Masuk保育園の門をくぐると、園庭に夕日が長い影を引いていた。砂場の脇にあるブランコが風に揺れて、誰も乗っていない座面がきいきいと小さな音を立てている。お迎えラッシュの終わり際で、園庭には数人の子どもが残っているだけだった。
教室の入口で保育士さんに「お疲れ様です」と声をかけると、部屋の奥に息子の姿が見えた。他の子が園庭で走り回っているなか、一人で絵本棚の前にしゃがみ込んで、大判の絵本を膝に乗せてページをめくっている。
「りっくん、ママ来たよ〜」
保育士さんが声をかけると、律希がぱっと顔を上げた。絵本を棚に戻して立ち上がり、とことこと走ってくる。
「ママ、おかえり」
「ただいま。ごめんね、ぎりぎりだった」
しゃがんで律希を抱きしめると、汗ばんだ小さな身体がぎゅっとしがみついてきた。日焼け止めと砂と、子ども特有の甘い汗の匂いが鼻をくすぐる。
律希は五歳になった。
先生に、よく似ている。私が見るたびにどきりとするほど、面影が重なる瞬間がある。額の生え際の形、眉の角度、少し垂れ気味の目尻。表情はおっとりしていて先生の無愛想さとは似ても似つかないのに、何かに集中しているときだけ口元がきゅっと引き結ばれて、あの人と同じ顔になる。さっき絵本を読んでいたときの横顔が、まさにそうだった。
「今日はなんの絵本読んでたの?」
手を繋いで園を出ながら聞くと、律希が空いているほうの手を振って答えた。
「くまさんのやつ。くまさんがお手紙を書くの。でもね、届かないの。届けてくれる人が寝ちゃったから」
「かたつむりくんね」
「そう! ママ知ってるの?」
「有名なお話だよ。ママも子どものとき読んだ」
律希が「ふうん」と言って、夕暮れの商店街をきょろきょろと見回した。八月の夕方は日が長くて、空はまだ明るい。商店街のアーケードに提灯が下がっていて、お盆の飾りつけが賑やかだった。八百屋の前を通りかかると、律希が店先のスイカをじっと見つめて足を止めた。
「食べたい?」
「……うん」
「ちょっとだけね」
カットスイカのパックを一つ買った。三百八十円。今月の食費のやりくりを頭の中で計算しながら、レジ袋を受け取る。律希がレジ袋の中を覗き込んで、赤い果肉を確認して満足そうに頷いた。
アパートまでの帰り道は、保育園から歩いて十五分ほどだった。古い住宅街の坂道を登り、突き当たりを左に曲がると、二階建てのアパートが見えてくる。築三十年の木造アパートで、外壁の塗装が剥がれかけていて、共用廊下の蛍光灯が一本切れたまま放置されている。家賃は駅から少し離れている分だけ安くて、間取りは2DK。五歳の子どもと二人で暮らすには十分な広さだった。
部屋に入ると、むわっとした熱気が顔を包んだ。朝から窓を閉め切っていたから、室内に熱がこもっている。エアコンのスイッチを入れて、数分間だけ窓を開けて風を通してからすぐに閉めた。律希が靴を脱いでリビングに駆け込んでいき、テーブルの上に置いてあった絵本を手に取る。朝、読みかけだった一冊の続きだった。
「りっくん、手洗いうがい」
「あとで」
「今。先に」
律希がぶうと頬を膨らませて、しぶしぶ洗面所に向かった。頬を膨らませる仕草だけは私に似ていると思う。先生に向かって「しつこいとは失礼だし」と頬を膨らませていた十七歳の自分と、息子の姿が重なって、少しだけ笑ってしまった。
手を洗い終えた律希をテーブルに座らせて、カットスイカを小皿に盛る。律希がスイカにかぶりつくのを見ながら、自分は冷蔵庫から麦茶を出してグラスに注いだ。一口飲んで、ようやく今日一日の緊張が抜けていく。
夕飯の支度を始めた。冷蔵庫にある材料を確認する。豚こま、玉ねぎ、人参、卵。昨日スーパーの閉店間際に半額で買った豚こまがまだ残っているから、今日は豚こまの生姜焼きにしよう。人参は千切りにしてサラダにする。味噌汁は――玉ねぎと豆腐。シングルマザーの食卓は毎日が知恵比べで、月末になると冷蔵庫の残り物だけで一週間を乗り切る技術が磨かれていった。
