面に金の粒のように散った瞬間、笑いながらキスをした。

二人だけの家で愛を重ね、幾度も咲良は雅人の腕の中で永遠を誓った。

だが、運命は無情だった。十年後、雅人はテック業界の新星として将来を嘱望され、咲良は破産し、命は残り一か月。

ブレーキ音が彼女の思考を断ち切った。車を降りると、そこには控えめながらも豪奢な内装のプライベートレストランがあった。

雅人が入口のスタッフに車のキーを放る。その仕草で、左手首に巻かれた数珠が目に入る。

咲良は思わず彼の腕を掴み、その手首を凝視した。

それは、かつて雅人の妹――佐伯月華(さえき つきか)のために彼女が手に入れた数珠だった。なぜ今、彼が身に着けているのか?

触れようとした瞬間、雅人の顔色が険しくなり、冷たく彼女の手を振り払った。偶然、その手の甲を叩く形になった。

「パシン」という音に、咲良ははっとして、掴んでいた手を離す。

雅人は赤くなった彼女の手の甲を見て、一瞬動きを止めた。自分の反応が過剰だったことに気づき、内心の苛立ちを押し殺しながら低く言った。「勝手に触るな」

咲良はさらに問いかけようとしたが、その前に澄んだ笑い声が響いた。「雅人、待ってたよ。会いたかった! 雅人は、私に会いたくなかった?」

咲良の体が一瞬で固まる。その少女の横顔は、自分とよく似ていた。彼女は雅人の腕に抱きつき、軽く揺らして甘え、輝く笑顔が咲良の胸を締め付けた。

雅人の紹介が聞こえる。「彼女は俺の恋人、望月芽衣(もちづき めい)だ」

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松坂 美枝
むちゃくちゃ悲しい話だった
2025-08-18 10:08:01
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第1話
佐伯雅人(さえき まさと)は、岡田咲良(おかだ さくら)が気まぐれに付き合っていた男性モデルだった。そのしつこさから逃れるため、彼女は遠く離れたヴァルティア帝国へ渡った。別れてから五年。雅人はテック業界の新星となり、資産は国内トップ10に入るまでになっていた。一方、咲良は破産し、すっかり落ちぶれて帰国。さらに骨肉腫の末期と診断され、余命はわずか一か月だった。二人の再会は――お見合いの席だった。……南浜市の街角にあるカフェ。男の声は低く艶やかだったが、氷のように冷たかった。「咲良さんの『サービス』は、一時間いくらだ?」その嘲るような一言に、咲良はまるで氷の底に突き落とされたような感覚に襲われた。背筋に寒気が這い上がり、骨の隙間からせり上がる痛みは一層鋭くなっていく。彼女は無意識にに奥歯を噛み締め、激痛に耐えた。雅人は咲良の正面に座っていた。完璧に仕立てられたチャコールグレーのスーツが、広い肩と引き締まった腰を包み込む。五年の歳月で、彼は青臭さがすっかり消え、全身から気品と冷ややかな鋭さが漂っていた。かつて咲良だけを見つめ、愛情を注いだ深い瞳には、今や冷たい視線と嘲笑しか残っていない。まさか、ただ依頼人の代理として臨時でお見合いを引き受けただけなのに、五年前に自ら捨てた元恋人と出くわすことになるとは――一体誰が想像できただろう。咲良は胸の奥がきゅっと締め付けられ、今すぐ立ち去りたい衝動を必死に押し殺し、心の中で何度も言い聞かせた――咲良と雅人はもう五年前に別れた。今日は依頼人のためにこのお見合いを壊しに来ただけ。これは仕事なのだ、と。こわばった舌がようやく動き、彼女は営業スマイルを作って、乾いた張り詰めた声で口を開いた。「九条紅葉(くじょう もみじ)さんが二千円で、私に代理お見合いを依頼されました。雅人さんが紅葉さんのご両親に性格が合わないとおっしゃってくだされば、私の任務は完了です。どうか紅葉さんを困らせないでください」「困らせる」という言葉を発した瞬間、咲良は自分は言葉を間違えたことに気づく。恐る恐る視線を上げると、案の定、雅人の表情は暗く沈んでいた。かつて咲良は、この言葉で彼を深く傷つけたのだ。五年前、岡田ホールディングスが経営破綻し、国内資産はすべて買収され、さらに咲良は骨肉腫を宣告された。
