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月は沈み、夜明けを抱く
月は沈み、夜明けを抱く
Author: ちびネジ

第1話

Author: ちびネジ
早川慎一(はやかわ しんいち)の初恋の相手であり、彼が想いを寄せていた内山佑紀子(うちやま ゆきこ)が不慮の飛行機事故に遭った後、彼は親同士が決めた許嫁である菅野純佳(かんの すみか)を仕方なく妻に迎えた。

入籍から一年足らずで二人は可愛らしい娘に恵まれ、早川桃香(はやかわ ももか)と名付けた。

桃香が生まれてから、純佳と慎一の間にあったわだかまりも少しずつ溶けていった。あんなに冷たかった彼も、だんだん家族を大事にするようになって、すっかり「普通のお父さん」みたいな優しい顔を見せるようになった。

そんな変化が嬉しく、このまま穏やかな日々がずっと続くのだと、純佳は信じて疑わなかった。慎一と姑の早川千春(はやかわ ちはる)が話しているのを、偶然聞いてしまうまでは。

そこで初めて思い知らされた。

これまでの幸せはすべて、純佳自身を陥れるために仕組まれた茶番に過ぎなかったということを。

「母さん、もう待てない。弁護士にはもう離婚協議書を作らせた。俺は佑紀子と結婚する!」

「駄目よ。まだこの早川家に跡取りとなる男の子を残していないのに、離婚騒ぎなんて絶対に許さないわ。どうしても別れたいなら、あの女に次を継ぐ男の子を産ませてからにしなさい」

曲がり角の壁に身を潜めていた純佳は、その言葉を聞いて心臓がぎゅっと縮み上がった。佑紀子は、慎一がずっと忘れられない女だ。死んでなどおらず、あろうことか彼とよりを戻していたなんて!

胸がぎゅっと締め付けられ、手にしていた哺乳瓶を無意識に強く握りしめた。

愕然とする純佳の耳に、彼が桃香をあの女に引き渡し、自分を早川家から追い出そうとする企みが飛び込んできた。

ただ、慎一は完全に忘れているようだった。

結婚する前の純佳が、風津市(かわづし)の名門大学で法科大学院を優秀な成績で修了した、法学修士だったってことを。

「あの女を海外へ送る時、あなたは何と約束したの!純佳と結婚して、この早川家に跡取りを残す。そう言ったからこそ、私も目を瞑ったのよ!それなのに、条件すら果たさずに今すぐ離婚だなんて……絶対に許さないわ!」

千春の怒りに満ちた声が再び響く。

慎一はその言葉に忌々しげに眉をひそめていた。最初からあんな条件を飲まなければ。そのせいで佑紀子が事故で死にかけ、一生子供が産めない体になってしまった。

この一年余り、佑紀子が夜に声を殺して泣いている姿を思い出すたび、慎一の心は身を切られるような罪悪感に苛まれていた。

彼女が誰よりも子供好きだったことを、彼は痛いほど知っている。

「俺だって後悔してるんだよ!最初からあんな条件、飲むべきじゃなかった!今そのせいで、佑紀子は板挟みになって苦しんでるんだ!

だから俺は罪滅ぼしがしたい。桃香を佑紀子に育てさせて、二十七歳の誕生日プレゼントにするんだよ!」

これ以上、慎一は一秒たりとも待つつもりはない。

「ふざけたことを!絶対に認めないわよ。どうしても純佳と離婚して、あの卑しい女と再婚するというなら……今すぐ親子の縁を切るわ!」

千春はギリッと奥歯を噛み締め、慎一をきつく睨みつけた。

しかし、彼の一歩も譲らない狂気じみた決意は、母親である千春の心を容赦なく刺し貫いた。

「母さん!もう二度と同じ過ちは繰り返さない。今回ばかりは早川家から追い出されようが、息子と認められなかろうが、俺は佑紀子と結婚する!