フライパンに油を引いて、生姜をすりおろす。じゅうっと音を立てて豚こまを炒め始めると、律希がリビングから顔を出した。
「ママ、パパのお手紙は?」
「ん?」
「今日は読まないの?」
「ああ……今日はまだ持って帰ってきてない。来週届くよ」
律希が「そっかあ」と言って、リビングに戻っていった。
パパのお手紙。律希はそう呼んでいる。私が会社から持ち帰る手書き原稿のことだ。正確にいえば、先生――深瀬律の手書き原稿の校正コピーで、もちろん律希に見せるためのものではない。家で校正作業をしているときに律希が隣に座ってきて、原稿の文字を覗き込むようになったのが始まりだった。
万年筆の筆跡は独特だ。印刷された活字とは違う。律希はその文字を眺めるのが好きで、読めない漢字ばかりなのに飽きずにじっと見つめていた。あるとき律希が「これ、誰が書いたの?」と聞いてきて、私はほんの少し迷ってから「パパだよ」と答えた。
先生は律希の父親だ。ただ、先生はそのことを知らない。
律希にはパパの顔を見せていなかった。代わりに、一枚の写真を見せていた。先生の書斎で撮った写真だ。高校生の頃、先生が原稿を書いている手元をこっそり携帯で撮った一枚。フレームに収まっているのは座卓の上に置かれた原稿用紙と、万年筆を握った大きな手だけだった。和服の袖が少しだけ映り込んでいて、中指のペンだこが光に照らされてはっきりと見えている。先生の顔は映っていない。
律希はその写真をときどき眺めた。「パパの手、おっきいね」と言って、自分の手のひらをスマホの画面に重ねてみたりした。「パパはなんでこういうペンで書くの?」と聞かれたときは、「パパはこのペンが好きなんだよ」と答えた。それ以上は聞いてこなかった。パパがどこにいるのか、なんで一緒に暮らしていないのか、律希は一度も聞いてこなかった。聞かないのは、聞いてはいけないことだと五歳なりに察しているのか、それとも単純に気にしていないだけなのか、私にはわからなかった。
生姜焼きが焼き上がり、千切り人参のサラダと味噌汁を並べて、律希を呼んだ。テーブルにつくと、律希が「いただきます」と手を合わせてから、箸を握った。箸の持ち方はまだおぼつかなくて、ときどき人参が箸の間から滑り落ちる。
「ママ、今日保育園で絵かいた」
「なに描いたの?」
「おうち。おっきいおうちで、えんがわがあるの」
箸が止まりかけた。縁側、と律希が言った。私はこの子に縁側の話をしたことがなかった。先生の家のことも、平屋のことも、一度も話していない。
「えんがわって知ってるの?」
「絵本にのってた。おじいちゃんのおうちにあるやつ。ママ、えんがわ好き?」
「……うん、好きだよ」
「じゃあ絵のおうちに住もう。りっくんが大きくなったら建てるから」
「楽しみにしてる」
笑って答えた。胸の奥がじんわりと温かくなって、同時にほんの少しだけ痛んだ。縁側のある家。私にとってそれは一つしかない。先生の平屋。鍵のかかっていない窓。万年筆の音。大きな背中。全部、もうどこにもない場所の記憶だった。
◇◇◇
妊娠がわかったのは、十九歳の秋だった。
大学一年の前期が終わり、夏休みが過ぎて後期が始まった頃、身体の異変に気づいた。生理が二ヶ月来ていなかった。薬局で検査薬を買い、家で調べた。二本の線がくっきりと浮かび上がったとき、膝の力が抜けて便座に座り込んだ。
あの夏の日、畳の上で何度も求められたときにできた。検査薬の二本線を見つめながら、不思議なほど冷静だった。怖くないと言えば嘘になるが、お腹の中に先生の子どもがいるという事実は、恐怖よりも先に温かさとして私の中に広がった。
――この子を産みたい。
迷いはなかった。
先生はもういない。連絡も取れない。
それでも先生が私にくれた唯一のもので、一時でも愛し合った証だった。この子を手放す選択肢は、私には最初からなかった。
