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ホワイトデーの求婚は、嘘だった

ホワイトデーの求婚は、嘘だった

Por:  あまななCompletado
Idioma: Japanese
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ホワイトデーの前夜。 妊娠五か月の私、夏川綾乃(なつかわ あやの)は、恋人の赤坂直哉(あかさか なおや)から「ちゃんとプロポーズしたい」と告げられた。 胸を弾ませて向かったのは、直哉が予約した山あいのペンション。 けれど着いてみると、そこは直哉の初恋の相手、園田結愛(そのだ ゆあ)が新しく始めたキャンプ場だった。 夕食のとき、結愛はきのこのスープを出してきた。 「妊婦さんには栄養があるのよ」 そう笑って、私に勧めた。 それを口にした私は、吐き続けて脱水を起こし、病院へ運ばれた。 顔中に赤い発疹が出て、間近に控えたコスメ発表会は中止。 高額のキャンセル料や違約金まで発生し、私は一気に追い詰められた。 マネージャーの香村美咲(こうむら みさき)は、私の代わりにSNSで結愛のキャンプ場の利用を控えるよう呼びかけてくれた。 それを知った直哉は、激怒した。 「離婚して一人でやり直そうとしている結愛を、そこまで追い詰める必要があるのか」 そう言って、私を責めた。 ホワイトデー当日、直哉は私を車に乗せ、結愛に謝りに行かせると言った。 けれど車が止まったのは、キャンプ場ではなく、山の中腹だった。 直哉は私のバッグとスマホを奪い、ぬかるんだ山道の脇に、私ひとりを置き去りにした。 「ここから歩いて行って、結愛に謝ってこい」 雨はどんどん強くなった。 私はお腹をかばいながら泥道で何度も転び、ズボンの裾は血で染まった。 このまま夜を越せないかもしれない。 そう思ったとき、山道を見回っていた管理人が、私を見つけてくれた。 救急車の中で、直哉から届いたボイスメッセージが再生された。 「放っておけ。どうせ芝居だ。 腹があれだけ大きくなって、今さら別れ話で俺を脅せると思ってるのかよ。 ホワイトデーに少し思い知らせただけだ。自分が結愛より上だなんて勘違いされちゃ困るからな」 私は再生を止めた。 そして、震える手で手術同意書に名前を書いた。

