Se connecter二十五歳になった。
都内でバリバリ働くキャリアウーマン――と言いたいところだが、実態はただの社畜だった。朝九時に出社して、校正紙とゲラの山に埋もれて、気がつけば時計の短針が一周している。昼食は自分のデスクでコンビニのおにぎりを齧りながら原稿を読み、退社時刻を過ぎてからが本番のような日もある。それでも好きな会社の、好きな部署で働いているから、毎日が幸せだった。
出版社の編集部は、雑居ビルの六階にあった。窓から見える景色はビルの谷間で、夏になると西日がデスクの上を容赦なく焼いて、年季の入ったエアコンが喘ぐように唸る。壁一面の本棚には自社刊行物がぎっしりと並び、棚に入りきらない校正刷りやゲラの束が段ボール箱に詰められて通路を塞いでいた。デスクの上には付箋だらけの原稿、赤ペン、蛍光マーカー、飲みかけのペットボトル、食べかけのチョコレート。整頓されているとは言い難い空間だが、インクと紙と埃の匂いが染みついた空気は、二年も通えばすっかり自分の居場所の匂いになった。
ここは恋愛小説を中心に扱う編集部で、月刊の文芸誌と単行本の刊行を担っている。恋愛小説の編集者というと華やかな響きだが、実際にやっているのは校正紙に赤を入れる地道な作業と、締め切りに追われる作家の機嫌を取る気苦労の連続だった。恋愛にときめく暇は全くない。皮肉なことに、恋愛小説を読めば読むほど、自分自身の恋愛感情には鈍くなっていく気がする。登場人物が胸を高鳴らせるシーンを校正しながら、「この表現、三行前と被ってます」と赤ペンを走らせているような人間に、きゅんとかときめきとか期待しないでほしい。
「さなっち、原稿は?」
編集長の声がデスクの向こう側から飛んできた。髭面に体格のいい男性が、ラフなジャケットの袖をまくり上げて腕を組んでいる。見た目だけなら建設現場の親方か何かに見えるのに、口を開くと途端に印象が裏切られるのが、熊谷大輔という人だった。
「昨日受け取って、現在、校正しています。原稿は来週の月曜には校正が終わる予定です」
「りょ〜。進行表も更新しといてね」
「もう更新してあります」
「仕事が早い。百点。さなっちにはボーナスで焼肉おごるわ」
「本当ですか?」
「嘘。ボーナスが出たらの話ね。出なかったら牛丼にランクダウン」
編集長が間延びした声で言いながら、デスクに積まれたゲラの束を片手で押しやって、もう片方の手でコーヒーカップを持ち上げた。カップの底に残ったコーヒーを覗き込んで、渋い顔をする。冷めたコーヒーを飲む気にはなれなかったらしく、そのまま置いた。
「んじゃ、もうさなっちともえっちは帰っていいよ。あとは私がやっとくから」
ひらひらと手を振る。オネエ言葉で毒を吐きながらも、編集長は部下の退勤時間にはきっちり気を遣ってくれる人だった。締め切り前の修羅場でも「子どもがいる人から先に帰しなさい」が編集長の口癖で、その言葉にどれだけ助けられてきたかわからない。髭面とオネエ口調のギャップに入社当初は面食らったが、二年経った今ではこの口調でないと編集長の言葉が頭に入ってこない気さえする。
私は隣のデスクに視線を送った。「もえっち」と呼ばれた萌木香澄さんが、すでに帰り支度を整えていた。ノートパソコンの電源を落とし、ペンケースをトートバッグに仕舞い込んでいる。穏やかで柔らかい雰囲気の先輩で、初対面でも安心感を覚えるような笑顔の持ち主だった。入社したての頃、校正の仕方がわからずに泣きそうになっていた私に、「最初はみんなそうだから」と原稿の横に座って一行ずつ教えてくれた人でもある。トートバッグの持ち手を肩にかけた萌木さんの左手薬指に、結婚指輪がきらりと光った。
「旦那さんによろ〜。いつも締め切り前に原稿、あんがとって伝えといて」
編集長がコーヒーカップを弄びながら言うと、萌木さんがにっこりと微笑んで小さく頭を下げた。
「はい。伝えておきます。お疲れ様です」
「もえっち、大ファンだった先生と結婚して、うらやまだわ〜。子どももいて、最高ね〜」
編集長がオネエ口調で茶化す。萌木さんが「もう、編集長ったら」と苦笑いを浮かべた。
大ファンだった先生と結婚した。
