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月は沈み、夜明けを抱く
月は沈み、夜明けを抱く
مؤلف: ちびネジ

第1話

مؤلف: ちびネジ
早川慎一(はやかわ しんいち)の初恋の相手であり、彼が想いを寄せていた内山佑紀子(うちやま ゆきこ)が不慮の飛行機事故に遭った後、彼は親同士が決めた許嫁である菅野純佳(かんの すみか)を仕方なく妻に迎えた。

入籍から一年足らずで二人は可愛らしい娘に恵まれ、早川桃香(はやかわ ももか)と名付けた。

桃香が生まれてから、純佳と慎一の間にあったわだかまりも少しずつ溶けていった。あんなに冷たかった彼も、だんだん家族を大事にするようになって、すっかり「普通のお父さん」みたいな優しい顔を見せるようになった。

そんな変化が嬉しく、このまま穏やかな日々がずっと続くのだと、純佳は信じて疑わなかった。慎一と姑の早川千春(はやかわ ちはる)が話しているのを、偶然聞いてしまうまでは。

そこで初めて思い知らされた。

これまでの幸せはすべて、純佳自身を陥れるために仕組まれた茶番に過ぎなかったということを。

「母さん、もう待てない。弁護士にはもう離婚協議書を作らせた。俺は佑紀子と結婚する!」

「駄目よ。まだこの早川家に跡取りとなる男の子を残していないのに、離婚騒ぎなんて絶対に許さないわ。どうしても別れたいなら、あの女に次を継ぐ男の子を産ませてからにしなさい」

曲がり角の壁に身を潜めていた純佳は、その言葉を聞いて心臓がぎゅっと縮み上がった。佑紀子は、慎一がずっと忘れられない女だ。死んでなどおらず、あろうことか彼とよりを戻していたなんて!

胸がぎゅっと締め付けられ、手にしていた哺乳瓶を無意識に強く握りしめた。

愕然とする純佳の耳に、彼が桃香をあの女に引き渡し、自分を早川家から追い出そうとする企みが飛び込んできた。

ただ、慎一は完全に忘れているようだった。

結婚する前の純佳が、風津市(かわづし)の名門大学で法科大学院を優秀な成績で修了した、法学修士だったってことを。

「あの女を海外へ送る時、あなたは何と約束したの!純佳と結婚して、この早川家に跡取りを残す。そう言ったからこそ、私も目を瞑ったのよ!それなのに、条件すら果たさずに今すぐ離婚だなんて……絶対に許さないわ!」

千春の怒りに満ちた声が再び響く。

慎一はその言葉に忌々しげに眉をひそめていた。最初からあんな条件を飲まなければ。そのせいで佑紀子が事故で死にかけ、一生子供が産めない体になってしまった。

この一年余り、佑紀子が夜に声を殺して泣いている姿を思い出すたび、慎一の心は身を切られるような罪悪感に苛まれていた。

彼女が誰よりも子供好きだったことを、彼は痛いほど知っている。

「俺だって後悔してるんだよ!最初からあんな条件、飲むべきじゃなかった!今そのせいで、佑紀子は板挟みになって苦しんでるんだ!

だから俺は罪滅ぼしがしたい。桃香を佑紀子に育てさせて、二十七歳の誕生日プレゼントにするんだよ!」

これ以上、慎一は一秒たりとも待つつもりはない。

「ふざけたことを!絶対に認めないわよ。どうしても純佳と離婚して、あの卑しい女と再婚するというなら……今すぐ親子の縁を切るわ!」

千春はギリッと奥歯を噛み締め、慎一をきつく睨みつけた。

しかし、彼の一歩も譲らない狂気じみた決意は、母親である千春の心を容赦なく刺し貫いた。

「母さん!もう二度と同じ過ちは繰り返さない。今回ばかりは早川家から追い出されようが、息子と認められなかろうが、俺は佑紀子と結婚する!

