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第七話「保育園のお迎え」

Auteur: ひなた翠
last update Date de publication: 2026-02-25 08:54:30

 保育園の門をくぐると、園庭に夕日が長い影を引いていた。砂場の脇にあるブランコが風に揺れて、誰も乗っていない座面がきいきいと小さな音を立てている。お迎えラッシュの終わり際で、園庭には数人の子どもが残っているだけだった。

 教室の入口で保育士さんに「お疲れ様です」と声をかけると、部屋の奥に息子の姿が見えた。他の子が園庭で走り回っているなか、一人で絵本棚の前にしゃがみ込んで、大判の絵本を膝に乗せてページをめくっている。

「りっくん、ママ来たよ〜」

 保育士さんが声をかけると、律希がぱっと顔を上げた。絵本を棚に戻して立ち上がり、とことこと走ってくる。

「ママ、おかえり」

「ただいま。ごめんね、ぎりぎりだった」

 しゃがんで律希を抱きしめると、汗ばんだ小さな身体がぎゅっとしがみついてきた。日焼け止めと砂と、子ども特有の甘い汗の匂いが鼻をくすぐる。

 律希は五歳になった。

 先生に、よく似ている。私が見るたびにどきりとするほど、面影が重なる瞬間がある。額の生え際の形、眉の角度、少し垂れ気味の目尻。表情はおっとりしていて先生の無愛想さとは似ても似つかないのに、何かに集中しているときだけ口元がきゅっと引き結ばれて、あの人と同じ顔になる。さっき絵本を読んでいたときの横顔が、まさにそうだった。

「今日はなんの絵本読んでたの?」

 手を繋いで園を出ながら聞くと、律希が空いているほうの手を振って答えた。

「くまさんのやつ。くまさんがお手紙を書くの。でもね、届かないの。届けてくれる人が寝ちゃったから」

「かたつむりくんね」

「そう! ママ知ってるの?」

「有名なお話だよ。ママも子どものとき読んだ」

 律希が「ふうん」と言って、夕暮れの商店街をきょろきょろと見回した。八月の夕方は日が長くて、空はまだ明るい。商店街のアーケードに提灯が下がっていて、お盆の飾りつけが賑やかだった。八百屋の前を通りかかると、律希が店先のスイカをじっと見つめて足を止めた。

「食べたい?」

「……うん」

「ちょっとだけね」

 カットスイカのパックを一つ買った。三百八十円。今月の食費のやりくりを頭の中で計算しながら、レジ袋を受け取る。律希がレジ袋の中を覗き込んで、赤い果肉を確認して満足そうに頷いた。

 アパートまでの帰り道は、保育園から歩いて十五分ほどだった。古い住宅街の坂道を登り、突き当たりを左に曲がると、二階建てのアパートが見えてくる。築三十年の木造アパートで、外壁の塗装が剥がれかけていて、共用廊下の蛍光灯が一本切れたまま放置されている。家賃は駅から少し離れている分だけ安くて、間取りは2DK。五歳の子どもと二人で暮らすには十分な広さだった。

 部屋に入ると、むわっとした熱気が顔を包んだ。朝から窓を閉め切っていたから、室内に熱がこもっている。エアコンのスイッチを入れて、数分間だけ窓を開けて風を通してからすぐに閉めた。律希が靴を脱いでリビングに駆け込んでいき、テーブルの上に置いてあった絵本を手に取る。朝、読みかけだった一冊の続きだった。

「りっくん、手洗いうがい」

「あとで」

「今。先に」

 律希がぶうと頬を膨らませて、しぶしぶ洗面所に向かった。頬を膨らませる仕草だけは私に似ていると思う。先生に向かって「しつこいとは失礼だし」と頬を膨らませていた十七歳の自分と、息子の姿が重なって、少しだけ笑ってしまった。

 手を洗い終えた律希をテーブルに座らせて、カットスイカを小皿に盛る。律希がスイカにかぶりつくのを見ながら、自分は冷蔵庫から麦茶を出してグラスに注いだ。一口飲んで、ようやく今日一日の緊張が抜けていく。

 夕飯の支度を始めた。冷蔵庫にある材料を確認する。豚こま、玉ねぎ、人参、卵。昨日スーパーの閉店間際に半額で買った豚こまがまだ残っているから、今日は豚こまの生姜焼きにしよう。人参は千切りにしてサラダにする。味噌汁は――玉ねぎと豆腐。シングルマザーの食卓は毎日が知恵比べで、月末になると冷蔵庫の残り物だけで一週間を乗り切る技術が磨かれていった。