編集長がその話を持ち出すたびに、私は笑顔の裏側で奥歯を噛む癖がついていた。萌木さんの旦那さんは作家だ。それも、この編集部が手がけている恋愛小説の大御所と言われている。萌木さんはその先生の担当編集者で、大ファンを公言し、やがて恋に落ちて結婚した――というのが編集部の中で語られている物語だった。
その先生が誰なのか、たぶん私は知っている。相手は深瀬律。私が六年間、縁側から通い続けた隣の家の小説家。
高校三年の冬、書斎の障子を開けた先に見た光景が、六年経った今も鮮明に残っている。先生の膝の上に跨り、髪を振り乱していた女性。あの人が萌木さんだったのだと、この会社に入って萌木さんの顔を見た瞬間に確信した。先生の担当編集者で、大ファンで、あの冬にはもう先生と男女の関係にあった。
あの夏のことを思い出す。先生が私を畳の上に押し倒した、あの猛暑日のこと。
先生が言っていた言葉の意味が、大人になった今ならわかる。大人の世界は単純明快。好きか嫌いかじゃない、反応するかしないかだ。先生は私の胸元のキスマークを見て、反応した。嫉妬だったのか、衝動だったのか、それは先生にしかわからない。ただ先生にとって私は、反応の対象ではあっても、恋愛の対象ではなかったのだろう。
先生には萌木さんがいた。あの冬の時点で、二人はすでに深い関係にあった。なのに隣の家の十八歳のガキに手を出してしまった。だから先生は、あの後すぐに姿を消した。萌木さんへの罪悪感が、「もうお前は来るな」という言葉になって、窓の鍵を閉めさせ、家を売り払わせた。
そして先生は萌木さんとの関係を続け、結婚し、子どもが生まれ、今は家庭を築いている。隣のデスクで穏やかに微笑む萌木さんの薬指に光る指輪は、先生が贈ったものだろう。
――先生が幸せなら、それでいい。
本心だった。胸の奥がちくりと痛むのは事実だが、その痛みを上回る幸せが私の手元にはちゃんとある。あの夏、先生がくれた宝物が。だから、あの夏の過ちは黙っていればいい。私が口を閉じていれば、誰も傷つかない。萌木さんの家庭に影が差すこともない。先生の知らないところで、先生の子どもが元気に育っている。それだけのことだ。
「編集長だって、大好きなダーリンと同棲中でしょう?」
萌木さんが話題を切り替えるように返すと、編集長が大袈裟に肩を竦めてみせた。
「まあね。喧嘩中だけど。最近、帰りが遅すぎてあいつ、キレちらかしてるのよ」
「また喧嘩ですか」
「仕方ないでしょ。締め切り前は戦争なんだから。ちょっとくらい帰りが遅くたって許してほしいわよ。こっちだって好きで残ってるわけじゃないのに」
「好きで残ってるくせに」
萌木さんが小さく笑いながら突っ込むと、編集長が「うるさいわね」と口を尖らせた。
編集長は恋人のことを「ダーリン」と呼ぶ。社内恋愛らしいというのは、話ぶりからはわからるが――相手を絶対に教えてくれない。どんな人なのか聞いても「完璧超人」とか「繊細なくせに頑固」とか、抽象的な形容詞しか返ってこない。性別すら明かされていなくて、編集部内では「ダーリン」の正体を巡る推理が一種の娯楽になっていた。有力候補は営業部のイケメン、経理の年上女性、果ては「実は猫」まで説が乱立している。私は編集長の首元からたまに覗くチェーンのネックレスが気になっていて、あれがペアリングではないかと睨んでいたが、確証はなかった。
「今日は早く帰ってあげてください」
萌木さんが編集長に優しく声をかけてから、私の方を向いた。
「さなちゃんも、お迎え……大丈夫?」
はっとして、デスクの脇に立てかけた時計を見た。午後五時二十分。保育園の通常保育の終了時刻は午後六時で、それを過ぎると延長保育になり、三十分ごとに追加料金が発生する。シングルマザーの家計に延長料金は地味に痛い。
「やばいです。行きます。帰ります!」
椅子を引いて立ち上がり、デスクの下からトートバッグを引っ張り出した。パソコンをスリープにして画面を閉じ、赤ペンをペン立てに戻し、携帯電話をポケットに突っ込む。
「編集長、進行表の件、メールで補足入れておいたので確認お願いします」
「はいはい。走りなさい」
編集長がひらひらと手を振った。萌木さんが「さなちゃん、気をつけてね」と声をかけてくれるのを背中で聞きながら、オフィスのドアを押し開けた。
「お疲れさまでした!」
振り返らずに叫んで、廊下に飛び出した。
――ここから勝負!