父に報告したときは無言だった。テーブルの向こう側で腕を組んだまま、長い間黙っていた。義母は、十九歳の私が妊娠したという事実に、自分がどういう顔をしていいのかわからないようだった。
父がようやく口を開いたとき、最初に出た言葉は「相手は誰だ」だった。
「言えません」
「言えない相手なのか」
「言えない相手です」
父の顔がさらに険しくなった。望まない妊娠をした十九歳の娘が相手の名前を言わないとなれば、父の想像はろくでもない方向に向かっただろう。実際、父は「おろせ」と言った。一度だけ、低い声ではっきりと。
「産みます」
私も一度だけ、はっきりと言い返した。
それから何日か、父とは口をきかなかった。義母が間に入って、何度か話し合いの場が設けられた。大学はどうするのか。生活費はどうするのか。子どもを育てる覚悟があるのか。全部の質問に答えた。一年間休学する。出産して、復学する。子育ては助けてほしい。お金は必ず返す。覚悟なら、とっくにできている。
父は最終的に折れた。折れたというよりは、私の意思が変わらないことを認めたのだろう。義母も「わかった」と言ってくれた。血の繋がらない義理の娘の妊娠に、まだ若い義母がどれだけ戸惑っていたかは想像に難くない。それでも「わかった」と言ってくれた義母には、今も感謝している。
律希が生まれたのは春だった。三月の終わり、桜が咲き始める頃に、小さな塊のような赤ん坊が私の胸の上に置かれた。目を閉じて、しわくちゃの顔をして、か細い声で泣いている。この子の顔が先生に似ているのかどうか、新生児の段階ではまだわからなかった。ただ、私の胸の上で泣き止んだ瞬間に握りしめた小さな拳が、愛おしくて涙が止まらなかった。
名前は律希にした。先生から律の一文字を、もらった。先生は最低な大人で、私の前から消えた人だが、私がいちばん好きだった人で、この子にいちばん近い血を分けた人でもある。
復学してからの二年間は、寝不足と忙しさで記憶が断片的にしか残っていない。親に頼った金額は卒業までに二百万を超えていて、就職してから毎月少しずつ返済している。完済まではまだ数年かかる計算だが、月々の返済額を払っても律希と二人で暮らしていける収入があることが、今の私の誇りだった。
就職先に、先生の作品を出版している出版社を選んだ。先生の本を世に出している場所で働きたいと思ったから。先生に会いたいからではない。先生の言葉が活字になって読者に届くまでの過程に、私も関わりたかった。先生の小説は、十二歳の夏から六年間、背中越しに聞いていた万年筆の音の結晶だ。あの音が原稿用紙の上で文字になり、校正を経て印刷され、書店の棚に並ぶ。その流れの中に自分が純粋に携わりたいと思った。
夢は叶った。
ただ同時に残酷な現実も目の当たりにした。先生はもう他の誰かのものになっていたから。あの冬の日に見た女性と温かい家庭を築いている。
先生は私がここにいることを知らないだろう。
しんどい日もあるが、それ以上に毎日が幸せだ。
先生への恋は十八歳の夏に終わったが、先生がくれた宝物はこの手の中でちゃんと育っている。律希と一緒に笑顔で過ごせるだけで、私は満たされている。
◇◇◇
夕飯を食べ終えて、律希と二人で風呂に入った。律希の頭を洗ってやりながら、今日保育園であったことを聞く。砂場で大きな山を作ったこと。給食のカレーがおかわりできたこと。五歳児の報告は脈絡がなくて、話があちこちに飛ぶのだが、聞いているだけで面白かった。
風呂から上がって、律希の髪をドライヤーで乾かす。寝る前の絵本タイムは二冊まで、という約束になっていた。律希が本棚から選んできた二冊を受け取り、布団の上に並んで横になる。一冊目を読み始めると、律希が私の腕の中に潜り込んできて、絵本の絵を指差しながら聞いていた。二冊目の半ばで、律希の瞼が重くなってきた。声が小さくなり、質問が途切れ、やがて規則正しい寝息に変わった。