一度失いかけたんだ。二度も失うわけにはいかない!」

慎一の心に抑え込まれていた感情が爆発し、怒号が広いリビングに響き渡る。

彼は言葉を切り、吐き捨てるように言った。

「それに……純佳のことなんて、最初から愛してなんかいない。あんな女といると息が詰まるんだ。あのおどおどした、自分じゃ何もできない無様な姿には、もう心底ウンザリしてるんだよ!」

千春は息を呑んだ。

まさか息子の心の中で佑紀子がこれほどまでに大きな存在となり、母親との縁を切ってでも妻に迎えようとしているとは思いもよらなかった。

深呼吸をし、込み上げてくる悲痛な思いを押し殺して、千春はいたたまれなさそうに口を開く。

「本当に純佳と離婚して、あの女と再婚するつもりなの?この私を母親と認めなくなってでも?」

慎一は力強く頷いた。佑紀子のことを思い浮かべたのか、冷ややかな顔にふっと柔らかな笑みがこぼれる。

「ああ、佑紀子と結婚する。あいつは桃香をとても可愛がっているし、桃香の母親になりたいと願っているんだ。その願いを無下にはできない!」

佑紀子が桃香を見る時の、あの嬉しそうな笑顔に嘘はない。

もうこれ以上、取り返しのつかない馬鹿な真似はできない。

千春は、息子の瞳の奥に蠢く計算高い光を見て、複雑な表情を浮かべた。

「慎一、純佳を妻に迎えたのはあなた自身の意思でしょう。そんな仕打ちはあまりに不公平だわ。それに、もし彼女が離婚に同意しなかったらどうするつもり?」

千春は思わず少しの同情を抱いたが、その言葉は慎一に鼻で笑って遮られた。

眉間には、ありありと純佳への嫌悪感が滲んでいる。

「あいつに惨めな思いはさせないさ。離婚した後は、残りの人生を一生遊んで暮らせるだけの慰謝料をくれてやる。

だいたい、昔の念書を盾にして乗り込んできて、大勢の前で結婚を迫ったのも、結局は金目当てだろう。あんな権力にすがりつくような女、世間にはいくらでもいる。

あのいつもメソメソして、自分じゃ何もできない性格だ。同意しようがしまいが大した影響はない。離婚を成立させる手段なんていくらでもある」

言葉の端々には、隠しきれない軽蔑が混じっていた。

寒の戻りの冷たい風が、開け放たれたバルコニーのドアから吹き込んでくる。底冷えする鋭い氷の刃となって、慎一の冷酷な言葉とともに、壁の陰で息を潜める純佳の心臓を深く突き刺した。

一瞬にして、身の毛のよだつような寒気が骨の髄まで突き抜け、全身から痛いほどの冷たさが滲み出る。

純佳が一生を託し、大切に育んでいきたいと願っていた結婚生活は、今この瞬間、慎一によって無残にも打ち砕かれた。彼を慕っていた心もまた、千々に引き裂かれ、見る影もなく壊れてしまった。

全身から力が抜け、冷たい壁に背中を預ける。

息苦しさが胸に広がり、慎一の嘲笑が何度も何度も脳内を駆け巡り、彼女の神経を容赦なく刺激した。

肺が引き裂かれるような痛みを覚え、純佳はたまらず深く息を吸い込んだ。

あの時、念書を手にして早川家を訪れた際、純佳は言葉巧みに嘲笑され、結婚に飢えていると罵られた。

だが慎一は知らなかった。

この結婚が、純佳にとって決して望んだものではなかったということを。

父はかつて身を挺して早川家の先代の命を救ったことがあった。その大恩の証として先代が残したのが、あの「念書」だった。

その父が臨終の際、一人残される純佳の将来を案じ、「この恩を盾にしてでも早川家の庇護下に入れ」と結婚を強要した。

そうでなければ死んでも死にきれないと。

だからこそ、彼女は大勢の前で結婚を迫る真似までした。桃香を産んだことすら、ただ父の最期の願いを果たすためでしかなかった。

しかし今となっては、すべてが偽りだった。心を入れ替えてくれたのも嘘、早川家が庇護してくれたのも嘘。それどころか、生まれたばかりの桃香でさえ、彼の計画の一部に過ぎなかったなんて……

純佳の胸に突き刺さった刃が、今この瞬間も無残に掻き回され、麻痺するほど痛む心はすでにズタズタに砕け散っていた。

慎一は純佳のことなど少しも愛していなかった。

彼がしてきたこれまでの行いはすべて、早川家に寄生するように育ったあの佑紀子のため!

