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第四話「初恋と失恋」

Author: ひなた翠
last update Last Updated: 2026-02-22 09:12:03

 翌朝、いつものように縁側に回った。

 サンダルで庭の砂利を踏み、先生の家の裏手へと歩いていく。朝の八時を過ぎたばかりで、蝉はまだ鳴き始めたばかりだった。昨日の猛暑が嘘のように、朝の空気はほんの少しだけ涼しくて、庭木の葉先に溜まった夜露が朝日にきらきらと光っていた。

 縁側の窓の前で足が止まった。

 ガラス戸の枠に手をかけて、右にスライドさせようとする。動かなかった。もう一度、力を込めて引く。びくともしなかった。鍵がかかっている。六年間、一度も施錠されたことのなかった縁側の窓に、鍵がかかっていた。

 隣の窓を確かめた。鍵がかかっていた。平屋建ての家のすべての窓が、一つ残らず閉じられて、鍵がかけられていた。真夏にエアコンを使わない先生の家で、窓という窓が完全に塞がれている。

 玄関に回り、呼び鈴を押した。チャイムの音が家の中に響くのが聞こえる。応答はなかった。もう一度押した。

 先生は出てこなかった。

 玄関の引き戸に額をつけた。金属の枠がひんやりと冷たくて、火照った肌に心地よかった。目を閉じると、昨日の先生の声が鼓膜の奥で反響した。

 ――もうお前は来るな。

 ――ここはもうお前の避難場所じゃない。

 額を引き戸に押し当てたまま、私は長い間そこに立っていた。蝉の声がだんだんと大きくなり、朝の涼しさが夏の熱気に呑み込まれていくのを、肌で感じる。

 先生のあの言葉は本気だったんだと痛感する。

 一週間後、先生の家の門扉に、不動産会社の看板が立てかけられていた。白地に青い文字で「売物件」と書かれた看板が、朝の陽射しを受けて乾いた光を放っている。

 門の前に立ち、看板の文字を見つめた。売物件という三文字が、視界の中で異様に大きく映って、ほかの景色を全部押し退けていた。庭の草は一週間分だけ伸びていて、手入れする人がいなくなった花壇の縁に、雑草が顔を出し始めていた。縁側の窓ガラスに朝日が反射して、中の様子は見えなかった。

 ――終わった……。

 私の儚い片想いは、無駄な虚勢を張ったがために泡沫に消えた。

 キスマークを見せて、先生の身体に触れて、「やる気を返そうか」なんて馬鹿なこと言わなければ良かった。こんなことになるくらいなら、まだ素直に「好きだ」と告白していたほうが望みがあったかもしれない。

 下手に大人ぶって、嘘ついて――。大人の関係で先生を縛ろうとした結果がコレだ。

「先生……好き」

     ◇◇◇

 初めて先生の家に足を踏み入れたのは、十二歳の夏だった。

 両親が喧嘩をしていた。リビングの向こう側で、母の甲高い声と父の低い怒鳴り声がぶつかり合い、食器が割れる音がして、テレビ台に何かが叩きつけられた。壁の薄い家だから、自分の部屋にいても声が筒抜けで、布団を頭から被っても耳の奥まで怒声が浸み込んでくる。我慢できなくなって、裸足のまま玄関を飛び出した。

 外は暑かった。八月の午後、アスファルトは素足で踏めないほど焼けていて、慌てて道の端の草むらに逃げた。家の前の道路に面した側溝の蓋に座り込み、膝を抱えた。蝉が頭の上でやかましく鳴いていて、首筋を汗が止めどなく流れ落ちていく。陽射しが頭のてっぺんを焼き、視界がちかちかと白く瞬いた。

 どれくらいそうしていたのか、わからなかった。

「――おい」

 頭の上から声が降ってきた。顔を上げると、隣の家のお兄さんが立っていた。和服姿で、腕を組んで、呆れたような顔をしてこちらを見下ろしている。和服の人を間近で見たのは初めてで、お坊さんみたいだと思った。