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第2話
個室は落ち着いた上品な空気に満ちていたが、咲良にはそれを味わう余裕はなかった。向かいの席では、雅人と望月芽衣(もちづき めい)が肩を並べて座っている。二人のやり取りを耳にして、咲良はようやく事情を理解した。雅人と芽衣は仲睦まじく、今日のお見合いは家族に結婚を急かされている友人の代理として雅人が来ただけで、そこに偶然咲良が鉢合わせしたのだ。料理が運ばれると、雅人は気を利かせて席を立ち、芽衣のために辛味を和らげる牛乳を取りに行った。「咲良さん、どうして召し上がらないんですか?」芽衣の柔らかな声が響く。「ここのチゲ鍋、なかなか予約が取れなくて……ずっと食べたかったんです。雅人が一か月も前から予約してくれて」咲良の胸は、大きな手で何度も握り潰されるように締めつけられた。それでも笑みを作り、「雅人さんは、芽衣さんに本当に優しいんですね」と口にする。そう言って箸を取り、一口運び、機械的に噛みしめた。咲良の胃はひどく弱く、少しでも辛い物を口にすれば激しく吐いてしまう。かつて雅人は、咲良の前で辛い料理を出すことなど絶対になかった。それなのに今、彼はチゲ鍋の店に芽衣を連れてきて、運ばれてくる料理はどれも唐辛子まみれだ。芽衣は幸せそのものの笑顔で言う。「私もそう思います。雅人は、私のお願いを断ったことがないんです」そのとき、雅人が牛乳を手に戻ってきた。咲良が箸を動かすのを目にし、瞳がわずかに細まる。思わず牛乳を差し出しかけたが、無表情のまま咀嚼し飲み込む咲良を見ると、足を止め、牛乳を芽衣に渡した。咲良の胃はすぐさまし、反応し燃えるような灼熱感が広がる。込み上げる吐き気を必死に押し殺し、席を立つ。「少しお手洗いに」視界が何度も暗転し、胃の不快感と全身を走る絶え間ない激痛で、歩くのもやっとだった。それでも何とか洗面台までたどり着き、両手で縁をつかみ、ついに堪えきれず吐き出す。胃の中はほとんど空で、出てくるのは血の混じった酸っぱい液体ばかり。蛇口をひねると、生理的にあふれた涙まで一緒に流れていった。数分後、咲良は痛み止めを数錠飲み、痙攣する腹を押さえながら個室の前まで戻った。しかし半開きの扉の向こうで見えたのは、雅人が穏やかな眼差しで芽衣の唇の端を拭ってやる姿だった。脳裏に、交際していた頃の雅人が甦る。咲良が食事を受け付けないと
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第3話
咲良の視線に気づいた雅人は、淡々と彼女を一瞥した。その冷たい眼差しは、周囲の嘲笑よりもはるかに冷ややかだった。咲良の心は、冷たい湖の底へ沈むように凍りついた。「これ、やめたほうがいいんじゃない?」芽衣が心配そうに咲良を見たが、その声は周囲の煽りにかき消された。誰かがビールジョッキに泡盛を注ぎ、咲良に差し出す。咲良は伏し目がちに揺れる液体を見つめた。雅人が彼女をここへ呼んだのは、辱めるため――代金も雅人が払っている。そう思うのは当然だった。咲良は薄く笑みを浮かべ、手を伸ばして泡盛を受け取り、小さい一口で飲んだ。辛みが喉を焼き、重く沈む胃へ落ちていき、脆い神経を燃やす。