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Capítulo 1

第1話

私の名前は、夏川綾乃(なつかわ あやの)。

ホワイトデーは、本来なら赤坂直哉(あかさか なおや)が私にプロポーズしてくれるはずの日だった。

前の晩、直哉からメッセージが届いていた。

【明日、サプライズを用意してる】

それだけでも胸が高鳴ったのに、続けて届いた一文で、私はすっかり舞い上がってしまった。

【綾乃と赤ちゃんを、ちゃんと家族として迎えたいんだ】

私はスマホを握りしめたまま、しばらく頬が緩みっぱなしだった。わざわざゆったりした白いワンピースを選んだのも、妊娠五か月のお腹を少しでも目立たせないためだ。

この日が、人生でいちばん幸せな一日になる。

そう信じて疑わなかった。

けれど、山に着いた私を待っていたのは、プロポーズではない。

直哉の初恋の相手、園田結愛(そのだ ゆあ)が新しく始めるキャンプ場の、プレオープンだった。

直哉の言うサプライズは、五か月のお腹を抱えた私を連れてきて、結愛のキャンプ場の宣伝役にすること。

夕食の時間になると、結愛がきのこのスープを運んできた。

その顔には、優しい笑みが浮かんでいる。

「綾乃、地元の人にわざわざ聞いたの。これ、妊婦さんにもいいんだって」

私はきのこが苦手だった。

直哉は私の隣に座り、スープを一杯よそって私の前に置いた。

「結愛が午後ずっと準備してたんだ。せっかくなんだから飲めよ」

私は飲んだ。

半分も飲まないうちに、胃の奥が焼けつくように熱くなっていく。

トイレに駆け込んだ私は、喉の奥に血の味が広がるまで吐き続けた。やがて、顔中に赤い発疹まで浮かび始める。

予定していた新作コスメの発表会は中止。

ブランド側からは、代理人弁護士を通じて正式に抗議を受けた。マネージャーの香村美咲(こうむら みさき)は、怒りで声を震わせていた。

「下処理もろくにしていない野生のきのこを妊婦に食べさせるなんて、下手したら命に関わるのよ!」

美咲は、私のSNSで結愛のキャンプ場を名指しし、利用を控えるよう注意を呼びかけてくれた。

その夜。

病室のドアが、勢いよく開いた。

直哉はベッド脇まで来るなり、スマホを私の布団の上へ投げつけた。

私の具合も、お腹の子のことも、直哉はひと言も尋ねない。

「綾乃、これで気が済んだか。

結愛のキャンプ場、ネットで散々叩かれてる。もう営業どころじゃないんだぞ」

喉はまだひりついていて、声がうまく出ない。

「……結愛の出したものを食べたから、こうなった」

直哉は鼻で笑った。

「野生のものだろ。少し合わなかったくらいで、そこまで大ごとにする必要あるか?

