Masuk翌朝、いつものように縁側に回った。
サンダルで庭の砂利を踏み、先生の家の裏手へと歩いていく。朝の八時を過ぎたばかりで、蝉はまだ鳴き始めたばかりだった。昨日の猛暑が嘘のように、朝の空気はほんの少しだけ涼しくて、庭木の葉先に溜まった夜露が朝日にきらきらと光っていた。
縁側の窓の前で足が止まった。
ガラス戸の枠に手をかけて、右にスライドさせようとする。動かなかった。もう一度、力を込めて引く。びくともしなかった。鍵がかかっている。六年間、一度も施錠されたことのなかった縁側の窓に、鍵がかかっていた。
隣の窓を確かめた。鍵がかかっていた。平屋建ての家のすべての窓が、一つ残らず閉じられて、鍵がかけられていた。真夏にエアコンを使わない先生の家で、窓という窓が完全に塞がれている。
玄関に回り、呼び鈴を押した。チャイムの音が家の中に響くのが聞こえる。応答はなかった。もう一度押した。
先生は出てこなかった。
玄関の引き戸に額をつけた。金属の枠がひんやりと冷たくて、火照った肌に心地よかった。目を閉じると、昨日の先生の声が鼓膜の奥で反響した。
――もうお前は来るな。
――ここはもうお前の避難場所じゃない。
額を引き戸に押し当てたまま、私は長い間そこに立っていた。蝉の声がだんだんと大きくなり、朝の涼しさが夏の熱気に呑み込まれていくのを、肌で感じる。
先生のあの言葉は本気だったんだと痛感する。
一週間後、先生の家の門扉に、不動産会社の看板が立てかけられていた。白地に青い文字で「売物件」と書かれた看板が、朝の陽射しを受けて乾いた光を放っている。
門の前に立ち、看板の文字を見つめた。売物件という三文字が、視界の中で異様に大きく映って、ほかの景色を全部押し退けていた。庭の草は一週間分だけ伸びていて、手入れする人がいなくなった花壇の縁に、雑草が顔を出し始めていた。縁側の窓ガラスに朝日が反射して、中の様子は見えなかった。
――終わった……。
私の儚い片想いは、無駄な虚勢を張ったがために泡沫に消えた。
キスマークを見せて、先生の身体に触れて、「やる気を返そうか」なんて馬鹿なこと言わなければ良かった。こんなことになるくらいなら、まだ素直に「好きだ」と告白していたほうが望みがあったかもしれない。
下手に大人ぶって、嘘ついて――。大人の関係で先生を縛ろうとした結果がコレだ。
「先生……好き」
◇◇◇
初めて先生の家に足を踏み入れたのは、十二歳の夏だった。
両親が喧嘩をしていた。リビングの向こう側で、母の甲高い声と父の低い怒鳴り声がぶつかり合い、食器が割れる音がして、テレビ台に何かが叩きつけられた。壁の薄い家だから、自分の部屋にいても声が筒抜けで、布団を頭から被っても耳の奥まで怒声が浸み込んでくる。我慢できなくなって、裸足のまま玄関を飛び出した。
外は暑かった。八月の午後、アスファルトは素足で踏めないほど焼けていて、慌てて道の端の草むらに逃げた。家の前の道路に面した側溝の蓋に座り込み、膝を抱えた。蝉が頭の上でやかましく鳴いていて、首筋を汗が止めどなく流れ落ちていく。陽射しが頭のてっぺんを焼き、視界がちかちかと白く瞬いた。
どれくらいそうしていたのか、わからなかった。
「――おい」
頭の上から声が降ってきた。顔を上げると、隣の家のお兄さんが立っていた。和服姿で、腕を組んで、呆れたような顔をしてこちらを見下ろしている。和服の人を間近で見たのは初めてで、お坊さんみたいだと思った。
「暑いから家で涼め。人の敷地で熱中症で死なれたら寝覚めが悪い」
ぶっきらぼうな言い方だった。優しさのかけらもない声色で、心配しているというよりは面倒くさそうに見えた。私が黙って見上げていると、お兄さんは舌打ちに近いため息をついて、踵を返した。
