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最愛の君を失った、あの日
最愛の君を失った、あの日
作者: 満々

第1話

作者: 満々
財界の頂点に君臨する名門に嫁いで十年目、榊原晩夏(さかきばら ばんか)は末期がんと診断された。

病院でひとしきり泣いた直後、夫・榊原研(さかきばら けん)から電話がかかってきた。

どこか気のない声だった。「白金中央通りのカフェだ。あの子の写真は携帯に送った。四千万以内で片付けてくれ」

結婚して十年。

研は九十九回も不倫をした。――そして、これが百回目。

晩夏の顔色は蒼白で、言葉にできない悲しみが涙となってこぼれ落ちる。「研……もう疲れたの。今、まだ病院にいる。あなたに話がある」

電話の向こうで、研は笑った。「安心しろ。これで最後だ。話があるなら、今夜の家族の食事会で聞こう」

晩夏は長い時間をかけて気持ちを落ち着かせ、診断書と携帯をバッグにしまった。

胸が重く、息が詰まりそうだった。

その苦しさの名は――愛。

そもそも、愛とは何だろうか。

晩夏にとっての愛とは、若く多感だった頃に芽生えた、一目で心を奪われるほどの想いだった。

そして、研の心に永遠に残る忘れられない人が亡くなったあと、見返りを求めることもなく、十年間、身代わりとして生きてきたことでもあった。

さらには――今こうして、どこか姉に面影の似た若い女性と向かい合い、苦いコーヒーを口にしながら、何事もないかのように穏やかに言葉を交わすことでもあった。

「研に頼まれて、会いに来ました。彼の妻です。私たちは結婚して十年になります。……いくら欲しいですか?」

若い女性は取り乱して叫んだ。「彼は私を愛してる!亡くなった妻に似てるって言ってた!あなたが妻のはずないじゃない!嘘ついてるんでしょ!」

だが今日の晩夏には、相手をなだめる気力はなかった。

カップの中のコーヒーを飲み干し、相当額の小切手を残して、静かに店を出た。

五歳で研と出会い、二十歳で夫婦になった。

彼は言った。

上流社会の男なんて皆そうだ。愛人の一人や二人、誰にだっている、と。

だが今夜、彼は新しい恋人・秦野奈々(はたの なな)を家族の食事会に連れてきた。

二人が晩夏の隣に腰を下ろした瞬間、奈々の指先に輝くダイヤの指輪が、晩夏の胸に鋭い痛みを走らせた。

その場で研の祖父・榊原隆宗(さかきばら たかむね)が激しくテーブルを叩いた。

「研!これは家族の席だぞ!結婚した妻が表に出せないだけでも恥だというのに、今度はこんな素性の知れない女まで連れてきて……わしを怒り死にさせる気か!」

しかし研は聞く耳を持たなかった。

優しくゴムで奈々の柔らかな黒髪をまとめながら、低い声で語りかける。

「カニは食べない?どうして?ああ、アレルギーか。忘れてた。

じゃあエビは?手が汚れるのが嫌?大丈夫、俺が剥いてやる」

隆宗は怒りで息も絶え絶えになり、胸を押さえて呻いた。「この出来損ないめ……」

隆宗が部屋へ運ばれていくと、広い食卓には三人だけが残った。

高価なイタリア製の手縫いシャツの袖を高くまくり上げ、研は奈々のためにエビを剥きながら、世間話でもするかのように晩夏に言った。「時間を見つけて離婚手続きしよう。奈々、妊娠した」

晩夏の心臓に、鋭い刃が突き立てられたようだった。その痛みに、足つきグラスを握る力を失う。

床に落ちたガラス片が跳ね上がり、晩夏の脛を鋭く切りつけた。

だがその痛みは、心の痛みに比べれば万分の一にも及ばなかった。

妊娠?