結愛は離婚して、やっと立ち直ろうとしてるんだぞ。始めたばかりのキャンプ場まで潰して、何がしたいんだよ」

私は直哉を見た。

七年も一緒にいた相手なのに、その瞬間、ひどく遠い人に思えた。

私は人前に立つ仕事をしている。

顔に発疹が出ることが、どれだけ大きなことか。直哉なら分かっているはずだった。

妊娠してから、体調だってずっと不安定だった。

この発表会のために、半年かけて準備してきた。

それなのに直哉が心配しているのは、私でも、お腹の子でもない。

叩かれている結愛のことだけだった。

ホワイトデー当日、直哉は私に、結愛のところへ謝りに行けと言ってきた。

私は拒んだ。

次の瞬間、身体がふわりと浮く。

直哉に抱え上げられ、そのまま車へ押し込まれた。

乱暴な揺れに、お腹の奥がきゅっと痛む。

「お願い、もう少しゆっくり……」

それでも直哉は、速度を落とさない。

車が山の中腹で止まった瞬間、胸の奥が嫌な音を立てた。

「直哉、何する気?」

直哉は答えない。シートベルトを外し、助手席側へ回ってドアを開ける。

バッグもスマホも、まとめて奪われた。

「結愛のキャンプ場をめちゃくちゃにしたんだ。

歩いて行け。本人の前で謝ってこい」

思わず自分の耳を疑った。

「私、妊娠五か月なの」

直哉は眉ひとつ動かさない。

「だから途中まで乗せてきてやったんだろ。全部歩かせるよりマシだ。

綾乃、お前、昔はこんな女じゃなかったよな。いつからそんなに性格が悪くなったんだ」

ドアが閉まる音が、山道に響いた。

テールランプはすぐに、木々の向こうへ消えていく。

雨は突然だった。

土の山道はみるみるぬかるみ、踏み出すたびに泥が跳ねる。

私はお腹をかばいながら、一歩ずつ前へ進んだ。

最初に足を滑らせた拍子に、膝を石に打ちつける。

立ち上がろうとして、また滑った。

二度、三度。

泥に手を突いた瞬間、指先に鋭い痛みが走った。爪がめくれているのが分かる。

脚の傷から雨に薄まった血が流れ、ズボンの裾に赤く滲んでいった。

泥の中に倒れ込んだまま、私は直哉の名前を呼んだ。

返事はない。

どれくらい経ったのか分からない。

雨音の向こうから、誰かの声と懐中電灯の光が近づいてきた。

山道を見回っていた管理人だった。

担架に移されたときには、意識はもうほとんど残っていなかった。

救急車の中で、管理人が美咲に電話をかけてくれた。

スマホは、沢のそばの泥の中から拾い上げられた。

画面は割れていたが、まだ電源は入る。

直哉からの音声メッセージが、何件も届いていた。

美咲がひとつ再生する。

「放っておけ。どうせ芝居だ」

直哉の声だった。

「腹があれだけ大きくなって、今さら別れ話で俺を脅せると思ってるのかよ。

ホワイトデーに少し思い知らせただけだ。自分が結愛より上だなんて勘違いされちゃ困るからな」

救急車の中が、しんと静まり返った。

管理人は険しい顔で黙り込み、美咲は目を赤くして私を見た。

「綾乃……」

私は泣かなかった。

ただ手を伸ばし、再生を止めた。

病院に着くと、すぐに検査へ回された。

結果を確認した医師の声は重かった。

「夏川さん、胎児の状態がかなり不安定です」

差し出された検査結果の文字は、うまく頭に入ってこない。

ただ、いちばん下の一文だけが目に焼きついた。

妊娠継続は困難。人工妊娠中絶を要する可能性あり。

胸の奥が、ぎゅっと苦しくなった。

お腹の下のほうに、まだ鈍い痛みが残っていた。少し動くだけで、奥までずんと響く。

「手術をしなかったら、どうなりますか」

医師はすぐには答えなかった。

「胎児の心拍が不安定な状態です。お腹の中で、赤ちゃんがかなり苦しんでいる可能性があります。

食中毒に、強いアレルギー反応、低体温。そこへ転倒の衝撃も加わっています。子宮の収縮も続いていますし、胎盤が一部はがれかけている可能性も否定できません。

このまま妊娠を続けるのは、赤ちゃんにとっても、夏川さんにとっても危険です。最悪の場合、大量出血につながるおそれがあります」

私は手の甲に残った点滴の跡を見つめた。

しばらくして、顔を上げる。

「……同意書にサインします」

医師は静かにうなずいた。

震える手でペンを握る。

指先にうまく力が入らない。

それでも私は、署名欄に名前を書いた。

その瞬間、七年続いた恋も終わった。

署名を終えると、私は弁護士の佐伯宗一郎(さえき そういちろう)に電話をかけた。

「佐伯先生。新居にするはずだったマンションの件、競売の申立てを進めてください」

電話の向こうで、宗一郎が一瞬黙った。

「夏川さん、本当に進めてよろしいんですね?」

「はい」

あのマンションは、登記上は直哉の名義になっている。

