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第3話

Author: ナナ
山頂へ向かう道中、車内は静寂に包まれていた。

彰の手が私の手のひらに重ねられる。その掌は温かく、声色は完璧なまでに優しかった。

「君がお気に入りの三つ星レストランのシェフは一日貸し切りにしてある。誕生日のパーティーで食べたいものがあれば、何でも彼に作らせるといい」

彼は少し言葉を切り、眼差しを和らげた。

「この忙しい時期が落ち着いたら、俺たちの子供も考えよう。君はずっと、子供が好きだと言っていただろう?」

私は答えず、ただ窓の外を飛ぶように過ぎ去っていく景色を見つめていた。

彼には知る由もない。私たちには、とうの昔に子供ができていたはずだったということを。

けれど、その小さな天使は、彼が自らの口で病院に下した指令によって、すでにこの世を去っていたのだ。

パーティー会場を出て間もなく、彰のプライベート用の携帯が鳴った。

彼は電話に出ると、低い声で二言三言応じた。

そしてこちらへ向き直り、申し訳なさそうな顔で言った。

「会社で緊急事態が発生した。俺が戻って対処しなければならない」

私は頷き、落ち着いた声で言った。「行って。仕事が大事よ」

彼はわずかに戸惑い、何かを説明しようとするように口を開いた。「詩織、俺は……」

「大丈夫、行って」私は笑って彼の腕を軽く押した。「山頂で待っているわ。一緒に朝日を見るって、約束してくれたもの」

私は一人で山頂に登った。

風は冷たく、深夜の中ではスマートフォンの画面の光がやけに目に刺さる。

莉奈がSNSを更新していた——

写真の中の彼女は、患者衣を身につけ、いかにも可哀想といった様子で病院の長椅子に座り、お腹をさすっている。

添えられた文章はこうだ。「今夜は本当に怖かった。妊娠中の身で、人前で突き飛ばされるなんて。幸い、赤ちゃんは無事でした!でも、ある人が全ての仕事を放り出して駆けつけてくれて……この感謝、どう伝えたらいいか分からない」

彼女の隣にいる、ぼやけた人影に、私は一目で見覚えがあった。

彰だった。

私は彼の番号に電話をかけた。長いコール音の末に、電話に出たのは莉奈だった。

「あら?詩織?彰さんは今、あなたにかまっている暇なんてないわよ。私の体のことを、お医者様から詳しく聞いてくださっている最中だもの」

彼女の声には、濃密なほどの勝ち誇った響きがあった。「あなたが分かってないのよ、彼がどれだけ私を大切に想っているか。一度、道で転んだだけのことを、車に撥ねられそうになったって大げさに騒いだことがあるの。そうしたら十分もしないうちに、彼は鷹司グループ付属病院の各科の専門医を全員、私の家に呼びつけたのよ。系列病院の救命救急センター長すら、他の患者を後回しにして駆けつけ、まず私の足首を診なければならなかったくらい。あなたなんかが、私と比べものになると思って?」

受話器の向こうから、彼女の軽やかで、それでいて悪意に満ちた笑い声が聞こえてくる。

私の血の気は、ただ、すうっと引いていった。

彼女が口にしたその夜のことを、私が知らないはずがないじゃない。

あの夜、私は子供を失った。

引き延ばされた『緊急手術』は、私のためのものだった。

そしてこの惨劇の元凶は、莉奈の、ほんの気まぐれな嘘一つだったなんて!

私は震える手で、電話を切った。

私は一晩中待った。夜の闇が山々を飲み込み、腕時計の針が半周するまで。

日の出が近づいても、彰は、やはり現れなかった。

私は付き添いの運転手に言った。「先に帰ってください」

運転手は少し躊躇った。「奥様、お帰りにならないのですか?」

私は首を横に振り、静かな声で言った。「もう少し、一人でここにいたいの。山の新鮮な空気を吸いたくて」

運転手は何か言いたげだったが、私の身分を思い、やがて立ち去った。

私はゆっくりと前へ歩き出し、虚ろな目で灰色の空を見上げた。

彼の愛の言葉、彼の抱擁、彼の誓い……

記憶の断片が脳裏をよぎっても、私の心は凪いだまま、何の波紋も立たなかった。

莉奈への『最優先で対応、全てに優先する』という扱いに比べれば。

それらは、あまりにも滑稽に思えた。

最初の一筋の陽光が雲を突き抜けた時、私は最後にもう一度、彼の番号に電話をかけた。

けれど、彰の携帯は、電源が切られていた。

スマートフォンの画面を見つめながら、私は彰宛に一通のタイマー付きメールを設定した。

メールには、三つのものを添付した。

【橘莉奈の治療を優先せよ】と書かれた、病院の内部指示書の写真。

治療の遅延が原因で流産したことを示す、私のカルテのコピー。

そして、車に撥ねられたのは嘘だったと莉奈自身が認める、通話の録音データ。

全てを終えた私は、地平線の向こうに顔を出し始めた太陽を見つめる。

そして、躊躇うことなく、身を投げた。

……

一方、彰は病院を出ようとしていた。

莉奈が腕を伸ばして彼を引き留める。その声は弱々しい。「彰さん、もう少しだけ、そばにいてくれたら、だめ?」

彰は首を振り、断固とした口調で言った。「だめだ。今日は詩織の誕生日なんだ。彼女と朝日を見ると約束した。彼女の所へ行かなければ」

その時、彼のアシスタントが血相を変えて飛び込んできた。

「社長、大変です!奥様が、崖から身を投げて自ら命を……!」
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