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第2話

Author: ちびネジ
純佳が階段を降りて慎一の背後に立ったちょうどその時、通話が繋がった。彼のスマートフォンから、甘ったるい女の声が漏れ聞こえてくる。

「慎一、もう三分も遅刻してるわよ。ねえ、今日のレース、どうするの?もう走らない気?」

電話の向こうの女が言い終わるか終わらないかのうちに、慎一はすでに足を踏み出し、外へ向かって歩き始めていた。

純佳に口を挟む隙など微塵も与えず、すぐ後ろの壁際にいる彼女の存在にすらまったく気づいていない。

やがて、彼の口から甘く優しい声が響いた。

「すぐ着くよ。母さんと少し話をしていて遅れたんだ。怒らないでくれ、夜にはちゃんとたっぷりと埋め合わせをするから。な?」

それを聞いて、純佳は思わず体を強張らせた。

あのような愛情深く、相手の機嫌を取るような低姿勢は、自分に向けられたことなど一度もない。

彼が純佳に与えるのは冷酷な態度か、それを上回る徹底した無視だけだった。

以前見せてくれた優しさを思い返しても、その大半は桃香がその場にいる時だけのものだった。

佑紀子が受けている愛情に比べれば、純佳への扱いは誰の目にも留まらないゴミクズも同然だ。

それなのに、彼の気まぐれな施しを宝物のように大切に抱きしめていた自分が、本当に滑稽でならなかった。

慎一の後ろ姿が完全に視界から消えて、純佳はようやく我に返った。

千春が振り返り、純佳を見た瞬間にハッと驚きの色を浮かべたが、すぐにいつもの傲慢な顔を取り繕った。

「純佳。あの子の泣き声が耳に入らなくて?母親の務め一つまともに果たせないなんて、本当に育ちの悪さは隠しきれないわね」

千春は氷のように冷たい声で、いつものように純佳の些細なミスを針小棒大に責め立てる。

これまでの徹底的に無価値だと貶められてきた日々の中で、こうした理不尽な非難は数え切れないほど受けてきた。

純佳はもうすっかり麻痺していた。

我に返った純佳は、思わず目頭を熱くし、千春の罵倒を無視して震える声で事実を問い質した。

「お義母様、内山さんは……戻ってきたのですか?」

先ほどの慎一たちの会話が本当に事実なのか、純佳は確かめずにはいられなかった。

千春の視線がかすかに泳ぐ。その僅かな動揺を純佳がしっかりと捉えた瞬間、彼女の心の底に僅かに残っていた期待は完全に打ち砕かれた。

一年近く胸の内に押し殺してきた理不尽な思いが、今この時、堰を切ったように涙となってボロボロとこぼれ落ち、視界が次第に滲んでいく。

「縁起でもない泣き顔はおやめなさい!早川家の品位に泥を塗る気?長年叩き込んだ『掟』も、あなたのような女には豚に真珠だったようね」

千春は忌々しげに言い放ち、使用人に早く孫娘の様子を見てくるよう急かした。

純佳は両手をきつく握りしめ、使用人に抱きかかえられて降りてきた桃香を見つめた。その小さな顔は泣き叫んで真っ赤になっていた。

「ほら、ごらんなさい。あんなにお腹を空かせて泣かせっぱなしにして!

いつまでそこに突っ立っているの!さっさと蔵に入って頭を冷やしなさい。まったく慎一の言う通り、いつもメソメソするしか能のない、目障りな女だわ!」

千春は苛立たしげに純佳を一瞥し、ゴミでも追い払うように命じた。

純佳が動こうとしないのを見ると、千春は執事に命じて力ずくで蔵へ引きずって行かせようとした。

「離して!行きません……んっ!」

純佳が抵抗の声を上げた途端、執事に力任せに口を塞がれ、無理やり蔵の方向へ引きずられていく。

使用人たちに乱暴に突き飛ばされ、純佳はよろけて氷のように冷たい床に倒れ込んだ。足首に鋭い痛みが走り、ズボンの裾の下でみるみるうちに赤く腫れ上がっていく。

「奥様、大奥様の仰せです。新たに改訂された早川家の『掟』に基づき、子供の求めに直ちに応じず、母親としての義務を果たさなかった罰として、一晩の正座と竹刀打ち十回に処します」