けれど頭金は、両親が交通事故で亡くなったあと、私に支払われた賠償金から出したものだった。

それだけではない。

直哉の起業資金として、私はさらにまとまった額を貸している。

借用書には、直哉本人の署名があった。

その担保に、あのマンションも入れてある。

「これがあれば、お前も安心だろ」

その言葉を、私は疑わなかった。

まさか本当に、この書類を使う日が来るとは思っていなかった。

「できるだけ早く、競売にかけてください」

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第1話
私の名前は、夏川綾乃(なつかわ あやの)。ホワイトデーは、本来なら赤坂直哉(あかさか なおや)が私にプロポーズしてくれるはずの日だった。前の晩、直哉からメッセージが届いていた。【明日、サプライズを用意してる】それだけでも胸が高鳴ったのに、続けて届いた一文で、私はすっかり舞い上がってしまった。【綾乃と赤ちゃんを、ちゃんと家族として迎えたいんだ】私はスマホを握りしめたまま、しばらく頬が緩みっぱなしだった。わざわざゆったりした白いワンピースを選んだのも、妊娠五か月のお腹を少しでも目立たせないためだ。この日が、人生でいちばん幸せな一日になる。そう信じて疑わなかった。けれど、山に着いた私を待っていたのは、プロポーズではない。直哉の初恋の相手、園田結愛(そのだ ゆあ)が新しく始めるキャンプ場の、プレオープンだった。直哉の言うサプライズは、五か月のお腹を抱えた私を連れてきて、結愛のキャンプ場の宣伝役にすること。夕食の時間になると、結愛がきのこのスープを運んできた。その顔には、優しい笑みが浮かんでいる。「綾乃、地元の人にわざわざ聞いたの。これ、妊婦さんにもいいんだって」私はきのこが苦手だった。直哉は私の隣に座り、スープを一杯よそって私の前に置いた。「結愛が午後ずっと準備してたんだ。せっかくなんだから飲めよ」私は飲んだ。半分も飲まないうちに、胃の奥が焼けつくように熱くなっていく。トイレに駆け込んだ私は、喉の奥に血の味が広がるまで吐き続けた。やがて、顔中に赤い発疹まで浮かび始める。予定していた新作コスメの発表会は中止。ブランド側からは、代理人弁護士を通じて正式に抗議を受けた。マネージャーの香村美咲(こうむら みさき)は、怒りで声を震わせていた。「下処理もろくにしていない野生のきのこを妊婦に食べさせるなんて、下手したら命に関わるのよ!」美咲は、私のSNSで結愛のキャンプ場を名指しし、利用を控えるよう注意を呼びかけてくれた。その夜。病室のドアが、勢いよく開いた。直哉はベッド脇まで来るなり、スマホを私の布団の上へ投げつけた。私の具合も、お腹の子のことも、直哉はひと言も尋ねない。「綾乃、これで気が済んだか。結愛のキャンプ場、ネットで散々叩かれてる。もう営業どころじゃないんだぞ
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第2話
手術は三日後に決まった。炎症を抑え、点滴で体の状態を整えてからでなければ、手術はできないと医師に告げられた。美咲はずっとそばにいてくれた。目は赤く、ほとんど眠っていないのが分かる。「少し寝て。病院の外のことは、私が何とかするから」私は首を振った。「発表会は……?」美咲は答えなかった。それだけで、結果は分かった。そのとき、スマホが震えた。直哉からだった。私は出なかった。けれど、すぐにまた鳴る。三度目の着信で、美咲が代わりに通話をつなぎ、スピーカーにした。「綾乃、いい加減にしろよ」直哉の声には、苛立ちがにじんでいた。私は何も言わない。「結愛は一晩中泣いてたんだぞ。お前がアレルギーを起こすなんて、本当に知らなかったって言ってる。今すぐあの投稿を消せ。それから謝罪の動画を上げろ」美咲は呆れたように笑った。「赤坂社長。綾乃がどこにいるかも知らずに、よくそんなことが言えますね」直哉は少し黙った。「どこって……どうせ、俺が迎えに来るのを待って、どこかに隠れてるだけだろ」美咲の声から温度が消えた。「病院です。お腹の子も危ない状態でした」電話の向こうが、ふっと静かになる。けれど次に返ってきた声には、心配の色などなかった。「美咲さん、そうやって大げさに言うのはやめてくれ。綾乃はすぐ子どものことを持ち出す」私は天井を見つめたまま、妊娠が分かった日のことを思い出していた。あの日、直哉は私を抱き上げて、嬉しそうに笑った。「綾乃、俺たち、本当に親になるんだな」そのときの私は、本気で信じていた。直哉も、この子を待ち望んでくれているのだと。けれど今なら分かる。――人は変わるのだ。それとも、変わったわけではなく、私には彼の本性が見えていなかっただけなのかもしれない。結愛が戻ってきて、ようやくそれに気づいただけだった。電話の向こうから、結愛の声が割り込んできた。「直哉、もういいよ。綾乃を責めないで。全部、私が悪いの。私なんか、戻ってこなければよかった」か細い声だった。まるで、自分こそが一番傷ついているとでも言うように。直哉はすぐに声をやわらげた。「結愛のせいじゃない。そんなこと言うな」けれど、私に向ける声は違った。「綾乃、聞こえただろ。