絵本を閉じて、枕元に置いた。律希の寝顔を見下ろす。眠ると余計に先生に似て見えた。閉じた瞼、長い睫毛、少し開いた唇の形。この子が大人になったら、先生みたいな顔立ちになるのだろうか。先生みたいに無愛想になったら困るなと思って、小さく笑った。
律希の布団を直して、そっと立ち上がった。リビングに戻り、テーブルの上に仕事道具を広げる。今日持ち帰った校正紙に目を通し、赤ペンで修正を入れていく。夜の静かな部屋で、赤ペンが紙の上を走る音だけが響いた。
先生の手書き原稿ではない、別の作家さんの活字原稿だった。それでも校正作業をしていると、先生の万年筆の筆跡が脳裏をよぎることがある。太く力強い横画、やや癖のある「の」の丸み、文末の句点を打つときの独特な筆圧。先生の文字は読むものではなく聴くものだと、私は昔から思っていた。ペン先が紙に触れる音が、そのまま文章の旋律になっているようで。
赤ペンを置いて、時計を見た。午後十一時を過ぎている。明日も朝から出社で、保育園のお迎えまでにまた全力疾走の一日が始まる。寝なければ。校正紙をファイルに挟み、赤ペンをキャップで閉じて、リビングの電気を消した。
律希の隣に潜り込むと、寝返りを打った律希が私の腕にしがみついてきた。小さな手が、ぎゅっと私の二の腕を握っている。温かくて、柔らかくて、確かな重みがある。
先生の背中に寄りかかっていたあの頃と、同じ温もりだった。あの頃は私が誰かに寄りかかる側だったのに、今は寄りかかられる側になっている。不思議なものだなと思いながら、目を閉じた。律希の寝息が耳元で規則正しく響いて、意識がゆっくりと溶けていった。
明日もきっと、全力疾走だ。
八月の終わり、先生から原稿が届いた。 連載の原稿ではなく、あの未発表作品の、完成稿だった。 茶封筒は分厚く、ずっしりと重かった。二百枚以上。先生が私をモデルに書いた長編小説の、書き直された完全版。五月に冒頭の五十枚を受け取ってから三ヶ月。先生は連載と並行して、この原稿を書き続けていたのだ。 その日の夜、律希を寝かしつけてから、アパートの小さなテーブルの上に原稿を広げた。麦茶を一杯だけ用意して、赤ペンをペン立てから一本取り出した。 最後のページを読み終えたとき、原稿の束のあとに一枚の紙があった。原稿用紙ではなく、便箋のような白い紙。先生の万年筆で一行だけ書かれていた。 ――この物語を、六年遅れの告白とともに。 赤ペンを握る手に力をいれる。 便箋の「この物語を、六年遅れの告白とともに」の横に、赤い文字を書いた。『却下。あとがきに私情を挟まないでください』 赤ペンを持った手が、止まった。 「却下」の文字の下に、余白があった。先生の一行と、私の一行の間に、白い空間が広がっている。 その余白に、小さく書き足した。赤ペンの先を紙に押し当てて、震える指で。 ――でも、受け取りました。 赤ペンのキャップを閉めた。便箋をじっと見つめた。先生の黒い万年筆の文字と、私の赤い文字が並んでいる。二つの筆跡が一枚の紙の上で向き合っていた。 十分ほどそうしていて、ようやく便箋を原稿の一番上に戻した。茶封筒に原稿を収めて、封を閉じた。 翌日、先生のマンションに原稿を届けた。玄関で茶封筒を差し出した。「全部読みました。最後の一枚にだけ、赤を入れてあります」 先生が茶封筒を受け取り、中を確認しようとする先生を置いて、私は踵を返した。「紗那」「感想は言いません。読んでください、私の赤字を」 振り返らずに玄関を出た。エレベーターの中で、壁に背中を預けた。 目を閉じた。心臓が早鐘を打っていた。赤ペンで書いた文字が、目の裏にちらついていた。 ◇◇◇ 一年後――。 書斎の障子を開けると、パソコンの画面を睨みつけている先生の背中が見えた。 和服ではなく、紺色のシャツ姿の背中だった。肩幅が広くて、背骨の線が布地の上からうっすらと浮き出ている。座卓の上に万年筆は置かれておらず、代わりにノートパソコンが一台、開いたまま鎮座していた。先生の指がキーボードの上で
