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第2話

Author: ナナ
翌朝、彰はウォークインクローゼットでネクタイを結んでいた。

口紅を引き終えた私は、淡々と口を開いた。「今日の祝賀パーティー、私も一緒に行くわ」

彼のネクタイを結ぶ手が止まり、鏡の中で視線が絡んだ。

一瞬の驚きの後、彼はいつもの優しさを取り戻す。「もちろんいいとも。ただ、パーティーは人が多いから、君が疲れてしまわないか心配だ。お祝いを渡したら、すぐに帰ろう」

私は静かに頷く。心の中では分かっていた。

これが、彼の妻として参加する、最後の社交パーティーになるのだと。

夏川家のパーティー会場は、煌々と明かりが灯されていた。

街中の名士たちが一堂に会し、莉奈の懐妊を祝っている。

シャンパングラスを片手に隅へ移動し、人混みを避ける。けれど、莉奈に向けられる、大袈裟なまでの賞賛の声は避けられなかった。

「莉奈様、今回のオークションで発表される新作ジュエリー、実に独創的なデザインですね。どれか一つだけでも、とんでもない高値がつくでしょう!」

「貴女が主催なさるオークションに参加できて光栄ですわ。きっと大成功を収めることでしょう!」

莉奈は賞賛の渦に浸り、満面の笑みを浮かべている。

「いえいえ、とんでもない。わたくしなんて、ほんの遊びのつもりで……」

彼女が私に気づいた時、その目に一瞬、後ろめたさがよぎったが、すぐにそれは掻き消えた。

「詩織」と、彼女は声を張った。「顔色が悪いのね。もしかして、まだオークションのことで悩んでるの?大丈夫よ、この件はわたくしに任せておけば。あなたは、家でおとなしくしててちょうだい。邪魔しないでくれるだけで十分だわ!」

私は彼女を無視し、大型スクリーンに映し出されたジュエリーの手描きデザイン画へと視線を移した。

はっきりと目にした瞬間、心臓がぐっと縮こまった。

これは、私のデザインだ!

このシリーズのジュエリーは、その一枚一枚が、私が幾夜もかけて推敲を重ねた血の滲むような努力の結晶だ。

どのデザイン画も未公開で、オークションで華々しく披露するつもりだったのに。

それなのに今、そこには『莉奈』の名が記されている……

莉奈が近寄り、私の耳元で囁く。

「詩織、私のデザイン、気に入った?そのうち鷹司家の取締役会から配当金が支払われることになるけど、あまり嫉妬しないでよね」

私は両の拳を固く握りしめ、怒りで全身が震えた。

私が何か言い返そうとした、その時。彼女は突然、大きく後ろへ倒れ込み、お腹を押さえて甲高い悲鳴を上げた。

「きゃっ!詩織、あなた、何するのよ!」

彼女は床に座り込んでわんわんと泣きじゃくり、その声は会場中の注目を集めた。

「何事だ!」

「莉奈様はご懐妊中だぞ、押すなんて!」

「誰か、医者を!」

混乱の中、長身の影が人混みをかき分けて駆け寄り、細心の注意を払って莉奈を抱きかかえた。

彰だった。

彼は私を一瞥だにせず、まるで私が彼の世界に存在しないかのように振る舞った。

彼は心配そうに莉奈をあやす。「大丈夫か?」

莉奈は彼に寄り添い、か細い声で訴える。「彰さん……痛い……」

彰が顔を上げ、私を見る。かつての優しさは消え失せ、そこには失望だけがあった。

「詩織」彼の声は平坦だったが、どんな非難よりも鋭く突き刺さった。「不満があるなら、家で話せばいい。なぜ、こんなにも悪意に満ちた真似をするんだ?」

だが、彼の言葉はほとんど耳に入らなかった。

私はただ彼を見つめ、低い声で尋ねた。

「ねぇ、彰、どうして彼女が、私のジュエリーデザインの原画を持っているの?」

彼は僅かに虚を突かれ、視線を逸らし、あくまでも白を切る。

「偶然だろう。彼女もジュエリーが好きなんだ。君たちは姉妹なんだから、デザインの着想が似通うこともあるだろう」

偶然?

私のデザイン画は全て暗号化されたファイルで、パスワードを知っているのは、私と彼、二人だけだというのに。

まるで頬を平手打ちされたような衝撃だった。真相は、あまりにも明白だ。

誰かが私を、裏切ったのだ。

あの新作ジュエリーシリーズは、本来、私たちの結婚五周年のために用意した贈り物だった。

あれで証明したかったのだ。私は単なる付属品ではなく、大富豪の跡継ぎと肩を並べて立てる女なのだと。

それが今や盗まれ、翻って私自身に刃を向ける凶器と化した。

ふと、笑いがこみ上げてきた。笑っているうちに、目の縁が熱くなり、鼻の奥がツンとした。

それを見て、彼はようやく狼狽えた。

彰は莉奈を医療スタッフに預けると、一歩前に出て、私の手を強く掴んだ。

「どうした?どこか具合でも悪いのか?ここは騒がしすぎる、まずは家に帰ろう」

私は深呼吸で涙を押し殺し、平然と言った。「ええ、そうね」

彼の表情が、目に見えて和らいだ。

私は口元の笑みを崩さぬまま、言葉を続けた。

「でも、家には帰りたくないわ。明日は私の誕生日だから。あなたと二人で、山の頂上から朝日を見たいの」
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