彼と幼馴染のあの佑紀子のためだったのだ!

純佳にはまったく理解できなかった。

自分がいったいどんな過ちを犯したというのか。なぜここまで大掛かりな罠にハメられなければならなかったのか!?

慎一の憎悪に満ちた声が響くまで、彼女はその残酷な理由を知る由もなかった。

「子供のことがなければ、純佳なんかに優しくしてやる義理がどこにある!

あいつを縛るための『妻としての行動規範』をさらに細かく書き直しておいた。これなら今後、母さんが俺の代わりに躾けやすくなるだろう」

慎一の冷え切った声とともに、日常の立ち振る舞いまで事細かに記された分厚いファイルの束が、千春に手渡される気配がした。

「純佳は早川家に入ってからずっと、あなたが作った息が詰まるような掟に縛られてきたのよ。今はまだ子供を産んだばかりだというのに、いくらなんでもこんな仕打ちは……」

千春が躊躇うと、慎一の冷ややかな鼻息が聞こえた。

「あの時、純佳が大勢の前で結婚を迫ったりしなければ、佑紀子が海外へ行くと言い出すこともなかったし、突然の事故で命を落としかけることもなかった。

これはすべて、純佳が佑紀子に対して犯した罪だ!俺はただ掟を叩き込んで、外で早川家の恥を晒さないようにしてやっているだけだ。

もし本気で復讐する気なら、あいつが今も早川家で無事でいられるとでも思っているのか!」

その言葉を聞いた瞬間、純佳は怒りと憎しみで壁を支える手にぐっと力を込めた。皮が剥けた指先が壁を引っ掻き、深さの違う傷跡を残すのも構わなかった。

早川家に嫁いでからの毎日は、千春のそばで掟を叩き込まれる日々だった。

紙に書き連ねられた理不尽な決まりごとの数々に縛られ、深い苦痛を味わってきた。てっきり早川家の古臭い家風なのだと思い込んでいたが、まさか慎一……夫自身が自分を苦しめるために定めた掟だったとは。

あまりにも馬鹿げている!

だが、慎一は忘れているようだ。

純佳がこれまで自分を殺し、ただ黙って従ってきたのは、すべて彼が自ら定めた掟のせいだったということを。

彼が気に入らないと一言言えば、純佳はようやく手にした風津市のトップクラスの法律事務所からの内定すらあっさりと蹴った。

そして家庭内に波風を立てないため、自分の意見を押し殺し、家庭に入って夫に尽くし、子育てに専念する道を選んだ。彼が理想とする、掟を重んじる従順な「早川の妻」になるために。

その結果がこれだ。純佳は完膚なきまでに打ちのめされ、ただの笑い者に成り下がってしまった。

あろうことか、十月十日お腹を痛めて産んだ我が子までも、初恋の女へのプレゼントに差し出そうと企んでいるなんて。

本当に滑稽でたまらない!

もう、早川の妻など真っ平ご免だ。

純佳は決意した。

かつての自分に戻るのだと。誰にも縛られない、完全な本来の自分を取り戻すのだと。

胸の奥から激しく噴き出す怒りは、もはや抑えきれなかった。今すぐ慎一と話をつけてやる。離婚は構わない、だが桃香だけは絶対に引き取る!