「来るならついて来い。来ないなら別の場所に移動してくれ」
背中だけ見せて、自分の家の門をくぐっていく。門から玄関ではなく、家の横手に回って縁側へ向かっているのが見えた。私は側溝の蓋から立ち上がり、裸足のまま、お兄さんの後を追った。
縁側のガラス戸が開け放たれていた。畳の部屋が見えて、座卓の上に原稿用紙が何枚も広げられている。お兄さんは縁側から上がると、振り返りもせずに座卓の前に座り、万年筆を手に取った。
「麦茶、台所にあるから。勝手に飲め」
それだけ言って、原稿用紙に向き合い始めた。万年筆のペン先が紙の上を滑る音が、さらさらと小さく鳴った。お兄さんの背中は大きくて、和服の生地が肩の骨格に沿って張っていた。
畳の部屋に上がり込み、台所で麦茶を見つけて飲んだ。冷蔵庫から出したグラスの表面に水滴がびっしりとついて、指の間から冷たい雫が滴り落ちた。喉を通る麦茶が冷たくて、身体の芯にまで染み渡るようだった。
グラスを持ったまま座卓のそばに座り、お兄さんの背中を眺めた。万年筆の音だけが聞こえる部屋は、家の中で聞こえていた怒鳴り声とは別の世界のように静かだった。窓から入り込む風が畳の上を撫でて、原稿用紙の端をかすかに揺らしている。風鈴が鳴った。短く、涼しげな音が一つ響いて、余韻が畳の上に落ちた。
お兄さんは私がいることを気にする様子もなく、黙々と万年筆を走らせていた。ペン先が紙に触れるたびに、小さな文字が生まれていく。何を書いているのかは、背中越しには見えなかった。ただ、規則正しく途切れることなく続くさらさらという音が心地よくて、いつの間にか膝を抱えたまま目を閉じていた。
気がつくと、窓の外が夕焼けに染まっていた。
「起きたなら帰れ。夕飯の時間だろ」
お兄さんの声で目が覚めた。座卓の前に座ったまま原稿に向かっている後ろ姿は、眠る前とまったく同じだった。何時間もあの姿勢で書き続けていたのかと思うと、右手の中指に浮かぶ硬いペンだこが妙に印象に残った。
「……ありがとうございました」
小さく頭を下げて、縁側から外に出た。裸足のまま隣の家に戻ると、喧嘩はもう終わっていて、母が台所で夕飯の支度をしていた。父はリビングのソファでテレビを見ていた。リビングの壁に小さなへこみができていたことには、誰も触れなかった。
◇◇◇
二度目に縁側を訪ねたのは、三日後だった。
また両親が喧嘩を始めて、家を飛び出した。今度はサンダルを履いていた。隣の家の縁側に回ると、ガラス戸は開いていて、お兄さんが座卓に向かって万年筆を走らせていた。
「……また来ました」
声をかけると、お兄さんは振り返りもせずに「おう。飲み物はセルフな」とだけ言った。
三度目も、四度目も、同じだった。両親の喧嘩が始まるたびに家を出て、縁側のガラス戸から隣の家に上がり込む。お兄さんはいつも座卓の前にいて、万年筆を動かしていて、私が来ても来なくても同じ調子で原稿を書き続けていた。
五度目に訪ねたとき、お兄さんの名前を知った。
玄関の表札に「深瀬」と書いてあるのが目に入って、「深瀬さん」と呼んだら、お兄さんは面倒くさそうに振り返って「律でいい」と言った。私が「律さん」と呼び直すと、律さんは万年筆を止めて、初めてまともに私の顔を見た。
「お前、名前は」
「北坂紗那」
「紗那か。お前はいくつだ」
「十二歳」
律さんが眉を上げた。それから何か考えるような間があって、万年筆に視線を戻した。
「十二歳のガキがいる前で夫婦喧嘩ねえ。お前も大変だな」
本当に大変だと思っているのかわからない軽い口調で言うと、原稿に視線を落とした。ペン先が原稿用紙の上で滑り始めて、さらさらという音が部屋を満たした。