「暑いから家で涼め。人の敷地で熱中症で死なれたら寝覚めが悪い」

 ぶっきらぼうな言い方だった。優しさのかけらもない声色で、心配しているというよりは面倒くさそうに見えた。私が黙って見上げていると、お兄さんは舌打ちに近いため息をついて、踵を返した。

「来るならついて来い。来ないなら別の場所に移動してくれ」

 背中だけ見せて、自分の家の門をくぐっていく。門から玄関ではなく、家の横手に回って縁側へ向かっているのが見えた。私は側溝の蓋から立ち上がり、裸足のまま、お兄さんの後を追った。

 縁側のガラス戸が開け放たれていた。畳の部屋が見えて、座卓の上に原稿用紙が何枚も広げられている。お兄さんは縁側から上がると、振り返りもせずに座卓の前に座り、万年筆を手に取った。

「麦茶、台所にあるから。勝手に飲め」

 それだけ言って、原稿用紙に向き合い始めた。万年筆のペン先が紙の上を滑る音が、さらさらと小さく鳴った。お兄さんの背中は大きくて、和服の生地が肩の骨格に沿って張っていた。

 畳の部屋に上がり込み、台所で麦茶を見つけて飲んだ。冷蔵庫から出したグラスの表面に水滴がびっしりとついて、指の間から冷たい雫が滴り落ちた。喉を通る麦茶が冷たくて、身体の芯にまで染み渡るようだった。

 グラスを持ったまま座卓のそばに座り、お兄さんの背中を眺めた。万年筆の音だけが聞こえる部屋は、家の中で聞こえていた怒鳴り声とは別の世界のように静かだった。窓から入り込む風が畳の上を撫でて、原稿用紙の端をかすかに揺らしている。風鈴が鳴った。短く、涼しげな音が一つ響いて、余韻が畳の上に落ちた。

 お兄さんは私がいることを気にする様子もなく、黙々と万年筆を走らせていた。ペン先が紙に触れるたびに、小さな文字が生まれていく。何を書いているのかは、背中越しには見えなかった。ただ、規則正しく途切れることなく続くさらさらという音が心地よくて、いつの間にか膝を抱えたまま目を閉じていた。

 気がつくと、窓の外が夕焼けに染まっていた。

「起きたなら帰れ。夕飯の時間だろ」

 お兄さんの声で目が覚めた。座卓の前に座ったまま原稿に向かっている後ろ姿は、眠る前とまったく同じだった。何時間もあの姿勢で書き続けていたのかと思うと、右手の中指に浮かぶ硬いペンだこが妙に印象に残った。

「……ありがとうございました」

 小さく頭を下げて、縁側から外に出た。裸足のまま隣の家に戻ると、喧嘩はもう終わっていて、母が台所で夕飯の支度をしていた。父はリビングのソファでテレビを見ていた。リビングの壁に小さなへこみができていたことには、誰も触れなかった。

     ◇◇◇

 二度目に縁側を訪ねたのは、三日後だった。

 また両親が喧嘩を始めて、家を飛び出した。今度はサンダルを履いていた。隣の家の縁側に回ると、ガラス戸は開いていて、お兄さんが座卓に向かって万年筆を走らせていた。

「……また来ました」

 声をかけると、お兄さんは振り返りもせずに「おう。飲み物はセルフな」とだけ言った。

 三度目も、四度目も、同じだった。両親の喧嘩が始まるたびに家を出て、縁側のガラス戸から隣の家に上がり込む。お兄さんはいつも座卓の前にいて、万年筆を動かしていて、私が来ても来なくても同じ調子で原稿を書き続けていた。

 五度目に訪ねたとき、お兄さんの名前を知った。

 玄関の表札に「深瀬」と書いてあるのが目に入って、「深瀬さん」と呼んだら、お兄さんは面倒くさそうに振り返って「律でいい」と言った。私が「律さん」と呼び直すと、律さんは万年筆を止めて、初めてまともに私の顔を見た。