六月になった。 先生のマンションに通う頻度が、少しずつ増えていた。月に二、三度だったのが、週に一度になり、律希が「おじちゃんの家に行く日?」と保育園の朝に聞いてくるようになった。 先生は律希に何かを強いることをしなかった。一緒に遊ぼうとも、こっちに来いとも言わない。先生はいつも通り仕事部屋のデスクに向かっていて、律希がその周りをうろうろするのを黙認しているだけだった。律希の方が勝手に先生のそばに寄っていく。万年筆に惹かれるように、先生のデスクの横にちょこんと座り込む。 ある日、律希が先生の仕事部屋で大人しくしていると思って覗きに行くと、先生のデスクの端に律希が座っていた。先生が万年筆で原稿を書いている横で、律希が鉛筆でノートに何かを書いている。「何してるの?」「字を書いてる」 律希のノートを覗き込んだ。ひらがなが並んでいた。「り」「つ」「き」。自分の名前だった。でも「り」の縦線が曲がっていて、「つ」は丸みが足りなくて、お世辞にも上手とは言えなかった。「おじちゃんが教えてくれた」 先生の方を見た。先生は原稿に目を落としたまま、何食わぬ顔で万年筆を動かしていた。でもデスクの端に、先生の筆跡で「りつき」と書かれた紙切れがあった。万年筆の、流麗なひらがな。先生の字は独特の癖があるが、ひらがなだけは教科書のように整っていた。律希がそれを手本にして練習していたのだ。「先生、ありがとうございます」「頼まれただけだ」 先生は原稿から目を上げなかった。律希が鉛筆を握り直して、もう一度「り」を書いた。さっきより少しだけ縦線がまっすぐになっている。「おじちゃんの『り』、かっこいいんだよ」 律希が先生の書いた紙切れを持ち上げて見せてきた。確かに先生の「り」は美しかった。万年筆のインクの濃淡が線に表情を与えて、たったひらがな一文字なのに品がある。「おじちゃんみたいに書きたい」「万年筆じゃないと、ああはならないよ」「じゃあ万年筆がほしい」「まだ早い。鉛筆で上手に書けるようになってから」 先生が初めて原稿から目を上げた。律希を見下ろして、短く言った。「姿勢が悪い。背中をまっすぐにしろ。肘をつくな」「はーい」 律希が背筋を伸ばした。五歳児なりの精一杯のまっすぐだった。先生が何も言わずに原稿に視線を戻した。二人が並んでいる。先生の大きな背中と、律希の小さ
あの夜から、三人で過ごす日が増えた。 毎週ではないが、月に二度か三度。金曜日に先生のマンションで夕飯を食べ、お風呂に入り、三人でソファに並ぶ。律希が先生の腕に寄りかかって眠ったら、寝室に運んで川の字で寝る。 先生の料理の腕はあっという間にあがっていった。二回目はシチュー。にんじんの大きさは相変わらず不揃いだったが、じゃがいもの大きさは学習していた。三回目は肉じゃが。出汁の取り方を私がメッセージで送ったら、「読んだ」とだけ返信が来た。読むようになっただけでも進歩だった。 律希は先生のことを「ペンだこのおじちゃん」と呼び続けていた。律希はすっかり先生に懐いていた。 先生の万年筆を覗き込み、先生の膝の上に乗って字を書きたがり、先生の背中に寄りかかってうとうとする。先生が何かを書いていると、邪魔をせずに隣に座って絵を描いている。その静かな並びかたが、かつての私と重なった。 先生と律希が並んでいる姿を見るたびに、微笑ましくて自然と笑顔になった。 ◇◇◇ 五月に入って少し蒸し暑くなり始めた頃。 律希を寝かしつけた後、リビングに戻ると先生がソファに座っていた。テーブルの上に珈琲が二つ。私の分も淹れてくれていた。 先生の隣に座った。「原稿の直し、順調ですか」「進んでる」「連載の方は?」「二話分、ストックがある」「すごいですね。スランプ前より速い」「紗那のせいだ」「私のせい?」