やがて、律さんの仕事が小説を書くことだと知った。畳の上に積まれた原稿用紙の束、座卓の隅に置かれた校正刷り、本棚に並ぶ単行本の背表紙。律さんの本名は載っておらず、ペンネームで書いているのだと教えてもらった。ジャンルは恋愛小説だと聞いたとき、この無愛想な人が恋愛の話を書くのかと驚いて、思わず笑ってしまった。律さんは「うるせえ」とだけ言って、万年筆を動かし続けていた。
夏が終わり、秋になり、冬が来ても、私は律さんの家に通い続けた。両親の喧嘩は季節に関係なく続いていたし、喧嘩がない日でも家の中の空気は冷たく張り詰めていて、居心地が悪かった。縁側のガラス戸は、いつ行っても鍵が開いていた。律さんが開けっぱなしにしてくれているのだと気づいたのは、冬になってからだった。寒い日にも、私が使う側の窓だけは鍵がかかっていなかった。
通い始めて半年が経つ頃には、私は律さんの背中に寄りかかるようになっていた。
最初は座卓から少し離れたところで、持ち込んだ漫画を読んでいた。ある日、律さんのすぐ後ろに座ってみたら、背中から伝わる万年筆の振動がより鮮明に感じられて、気づいたら寄りかかっていた。
「おい。重い」
万年筆は止めずに、声だけが頭の上から降ってくる。
「ごめん。でも、ここがいちばん落ち着くの」
「勝手にしろ」
律さんは文句を言いながらも、私を背中から引き剥がそうとはしなかった。和服越しに伝わる体温は温かくて、万年筆が文字を綴るたびに背中の筋肉が微かに動くのが心地よかった。ペン先が原稿用紙に触れる音は、まるで音楽のように一定のリズムで続いていて、私はその音を聞きながら漫画のページをめくった。
中学二年の秋、両親が離婚した。
親権は父が取り、母が家を出ていった。母がいなくなった家はやけに広く感じて、父と二人で食べる夕飯の時間が、怒鳴り声のあった頃よりもかえって息苦しかった。父は無口な人で、母がいなくなった理由について一度も説明しなかった。聞いてほしくないのだろうと察して、私も聞かなかった。
律さんの家に行く頻度が増えた。学校が終わると真っ直ぐ縁側に向かい、ガラス戸を開けて上がり込む。律さんはいつもの場所にいて、いつもの万年筆を握っていた。「紗那」と呼ばれて、「先生」と呼び返すようになったのもこの頃だった。律さんが小説家だと知ってからずっと「律さん」と呼んでいたのを、ふと「先生」に変えたら、律さんが怪訝そうな顔をした。
「先生って柄かよ」
「小説家は先生って呼ぶんでしょう? 漫画でそう読んだ」
「漫画を教科書にすんな」
呆れた声で言いながら、律さんは――先生は、否定も訂正もしなかった。それ以来、先生は先生のままだった。
高校一年の春、父が再婚した。相手は職場の女性で、二十三歳だった。先生よりも若い女性が母親の代わりに台所に立つようになり、家の空気がまた変わった。新しい母親は悪い人ではないと思う。
私に気を遣ってくれているのも、距離感を測りかねているのもわかった。ただ、私の家だったはずの場所に、知らない大人の匂いが増えていくことが、じわじわと居心地の悪さを積み重ねていった。
先生の家で過ごす時間が、さらに長くなった。
学校から帰ると縁側の窓を開け、畳の上に鞄を置いて、先生の背中に寄りかかる。漫画を読んだり、宿題をやったり、何もせずにぼんやりと万年筆の音を聞いたりした。先生は相変わらず「重い」と言った。日によっては「まじで重い。成長期か」と余計なひと言を足してきた。それでも私を追い出すことは一度もなくて、文句を言いながらも万年筆を止めずに、私を背中に乗せたまま原稿を書き続けた。