一度失いかけたんだ。二度も失うわけにはいかない!」

慎一の心に抑え込まれていた感情が爆発し、怒号が広いリビングに響き渡る。

彼は言葉を切り、吐き捨てるように言った。

「それに……純佳のことなんて、最初から愛してなんかいない。あんな女といると息が詰まるんだ。あのおどおどした、自分じゃ何もできない無様な姿には、もう心底ウンザリしてるんだよ!」

千春は息を呑んだ。

まさか息子の心の中で佑紀子がこれほどまでに大きな存在となり、母親との縁を切ってでも妻に迎えようとしているとは思いもよらなかった。

深呼吸をし、込み上げてくる悲痛な思いを押し殺して、千春はいたたまれなさそうに口を開く。

「本当に純佳と離婚して、あの女と再婚するつもりなの?この私を母親と認めなくなってでも?」

慎一は力強く頷いた。佑紀子のことを思い浮かべたのか、冷ややかな顔にふっと柔らかな笑みがこぼれる。

「ああ、佑紀子と結婚する。あいつは桃香をとても可愛がっているし、桃香の母親になりたいと願っているんだ。その願いを無下にはできない!」

佑紀子が桃香を見る時の、あの嬉しそうな笑顔に嘘はない。

もうこれ以上、取り返しのつかない馬鹿な真似はできない。

千春は、息子の瞳の奥に蠢く計算高い光を見て、複雑な表情を浮かべた。

「慎一、純佳を妻に迎えたのはあなた自身の意思でしょう。そんな仕打ちはあまりに不公平だわ。それに、もし彼女が離婚に同意しなかったらどうするつもり?」

千春は思わず少しの同情を抱いたが、その言葉は慎一に鼻で笑って遮られた。

眉間には、ありありと純佳への嫌悪感が滲んでいる。

「あいつに惨めな思いはさせないさ。離婚した後は、残りの人生を一生遊んで暮らせるだけの慰謝料をくれてやる。

だいたい、昔の念書を盾にして乗り込んできて、大勢の前で結婚を迫ったのも、結局は金目当てだろう。あんな権力にすがりつくような女、世間にはいくらでもいる。

あのいつもメソメソして、自分じゃ何もできない性格だ。同意しようがしまいが大した影響はない。離婚を成立させる手段なんていくらでもある」

言葉の端々には、隠しきれない軽蔑が混じっていた。

寒の戻りの冷たい風が、開け放たれたバルコニーのドアから吹き込んでくる。底冷えする鋭い氷の刃となって、慎一の冷酷な言葉とともに、壁の陰で息を潜める純佳の心臓を深く突き刺した。

一瞬にして、身の毛のよだつような寒気が骨の髄まで突き抜け、全身から痛いほどの冷たさが滲み出る。

純佳が一生を託し、大切に育んでいきたいと願っていた結婚生活は、今この瞬間、慎一によって無残にも打ち砕かれた。彼を慕っていた心もまた、千々に引き裂かれ、見る影もなく壊れてしまった。

全身から力が抜け、冷たい壁に背中を預ける。

息苦しさが胸に広がり、慎一の嘲笑が何度も何度も脳内を駆け巡り、彼女の神経を容赦なく刺激した。

肺が引き裂かれるような痛みを覚え、純佳はたまらず深く息を吸い込んだ。

あの時、念書を手にして早川家を訪れた際、純佳は言葉巧みに嘲笑され、結婚に飢えていると罵られた。

だが慎一は知らなかった。

この結婚が、純佳にとって決して望んだものではなかったということを。

父はかつて身を挺して早川家の先代の命を救ったことがあった。その大恩の証として先代が残したのが、あの「念書」だった。

その父が臨終の際、一人残される純佳の将来を案じ、「この恩を盾にしてでも早川家の庇護下に入れ」と結婚を強要した。

そうでなければ死んでも死にきれないと。

だからこそ、彼女は大勢の前で結婚を迫る真似までした。桃香を産んだことすら、ただ父の最期の願いを果たすためでしかなかった。

しかし今となっては、すべてが偽りだった。心を入れ替えてくれたのも嘘、早川家が庇護してくれたのも嘘。それどころか、生まれたばかりの桃香でさえ、彼の計画の一部に過ぎなかったなんて……