しかしその時、折悪く慎一のスマートフォンに着信音が鳴り響いた。

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أحدث فصل

  • 月は沈み、夜明けを抱く   第26話

    慎一が車の転落事故で重傷を負って入院したという知らせを受けた時、純佳はちょうど桃香の幼児教室に付き添っていた。桃香は今や先生と雅紀に甘やかされて、すっかりぽっちゃりとした子になっていた。千春からの電話の用件を聞き、純佳はきっぱりと断った。「見舞いには行きません。自業自得です。私たちの関係が元に戻ることはあり得ません」千春はため息をついて慎一に諭した。「……諦めなさい。彼女が心変わりして戻ってくることはないわ。彼女が心を許していた時、大切にしなかったでしょう」慎一の目から希望が瞬時に砕け散り、目を閉じて母親の言葉を耳に入れようとしなかった。「あなたの車に細工をした犯人が捕まったわ。行方をくらませていた佑紀子の愛人だ。警察に捕まって刑も決まったから、しっかり怪我を治しなさい。私は午後の便で発つから、看病には付き添えないわ。何かあれば執事か秘書に頼みなさい」千春はそう言い残すと、サングラスをかけて病院を後にし、そのまま空港へ向かった。ドアが閉まる音を聞いて慎一は目を開けた。恍惚とする意識の中で、また純佳との美しかった日々を思い出していた。澄んだ涙が瞬時に目から滑り落ち、枕を濡らした。残りの人生は、恐らくこの後悔に囚われたまま抜け出せないだろう。……南半球にいる千春からのメッセージを見た時、純佳はちょうど雅紀の告白を受け入れたところだった。「今抱えている案件が終わったら、俺たちも旅行に行こう。純佳はどこか行きたい国はある?」雅紀は背後から純佳を抱きしめ、優しく尋ねた。純佳は少し考えてから振り返り、彼の首に腕を絡め、わざと思わせぶりに言った。「三上弁護士、私はとても忙しいの。あなたと旅行に行く時間なんてないわよ」東都市から戻った後、純佳はさらにいくつかの案件を引き受けていた。本当に目が回るほどの忙しさで、休暇を取る暇など全くない。桃香の面倒すら、先生に手伝ってもらっている状態だ。雅紀がひどく不満げで、また泣き出しそうな顔をしたのを見て、純佳は慌てて顔を寄せ彼の唇を塞ぎ、相手が呆然としている隙にそのキスを深めた。「今回だけだぞ。仕事が片付いたら、ある場所へ連れて行くからな」雅紀は涙ぐみながら笑った。忙しそうな純佳の姿を見つめながら、ふと昔のことを思い出した。ずっと前から、

  • 月は沈み、夜明けを抱く   第25話

    相手の用件を聞いて、千春がなぜあれほど怯えていたのか純佳には合点がいった。「お断りします。相手方の代理人を買収しようとする行為は『弁護士法』に違反します。職業倫理を持つ弁護士として、金のために自らの原則を曲げるような真似は決していたしません」純佳は電話の向こうの賢造からの申し出を毅然と拒絶し、スピーカーフォンをオンにして、はっきりと自分の考えを伝えた。「法の理念に基づき、私の依頼人の正当な権利を必ずお守りします。それが弁護士としての職務であり、何人たりともそれを揺るがすことはできません」言い終えると同時に通話を切り、純佳はすぐさまその番号を着信拒否に設定した。千春の表情を見て、純佳もある程度の事情は察していた。以前の離婚の試みも、おそらく賢造のこの手口によって前途を絶たれたのだろう。その後の裁判で、賢造の代理人弁護士は、純佳が次々と突きつける証拠と追及の前にみるみるうちに言葉を失っていった。裁判官は確たる証拠を前に、純佳の依頼人の訴えを全面的に認めた。裁判長から「原告と被告を離婚とする」という判決主文が言い渡され、閉廷が宣告された瞬間、純佳はついに安堵の息を長く吐き出した。隣を見ると、千春はすでに顔を涙で濡らしていた。ついに、自分を縛り付けてきた早川家と何の関わりもなくなった。「純佳……私、自由になったわ」千春は声を詰まらせながらそう言った。頬を伝う涙が受け取ったばかりの判決書に落ちて、離婚を認めるという文字を滲ませた。純佳も彼女のために、心の底から喜びを感じていた。「おめでとうございます。これで自由の身ですね」その言葉に、二人は顔を見合わせて静かに微笑んだ。裁判所を出た後、千春は今後の計画を打ち明けてくれた。これからは世界一周旅行に出るという。「あなたは?このまま風津へ帰るの?」千春は探るように尋ねた。彼女の背後、少し離れた場所に、見覚えのあるロールスロイスが停まっている。「ええ。桃香には人がついていないといけないから、戻らなくちゃ」純佳はわざと大きな声で答えた。少し離れた場所にいた慎一が、無意識に弄んでいた金属ライターの蓋を弾く手を不意に止めた。千春はそれに気づき、複雑な表情を浮かべながら口を開いた。「……佑紀子は今、早川家に留め置かれている。彼女が過去に