そう心に言いかせて、私は早足で保育園へと向かった。
保育園の門が見えたとき、腕時計は五時五十九分を指していた。一分。たった一分の余裕を掴み取った達成感に、門の前で膝に手をついて大きく息を吐いた。汗だくで、息は切れて、前髪は額にべったりと張り付いている。とても二十五歳の大人の女とは思えない姿だが、延長料金を回避できたという事実だけが、ぜえぜえと荒い呼吸の奥で小さくガッツポーズをしていた。
八月の終わり、先生から原稿が届いた。 連載の原稿ではなく、あの未発表作品の、完成稿だった。 茶封筒は分厚く、ずっしりと重かった。二百枚以上。先生が私をモデルに書いた長編小説の、書き直された完全版。五月に冒頭の五十枚を受け取ってから三ヶ月。先生は連載と並行して、この原稿を書き続けていたのだ。 その日の夜、律希を寝かしつけてから、アパートの小さなテーブルの上に原稿を広げた。麦茶を一杯だけ用意して、赤ペンをペン立てから一本取り出した。 最後のページを読み終えたとき、原稿の束のあとに一枚の紙があった。原稿用紙ではなく、便箋のような白い紙。先生の万年筆で一行だけ書かれていた。 ――この物語を、六年遅れの告白とともに。 赤ペンを握る手に力をいれる。 便箋の「この物語を、六年遅れの告白とともに」の横に、赤い文字を書いた。『却下。あとがきに私情を挟まないでください』 赤ペンを持った手が、止まった。 「却下」の文字の下に、余白があった。先生の一行と、私の一行の間に、白い空間が広がっている。 その余白に、小さく書き足した。赤ペンの先を紙に押し当てて、震える指で。 ――でも、受け取りました。 赤ペンのキャップを閉めた。便箋をじっと見つめた。先生の黒い万年筆の文字と、私の赤い文字が並んでいる。二つの筆跡が一枚の紙の上で向き合っていた。 十分ほどそうしていて、ようやく便箋を原稿の一番上に戻した。茶封筒に原稿を収めて、封を閉じた。 翌日、先生のマンションに原稿を届けた。玄関で茶封筒を差し出した。「全部読みました。最後の一枚にだけ、赤を入れてあります」 先生が茶封筒を受け取り、中を確認しようとする先生を置いて、私は踵を返した。「紗那」「感想は言いません。読んでください、私の赤字を」 振り返らずに玄関を出た。エレベーターの中で、壁に背中を預けた。 目を閉じた。心臓が早鐘を打っていた。赤ペンで書いた文字が、目の裏にちらついていた。 ◇◇◇ 一年後――。 書斎の障子を開けると、パソコンの画面を睨みつけている先生の背中が見えた。 和服ではなく、紺色のシャツ姿の背中だった。肩幅が広くて、背骨の線が布地の上からうっすらと浮き出ている。座卓の上に万年筆は置かれておらず、代わりにノートパソコンが一台、開いたまま鎮座していた。先生の指がキーボードの上で
六月になった。 先生のマンションに通う頻度が、少しずつ増えていた。月に二、三度だったのが、週に一度になり、律希が「おじちゃんの家に行く日?」と保育園の朝に聞いてくるようになった。 先生は律希に何かを強いることをしなかった。一緒に遊ぼうとも、こっちに来いとも言わない。先生はいつも通り仕事部屋のデスクに向かっていて、律希がその周りをうろうろするのを黙認しているだけだった。律希の方が勝手に先生のそばに寄っていく。万年筆に惹かれるように、先生のデスクの横にちょこんと座り込む。 ある日、律希が先生の仕事部屋で大人しくしていると思って覗きに行くと、先生のデスクの端に律希が座っていた。先生が万年筆で原稿を書いている横で、律希が鉛筆でノートに何かを書いている。「何してるの?」