「咲良さん、そんなにゆっくり飲むってことは、俺たちのこと気に入らないんですか?」煽りが高まる中、雅人は煙草をもみ消し、わずかに苛立ちを見せると勢いよく立ち上がり、そのまま出て行こうとした。隣の芽衣はよろめき、前のめりになった拍子にうっかり雅人の腕を引っかけた。「ガシャ――」甲高い破裂音が静まり返った個室に響き渡る。芽衣は床に散らばった数珠を見つめ、血の気が引いた。誰かが息を呑み、小声でつぶやく。「あの数珠は雅人の妹の唯一の遺品で、すごく大事にしてたんだ」「聞いたことある。咲良が雅人と別れた翌日、医療チームを引き上げさせて、転院の救急車の中で妹さんが雅人の腕の中で亡くなったって」「じゃあ、咲良が間接的に雅人の妹を死なせたってことか?」その言葉が重い鉄槌のように咲良の胸を打ち、顔から血の気が失せ、痛みも感じられなくなった。――死んだ。月華は彼女が海外に発った翌日に亡くなったのだ。咲良の耳はキーンと鳴り、視界が揺らぐ。震える声でかろうじて言った。「私、医療チームを引き上げさせたりなんてしてない」その声に個室の空気は凍りつき、全員の視線が雅人に集まった。烈火の如く怒りが沸き上がった。雅人は空になった手首を見つめ、怒気を顔に走らせた。こめかみに青筋が浮かび、冷気が立ちのぼる。「ごめんなさい、わざとじゃないの……」芽衣がおどおどと彼の袖を引き、か細い声で沈黙を破った。雅人は目を閉じ、殺気を消してから冷静に目を開けた。眉を寄せて芽衣の手を取る。芽衣の人差し指には切れた数珠の糸で赤い跡がついていた。「痛くないか
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第4話
しかし、その言葉が口をでる前に、芽衣が病室のドアを軽くノックして入ってきた。「咲良さん、これ……私と雅人の婚約パーティーの招待状です。ぜひいらしてくださいね」芽衣の笑顔は小さな太陽のように眩しく、炎のように熱かった。その輝きが咲良の目を刺した。「婚約」という言葉が胸の奥に重く落ち、酒で鈍っていた頭が一気に冷えた。咲良は招待状を受け取り、心から祝うかのように微笑んだ。「おめでとうございます」雅人は黒い瞳で咲良をしばらく見つめ、淡々と告げた。「車で待っててくれ」芽衣は咲良を一瞥し、軽くうなずいて病室を後にした。芽衣が去ると、雅人が問いかける。「さっき、何を言おうとしてた?」咲良は招待状を見つめ、指先を自然と強く握り込む。決意したように静かな声で答えた。「別に。ただ、昔の旧友たちと飲んでて、ちょっと胃から出血しちゃっただけ」雅人は眉をひそめ、理解できない表情で言う。「お前、いつから飲みの席で誰の誘いも断らない人間になったんだ? 前はあんなにプライドが高かったじゃないか」咲良の表情は静かなままだったが、胸の奥はひどく痛んでいた。――雅人は知らないはずがない。彼の立場なら、ほんの些細な態度で多くの人が動くことを。咲良は口にせず、真っ直ぐ彼の揺れる瞳を見据えた。「雅人社長がそんなに私を気にかけてくれるなんて……まさか、またヨリを戻したいってことじゃないよね?」その言葉で雅人の顔色は険しくなり、鋭い視線を突き刺した。「そんなに、私に捨てられてプライドを踏みにじられた感覚が好きなの?」咲良は震える手を必死に押さえ、唇の端に挑発的な笑みを浮かべる。「残念だけど、もう飽きたの。あなたには興味ない」雅人は咲良の手首を乱暴に掴み、骨の軋む音がした。目は真っ赤に染まり、低く吐き捨てる。「お前は本当に、昔から卑怯なやつだ!」そのまま手を放し、背を向けて病室を出て行った。手首の激痛に顔を歪める咲良。「雅人社長、治療費くらい払ってくれてもいいんじゃないの?」返ってきたのは、冷酷で無情なドアの閉まる音だけだった。雅人の気配が完全に消えたのを確かめて、咲良は噛み締めていた奥歯を緩め、力なく息を吐いた。指先がさっき彼に掴まれた手首を名残惜しそうに撫でる。まだ彼の手の温もりが残っている気がした。だが、骨の隙間から広がる灼け