執事が冷酷に宣告する。そして、薄暗い蔵の壁際に置かれた刀掛けから、手慣れた様子で使い込まれた竹刀を手に取ると、純佳の抵抗など意に介さず、容赦なくその背中へと力任せに振り下ろした。

バシッ、という鈍い音が響くたび、背中には瞬く間に赤黒い打痕が斑に浮かび上がり、氷のように冷たい空気にも、次第に鉄錆のような血の生臭さが混じり始めた。

背中の痛みが麻痺し、神経にその激痛がはっきりと伝わらなくなるまで、執事の手が止まることはなかった。

「奥様、差し出がましいようですが……早川家において、旦那様に逆らえる者などおりません。少しでも楽にお過ごしになりたいのであれば、大人しく旦那様に従われるのが賢明かと存じます」

執事は血の滲む純佳の背中を直視するに忍びないのか、そう忠告すると、竹刀をしまって千春への報告へと戻っていった。

純佳を押さえつけていた力が一気に消え去る。支えを失った彼女の体は、泥のように床へ崩れ落ちた。

痛みを堪え、歯を食いしばりながら手を伸ばして使用人の服の裾を掴み、消え入りそうな声で訴えた。

「慎一に……会わせてく」

使用人は無表情に首を横に振った。

「奥様、旦那様はお出かけになりました。今は屋敷にはおられません」

純佳は掴んだ手を離さず、僅かに残る意識を振り絞って叫んだ。

「慎一に会わせて……!」

この家にはもう一秒たりともいたくなかった。

だが使用人はその手を無情にも振り払い、背を向けて蔵の重い扉をピシャリと閉ざした。

純佳は力を振り絞って外へ出ようともがいたが、全身を苛む傷の痛みが身動きすら許さない。

桃香を出産した後、体が回復しきっていない上に、慎一が彼女を縛るためだけに設けた異常な掟のせいで三日に一度は跪かされ、体力はすっかり落ちきっていた。

そこへさらに十回の竹刀打ちを受け、肉体の限界はとうに近づいていた。

純佳は懐からスマートフォンを取り出し、震える指で連絡先を開く。そして、もう二、三年はかけていなかった番号をタップした。

思いがけず、通話はすぐさま繋がった。

「先生……私、離婚します。もう慎一の妻はやめます」

純佳は心底絶望したような、虚ろな声を絞り出した。

「本当か!?君は私が手塩にかけて育てた一番の逸材だ。君の才能を早川家のような息の詰まる檻の中に閉じ込めておくべきではないとずっと思っていたんだ!」

恩師・三上俊明(みかみ としあき)の懐かしい声を聞いた瞬間、純佳がギリギリで抑え込んでいた悔しさが一気に溢れ出し、思わず嗚咽が漏れた。

「本当です……離婚します」

「よし、すぐに雅紀を呼び戻そう。君の離婚訴訟はあいつに直接担当させる」

三上雅紀(みかみ まさき)は恩師の息子であり、純佳の兄弟子でもある。

かつて学業のために海外へ留学し、今では名声轟く、誰もが依頼を熱望する超エリート弁護士になっていた。

だが、この案件は単なる離婚訴訟に過ぎない。適当な新人弁護士を一人回してもらえれば、あとは自分で処理できる。

だが、そう言葉にしようとした矢先、通話は途切れてしまった。

スマートフォンを手から滑り落とした瞬間、張り詰めていた意識の糸がプツリと切れ、純佳はそのまま冷たい床に倒れ伏した。

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