「字を書いてる」 律希のノートを覗き込んだ。ひらがなが並んでいた。「り」「つ」「き」。自分の名前だった。でも「り」の縦線が曲がっていて、「つ」は丸みが足りなくて、お世辞にも上手とは言えなかった。「おじちゃんが教えてくれた」 先生の方を見た。先生は原稿に目を落としたまま、何食わぬ顔で万年筆を動かしていた。でもデスクの端に、先生の筆跡で「りつき」と書かれた紙切れがあった。万年筆の、流麗なひらがな。先生の字は独特の癖があるが、ひらがなだけは教科書のように整っていた。律希がそれを手本にして練習していたのだ。「先生、ありがとうございます」「頼まれただけだ」 先生は原稿から目を上げなかった。律希が鉛筆を握り直して、もう一度「り」を書いた。さっきより少しだけ縦線がまっすぐになっている。「おじちゃんの『り』、かっこいいんだよ」 律希が先生の書いた紙切れを持ち上げて見せてきた。確かに先生の「り」は美しかった。万年筆のインクの濃淡が線に表情を与えて、たったひらがな一文字なのに品がある。「おじちゃんみたいに書きたい」「万年筆じゃないと、ああはならないよ」「じゃあ万年筆がほしい」「まだ早い。鉛筆で上手に書けるようになってから」 先生が初めて原稿から目を上げた。律希を見下ろして、短く言った。「姿勢が悪い。背中をまっすぐにしろ。肘をつくな」「はーい」 律希が背筋を伸ばした。五歳児なりの精一杯のまっすぐだった。先生が何も言わずに原稿に視線を戻した。二人が並んでいる。先生の大きな背中と、律希の小さ
あの夜から、三人で過ごす日が増えた。 毎週ではないが、月に二度か三度。金曜日に先生のマンションで夕飯を食べ、お風呂に入り、三人でソファに並ぶ。律希が先生の腕に寄りかかって眠ったら、寝室に運んで川の字で寝る。 先生の料理の腕はあっという間にあがっていった。二回目はシチュー。にんじんの大きさは相変わらず不揃いだったが、じゃがいもの大きさは学習していた。三回目は肉じゃが。出汁の取り方を私がメッセージで送ったら、「読んだ」とだけ返信が来た。読むようになっただけでも進歩だった。 律希は先生のことを「ペンだこのおじちゃん」と呼び続けていた。律希はすっかり先生に懐いていた。 先生の万年筆を覗き込み、先生の膝の上に乗って字を書きたがり、先生の背中に寄りかかってうとうとする。先生が何かを書いていると、邪魔をせずに隣に座って絵を描いている。その静かな並びかたが、かつての私と重なった。 先生と律希が並んでいる姿を見るたびに、微笑ましくて自然と笑顔になった。 ◇◇◇ 五月に入って少し蒸し暑くなり始めた頃。 律希を寝かしつけた後、リビングに戻ると先生がソファに座っていた。テーブルの上に珈琲が二つ。私の分も淹れてくれていた。 先生の隣に座った。「原稿の直し、順調ですか」「進んでる」「連載の方は?」「二話分、ストックがある」「すごいですね。スランプ前より速い」「紗那のせいだ」「私のせい?」「おかげだ」 先生が珈琲を一口飲んで、カップをテーブルに置いた。煙草を吸いたそうな仕草で胸ポケットに手を伸ばしかけて、途中で止めた。律希がいる夜は煙草を控えるようになっていた。律希が寝た後でも、匂いが残るからと吸わない。誰に言われたわけでもなく、先生が自分でそうし始めた。「紗那」「はい」「俺と結婚してくれ」 先生の声は静かだった。情事の熱に浮かされたときとは違う。穏やかな空気の中で、先生は真っ直ぐに私を見て言った。「律希の父親になりたい。紗那の隣にいたい。三人で暮らしたい」 先生の目に迷いはなかった。あの仕事部屋で原稿と向き合うときの、書くべき言葉が見えている目と同じだ。「先生」「律、だ。名前で呼んでくれたのは一度きりだ。もう一度聞きたい」「……先生」「律」「先生」 先生が眉間に皺を寄せた。私は珈琲のカップを持ち上げて、一口飲んだ。「結