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第5話
咲良は素早く数珠を墓に埋め終えた。喉の奥にこみ上げる苦味を押し込み、乾いた目を瞬かせて口を開く。「もちろん……私の新しい彼氏のことよ」雅人の瞳にわずかにあった希望は砕け散り、胸の奥で渦巻く感情を押し殺すように、冷えた声が落ちる。「ここに何しに来た」潮の香りを含む冷たい海風が二人の間を音もなく通り過ぎる。咲良は足元をふらつかせ、地面に倒れ、腰を下ろした。声は静かだが、刃のように残酷だった。「ただ……月華に教えに来ただけ。あの子は運が悪かった。早く死んでしまって……今ではお兄さんは、人に媚びるような男性モデルじゃなく、途方もない大金持ちになっているのに……その幸せを味わう運命じゃなかったってね」雅人のこめかみに青筋が浮かび、瞳に怒りが噴き上がる。彼は大股で詰め寄り、突然咲良の首を掴み上げた。「どういうつもりだ!咲良、お前に心はないのか!月華は死ぬ間際まで、お前の名前を呼んでいたんだぞ!」呼吸を奪われ、肺に血が溜まる感覚。舌先に鉄のような生臭さが広がる。顔色は蒼白になり、本能的に雅人の袖を掴む。怒りに燃える瞳を見上げ、唇に挑発的な笑みを浮かべながら、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。「かわいそう……聞いたわ……呼吸不全で……死んだんだったね……」呼吸困難で充血した咲良の目に映る雅人の顔は徐々に歪み、霞んでいく。どれほど時間が経ったか――雅人は唐突に手を離し、肩を荒々しく押し飛ばした。不意を突かれた咲良は足を滑らせ、身体が宙に浮く。思わず悲鳴が漏れた。落下直前、風にかき消されそうな雅人の声が届く。「死ぬべきなのは、お前だ」海面に叩きつけられた瞬間、骨が砕けるような音が響き、冷たい海水が鼻腔へ押し寄せる。内臓も骨もすべて握り潰されたような激痛。頭上の光は遠ざかり、咲良はもがくことをやめ、意識が静かに遠のいていく。――これでいい。もう病の苦しみに耐える必要もない。雅人には永遠に私を憎んでもらえばいい……脳裏に浮かぶのは、かつて恋人だった頃の雅人の真っ直ぐな眼差し。「お前と月華がいない世界なんて、俺は生きていく意味がない」その言葉が鮮やかに蘇り、咲良ははっと意識を取り戻す。口から泡がこぼれた。――だめだ!こんなの私が望んだ終わり方じゃない!雅人の目の前で死ぬなんて……そんなことをしたら、彼は一生後悔する。全身の激痛に
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第6話
薬を受け取って家に戻ると、窓辺に置かれた小さくとも力強く伸びる草が目に入り、咲良は羨望の色を宿す。鉢に水をやり、そのまま腰を下ろす。生命力あふれる緑を見つめると、不思議と身体の痛みが和らいでいくように感じた。その後数日間、狭く薄暗い借家で無言のまま寄り添ってくれたのは、この鉢植えだけだった。大量の薬を飲む咲良にとって、半瓶の鎮痛剤はすぐに底をつき、残りはただ耐えるしかなかった。少しずつ過去の持ち物を整理し、ノートパソコンを開いて五年間撮りためた雅人へのビデオメッセージを見返す。かつて雅人は、彼女が生き続ける唯一の支えだった。いつもの癖でカメラを起動し、語りかけるように一本だけ録画した後――五百本以上あったビデオをすべて削除した。もう静かに去るつもりだ。ならば、雅人の目に触れることなど永遠にあってはならない。