 フライパンに油を引いて、生姜をすりおろす。じゅうっと音を立てて豚こまを炒め始めると、律希がリビングから顔を出した。

「ママ、パパのお手紙は?」

「ん?」

「今日は読まないの?」

「ああ……今日はまだ持って帰ってきてない。来週届くよ」

 律希が「そっかあ」と言って、リビングに戻っていった。

 パパのお手紙。律希はそう呼んでいる。私が会社から持ち帰る手書き原稿のことだ。正確にいえば、先生――深瀬律の手書き原稿の校正コピーで、もちろん律希に見せるためのものではない。家で校正作業をしているときに律希が隣に座ってきて、原稿の文字を覗き込むようになったのが始まりだった。

 万年筆の筆跡は独特だ。印刷された活字とは違う。律希はその文字を眺めるのが好きで、読めない漢字ばかりなのに飽きずにじっと見つめていた。あるとき律希が「これ、誰が書いたの?」と聞いてきて、私はほんの少し迷ってから「パパだよ」と答えた。

 先生は律希の父親だ。ただ、先生はそのことを知らない。

 律希にはパパの顔を見せていなかった。代わりに、一枚の写真を見せていた。先生の書斎で撮った写真だ。高校生の頃、先生が原稿を書いている手元をこっそり携帯で撮った一枚。フレームに収まっているのは座卓の上に置かれた原稿用紙と、万年筆を握った大きな手だけだった。和服の袖が少しだけ映り込んでいて、中指のペンだこが光に照らされてはっきりと見えている。先生の顔は映っていない。

 律希はその写真をときどき眺めた。「パパの手、おっきいね」と言って、自分の手のひらをスマホの画面に重ねてみたりした。「パパはなんでこういうペンで書くの?」と聞かれたときは、「パパはこのペンが好きなんだよ」と答えた。それ以上は聞いてこなかった。パパがどこにいるのか、なんで一緒に暮らしていないのか、律希は一度も聞いてこなかった。聞かないのは、聞いてはいけないことだと五歳なりに察しているのか、それとも単純に気にしていないだけなのか、私にはわからなかった。

 生姜焼きが焼き上がり、千切り人参のサラダと味噌汁を並べて、律希を呼んだ。テーブルにつくと、律希が「いただきます」と手を合わせてから、箸を握った。箸の持ち方はまだおぼつかなくて、ときどき人参が箸の間から滑り落ちる。

「ママ、今日保育園で絵かいた」

「なに描いたの?」

「おうち。おっきいおうちで、えんがわがあるの」

 箸が止まりかけた。縁側、と律希が言った。私はこの子に縁側の話をしたことがなかった。先生の家のことも、平屋のことも、一度も話していない。

「えんがわって知ってるの?」

「絵本にのってた。おじいちゃんのおうちにあるやつ。ママ、えんがわ好き?」

「……うん、好きだよ」

「じゃあ絵のおうちに住もう。りっくんが大きくなったら建てるから」

「楽しみにしてる」

 笑って答えた。胸の奥がじんわりと温かくなって、同時にほんの少しだけ痛んだ。縁側のある家。私にとってそれは一つしかない。先生の平屋。鍵のかかっていない窓。万年筆の音。大きな背中。全部、もうどこにもない場所の記憶だった。

     ◇◇◇

 妊娠がわかったのは、十九歳の秋だった。

 大学一年の前期が終わり、夏休みが過ぎて後期が始まった頃、身体の異変に気づいた。生理が二ヶ月来ていなかった。薬局で検査薬を買い、家で調べた。二本の線がくっきりと浮かび上がったとき、膝の力が抜けて便座に座り込んだ。

 あの夏の日、畳の上で何度も求められたときにできた。検査薬の二本線を見つめながら、不思議なほど冷静だった。怖くないと言えば嘘になるが、お腹の中に先生の子どもがいるという事実は、恐怖よりも先に温かさとして私の中に広がった。

 ――この子を産みたい。

 迷いはなかった。

先生はもういない。連絡も取れない。

それでも先生が私にくれた唯一のもので、一時でも愛し合った証だった。この子を手放す選択肢は、私には最初からなかった。

 父に報告したときは無言だった。テーブルの向こう側で腕を組んだまま、長い間黙っていた。義母は、十九歳の私が妊娠したという事実に、自分がどういう顔をしていいのかわからないようだった。

 父がようやく口を開いたとき、最初に出た言葉は「相手は誰だ」だった。

「言えません」

「言えない相手なのか」

「言えない相手です」

 父の顔がさらに険しくなった。望まない妊娠をした十九歳の娘が相手の名前を言わないとなれば、父の想像はろくでもない方向に向かっただろう。実際、父は「おろせ」と言った。一度だけ、低い声ではっきりと。