結婚して十年、晩夏は七人の子供を堕ろした。

最後の一人は二年前。

晩夏は海外へ逃げ、密かに出産しようとしたが、結局見つかって連れ戻された。

泣きながら懇願した。「研……医者が言ったの。これ以上中絶したら、一生子供が産めなくなるって。お願い、この子を残させて……」

だが研は微笑んだまま言った。

「晩夏、もう忘れたのか。お前の姉と俺の母が、どうやって死んだのかを。

お前の姉は昔から純粋だった。お前のその、吐き気がするような思惑なんて想像もしなかっただろうな。

お前はずっと俺のことを愛していたんだろう?その醜く汚れた愛のせいで、お前はわざと彼女を死なせた。

俺がお前と結婚した理由が、何だと思っている?

俺の子供を産みたいだと?……身の程を知れ。お前は一生、俺のそばに縛られて、罪を償い続けるべきなんだ」

その時、晩夏は初めて悟った。研が自分と結婚した本当の理由を。

自分は可笑しいほど愚かだった。研と共に生き、やがて情が芽生えると夢見ていたなんて。

少女の頃から胸に秘めていた想いを、研はずっと知っていたのだ。

……

研は榊原家の婚外子だった。

幼い頃から、ギャンブルに溺れる母・前田美沙(まえだ みさ)とスラム街で暮らしていた。

水商売の女が産んだ子供など、榊原家は相手にしなかった。

だが榊原家の二代目・三代目の跡継ぎが飛行機事故で相次いで亡くなり、隆宗は最後に残った血筋である研を榊原家へ迎え入れるしかなかった。

研は榊原家に引き取られる時、美沙にこう言った。向こうで地位を固めたら、迎えに来る、と。

だが人生は、いつも予想外の方向へ転がる。

借金取りが押しかけてきた夜、美沙は命がけで晩夏を外へ逃がした。「晩夏、逃げて。警察を呼びなさい。早く」

だが晩夏は怖くて、公園の隅で一晩震えていた。

翌朝、庭には無惨な姿となった美沙の遺体。

そして晩夏の姉・江口晩月(えぐち ばんげつ)は片腕だけを残し、行方知れずになっていた。

研が駆けつけた時、晩夏は泣きながら何度も謝った。「ごめんなさい……」

研は晩夏の手を引き、榊原家へ連れ帰った。

そして彼はナイフで自分の体を九度も刺し、ようやく隆宗に二人の結婚を認めさせた。

その時の晩夏は、まだ気づいていなかった。研が自分を憎んでいることに。

結婚したのは――ただ晩夏を苦しめるためだったのだ。

「研……足切っちゃったの、痛い……」

回想に沈んでいた晩夏は、奈々を庇って立ち上がった研に突き飛ばされ、床へ倒れた。

ガラス片が掌に突き刺さる。

それは、傷だらけの心をさらに抉るかのようだった。

研はすすり泣く奈々を優しく慰め、小さなすり傷のついた奈々の脚に口づけると、冷酷な視線を晩夏へ向けた。「余計なことは考えなくていい。離婚すれば、金も家も株も全部やる。だがもし面倒を起こすなら……容赦しないぞ」

晩夏は胸を押さえ、ようやく理解した。研が電話で言っていた「これで最後だ」の意味を。

淡々とした声で、皮肉を込めて言う。「離婚しないと言ったら?どうするの?」

研は冷笑した。「試してみればいい。俺がどうするか、思い知ることになる。……大人しく離婚届にサインしろ。金も家も株も、全部やるから」

晩夏も笑った。

今の自分はそれらをもらっても、何の意味もない。

自分の体はがんに蝕まれていた。

医者は言った。抗がん剤すら必要ない。――長くてあと一か月。

涙がこぼれる前に、晩夏は立ち上がり、エルメスのバッグを手に取った。「諦めなさい。私は一生、あなたと離婚しない。あなたの配偶者欄を、一生占領してやる。死んでも……私は榊原夫人よ」

彼女は必死に涙をこらえた。

自分のパナメーラに乗り込んだ瞬間――

堰を切ったように涙があふれ出し、声を押し殺すこともできず、嗚咽を漏らした。

長い時間が過ぎたあと、彼女はようやく携帯電話を取り上げ、ある番号へ発信した。

夜の帳の中で、晩夏の声はかすれながらも、はっきりとした強さを帯びていた。

「自然葬の予約をお願いしたいのですが。名前は、榊原晩夏です。……十日後、そちらに向かいます」
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