保育園に着いたのは、いつもより十分早かった。 編集長が「さっさと帰りなさい」と追い出してくれたおかげだ。追い出された理由が「先生の機嫌を損ねるな」だったのは、もう深く考えないことにする。 教室に入ると、律希が絵本棚の前にしゃがみ込んでいた。いつもの光景だ。大判の絵本を膝に乗せて、真剣な顔でページをめくっている。「りっくん、ママ来たよ」 律希がぱっと顔を上げた。絵本を棚に戻して駆け寄ってくる。「ママ、はやい」「今日はね、お出かけするから早く来たよ」「ペンだこのおじちゃんのとこね!」「そう。おじちゃんが、りっくんのごはんを作ってくれたんだって」「おじちゃん、ごはん作れるの?」「……どうだろうね」 先生が料理をしている姿を、一度も見たことがない。あの平屋に通っていた六年間、先生の台所には料理をしているような形跡がなかった。冷蔵庫はいつも麦茶しか入ってなかった。あれはきっと私が飲むから用意してくれただけで、先生はいつもブラックコーヒーを飲んでいた。 ――先生って何を食べて生活してきたんだろう? 律希の手を引いて保育園を出ながら、最悪の場合はコンビニに走ればいいやと思う。 先生のマンションに向かう電車の中で、律希はずっとそわそわしていた。座席に座っても膝の上で足をぶらぶらさせて、窓の外を見たり私を見たりしている。「ママ、おじちゃんはなんのお仕事してるの?」「お話を書く人だよ」「絵本?」「絵本じゃなくて……大人が読む本。長いお話」「ふうん」 律希が窓の外に目を戻した。しばらく黙ってから、「おじちゃんのお話、面白い?」と聞いてきた。「面白いよ。たくさんの人が読んでる」「ママも読む?」「ママはね、おじちゃんのお話を読んで、間違ってるところを直すのがお仕事なの」「おじちゃん、間違えるの?」「たまにね」「ふうん」 律希がまた「ふうん」と言って、膝の上に視線を落とした。考え事をしているときの律希は口元がきゅっと結ばれて、先生と同じ顔になる。電車の窓に映った小さな横顔を見ながら、今夜この子が先生と並んだとき、どんな顔をするのだろうと思った。 ◇◇◇ マンションのエントランスで鍵を使った。先生にもらった鍵だ。手のひらの中ですっかり温まった小さな金属を差し込んで回すと、自動ドアが開いた。 部屋の前で律希の手を握ったまま、イ
◆先生Side 紗那が出ていった後、しばらくベッドの上で動けなかった。『連載中の原稿が書き終わったら、息子に会ってくれませんか?』 願ってもない紗那からの言葉に、身体が固まる。 身体を起こし、仕事部屋に戻る。床一面に原稿が散らばっている。 一枚拾い上げた。 俺の万年筆の黒い文字の横に、赤ペンの文字があった。紗那の字だった。「ここ、違います」 ヒロインが一人でベッドに横たわり、涙を流す場面。紗那の赤字がその横に並んでいた。「子育て中に思い出して泣いてる暇なんてないです。疲れてきって爆睡です」 別の一枚を拾った。ヒロインが主人公の小説を読んで、切なさに胸を押さえる場面。「申し訳ないですけど、就職して恋愛小説の編集者になるまで先生の作品を読んでいません。理由はムカつくから。私をあっさり捨てた男の作品を読んで、泣くわけない」 また一枚。ヒロインが主人公を許す場面。「こんなに簡単に許さない。許したいけど許せない。六年間一人で、好きな人の子どもを抱えて生きていた女を甘く見ないでください」 一枚一枚、拾い集めた。