先生の背中は大きかった。肩幅が広く、骨格がしっかりしていて、私の身体を預けてもびくともしなかった。和服の生地から立ち昇る煙草の匂いと、畳のい草の匂いと、万年筆のインクの匂いが混ざり合った空気が、私にとっての安全の匂いになった。
ここにいるとき、素の私になれる。
誰の顔色も窺わなくていい。父と母の喧嘩に耳を塞がなくていい。新しい母親と距離を測らなくていい。ただ先生の背中に体重を預けて、さらさらと鳴る万年筆の音を聞いているだけでよかった。
先生のことが好き。いつから好きだったのかは、自分でもわからない。気がついたら好きだった。先生の大きな手が頭を撫でてくれるたびに、心臓がきゅっと痛くなった。先生が「紗那」と名前を呼ぶたびに、呼ばれた名前の響きが胸の中でずっと残響のように鳴り続けた。先生が煙草をくわえて窓の外を眺めている横顔を、漫画の陰からこっそり見つめる時間が、一日の中でいちばん幸せだった。
八月の終わり、先生から原稿が届いた。 連載の原稿ではなく、あの未発表作品の、完成稿だった。 茶封筒は分厚く、ずっしりと重かった。二百枚以上。先生が私をモデルに書いた長編小説の、書き直された完全版。五月に冒頭の五十枚を受け取ってから三ヶ月。先生は連載と並行して、この原稿を書き続けていたのだ。 その日の夜、律希を寝かしつけてから、アパートの小さなテーブルの上に原稿を広げた。麦茶を一杯だけ用意して、赤ペンをペン立てから一本取り出した。 最後のページを読み終えたとき、原稿の束のあとに一枚の紙があった。原稿用紙ではなく、便箋のような白い紙。先生の万年筆で一行だけ書かれていた。 ――この物語を、六年遅れの告白とともに。 赤ペンを握る手に力をいれる。 便箋の「この物語を、六年遅れの告白とともに」の横に、赤い文字を書いた。『却下。あとがきに私情を挟まないでください』 赤ペンを持った手が、止まった。 「却下」の文字の下に、余白があった。先生の一行と、私の一行の間に、白い空間が広がっている。 その余白に、小さく書き足した。赤ペンの先を紙に押し当てて、震える指で。 ――でも、受け取りました。 赤ペンのキャップを閉めた。便箋をじっと見つめた。先生の黒い万年筆の文字と、私の赤い文字が並んでいる。二つの筆跡が一枚の紙の上で向き合っていた。 十分ほどそうしていて、ようやく便箋を原稿の一番上に戻した。茶封筒に原稿を収めて、封を閉じた。 翌日、先生のマンションに原稿を届けた。玄関で茶封筒を差し出した。「全部読みました。最後の一枚にだけ、赤を入れてあります」 先生が茶封筒を受け取り、中を確認しようとする先生を置いて、私は踵を返した。「紗那」「感想は言いません。読んでください、私の赤字を」 振り返らずに玄関を出た。エレベーターの中で、壁に背中を預けた。 目を閉じた。心臓が早鐘を打っていた。赤ペンで書いた文字が、目の裏にちらついていた。 ◇◇◇ 一年後――。 書斎の障子を開けると、パソコンの画面を睨みつけている先生の背中が見えた。 和服ではなく、紺色のシャツ姿の背中だった。肩幅が広くて、背骨の線が布地の上からうっすらと浮き出ている。座卓の上に万年筆は置かれておらず、代わりにノートパソコンが一台、開いたまま鎮座していた。先生の指がキーボードの上で