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第3話
翌日、新居にするはずだったマンションが、競売物件として掲載された。それから直哉からの電話は、朝から夜までかかってきた。ひとつ着信拒否にすれば、すぐに別の番号。最後には、結愛の番号からメッセージが届いた。【綾乃、怒ってるのは分かるよ。でも、あの家は直哉にとって大事なものなの。そこまでするのは、さすがにひどいよ】その文面を見て、思わず笑いそうになった。美咲がスマホを取る。「言い返していい?」私は首を振った。「必要ない」ほどなくして、今度は結愛から音声が届いた。流れてきたのは、甘ったるいほどやわらかい声だった。「綾乃、本当に傷つけるつもりなんてなかったの。あのスープ、私も飲んだの。私は何ともなかったから、そんなに大変なことになるなんて思わなくて。綾乃が私を憎むなら、私は引くよ。でも、直哉まで追い詰めないで」私は音声を保存し、そのまま宗一郎へ転送した。【これも証拠に入れてください】美咲が親指を立てた。「いい判断」私はかすかに口元を緩めた。けれど次の瞬間、お腹の奥がぎゅっと痛む。体が勝手に丸まり、冷たい汗がにじみ出た。看護師が駆けつけ、私はそのまま検査へ回された。結果を確認した医師は、厳しい表情で口を開いた。「これ以上は待てません。遅れるほど、大量出血の危険が高くなります」診察室の椅子に座ったまま、私は冷えきった手を握りしめた。「今日、できますか」医師が私を見た。「本当に今日でいいんですね?」私はうなずいた。「はい」手術の前に、同意書と緊急連絡先の確認が必要になった。同意書には、私自身が署名すればいい。ただ、術後の説明や万が一の連絡のために、家族か、それに代わる人を一人立ててほしいと病院側は言った。両親はとっくに亡くなっている。祖父母も、もういない。この数年、私は直哉を家族のように思ってきた。けれど今、その欄に直哉の名前を書くことはできなかった。「私ではだめですか」美咲が言った。医師は少し困ったように答えた。「付き添いはしていただけます。ただ、今回の手術はリスクがありますので、緊急時に連絡が取れて、ご本人との関係を確認できる方にも説明を受けていただきたいんです」美咲は黙った。私はペンを握った。手が震えて、うまく
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第4話
目を覚ますと、病室は静かだった。カーテンは半分ほど引かれている。私は無意識に、お腹へ手を伸ばした。そこは前よりずっと平らで、ひどく空っぽだった。涙は出なかった。あの山の雨の中で、もう全部流れてしまったのかもしれない。ソファに座っていた怜司が、私に気づいて立ち上がる。水を注ぎ、そっと差し出してくれた。「手術は無事に終わったそうだ」私はコップを受け取った。「ありがとう」怜司は少しだけ私を見て、低く聞いた。「痛むか」私は首を振った。本当は痛かった。息をするだけで、お腹の奥がずんと響く。でも、言いたくなかった。怜司も、それ以上は聞かなかった。代わりに、ベッド脇へオレンジ味の飴をひとつ置いた。「子どもの頃、注射のあとに綾乃のお母さんがよく買ってくれてただろ」私はその飴を見つめた。ありふれたオレンジ味のキャンディ。それだけなのに、胸がつまった。両親が亡くなってから、私が痛みに弱いことを覚えていてくれる人なんて、もういないと思っていた。直哉も知ってはいた。けれど彼はいつも言った。「もう大人なんだから、そんなに甘えるな」スマホが震えた。美咲からスクショが届いている。ネットはまた荒れていた。結愛がライブ配信を始めたらしい。キャンプ場の小さなペンションで、結愛は目を真っ赤にして泣いていた。「どうしてこんなことになったのか、私にも分かりません。ただ、もう一度やり直したかっただけなんです。相手は有名な人です。たった一言で、私なんて簡単に潰されてしまいます。本当に、傷つけるつもりなんてありませんでした」コメント欄は、私への罵声で埋まっていた。【妊婦なら一般人を晒しても許されるの?】【離婚して、女ひとりでキャンプ場を立ち上げるのがどれだけ大変か分かってる?】【美容系の人でしょ?肌荒れくらい、自分の使った化粧品が原因なんじゃないの】画面を見つめているうちに、分かった。結愛は、私に潰されるのを恐れているわけじゃない。直哉が本当に私のところへ戻るのを恐れている。だから先に、私を悪者にしたいのだ。嫉妬深くて、性格が悪くて、金に汚い女。そう見せてしまえば、直哉が私を選び直すことはない。直哉もSNSを更新していた。文章は、た