そうして力を使い果たした咲良は、寝返りすら打てなくなりベッドに横たわり、一日一日を数えた。十年の約束の日が近づくのを、そして命の残り時間を。最後の日。薄いカーテン越しに差し込む柔らかな陽光で咲良は目覚めた。一通のメッセージが届く。【十年前にお預けになったお手紙が、指定の店舗に到着しました。本日中に朱雀町164号店にてお受け取りください】十年前、雅人と通りかかった店で二人は十年後の相手に宛てた手紙を送った。五年前、渡航前にもう一通、雅人宛ての手紙も出した。すべての真実を封じ込めたものだ。当時は病気をすぐに治して帰れると信じていたが、病状は悪化するばかり――今、あの手紙を取り戻さねばならない。顔色はひどく、起き上がることも危うかったが身支度を整え、鏡の前に立った。蒼白でやつれた顔に久しぶりに化粧を施し、鏡の中の自分にわずかな血色が差すのを見て、ようやく薄い笑みを浮かべた。長い時間をかけて朱雀大路164号にたどり着いた。そこは書店だった。扉を開け受け取り番号を告げると、店員が笑顔で封筒を差し出す。「十年前、お客様とご一緒の方が送られたお二人分のお手紙です」封筒の名前を見て咲良は首をかしげる。「二通だけですか?」「はい、そうです」「五年前にもう一通送ったんですけど……遅れて届くことは……?」スタッフはシステムを確認し、申し訳なさそうに頭を下げる。「申し訳ございません。五年前に発送された記録
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第7話
「早く!呼吸が止まってる!心肺蘇生を!」救急車の中で、医療スタッフが緊迫した声を張り上げる。胸骨圧迫のたびに肋骨は薄い紙のように砕け、咲良の口からは鮮血があふれた。胸に抱えていた恋文がひらりと床に落ち、真紅の血が便箋を染めていく。そのとき、医師の無念そうな声が響く。「患者、生命反応なし。救命処置の効果なしと判断。死亡時刻――2025年6月27日、21時ちょうど」焦点の合わない咲良の瞳は、最後の一文を見つめていた。「十年後も、咲良は雅人にとって唯一の愛しい人だ」若い看護師がその手紙を拾い上げ、そっと彼女の胸元に戻す。そして哀れみを帯びたため息をつき、白い滅菌シーツでその顔を覆った。遠ざかっていく救急車のサイレンが、雅人を夢から引き戻す。瞬きをし、強く寄せられていた眉間の皺がゆっくりとほどける。表情には戸惑いが浮かぶ。目覚めた瞬間、さっきまで見ていた短い夢の内容は霧のように消えた。だが、胸の奥の鈍い痛みだけは残る。それは灼熱の炎のように神経を焼き、こめかみを鋭く突き刺す痛みは、まるで鋼の針が脳を貫くかのようだった。21時ちょうど。携帯のアラームが鳴る。痛みがすっと引き、同時に心の奥のわずかな希望も消えた。苦笑がこぼれる。――十年前の約束を覚えているのは、自分だけか。雅人は煙草に火をつける。先端が朱く光り、闇に沈むその姿は墨を流したように濃く、その震える朱色だけが感情の揺れを表していた。その夜、雅人はテラスで一晩中待ち続けた。帰る前、店の外で待機していたスタッフに「昨夜、俺を訪ねてきた者はいたか」と尋ねたが、返ってきたのは否定の言葉だった。最後の望みは砕け、もはや引き留める理由もなく、そのままバーを後にした。家に戻り、ベッドに身を投げた。空っぽの部屋は、耳が痛くなるほど静かだ。その瞬間、まるで世界中から見捨てられたような孤独が襲う。目を閉じると、頭の中に咲良と過ごした日々が次々と蘇った。「雅人、あんたの飼ってる野良猫、私の新しいバッグを引っかいちゃったわよ!」冷たく言いながらも、しゃがみ込んで猫を撫でる手は止まらなかった咲良。校庭の百年榕樹の下で一緒に撮った卒業写真。シャッターが切られる瞬間、笑顔で背伸びし、彼の頬にそっとキスをした咲良。月華と一緒に病院を抜け出し、温泉に行った咲良。見つか