  • 月は沈み、夜明けを抱く   第24話

    「依頼人?」慎一はもう一度繰り返した。彼は遅ればせながら、純佳の今の身分が弁護士であることを思い出した。しかも順調なスタートを切っている。近況に関する資料は、まだ彼の書斎の机の上に置かれている。千春は一睡もしていないのか、その顔色はひどくやつれて見えた。「母さん、何の裁判を起こすつもりなんだ。よりによって、どうして純佳のところに……」慎一は思わず問い詰めた。このように自分だけが蚊帳の外に置かれている感覚に、彼は非常に不快感を覚えた。まるで風通しの悪い密室に閉じ込められ、呼吸さえも窒息しそうだった。千春は息子を一瞥し、淡々と口にした。「離婚よ」そのあまりにも軽い一言が、慎一の頭を激しく打ち据え、彼を押し黙らせた。こみ上げてきた問い詰める言葉が不意に喉に詰まり、彼は絶句した。顔色は青ざめたかと思うと、やがて極度の混乱で赤黒く変色した。「……離婚!」激しい感情を飲み込んだ後、ようやく喉から絞り出すようにその単語を発した。息子の顔色の変化など気にも留めず、千春は昔から決して触れようとしなかった話題を自ら口にし始めた。すべてを包み隠さず打ち明けられた後、慎一の顔色はさらに複雑になった。自分がずっと尊敬してきた母親が、裏でこれほどまでに地獄のような日々を送っていたとは、思いもよらなかった。幼い頃から父親は良き手本だと教え込まれ、周囲から「父親に似ている」と褒められることを誇りに思ってきた。それが今、自慢の父親の虚像が、音を立てて無惨に崩れ去った。「慎一。お父さんのことを隠し、良き手本として見せていれば、絶対にあのような人間にはならないと信じていたの。でも、あなたの中に父親の影をますます強く感じるようになって、自分が間違っていたことに気づいたわ。血の繋がった親子なのだから、似ないはずがなかったのよ……」千春はため息をつき、静かに語った。過去の記憶が再び千春の脳裏に蘇る。涙でぼやけた視界の中で、慎一を見つめる眼差しが、記憶の中の冷酷な夫の顔と次第に重なっていく。手の甲に冷たいものが落ちた。何十年分もの抑圧された悔しさがこの瞬間に海のように波立ち、涙となってこぼれ落ちた。純佳はテーブルの上のティッシュを渡したが、千春はそれを受け取ったまま黙り込んだ。しばらくして、慎一は掠れた声で言った

  • 月は沈み、夜明けを抱く   第23話

    震える指でそう返信し、純佳がスマートフォンを伏せて考えを巡らせていると、雅紀が気遣うようにホットコーヒーを差し出してくれた。しかし、カップ越しに伝わる予想以上の熱さに、思わず彼女の手がビクッと反応してしまう。「気が進まないなら、この案件は断ってもいい。俺がついているんだ、桃香のミルク代くらい、いくらでも稼いでみせるさ」雅紀は真剣な眼差しで言った。相手の深い瞳を見つめていると、純佳の脳裏に彼が海外へ旅立つ前のあの夏の日が蘇った。自分がアルバイトのしすぎで熱を出して倒れた時、「このままじゃ、将来子供の粉ミルク代も稼げなくなっちゃうよ」と、冗談めかして笑った時のことだ。まさかあんな何気ない冗談を、彼が今までずっと覚えていたとは。「もう何年も前のことなのに、まだ覚えていたの?」純佳は気まずさを隠しながら笑った。「四年と七ヶ月、そして十二日だ」雅紀は純佳の手から熱すぎるカップをそっと取り上げ、適温の別のコーヒーとすり替えながら、温かい声でゆっくりと告げた。「純佳に関することなら、俺は一から十まですべて鮮明に覚えているよ」真っ直ぐな言葉だった。純佳は思わず息を呑み、冗談なのか本気なのか尋ねようとしたが、彼のあまりに真摯な目に射すくめられ、言葉が喉に詰まってしまった。この奇妙な沈黙は、伏せていたスマートフォンが着信音を鳴らすまで続いた。純佳は逃げるようにスマートフォンを掴み取った。心臓が口から飛び出しそうなくらい激しく打っている。胸を押さえ、深く深呼吸をした。動悸を鎮め、着信が切れる直前に通話ボタンを押す。「純佳、考えてくれたかしら?」千春の憂いを帯びた声が響く。純佳はもう一度深呼吸をし、落ち着いて答えた。「分かりました。引き受けます。でも、一つ条件があります。当時、父が早川家と交わした『念書』を返してください」千春は一瞬言葉に詰まった。「……分かったわ、約束する」少し間を置いて、彼女は探るように尋ねた。「まさか、まだ慎一に未練があるの?彼と佑紀子はもう……」言い終わる前に、純佳は間髪入れずに遮った。「彼のためじゃありません。父のためです」あの念書は燃やして、慎一や早川家との繋がりを物理的にも精神的にも完全に断ち切るつもりだった。離婚が成立したというのに、あんな呪い