膝をついて、床を這うようにして、二百枚以上の原稿を集めた。冒頭からおよそ五十枚に、紗那の赤字が入っていた。残りの百五十枚は、白いままだった。紗那が読めたのはそこまでだったのだろう。 俺が想像で書いた紗那と、本物の紗那の距離が、赤字で突きつけられていた。 ――強いな、紗那は。『強くなるしかなかったんです』 紗那の言葉を思い出して、胸が痛くなる。(俺がそうさせたのか) 全然、わかっていなかった。紗那という女性を。 十二歳の幼い頃のまま、弱い生き物だと思い込んでいた。 デスクの前に座った。原稿を並べ直した。赤字の一つ一つを読み返した。紗那の怒り、紗那の悔しさ、紗那の孤独、紗那の意地、紗那の強さ。その全部が、赤ペンの文字に変換されて原稿の余白に詰め込まれていた。 紗那は、ずっと一人で戦っていた。 俺がウジウジと後悔し、紗那への想いを断ち切れない間に紗那はどんどんと大人になり、母になり進んでいたのだ。 俺の小説を出版する会社で働くことを選び、好きな人の子を産めたのは幸せだと、笑って言った。あの笑顔の裏に、これだけの感情が渦巻いていた。 ――俺はクズだな。 万年筆を手に取った。 インクの出を確認して、新しい原稿用紙を引き寄せた
「返せ」 先生が立ち上がった。デスクを蹴飛ばすように膝で押しのけ、私に向かって腕を伸ばしてきた。原稿を胸に抱き締める。先生の手が原稿の端を掴んだ。「返せっ、紗那」「返しません。まだ読み終わっていません」 先生が原稿を引き、私が抱え込む。力比べにならなかった。先生の腕力に引きずられ、膝が本棚の前の床を滑る。先生の身体がぶつかり、バランスを崩して二人とも床に倒れた。 原稿が空中に散った。 二百枚以上の原稿用紙が、ばさばさと音を立てて部屋中に降り注いだ。先生の万年筆の文字が書かれた紙が、床に、デスクの上に、丸められた原稿の上に、重なり合って広がっていく。 私は先生の身体の下にいた。背中に原稿用紙が敷き詰められ、紙の端が肌に触れてかさかさと音を立てている。先生が腕で身体を支えて、覆い被さる形で私を見下ろしていた。「大丈夫か? 頭、打ってないか?」「――はい」 先生の顔が近かった。 目の下の隈。痩せた頬。乱れた髪が額に落ちかかっている。「先生」 手を伸ばした。先生の頬に触れた。指先に、無精髭のざらつきが伝わってくる。先生が息を飲んだのがわかる。指が頬を撫で、顎の線を辿り、唇に触れた。乾いた唇だった。「キスしていいですか」 先生の目が見開かれた。 返事を待たなかった。先生の首に腕を回し、自分から唇を合わせた。 先生の唇は乾いていて、煙草の匂いがした。先生は動かなかった。固まったまま、私のキスを受けている。舌で先生の唇をなぞると、先生の身体がびくりと震えた。堰が切れるように、先生の唇が動き始めた。 深い口づけだった。先生の舌が入り込み、口の中を貪るように這い回る。六年前の畳の上と同じ荒々しさを感じた。 先生の舌に自分の舌を絡めて応え、唾液が混ざり合い、吐息が溶け合った。息が苦しくなるまでキスをして、唇が離れたとき、先生の目が潤んでいた。「紗那……」 先生が唇を噛んだ。苦しそうな顔だった。先生が私から離れようと身体を起こすと、私は先生の腰に足を巻きつけた。「駄目だ。あのときと同じになる」「私、もう子どもじゃないですよ」「そう言ってあの夏も大人のふりしただろ」「今はもう大人です」「編集者と作家の関係に戻りたいって言ったのは紗那だ」「あれ……撤回します。先生が欲しい。抱かれたい」「――撤回の撤回は、許さないぞ」 先生が苦笑する