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第8話
雅人は、拾い上げた数珠を固く握りしめながら、胸の奥の空洞がさらに広がっていくのを感じていた。雨の中、一歩一歩踏みしめながら瑞雲寺へ向かう道すがら、頭の中には疑問が渦巻いていた。――咲良はもう自分との関係など気にしていないはずなのに、なぜあの数珠を拾ったのか。――なぜ、あんなにも悲しそうな顔をしていたのか。――咲良の胃の病気はどうなったのか。そんな思いを抱えながら雅人は方丈のもとを訪れ、残り十七粒の数珠を揃えたいと申し出た。方丈は清らかな目で雅人の魂の奥を見透かすように話した。「咲良さんは先日ここにいらっしゃいました。数珠を求められ、私にひとつ質問をなさいました」雅人は驚いて顔を上げる。咲良さんはこう尋ねられました。「かつてこの数珠を求めたとき、私の心が濁っていたせいで、月華が早く亡くなったのではないか」と。雅人の心臓が震える。――咲良は自分を責めていたのか。だが月華の死は咲良のせいではない。むしろ彼女は月華の命を五年も延ばしてくれたのだ。方丈は悲しそうに首を振り、「彼女はすべての罪を自分一人で背負っています。月華さんの来世が安らかであるよう心から願っていました」「山の麓から一歩ごとに額づきながら、一粒の数珠を求め、その最も純粋な願いを祈っておられました」雅人は呆然とし、握りしめた手の力が自然と抜ける。あの日、月華の墓前で咲良が言った言葉を思い返し、心の奥に迷いが生じる。――なぜ彼女は月華の死をそこまで自分のせいだと信じ、わざわざ自分を怒らせる言葉を口にしたのか。激しい雨が汚れを洗い流すように降り、隠されていた真実が現れ始める。雅人は数珠を握りしめ瑞雲寺を後にし、月華の墓へ向かう。墓碑の脇には、雨に洗われて姿を現した数珠があった。――咲良があの日、何かをここに埋めた気がするが、その時は彼女の言葉に激昂し忘れていた。数珠を拾い上げ泥を拭う。見覚えのある文様が浮かび、胸に様々な思いが渦巻く。全身が雨に濡れ断崖の縁に立つ。あの日、咲良の言葉に逆上し死ねと罵り突き落とした記憶が鋭く胸を抉る。その時、携帯に一通のメッセージが届いた。【十年前に咲良さんとお預けになったお手紙が、指定店舗に到着しました。本日中に朱雀町164号店にてお受け取りください】雅人はすぐに書店へ電話をかける。「すみ
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第9話
「――ブーン……」雅人の頭の中で轟音が鳴り響き、視界が白く霞む。診断書を握りしめ、必死に目を見開いて文字を追うが、単語は読めても意味が頭に入らない。ふと、カフェの店員の言葉が蘇る。「彼女、床にしゃがみこんで長い間泣いていました。「私も病気なんです」って……」「あまり体調が良くなさそうでした」あの日の咲良の姿も思い出す。隅で震え、血を吐き、震える手で袖を掴み、スタッフと勘違いしていた。「すみません……病気で……血を吐いてしまって……救急車を呼んで……」あれはただの胃の病気だと咲良は言っていたのに。雅人は突然立ち上がり、テーブルを倒しそうになる。全身が震え、恐怖に押し潰されそうだった。携帯を掴み咲良の番号を押すが、冷たい無音が繰り返されるだけだった。雅人は書店を飛び出し車を走らせ、病院へ向かった。診断書を手に、咲良の主治医を探し出し尋ねる。「これは五年前の報告書です。彼女はもう治っているのですか?」医師は雅人を静かに見つめ、「あなたは咲良さんの恋人ですか?」と尋ねた。「そうだ。