「産みます」

 私も一度だけ、はっきりと言い返した。

 それから何日か、父とは口をきかなかった。義母が間に入って、何度か話し合いの場が設けられた。大学はどうするのか。生活費はどうするのか。子どもを育てる覚悟があるのか。全部の質問に答えた。一年間休学する。出産して、復学する。子育ては助けてほしい。お金は必ず返す。覚悟なら、とっくにできている。

 父は最終的に折れた。折れたというよりは、私の意思が変わらないことを認めたのだろう。義母も「わかった」と言ってくれた。血の繋がらない義理の娘の妊娠に、まだ若い義母がどれだけ戸惑っていたかは想像に難くない。それでも「わかった」と言ってくれた義母には、今も感謝している。

 律希が生まれたのは春だった。三月の終わり、桜が咲き始める頃に、小さな塊のような赤ん坊が私の胸の上に置かれた。目を閉じて、しわくちゃの顔をして、か細い声で泣いている。この子の顔が先生に似ているのかどうか、新生児の段階ではまだわからなかった。ただ、私の胸の上で泣き止んだ瞬間に握りしめた小さな拳が、愛おしくて涙が止まらなかった。

 名前は律希にした。先生から律の一文字を、もらった。先生は最低な大人で、私の前から消えた人だが、私がいちばん好きだった人で、この子にいちばん近い血を分けた人でもある。

 復学してからの二年間は、寝不足と忙しさで記憶が断片的にしか残っていない。親に頼った金額は卒業までに二百万を超えていて、就職してから毎月少しずつ返済している。完済まではまだ数年かかる計算だが、月々の返済額を払っても律希と二人で暮らしていける収入があることが、今の私の誇りだった。

 就職先に、先生の作品を出版している出版社を選んだ。先生の本を世に出している場所で働きたいと思ったから。先生に会いたいからではない。先生の言葉が活字になって読者に届くまでの過程に、私も関わりたかった。先生の小説は、十二歳の夏から六年間、背中越しに聞いていた万年筆の音の結晶だ。あの音が原稿用紙の上で文字になり、校正を経て印刷され、書店の棚に並ぶ。その流れの中に自分が純粋に携わりたいと思った。

 夢は叶った。

 ただ同時に残酷な現実も目の当たりにした。先生はもう他の誰かのものになっていたから。あの冬の日に見た女性と温かい家庭を築いている。

先生は私がここにいることを知らないだろう。

しんどい日もあるが、それ以上に毎日が幸せだ。

先生への恋は十八歳の夏に終わったが、先生がくれた宝物はこの手の中でちゃんと育っている。律希と一緒に笑顔で過ごせるだけで、私は満たされている。

     ◇◇◇

 夕飯を食べ終えて、律希と二人で風呂に入った。律希の頭を洗ってやりながら、今日保育園であったことを聞く。砂場で大きな山を作ったこと。給食のカレーがおかわりできたこと。五歳児の報告は脈絡がなくて、話があちこちに飛ぶのだが、聞いているだけで面白かった。

 風呂から上がって、律希の髪をドライヤーで乾かす。寝る前の絵本タイムは二冊まで、という約束になっていた。律希が本棚から選んできた二冊を受け取り、布団の上に並んで横になる。一冊目を読み始めると、律希が私の腕の中に潜り込んできて、絵本の絵を指差しながら聞いていた。二冊目の半ばで、律希の瞼が重くなってきた。声が小さくなり、質問が途切れ、やがて規則正しい寝息に変わった。

 絵本を閉じて、枕元に置いた。律希の寝顔を見下ろす。眠ると余計に先生に似て見えた。閉じた瞼、長い睫毛、少し開いた唇の形。この子が大人になったら、先生みたいな顔立ちになるのだろうか。先生みたいに無愛想になったら困るなと思って、小さく笑った。

 律希の布団を直して、そっと立ち上がった。リビングに戻り、テーブルの上に仕事道具を広げる。今日持ち帰った校正紙に目を通し、赤ペンで修正を入れていく。夜の静かな部屋で、赤ペンが紙の上を走る音だけが響いた。

 先生の手書き原稿ではない、別の作家さんの活字原稿だった。それでも校正作業をしていると、先生の万年筆の筆跡が脳裏をよぎることがある。太く力強い横画、やや癖のある「の」の丸み、文末の句点を打つときの独特な筆圧。先生の文字は読むものではなく聴くものだと、私は昔から思っていた。ペン先が紙に触れる音が、そのまま文章の旋律になっているようで。