六月になった。 先生のマンションに通う頻度が、少しずつ増えていた。月に二、三度だったのが、週に一度になり、律希が「おじちゃんの家に行く日?」と保育園の朝に聞いてくるようになった。 先生は律希に何かを強いることをしなかった。一緒に遊ぼうとも、こっちに来いとも言わない。先生はいつも通り仕事部屋のデスクに向かっていて、律希がその周りをうろうろするのを黙認しているだけだった。律希の方が勝手に先生のそばに寄っていく。万年筆に惹かれるように、先生のデスクの横にちょこんと座り込む。 ある日、律希が先生の仕事部屋で大人しくしていると思って覗きに行くと、先生のデスクの端に律希が座っていた。先生が万年筆で原稿を書いている横で、律希が鉛筆でノートに何かを書いている。「何してるの?」「字を書いてる」 律希のノートを覗き込んだ。ひらがなが並んでいた。「り」「つ」「き」。自分の名前だった。でも「り」の縦線が曲がっていて、「つ」は丸みが足りなくて、お世辞にも上手とは言えなかった。「おじちゃんが教えてくれた」 先生の方を見た。先生は原稿に目を落としたまま、何食わぬ顔で万年筆を動かしていた。でもデスクの端に、先生の筆跡で「りつき」と書かれた紙切れがあった。万年筆の、流麗なひらがな。先生の字は独特の癖があるが、ひらがなだけは教科書のように整っていた。律希がそれを手本にして練習していたのだ。「先生、ありがとうございます」「頼まれただけだ」 先生は原稿から目を上げなかった。律希が鉛筆を握り直して、もう一度「り」を書いた。さっきより少しだけ縦線がまっすぐになっている。「おじちゃんの『り』、かっこいいんだよ」 律希が先生の書いた紙切れを持ち上げて見せてきた。確かに先生の「り」は美しかった。万年筆のインクの濃淡が線に表情を与えて、たったひらがな一文字なのに品がある。「おじちゃんみたいに書きたい」「万年筆じゃないと、ああはならないよ」「じゃあ万年筆がほしい」「まだ早い。鉛筆で上手に書けるようになってから」 先生が初めて原稿から目を上げた。律希を見下ろして、短く言った。「姿勢が悪い。背中をまっすぐにしろ。肘をつくな」「はーい」 律希が背筋を伸ばした。五歳児なりの精一杯のまっすぐだった。先生が何も言わずに原稿に視線を戻した。二人が並んでいる。先生の大きな背中と、律希の小さ
あの夜から、三人で過ごす日が増えた。 毎週ではないが、月に二度か三度。金曜日に先生のマンションで夕飯を食べ、お風呂に入り、三人でソファに並ぶ。律希が先生の腕に寄りかかって眠ったら、寝室に運んで川の字で寝る。 先生の料理の腕はあっという間にあがっていった。二回目はシチュー。にんじんの大きさは相変わらず不揃いだったが、じゃがいもの大きさは学習していた。三回目は肉じゃが。出汁の取り方を私がメッセージで送ったら、「読んだ」とだけ返信が来た。読むようになっただけでも進歩だった。 律希は先生のことを「ペンだこのおじちゃん」と呼び続けていた。律希はすっかり先生に懐いていた。 先生の万年筆を覗き込み、先生の膝の上に乗って字を書きたがり、先生の背中に寄りかかってうとうとする。先生が何かを書いていると、邪魔をせずに隣に座って絵を描いている。その静かな並びかたが、かつての私と重なった。 先生と律希が並んでいる姿を見るたびに、微笑ましくて自然と笑顔になった。 ◇◇◇ 五月に入って少し蒸し暑くなり始めた頃。 律希を寝かしつけた後、リビングに戻ると先生がソファに座っていた。テーブルの上に珈琲が二つ。私の分も淹れてくれていた。 先生の隣に座った。「原稿の直し、順調ですか」「進んでる」「連載の方は?」「二話分、ストックがある」「すごいですね。スランプ前より速い」「紗那のせいだ」「私のせい?」「おかげだ」 先生が珈琲を一口飲んで、カップをテーブルに置いた。煙草を吸いたそうな仕草で胸ポケットに手を伸ばしかけて、途中で止めた。律希がいる夜は煙草を控えるようになっていた。律希が寝た後でも、匂いが残るからと吸わない。誰に言われたわけでもなく、先生が自分でそうし始めた。「紗那」「はい」「俺と結婚してくれ」 先生の声は静かだった。情事の熱に浮かされたときとは違う。穏やかな空気の中で、先生は真っ直ぐに私を見て言った。「律希の父親になりたい。紗那の隣にいたい。三人で暮らしたい」 先生の目に迷いはなかった。あの仕事部屋で原稿と向き合うときの、書くべき言葉が見えている目と同じだ。「先生」「律、だ。名前で呼んでくれたのは一度きりだ。もう一度聞きたい」「……先生」「律」「先生」 先生が眉間に皺を寄せた。私は珈琲のカップを持ち上げて、一口飲んだ。「結