俺は彼女の恋人だ」かすかな希望を抱き医師を見つめる。だが返ってきたのは同情の声だった。「咲良さんは末期の骨肉腫を患い、救急車で搬送中に容態が急変し、6月27日午後9時に亡くなりました」――雅人の耳に何かが崩れ落ちる音が響く。心臓が激しく鼓動を打った。震える唇で無理に笑みをつくり、「そんなはずはない。数日前に会ったばかりだ。生きている人間が突然死ぬわけがない……」医師の袖を掴み、「間違いじゃないですか?咲良は30歳なんですよ!」医師は残念そうに首を振る。「ご遺体は霊安室に安置されています。ご案内します」雅人は信じられず、冗談だと思いたかった。医師の後について霊安室に入る。白い滅菌布の下に手を伸ばすが、なかなか布をめくれない。「雅人さん……ご愁傷様です」医師は肩に手を置き、その場を離れた。奥歯を噛みしめ長い沈黙の後、「咲良、こんな冗談は面白くない。もう怒ってないから……目を開けてくれ」返ってくるのは自分の荒い呼吸音だけ。背を向けようとしたその時、滅菌布がわずかにずれた。咲良の青白い顔がのぞいた。雅人の全身の血が凍り、力が抜けて床に膝をつく。震える指で頬に触れ、「咲良……もう許した。だから目を
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第10話
雅人には、もう何も聞こえなかった。咲良は十年前の約束を、決して忘れてはいなかった。命の最後の瞬間まで、雅人のもとへ向かって走り続けていたのだ。雅人は、もう咲良を責めてはいなかった。やり直す覚悟もできていた。ずっと、咲良を待っていた。だが――咲良は、永遠に道の途中で倒れてしまった。立て続けの衝撃に、張りつめていた神経がぷつりと切れ、全身の筋肉は麻痺したように硬直し、視界がぼやける。顔は引きつり、心臓は炎に焼かれるように熱く、口を開きかけたその瞬間――雅人は激しく血を吐いた。膝から力が抜け、地面に崩れ落ち、そのまま意識を失った。――雅人は、長い夢を見た。それは、二人が共に過ごした日々の夢。バーの個室。咲良は真紅のドレスをまとい、部屋の中央のソファに腰掛けていた。耳元で揺れる一房の髪までもが挑発的で、その気怠げな視線がこちらを射抜いた瞬間、雅人は息を詰めた。シャンデリアの黄金色の光が降り注ぎ、その瞳の奥に、まるで花火のような輝きが宿る。心臓が一拍、時が止まった。場面はふっと変わり、病院の廊下の奥から咲良が駆けてくる。額の傷はまだかさぶたも乾かず、髪は乱れ、彼女は誇らしげに数珠を差し出した。「ご利益あるんだって!月華の健康と手術の成功をお願いしてきたの」だが、雅人は知っていた。本当の月華の守り神は、咲良自身だったことを。あの輝く瞳を見たとき、自分が長年装ってきた冷淡さは、もう保てなくなっていた。「咲良、俺……お前が好きだ。俺の彼女になってくれるか?」咲良は嬉しさのあまり、勢いよく雅人の胸に飛び込み、世界中に知らせたいとでもいうように、大きく頷いた。五年間の甘く幸せな日々が、次々と脳裏に浮かんでは遠ざかっていく。初めて手をつないだ日、初めてのキス、初めての夜――未来を約束し、ありふれた恋人たちの全てを共にした。あの時間は、澄んだ蜂蜜のように甘く、雅人にも月華にも、かつてなかった幸福をもたらしてくれた。――再び場面が変わる。無情な死の宣告。白い滅菌布で覆われた咲良の、諦めきれない瞳。雅人は駆け寄り、彼女を呼び覚まそうとする。咲良はまだ若く、そこに横たわっているはずがない。病室のベッドは押し出され、どんどん遠ざかっていく。足は鉛のように重く、一歩も動けない。「咲良!」――喉が裂けるほど叫んでい
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