純佳の胸に突き刺さった刃が、今この瞬間も無残に掻き回され、麻痺するほど痛む心はすでにズタズタに砕け散っていた。

慎一は純佳のことなど少しも愛していなかった。

彼がしてきたこれまでの行いはすべて、早川家に寄生するように育ったあの佑紀子のため!

彼と幼馴染のあの佑紀子のためだったのだ!

純佳にはまったく理解できなかった。

自分がいったいどんな過ちを犯したというのか。なぜここまで大掛かりな罠にハメられなければならなかったのか!?

慎一の憎悪に満ちた声が響くまで、彼女はその残酷な理由を知る由もなかった。

「子供のことがなければ、純佳なんかに優しくしてやる義理がどこにある!

あいつを縛るための『妻としての行動規範』をさらに細かく書き直しておいた。これなら今後、母さんが俺の代わりに躾けやすくなるだろう」

慎一の冷え切った声とともに、日常の立ち振る舞いまで事細かに記された分厚いファイルの束が、千春に手渡される気配がした。

「純佳は早川家に入ってからずっと、あなたが作った息が詰まるような掟に縛られてきたのよ。今はまだ子供を産んだばかりだというのに、いくらなんでもこんな仕打ちは……」

千春が躊躇うと、慎一の冷ややかな鼻息が聞こえた。

「あの時、純佳が大勢の前で結婚を迫ったりしなければ、佑紀子が海外へ行くと言い出すこともなかったし、突然の事故で命を落としかけることもなかった。

これはすべて、純佳が佑紀子に対して犯した罪だ!俺はただ掟を叩き込んで、外で早川家の恥を晒さないようにしてやっているだけだ。

もし本気で復讐する気なら、あいつが今も早川家で無事でいられるとでも思っているのか!」

その言葉を聞いた瞬間、純佳は怒りと憎しみで壁を支える手にぐっと力を込めた。皮が剥けた指先が壁を引っ掻き、深さの違う傷跡を残すのも構わなかった。

早川家に嫁いでからの毎日は、千春のそばで掟を叩き込まれる日々だった。

紙に書き連ねられた理不尽な決まりごとの数々に縛られ、深い苦痛を味わってきた。てっきり早川家の古臭い家風なのだと思い込んでいたが、まさか慎一……夫自身が自分を苦しめるために定めた掟だったとは。

あまりにも馬鹿げている!

だが、慎一は忘れているようだ。

純佳がこれまで自分を殺し、ただ黙って従ってきたのは、すべて彼が自ら定めた掟のせいだったということを。

彼が気に入らないと一言言えば、純佳はようやく手にした風津市のトップクラスの法律事務所からの内定すらあっさりと蹴った。

そして家庭内に波風を立てないため、自分の意見を押し殺し、家庭に入って夫に尽くし、子育てに専念する道を選んだ。彼が理想とする、掟を重んじる従順な「早川の妻」になるために。

その結果がこれだ。純佳は完膚なきまでに打ちのめされ、ただの笑い者に成り下がってしまった。

あろうことか、十月十日お腹を痛めて産んだ我が子までも、初恋の女へのプレゼントに差し出そうと企んでいるなんて。

本当に滑稽でたまらない!

もう、早川の妻など真っ平ご免だ。

純佳は決意した。

かつての自分に戻るのだと。誰にも縛られない、完全な本来の自分を取り戻すのだと。

胸の奥から激しく噴き出す怒りは、もはや抑えきれなかった。今すぐ慎一と話をつけてやる。離婚は構わない、だが桃香だけは絶対に引き取る!

しかしその時、折悪く慎一のスマートフォンに着信音が鳴り響いた。

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