保育園に着いたのは、いつもより十分早かった。 編集長が「さっさと帰りなさい」と追い出してくれたおかげだ。追い出された理由が「先生の機嫌を損ねるな」だったのは、もう深く考えないことにする。 教室に入ると、律希が絵本棚の前にしゃがみ込んでいた。いつもの光景だ。大判の絵本を膝に乗せて、真剣な顔でページをめくっている。「りっくん、ママ来たよ」 律希がぱっと顔を上げた。絵本を棚に戻して駆け寄ってくる。「ママ、はやい」「今日はね、お出かけするから早く来たよ」「ペンだこのおじちゃんのとこね!」「そう。おじちゃんが、りっくんのごはんを作ってくれたんだって」「おじちゃん、ごはん作れるの?」「……どうだろうね」 先生が料理をしている姿を、一度も見たことがない。あの平屋に通っていた六年間、先生の台所には料理をしているような形跡がなかった。冷蔵庫はいつも麦茶しか入ってなかった。あれはきっと私が飲むから用意してくれただけで、先生はいつもブラックコーヒーを飲んでいた。 ――先生って何を食べて生活してきたんだろう? 律希の手を引いて保育園を出ながら、最悪の場合はコンビニに走ればいいやと思う。 先生のマンションに向かう電車の中で、律希はずっとそわそわしていた。座席に座っても膝の上で足をぶらぶらさせて、窓の外を見たり私を見たりしている。「ママ、おじちゃんはなんのお仕事してるの?」「お話を書く人だよ」「絵本?」「絵本じゃなくて……大人が読む本。長いお話」「ふうん」 律希が窓の外に目を戻した。しばらく黙ってから、「おじちゃんのお話、面白い?」と聞いてきた。「面白いよ。たくさんの人が読んでる」「ママも読む?」「ママはね、おじちゃんのお話を読んで、間違ってるところを直すのがお仕事なの」「おじちゃん、間違えるの?」「たまにね」「ふうん」 律希がまた「ふうん」と言って、膝の上に視線を落とした。考え事をしているときの律希は口元がきゅっと結ばれて、先生と同じ顔になる。電車の窓に映った小さな横顔を見ながら、今夜この子が先生と並んだとき、どんな顔をするのだろうと思った。 ◇◇◇ マンションのエントランスで鍵を使った。先生にもらった鍵だ。手のひらの中ですっかり温まった小さな金属を差し込んで回すと、自動ドアが開いた。 部屋の前で律希の手を握ったまま、イ
◆先生Side 紗那が出ていった後、しばらくベッドの上で動けなかった。『連載中の原稿が書き終わったら、息子に会ってくれませんか?』 願ってもない紗那からの言葉に、身体が固まる。 身体を起こし、仕事部屋に戻る。床一面に原稿が散らばっている。 一枚拾い上げた。 俺の万年筆の黒い文字の横に、赤ペンの文字があった。紗那の字だった。「ここ、違います」 ヒロインが一人でベッドに横たわり、涙を流す場面。紗那の赤字がその横に並んでいた。「子育て中に思い出して泣いてる暇なんてないです。疲れてきって爆睡です」 別の一枚を拾った。ヒロインが主人公の小説を読んで、切なさに胸を押さえる場面。「申し訳ないですけど、就職して恋愛小説の編集者になるまで先生の作品を読んでいません。理由はムカつくから。私をあっさり捨てた男の作品を読んで、泣くわけない」 また一枚。ヒロインが主人公を許す場面。「こんなに簡単に許さない。許したいけど許せない。