「おかげだ」 先生が珈琲を一口飲んで、カップをテーブルに置いた。煙草を吸いたそうな仕草で胸ポケットに手を伸ばしかけて、途中で止めた。律希がいる夜は煙草を控えるようになっていた。律希が寝た後でも、匂いが残るからと吸わない。誰に言われたわけでもなく、先生が自分でそうし始めた。「紗那」「はい」「俺と結婚してくれ」 先生の声は静かだった。情事の熱に浮かされたときとは違う。穏やかな空気の中で、先生は真っ直ぐに私を見て言った。「律希の父親になりたい。紗那の隣にいたい。三人で暮らしたい」 先生の目に迷いはなかった。あの仕事部屋で原稿と向き合うときの、書くべき言葉が見えている目と同じだ。「先生」「律、だ。名前で呼んでくれたのは一度きりだ。もう一度聞きたい」「……先生」「律」「先生」 先生が眉間に皺を寄せた。私は珈琲のカップを持ち上げて、一口飲んだ。「結
保育園に着いたのは、いつもより十分早かった。 編集長が「さっさと帰りなさい」と追い出してくれたおかげだ。追い出された理由が「先生の機嫌を損ねるな」だったのは、もう深く考えないことにする。 教室に入ると、律希が絵本棚の前にしゃがみ込んでいた。いつもの光景だ。大判の絵本を膝に乗せて、真剣な顔でページをめくっている。「りっくん、ママ来たよ」 律希がぱっと顔を上げた。絵本を棚に戻して駆け寄ってくる。「ママ、はやい」「今日はね、お出かけするから早く来たよ」「ペンだこのおじちゃんのとこね!」「そう。おじちゃんが、りっくんのごはんを作ってくれたんだって」「おじちゃん、ごはん作れるの?」「……どうだろうね」 先生が料理をしている姿を、一度も見たことがない。あの平屋に通っていた六年間、先生の台所には料理をしているような形跡がなかった。冷蔵庫はいつも麦茶しか入ってなかった。あれはきっと私が飲むから用意してくれただけで、先生はいつもブラックコーヒーを飲んでいた。 ――先生って何を食べて生活してきたんだろう? 律希の手を引いて保育園を出ながら、最悪の場合はコンビニに走ればいいやと思う。 先生のマンションに向かう電車の中で、律希はずっとそわそわしていた。座席に座っても膝の上で足をぶらぶらさせて、窓の外を見たり私を見たりしている。「ママ、おじちゃんはなんのお仕事してるの?」「お話を書く人だよ」「絵本?」「絵本じゃなくて……大人が読む本。長いお話」「ふうん」 律希が窓の外に目を戻した。しばらく黙ってから、「おじちゃんのお話、面白い?」と聞いてきた。「面白いよ。たくさんの人が読んでる」「ママも読む?」「ママはね、おじちゃんのお話を読んで、間違ってるところを直すのがお仕事なの」「おじちゃん、間違えるの?」「たまにね」「ふうん」 律希がまた「ふうん」と言って、膝の上に視線を落とした。考え事をしているときの律希は口元がきゅっと結ばれて、先生と同じ顔になる。電車の窓に映った小さな横顔を見ながら、今夜この子が先生と並んだとき、どんな顔をするのだろうと思った。 ◇◇◇ マンションのエントランスで鍵を使った。先生にもらった鍵だ。手のひらの中ですっかり温まった小さな金属を差し込んで回すと、自動ドアが開いた。 部屋の前で律希の手を握ったまま、イ
◆先生Side 紗那が出ていった後、しばらくベッドの上で動けなかった。『連載中の原稿が書き終わったら、息子に会ってくれませんか?』 願ってもない紗那からの言葉に、身体が固まる。 身体を起こし、仕事部屋に戻る。床一面に原稿が散らばっている。 一枚拾い上げた。 俺の万年筆の黒い文字の横に、赤ペンの文字があった。紗那の字だった。「ここ、違います」 ヒロインが一人でベッドに横たわり、涙を流す場面。紗那の赤字がその横に並んでいた。「子育て中に思い出して泣いてる暇なんてないです。疲れてきって爆睡です」 別の一枚を拾った。ヒロインが主人公の小説を読んで、切なさに胸を押さえる場面。「申し訳ないですけど、就職して恋愛小説の編集者になるまで先生の作品を読んでいません。