 赤ペンを置いて、時計を見た。午後十一時を過ぎている。明日も朝から出社で、保育園のお迎えまでにまた全力疾走の一日が始まる。寝なければ。校正紙をファイルに挟み、赤ペンをキャップで閉じて、リビングの電気を消した。

 律希の隣に潜り込むと、寝返りを打った律希が私の腕にしがみついてきた。小さな手が、ぎゅっと私の二の腕を握っている。温かくて、柔らかくて、確かな重みがある。

 先生の背中に寄りかかっていたあの頃と、同じ温もりだった。あの頃は私が誰かに寄りかかる側だったのに、今は寄りかかられる側になっている。不思議なものだなと思いながら、目を閉じた。律希の寝息が耳元で規則正しく響いて、意識がゆっくりと溶けていった。

 明日もきっと、全力疾走だ。

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  • 最低な大人の恋の始め方〜万年筆と嘘とキスマーク〜   最終話「ずっと一緒に」

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  • 最低な大人の恋の始め方〜万年筆と嘘とキスマーク〜   第二十一話「編集部の祝杯」

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  • 最低な大人の恋の始め方〜万年筆と嘘とキスマーク〜   第二十話「キスして、先生」

    「返せ」 先生が立ち上がった。デスクを蹴飛ばすように膝で押しのけ、私に向かって腕を伸ばしてきた。原稿を胸に抱き締める。先生の手が原稿の端を掴んだ。「返せっ、紗那」「返しません。まだ読み終わっていません」 先生が原稿を引き、私が抱え込む。力比べにならなかった。先生の腕力に引きずられ、膝が本棚の前の床を滑る。先生の身体がぶつかり、バランスを崩して二人とも床に倒れた。 原稿が空中に散った。 二百枚以上の原稿用紙が、ばさばさと音を立てて部屋中に降り注いだ。先生の万年筆の文字が書かれた紙が、床に、デスクの上に、丸められた原稿の上に、重なり合って広がっていく。 私は先生の身体の下にいた。背中に原稿用紙が敷き詰められ、紙の端が肌に触れてかさかさと音を立てている。先生が腕で身体を支えて、覆い被さる形で私を見下ろしていた。「大丈夫か? 頭、打ってないか?」「――はい」 先生の顔が近かった。 目の下の隈。痩せた頬。乱れた髪が額に落ちかかっている。「先生」 手を伸ばした。先生の頬に触れた。指先に、無精髭のざらつきが伝わってくる。先生が息を飲んだのがわかる。指が頬を撫で、顎の線を辿り、唇に触れた。乾いた唇だった。「キスしていいですか」 先生の目が見開かれた。 返事を待たなかった。先生の首に腕を回し、自分から唇を合わせた。 先生の唇は乾いていて、煙草の匂いがした。先生は動かなかった。固まったまま、私のキスを受けている。舌で先生の唇をなぞると、先生の身体がびくりと震えた。堰が切れるように、先生の唇が動き始めた。 深い口づけだった。先生の舌が入り込み、口の中を貪るように這い回る。六年前の畳の上と同じ荒々しさを感じた。 先生の舌に自分の舌を絡めて応え、唾液が混ざり合い、吐息が溶け合った。息が苦しくなるまでキスをして、唇が離れたとき、先生の目が潤んでいた。「紗那……」 先生が唇を噛んだ。苦しそうな顔だった。先生が私から離れようと身体を起こすと、私は先生の腰に足を巻きつけた。「駄目だ。あのときと同じになる」「私、もう子どもじゃないですよ」「そう言ってあの夏も大人のふりしただろ」「今はもう大人です」「編集者と作家の関係に戻りたいって言ったのは紗那だ」「あれ……撤回します。先生が欲しい。抱かれたい」「――撤回の撤回は、許さないぞ」 先生が苦笑する

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    「――私、もう大人だし。知らないのは先生だけ。子どもでいてほしいだけでしょう?」 口にした瞬間、空気が変わった。蝉の声は相変わらず鳴り続けているのに、部屋の中だけが真空になったような静寂が落ちてくる。先生の背中が硬くなったのが、寄りかかっている肩越しに伝わってきた。 万年筆がかたん、と座卓に置かれた。いつも指先で静かに離す先生が、音を立てて万年筆を手放すのは珍しかった。「はあ?」 低い声が、腹の底から押し出されるようにして響いた。先生がゆっくりと身体の向きを変え、振り返る気配がする。私は先生の背中から身体を離し、畳の上に膝をついたまま、先生と向き合った。 先生の目が、真っ直ぐに私を

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