六年間一人で、好きな人の子どもを抱えて生きていた女を甘く見ないでください」 一枚一枚、拾い集めた。膝をついて、床を這うようにして、二百枚以上の原稿を集めた。冒頭からおよそ五十枚に、紗那の赤字が入っていた。残りの百五十枚は、白いままだった。紗那が読めたのはそこまでだったのだろう。 俺が想像で書いた紗那と、本物の紗那の距離が、赤字で突きつけられていた。 ――強いな、紗那は。『強くなるしかなかったんです』 紗那の言葉を思い出して、胸が痛くなる。(俺がそうさせたのか) 全然、わかっていなかった。紗那という女性を。 十二歳の幼い頃のまま、弱い生き物だと思い込んでいた。 デスクの前に座った。原稿を並べ直した。赤字の一つ一つを読み返した。紗那の怒り、紗那の悔しさ、紗那の孤独、紗那の意地、紗那の強さ。その全部が、赤ペンの文字に変換されて原稿の余白に詰め込まれていた。 紗那は、ずっと一人で戦っていた。 俺がウジウジと後悔し、紗那への想いを断ち切れない間に紗那はどんどんと大人になり、母になり進んでいたのだ。 俺の小説を出版する会社で働くことを選び、好きな人の子を産めたのは幸せだと、笑って言った。あの笑顔の裏に、これだけの感情が渦巻いていた。 ――俺はクズだな。 万年筆を手に取った。 インクの出を確認して、新しい原稿用紙を引き寄せた
「返せ」 先生が立ち上がった。デスクを蹴飛ばすように膝で押しのけ、私に向かって腕を伸ばしてきた。原稿を胸に抱き締める。先生の手が原稿の端を掴んだ。「返せっ、紗那」「返しません。まだ読み終わっていません」 先生が原稿を引き、私が抱え込む。力比べにならなかった。先生の腕力に引きずられ、膝が本棚の前の床を滑る。先生の身体がぶつかり、バランスを崩して二人とも床に倒れた。 原稿が空中に散った。 二百枚以上の原稿用紙が、ばさばさと音を立てて部屋中に降り注いだ。先生の万年筆の文字が書かれた紙が、床に、デスクの上に、丸められた原稿の上に、重なり合って広がっていく。 私は先生の身体の下にいた。背中に原稿用紙が敷き詰められ、紙の端が肌に触れてかさかさと音を立てている。先生が腕で身体を支えて、覆い被さる形で私を見下ろしていた。「大丈夫か? 頭、打ってないか?」「――はい」 先生の顔が近かった。 目の下の隈。痩せた頬。乱れた髪が額に落ちかかっている。「先生」 手を伸ばした。先生の頬に触れた。指先に、無精髭のざらつきが伝わってくる。先生が息を飲んだのがわかる。指が頬を撫で、顎の線を辿り、唇に触れた。乾いた唇だった。「キスしていいですか」 先生の目が見開かれた。 返事を待たなかった。先生の首に腕を回し、自分から唇を合わせた。 先生の唇は乾いていて、煙草の匂いがした。先生は動かなかった。固まったまま、私のキスを受けている。舌で先生の唇をなぞると、先生の身体がびくりと震えた。堰が切れるように、先生の唇が動き始めた。 深い口づけだった。先生の舌が入り込み、口の中を貪るように這い回る。六年前の畳の上と同じ荒々しさを感じた。 先生の舌に自分の舌を絡めて応え、唾液が混ざり合い、吐息が溶け合った。息が苦しくなるまでキスをして、唇が離れたとき、先生の目が潤んでいた。「紗那……」 先生が唇を噛んだ。苦しそうな顔だった。先生が私から離れようと身体を起こすと、私は先生の腰に足を巻きつけた。「駄目だ。あのときと同じになる」「私、もう子どもじゃないですよ」「そう言ってあの夏も大人のふりしただろ」「今はもう大人です」「編集者と作家の関係に戻りたいって言ったのは紗那だ」「あれ……撤回します。先生が欲しい。抱かれたい」「――撤回の撤回は、許さないぞ」 先生が苦笑する