「お前、名前は」

「北坂紗那」

「紗那か。お前はいくつだ」

「十二歳」

 律さんが眉を上げた。それから何か考えるような間があって、万年筆に視線を戻した。

「十二歳のガキがいる前で夫婦喧嘩ねえ。お前も大変だな」

 本当に大変だと思っているのかわからない軽い口調で言うと、原稿に視線を落とした。ペン先が原稿用紙の上で滑り始めて、さらさらという音が部屋を満たした。

 やがて、律さんの仕事が小説を書くことだと知った。畳の上に積まれた原稿用紙の束、座卓の隅に置かれた校正刷り、本棚に並ぶ単行本の背表紙。律さんの本名は載っておらず、ペンネームで書いているのだと教えてもらった。ジャンルは恋愛小説だと聞いたとき、この無愛想な人が恋愛の話を書くのかと驚いて、思わず笑ってしまった。律さんは「うるせえ」とだけ言って、万年筆を動かし続けていた。

 夏が終わり、秋になり、冬が来ても、私は律さんの家に通い続けた。両親の喧嘩は季節に関係なく続いていたし、喧嘩がない日でも家の中の空気は冷たく張り詰めていて、居心地が悪かった。縁側のガラス戸は、いつ行っても鍵が開いていた。律さんが開けっぱなしにしてくれているのだと気づいたのは、冬になってからだった。寒い日にも、私が使う側の窓だけは鍵がかかっていなかった。

 通い始めて半年が経つ頃には、私は律さんの背中に寄りかかるようになっていた。

 最初は座卓から少し離れたところで、持ち込んだ漫画を読んでいた。ある日、律さんのすぐ後ろに座ってみたら、背中から伝わる万年筆の振動がより鮮明に感じられて、気づいたら寄りかかっていた。

「おい。重い」

 万年筆は止めずに、声だけが頭の上から降ってくる。

「ごめん。でも、ここがいちばん落ち着くの」

「勝手にしろ」

 律さんは文句を言いながらも、私を背中から引き剥がそうとはしなかった。和服越しに伝わる体温は温かくて、万年筆が文字を綴るたびに背中の筋肉が微かに動くのが心地よかった。ペン先が原稿用紙に触れる音は、まるで音楽のように一定のリズムで続いていて、私はその音を聞きながら漫画のページをめくった。

 中学二年の秋、両親が離婚した。

 親権は父が取り、母が家を出ていった。母がいなくなった家はやけに広く感じて、父と二人で食べる夕飯の時間が、怒鳴り声のあった頃よりもかえって息苦しかった。父は無口な人で、母がいなくなった理由について一度も説明しなかった。聞いてほしくないのだろうと察して、私も聞かなかった。

 律さんの家に行く頻度が増えた。学校が終わると真っ直ぐ縁側に向かい、ガラス戸を開けて上がり込む。律さんはいつもの場所にいて、いつもの万年筆を握っていた。「紗那」と呼ばれて、「先生」と呼び返すようになったのもこの頃だった。律さんが小説家だと知ってからずっと「律さん」と呼んでいたのを、ふと「先生」に変えたら、律さんが怪訝そうな顔をした。

「先生って柄かよ」

「小説家は先生って呼ぶんでしょう? 漫画でそう読んだ」

「漫画を教科書にすんな」

 呆れた声で言いながら、律さんは――先生は、否定も訂正もしなかった。それ以来、先生は先生のままだった。

 高校一年の春、父が再婚した。相手は職場の女性で、二十三歳だった。先生よりも若い女性が母親の代わりに台所に立つようになり、家の空気がまた変わった。新しい母親は悪い人ではないと思う。

 私に気を遣ってくれているのも、距離感を測りかねているのもわかった。ただ、私の家だったはずの場所に、知らない大人の匂いが増えていくことが、じわじわと居心地の悪さを積み重ねていった。