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第5話
結愛が連れていかれたあと、ネット上の反応は一気に変わった。キャンプ場には保健所の調査が入り、しばらく営業を止めることになった。過去に利用した客たちも、次々と声を上げ始める。食あたりを起こしたのに、返ってきたのは次回使えるクーポンだけだったという人。場内の通路で転んでけがをしたのに、その日の防犯カメラだけ映っていなかったという人。結愛がいつも「離婚して、一人でここまでやってきたんです」と言って、都合の悪いことを流していたという話まで出てきた。美咲が私のSNSで利用を控えるよう呼びかけた投稿も、今では「早く知らせてくれてよかった」と言われていた。ブランドの担当者からも美咲に連絡が入り、落ち着いたらまた話をしたいと言ってくれた。けれど、今はまだ仕事のことを考えられない。体は力が抜けたままで、少し動くだけでも奥が痛んだ。医師からも、しばらくは無理をしないようにと言われている。怜司は毎日、決まった時間に病院へ来た。温かいお粥と、薬と、オレンジ味の飴を一粒持って。余計なことは言わない。私と直哉の過去も聞かない。ただ、必要なことだけを黙って整えてくれた。退院の日、直哉が病院の入口で待っていた。ずいぶん痩せて、無精ひげまで伸びている。手には、古びた箱を持っていた。私に気づくと、直哉はすぐに歩み寄ってくる。その前に、怜司が私の前へ出た。直哉は一瞬、足を止めた。「少しだけでいい。話をさせてくれ」私は答えなかった。直哉が箱を開ける。中に入っていたのは、指輪だった。七年前、二人でショッピングモールを歩いていたとき、私がショーケースの前で見入ってしまったものだ。あの頃の私たちには、とても手が届かない値段だった。欲しいなんて、ひと言も言わなかった。ただ少し、目を奪われただけ。それなのに直哉は、私の手を握って言った。「いつか必ず買う」その後、直哉の会社は軌道に乗った。けれど私がその話をしたとき、彼は笑って言った。「指輪なんて形だけだろ。そんなものに金をかける必要あるか?」それなのに、結愛が帰国してから、直哉は彼女に何百万円もするネックレスを贈った。やり直す記念だとか言って。直哉は指輪を差し出した。「これ、買ってきた。綾乃、俺は今まで、お前のことを
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第6話
半月ほどたって、新居になるはずだったマンションは競売の入札日を迎えた。直哉から返済はなかった。というより、もう返せなかったのだと思う。炎上の影響で会社の評判は落ち、資金繰りも行き詰まっていた。進んでいた仕事の話も、次々に白紙になったらしい。結愛の件も、まだ片づいていなかった。家族があちこちに頼み込んでいるらしいが、ここまで騒ぎが大きくなると、簡単にもみ消せる人はいなかった。直哉はその後も、何度か私を訪ねてきた。けれど私の前に現れる前に、いつも怜司が止めた。ある雨の日、直哉はマンションの前に一晩中立っていた。翌朝、薬を受け取りに外へ出ると、入口のそばに直哉がいた。目は赤く、濡れた髪が額に張りついている。「綾乃……俺、熱があるんだ」声はひどくかすれていた。昔なら、私はきっと慌てていた。直哉が風邪をひくたびに、夜中でも薬を買いに行った。お粥を作って、何度も体温を測った。そんな私を見て、直哉はいつも甘えるように笑った。「綾乃がいないと、俺ほんと駄目だな」けれど今、私は傘の下に直哉を入れなかった。「じゃあ、病院に行って」直哉は力なく笑った。「昔なら、もっと心配してくれただろ」私は直哉を見た。「私も昔は、雨の山に置き去りにされるなんて思ってなかった」直哉の笑みが消えた。雨水が髪を伝い、顎から落ちていく。直哉はその場にしゃがみ込み、両手で顔を覆った。「あの日は……俺も、どうかしてた。腹が立って、冷静じゃなかったんだ。少ししたら、お前のほうから連絡してくると思ってた。迎えに行くつもりだった。本当に」私は静かに言った。「あなたが、私のスマホを捨てたのよ」直哉は顔を上げた。赤くなった目に、今にも崩れ落ちそうな色が浮かんでいた。「綾乃、悪かった。本当に悪かった。戻ってきてくれ。子どもだって……また、いつかできるだろ」その一言で、胸の奥が冷えた。気づいたときには、私は直哉の頬を打っていた。乾いた音が、雨に混じった。直哉は何も言わなかった。手のひらがしびれているのに、声だけは落ち着いていた。「あの子は、あの子だけよ。代わりなんていない。また、なんて言わないで」直哉の目から涙が落ちた。彼が泣くのを、初めて見た。それでも、