  • 月は沈み、夜明けを抱く   第22話

    佑紀子は海外行きの飛行機に搭乗しようとしたところを、空港で慎一の秘書とボディガードたちによって強引に取り押さえられ、早川家へ連れ戻された。「慎一、このろくでなし!勝手に捕まえる権利がどこにあるのよ!」慎一が階下に降りてくると、リビングには佑紀子のヒステリックな罵声が絶え間なく響いていた。激しい頭痛に片手で眉間を強く揉みほぐし、ボディガードに佑紀子を地下室へ閉じ込めるよう命じた。「あんた狂ってるわ!自分で純佳を痛めつけたくせに、私に何の責任があるっていうの!離して!警察に通報してやる!不法監禁で訴えてやるわよ!」力ずくで引きずられていく佑紀子の叫び声は次第に遠ざかり、やがてリビングに静寂が戻った。慎一は深くソファに腰掛け、先日の法廷での細かなやり取りを思い返す。あの時は驚愕と悲しみに沈んでおり、いかに多くの決定的な事実を見落としていたのかに、今更ながら気づかされていた。……一方、風津市。純佳が担当した晶代の案件は、極めて順調に進んでいた。証拠収集と慎重な傷病鑑定を経て、純佳は警察へ正式に診断書と告訴状を提出し、単なる家庭内の民事トラブルから、傷害罪を問う「刑事事件」へと引き上げることに成功した。民事事件としての処理とは異なり、刑事事件になれば晶代の夫により重い実刑判決を下すことができ、晶代自身にも、あの男の影から完全に逃れて人生をやり直す機会を与えることができる。晶代に現状を説明し、最終的にどうしたいかを彼女自身に選択させた。三年前、彼女が選んだのは「赦し」だった。長年連れ添った情にほだされ、加害者にもう一度チャンスを与えてしまった。しかし三年後の今、彼女が選んだのは「手放すこと」だった。残りの人生の扉を開くための鍵を自らの手で掴み取り、終わりのない恐怖に永遠に縛られ続けることをきっぱりと拒絶した。裁判所からの判決書が彼女の手に渡った時。絶望で淀みきっていた彼女の瞳の奥に、ようやく小さな希望の光が宿った。晶代は感極まって純佳に深く頭を下げた。「菅野先生……私を救い出してくれて、本当にありがとうございました」「いいえ、私ではありません。あなた自身が、自分を救ったのですよ」もし晶代に決別する覚悟がなければ、純佳が法廷でどれほど彼女の権利を勝ち取ったところで、すべては徒労に終わっていたは