理由はムカつくから。私をあっさり捨てた男の作品を読んで、泣くわけない」 また一枚。ヒロインが主人公を許す場面。「こんなに簡単に許さない。許したいけど許せない。六年間一人で、好きな人の子どもを抱えて生きていた女を甘く見ないでください」 一枚一枚、拾い集めた。膝をついて、床を這うようにして、二百枚以上の原稿を集めた。冒頭からおよそ五十枚に、紗那の赤字が入っていた。残りの百五十枚は、白いままだった。紗那が読めたのはそこまでだったのだろう。 俺が想像で書いた紗那と、本物の紗那の距離が、赤字で突きつけられていた。 ――強いな、紗那は。『強くなるしかなかったんです』 紗那の言葉を思い出して、胸が痛くなる。(俺がそうさせたのか) 全然、わかっていなかった。紗那という女性を。 十二歳の幼い頃のまま、弱い生き物だと思い込んでいた。 デスクの前に座った。原稿を並べ直した。赤字の一つ一つを読み返した。紗那の怒り、紗那の悔しさ、紗那の孤独、紗那の意地、紗那の強さ。その全部が、赤ペンの文字に変換されて原稿の余白に詰め込まれていた。 紗那は、ずっと一人で戦っていた。 俺がウジウジと後悔し、紗那への想いを断ち切れない間に紗那はどんどんと大人になり、母になり進んでいたのだ。 俺の小説を出版する会社で働くことを選び、好きな人の子を産めたのは幸せだと、笑って言った。あの笑顔の裏に、これだけの感情が渦巻いていた。 ――俺はクズだな。 万年筆を手に取った。 インクの出を確認して、新しい原稿用紙を引き寄せた
「返せ」 先生が立ち上がった。デスクを蹴飛ばすように膝で押しのけ、私に向かって腕を伸ばしてきた。原稿を胸に抱き締める。先生の手が原稿の端を掴んだ。「返せっ、紗那」「返しません。まだ読み終わっていません」 先生が原稿を引き、私が抱え込む。力比べにならなかった。先生の腕力に引きずられ、膝が本棚の前の床を滑る。先生の身体がぶつかり、バランスを崩して二人とも床に倒れた。 原稿が空中に散った。 二百枚以上の原稿用紙が、ばさばさと音を立てて部屋中に降り注いだ。先生の万年筆の文字が書かれた紙が、床に、デスクの上に、丸められた原稿の上に、重なり合って広がっていく。 私は先生の身体の下にいた。背中に原稿用紙が敷き詰められ、紙の端が肌に触れてかさかさと音を立てている。先生が腕で身体を支えて、覆い被さる形で私を見下ろしていた。「大丈夫か? 頭、打ってないか?」「――はい」 先生の顔が近かった。 目の下の隈。痩せた頬。乱れた髪が額に落ちかかっている。「先生」 手を伸ばした。先生の頬に触れた。指先に、無精髭のざらつきが伝わってくる。先生が息を飲んだのがわかる。指が頬を撫で、顎の線を辿り、唇に触れた。乾いた唇だった。「キスしていいですか」 先生の目が見開かれた。 返事を待たなかった。先生の首に腕を回し、自分から唇を合わせた。 先生の唇は乾いていて、煙草の匂いがした。先生は動かなかった。固まったまま、私のキスを受けている。舌で先生の唇をなぞると、先生の身体がびくりと震えた。堰が切れるように、先生の唇が動き始めた。 深い口づけだった。先生の舌が入り込み、口の中を貪るように這い回る。六年前の畳の上と同じ荒々しさを感じた。 先生の舌に自分の舌を絡めて応え、唾液が混ざり合い、吐息が溶け合った。息が苦しくなるまでキスをして、唇が離れたとき、先生の目が潤んでいた。「紗那……」 先生が唇を噛んだ。苦しそうな顔だった。先生が私から離れようと身体を起こすと、私は先生の腰に足を巻きつけた。「駄目だ。あのときと同じになる」「私、もう子どもじゃないですよ」「そう言ってあの夏も大人のふりしただろ」「今はもう大人です」「編集者と作家の関係に戻りたいって言ったのは紗那だ」「あれ……撤回します。先生が欲しい。抱かれたい」「――撤回の撤回は、許さないぞ」 先生が苦笑する