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第7話
仕事に戻る場として選んだのは、七月のブランド発表会だった。会場には、多くのメディアが集まっている。誰もが、あの件について聞きたいのだろう。美咲は私を見て、少し心配そうに言った。「取材、断ってもいいのよ」私は首を振った。「大丈夫」ステージに上がる前、怜司が飴をひとつ差し出した。「緊張したら、口に入れておけ」私はそれを受け取った。「どうしていつも飴を持ってるの?」怜司は私を見た。「苦いのは、もう十分だろ」胸が少しだけ詰まった。私は何も言えず、その飴を掌の中でそっと握った。発表会で、私はアレルギーのこと、顔に残った症状のこと、お腹の子を失ったこと、そしてネットで浴びた言葉のことを話した。同情してほしかったわけじゃない。泣いて見せるつもりもなかった。ただ、伝えたかった。「つらいと言った人に、考えすぎだとか、大げさだとか、そんな言葉でふたをしないでほしいです。妊娠しているから何をしても許される、ということではありません。でも、妊娠していることを理由に、誰かに従わなければならないわけでもありません。傷つけられていると感じたら、まず自分を守ってください」会場はしんと静まり返った。少しして、前のほうから小さな拍手が聞こえた。その音は、少しずつ広がっていった。発表会が終わる頃には、私のアカウントのフォロワーが一気に増えていた。たくさんの女性たちから、メッセージも届いた。恋人に高速道路で置き去りにされたこと、家の外に締め出されたこと、浮気相手に頭を下げろと言われたこと……誰にも言えなかった話を、彼女たちは少しずつ打ち明けてくれた。そして、私が直哉から離れたのを見て、自分も逃げていいのだと思えた、と書いてくれた。その文字を読んでいると、胸が熱くなった。私の傷あとも、誰かの足元を照らすことがあるのだと、初めて思えた。夜は、チームのみんなで食事をした。美咲は少し飲みすぎて、私を抱きしめたまま泣いた。「綾乃、戻ってきたね」私は笑って、美咲の背中を軽く叩いた。「うん。戻ってきた」怜司は酒を飲まなかった。帰りの車の中は、静かだった。ベビー用品店の前を通りかかったとき、ショーウィンドウの小さな靴下が目に入った。ほんの一瞬、息が止まる。怜司
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第8話
結愛の判決の日、私は裁判所にいた。結愛は、前に見たときよりずっとやつれていた。私を見ると、その目に憎しみが浮かぶ。直哉も傍聴席にいた。私から少し離れた席に座っている。公判で明らかになったことは、そう複雑ではなかった。キャンプ場の元スタッフの証言では、結愛から、私のスープにナッツの粉末を混ぜるよう指示されたという。――私の顔に発疹が出れば、カメラの前に立てなくなる。そうすれば、発表会も流れる。それが理由だった。野生きのこは、結愛が話題作りのために地元の人から直接買ったものだった。安全かどうかも確かめず、キャンプ場で出していたらしい。結愛は最後まで言い逃れようとしていた。けれど、防犯カメラの映像とメッセージのやり取りを示されると、とうとう取り乱した。「私は、あの人に恥をかかせたかっただけ!殺すつもりなんてなかった!どうしてあの人ばっかり、全部持ってるの?直哉が最初に好きだったのは、私だったのに!」結愛は泣きながら直哉を見た。「あの人さえいなければ、私たち、とっくに一緒にいられたのに!」直哉は何も言わなかった。結愛をかばうことも、立ち上がることもしない。ただ、うつむいていた。判決が言い渡された。結愛には、傷害罪などで実刑判決が下った。連れていかれる直前、結愛がこちらを振り向いた。「綾乃!勝ったつもり?でも、あんたの子はもう戻ってこないじゃない!」その場の空気が止まった。直哉が立ち上がる。「結愛!」隣にいた怜司が、そっと私の手首を握った。その温かさで、私は息を整える。私は結愛を見た。「そうね。あの子は戻ってこない。だから私は、一生あなたを許さない。でも、あなたの思いどおりにはならない。私はこの先も、生きていく。それが、悔しいんでしょう」結愛は何も言い返せなかった。連れていかれるまで、もう一度も声を荒らげなかった。さっきまでの強がりは消え、顔には怯えだけが残っていた。裁判所を出たところで、直哉に呼び止められる。「綾乃。結愛が、あそこまでするなんて知らなかった」私は振り返らずに言った。「彼女が私を憎んでいたことくらい、あなたにも分かっていたでしょう。それでもあなたは、何度も彼女の味方をした」直哉の目が赤くなる。「
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