  • 月は沈み、夜明けを抱く   第21話

    佑紀子は悪びれる様子もなく、残酷な真実を次々と打ち明けた。これまでの出来事すべてが、自身の計画に過ぎなかったと嗤う。彼女は、かつての飛行機事故の真相までもあっさりと口にした。「このことは純佳にも話したわ。信じられないなら彼女に聞いてみなさいよ。私、あなたのことなんて一度も愛したことないの。早川家にいた数年間、あなたに媚びへつらっていたのは、少しでもいい思いをしたかったからよ。孤児だとか、早川家の血を吸う寄生虫だとか、後ろ指を指されたくなかっただけ。それなのに、私と結婚して子供を産ませようとまで妄想するなんて。あんな息の詰まる地獄みたいな生活に戻るくらいなら、死んだ方がマシだわ!」早川家で過ごした日々の記憶が、再び彼女の脳裏に押し寄せてきた。両親を亡くして早川家に引き取られてからというもの、寄生虫だと罵られ続けたのは、ただ自分の両親が、早川家に仕える使用人だったからとでも言うのだろうか。「慎一、あなたのことなんて一度も愛したことない」佑紀子は念を押すように言い放った。相手の瞳の奥に走る絶望と苦痛を見て、彼女の顔には歓喜の笑みが浮かんでいた。少し間を置き、角を上げて自身のふっくらとした下腹部を撫でる。「秘密を教えてあげる。私、今妊娠しているのよ。不妊になったなんて、全部嘘。ただ、あなたみたいな男に子供を産んであげたくなかっただけよ」子供の話に触れた瞬間、彼女の顔つきは途端に和らいだ。慎一は再び驚愕に打ちのめされた。まさか、今まで信じてきたことがすべて嘘だったというのか。純佳を完全に誤解していた。佑紀子のことは、最初から最後まで純佳には何の関係もなかったのに、自分は無実の妻にあんな酷い仕打ちを……「じゃあ、純佳がお前を突き落としたというのは……」慎一は重い口を開き、やっとの思いで掠れた声を絞り出した。「それも嘘よ。全部嘘。純佳は私に何一つ悪いことなんてしてないわ。ただ、彼女が皆にチヤホヤされているのが気に入らなくて、嫉妬して陥れただけよ」佑紀子は全く意に介さずに、あっけらかんと答える。慎一が自分のためにわざと純佳を虐め、あろうことか妻の血を抜いて自分へのダシに使わせたことを思い出したのか、佑紀子は腹を抱えて笑い出した。「本当にあなたを愛していたのは純佳よ。でも、その彼女を一番深く傷つけ、壊

  • 月は沈み、夜明けを抱く   第2話

    純佳が階段を降りて慎一の背後に立ったちょうどその時、通話が繋がった。彼のスマートフォンから、甘ったるい女の声が漏れ聞こえてくる。「慎一、もう三分も遅刻してるわよ。ねえ、今日のレース、どうするの?もう走らない気?」電話の向こうの女が言い終わるか終わらないかのうちに、慎一はすでに足を踏み出し、外へ向かって歩き始めていた。純佳に口を挟む隙など微塵も与えず、すぐ後ろの壁際にいる彼女の存在にすらまったく気づいていない。やがて、彼の口から甘く優しい声が響いた。「すぐ着くよ。母さんと少し話をしていて遅れたんだ。怒らないでくれ、夜にはちゃんとたっぷりと埋め合わせをするから。な?」それを

  • 月は沈み、夜明けを抱く   第15話

    開廷の二時間前、純佳は一足先に裁判所に到着した。控室で準備をしていると、折悪く佑紀子がドアを押し開けて入ってきた。純佳の後ろに誰もいないことを確かめ、ドアの外をちらりと見てから、あからさまな冷笑を浮かべた。「純佳さん、まさかたった一人で法廷に立つおつもり?弁護士も立てられないなんて。早川家を出てから、雇うお金すら底をついたのかしら?」早川家を出た直後、純佳が以前使っていた家族カードはすべて慎一によって止められ、一銭も使えなくなっていた。だが幸いなことに、彼女には万が一に備える危機管理の意識があり、ずっと前に自分名義の資金をすべて安全な口座へ移し替えていたのだ。佑紀子の勝

  • 月は沈み、夜明けを抱く   第14話

    風津市。桃香を寝かしつけた直後、傍らのスマートフォンに一通のメッセージが届いた。【弁護士なら手配しておいたわ。いずれ向こうから連絡が行くはずよ】純佳はそれを見なかったことにして、即座にメッセージを削除した。あれは慎一の母親だ。純佳は、あの女にそんな純粋な親切心があるとは到底信じられなかった。早川家で受けてきた苦痛が千春から直接与えられたものではないにせよ、彼女も共犯者であり、決して純佳と同じ側に立つ人間ではない。すべてを失った純佳には、そんなものに賭ける余裕など微塵もなかった。一階へ降りると、雅紀がリビングで資料を整理していた。テーブルの上に広げられているのは、

  • 月は沈み、夜明けを抱く   第13話

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