 先生の家で過ごす時間が、さらに長くなった。

 学校から帰ると縁側の窓を開け、畳の上に鞄を置いて、先生の背中に寄りかかる。漫画を読んだり、宿題をやったり、何もせずにぼんやりと万年筆の音を聞いたりした。先生は相変わらず「重い」と言った。日によっては「まじで重い。成長期か」と余計なひと言を足してきた。それでも私を追い出すことは一度もなくて、文句を言いながらも万年筆を止めずに、私を背中に乗せたまま原稿を書き続けた。

 先生の背中は大きかった。肩幅が広く、骨格がしっかりしていて、私の身体を預けてもびくともしなかった。和服の生地から立ち昇る煙草の匂いと、畳のい草の匂いと、万年筆のインクの匂いが混ざり合った空気が、私にとっての安全の匂いになった。

 ここにいるとき、素の私になれる。

 誰の顔色も窺わなくていい。父と母の喧嘩に耳を塞がなくていい。新しい母親と距離を測らなくていい。ただ先生の背中に体重を預けて、さらさらと鳴る万年筆の音を聞いているだけでよかった。

 先生のことが好き。いつから好きだったのかは、自分でもわからない。気がついたら好きだった。先生の大きな手が頭を撫でてくれるたびに、心臓がきゅっと痛くなった。先生が「紗那」と名前を呼ぶたびに、呼ばれた名前の響きが胸の中でずっと残響のように鳴り続けた。先生が煙草をくわえて窓の外を眺めている横顔を、漫画の陰からこっそり見つめる時間が、一日の中でいちばん幸せだった。

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  • 最低な大人の恋の始め方〜万年筆と嘘とキスマーク〜   第一話「蝉の声と先生の背中」

     蝉が鳴いていた。 耳の奥まで染み込んでくるような、途切れることのない蝉時雨が、平屋の一軒家を丸ごと包んでいた。開け放たれた窓という窓から熱気が流れ込み、風鈴の短冊だけがときおり気まぐれに揺れている。風はほとんどなく、庭の草木もぐったりと葉を垂らしたまま動かなかった。 八月の午後二時。一日のうちで最も日差しが凶暴になる時間帯に、私は先生の背中に寄りかかって、膝の上に載せたノートパソコンのキーボードを叩いていた。先生の背中は広くて、背もたれとしてはこの上なく具合がいい。和服の生地越しに伝わる体温が暑苦しいことを除けば、何時間でもこうしていられるくらい居心地が良かった。 先生はいつものように座卓に向かい、万年筆を走らせている。ペン先が原稿用紙の上を滑るたびに、カリカリと小さな音が鳴った。規則正しく、途切れず、流れるように連なっていくその音は、蝉の声に紛れてしまいそうなほど微かなのに、背中を通じて振動のように伝わってくるから不思議だった。 汗が首筋を伝い、キャミソールの肩紐に吸い込まれていく。額にも汗が滲んでいて、前髪が肌に張り付いていた。画面に視線を落とすと、打ちかけのレポートの文字が中途半端な状態で止まっている。「お前――まじで暑いから離れろ」 先生の声が頭の上から降ってきた。万年筆を動かす手は止まっていない。背中越しに感じる振動も途切れないまま、言葉だけが苛立ちを帯びて落ちてくる。「エアコンつけてよ」 パソコンの画面から目を上げずに返すと、先生が即座に「嫌いなんだよ」と突き返した。「じゃあ、我慢するしかないね」 私がそう答えると、万年筆の音が一瞬だけ止まった。先生が首を回す気配がして、和服の襟元が擦れる音が耳のすぐ近くで鳴る。「こっちは修羅場ってんの。背中にへばりつかれると、集中が削がれんだよ」「こっちも課題がやばいんだけど」「お前はだらけて、やってなかっただけだろ」 先生の声に呆れたような響きが混じった。背中の向こう側で万年筆が再び動き始めて、さらさらという音が戻ってくる。 都会から少し離れた田舎だから風さえ吹けばかろうじて過ごせるのに、今日に限っては空気が微動だにしなかった。庭に面した縁側から入ってくるのは蝉の声と熱気だけで、畳の上に寝転がっている座布団まで、じっとりと湿気を含んでいるのがわかった。「それ、先生もじゃん」 キー

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