FAZER LOGIN現れたのは、30代前半くらいの男性。
落ち着いたネイビーのスーツに、シルバーフレームの眼鏡。穏やかな笑顔で、どこか図書館の司書のような雰囲気がある。
「森川咲希さんですね。お待ちしておりました」
その声は、落ち着いていて丁寧だった。
「初めまして。私、
秘書?それじゃあ、この人は雇い主ではないのか。
そして、氷室──それが雇用主の名前?
「森川です。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
私は深く頭を下げた。
「どうぞ、お入りください」
神崎さんに案内されて、ペントハウスの中に足を踏み入れる。
その瞬間──息を呑んだ。
広い。とにかく、広い。
玄関を抜けると、天井高5メートルはあろうかというリビングが広がっていた。白を基調とした内装に、モダンな家具が配置されている。
そして、壁一面がガラス張りで、東京の街が一望できる。
東京タワーが、まるで手を伸ばせば届きそうな距離に見えた。遠くには、スカイツリーも見える。
秋晴れの空の下、東京という巨大都市が、まるでミニチュアのように広がっていた。
「こちらへどうぞ」
神崎さんに促されて、私はリビングのソファに座る。
革張りのソファは、座った瞬間に体が沈み込むほど柔らかかった。高級ホテルのスイートルームでさえ、ここまでの質感はない。
「お飲み物は何がよろしいですか?コーヒー、紅茶、お水、何でもご用意できますが」
「お水をいただけますか」
喉がカラカラだった。
「かしこまりました」
神崎さんは、キッチンへと向かった。
その間、私はリビングを見回す。
インテリアは、全てが洗練されている。無駄なものは一切なく、それでいて温かみがある。
壁には、現代アートの絵画が飾られていた。どれも、美術館で見るような作品ばかり。
一体どんな人が、ここに住んでいるのだろう。
そして、なぜ月給80万円も出して、家政婦を雇おうとしているのだろう。
神崎さんが、グラスに入った水を持って戻ってきた。氷が入っていて、グラスの表面には細かい水滴がついている。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
一口飲む。冷たい水が、緊張した喉を潤した。
神崎さんは、向かいのソファに座り、手元のタブレットを開いた。
「それでは、面接を始めさせていただきます」
彼の口調は丁寧だったけれど、どこか探るような響きがあった。
「経歴を拝見しました。ホテル・グランシエル東京……一流ホテルですね」
その名前を聞いた瞬間、胸がチクリと痛んだ。
「はい」
「コンシェルジュとして、5年間勤務されていたとのことですが……」
神崎さんは、メガネの奥の目で私を見つめた。
「なぜ、退職を?」
来た。この質問が来ることは、分かっていた。でも、どう答えるべきか。
嘘をついて、当たり障りのない理由を並べるべきか。それとも……
「私の不手際で、VIPのお客様に危険が及んでしまいました」
正直に、言った。
アレルギー対応に関するミスがあり、お客様が救急搬送されたこと。私が推薦した新人シェフのミスだったが、管理責任を取って自主退職したこと。
神崎さんは、黙って聞いていた。表情は変わらない。ただ、タブレットにメモを取っているようだった。
長い沈黙。やはり、正直に話したのは失敗だったかもしれない。
後悔し始めた、そのとき──
「正直な方だ」
ぽつりと、彼が呟いた。
「え?」
「多くの人は、面接で不利になるようなことは隠します。しかし、あなたは正直に話してくれた」
神崎さんは、少しだけ笑みを浮かべた。
「それは、評価に値します」
その言葉に、私はほっと胸を撫で下ろす。
けれど、神崎さんの表情はすぐに真剣なものに戻った。
「では、もう一つ質問させてください」
神崎さんは、メガネを外して私をじっと見てくる。
現れたのは、30代前半くらいの男性。落ち着いたネイビーのスーツに、シルバーフレームの眼鏡。穏やかな笑顔で、どこか図書館の司書のような雰囲気がある。「森川咲希さんですね。お待ちしておりました」その声は、落ち着いていて丁寧だった。「初めまして。私、神崎柊吾と申します。氷室様の秘書を務めております」秘書?それじゃあ、この人は雇い主ではないのか。そして、氷室──それが雇用主の名前?「森川です。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」私は深く頭を下げた。「どうぞ、お入りください」神崎さんに案内されて、ペントハウスの中に足を踏み入れる。その瞬間──息を呑んだ。広い。とにかく、広い。玄関を抜けると、天井高5メートルはあろうかというリビングが広がっていた。白を基調とした内装に、モダンな家具が配置されている。そして、壁一面がガラス張りで、東京の街が一望できる。東京タワーが、まるで手を伸ばせば届きそうな距離に見えた。遠くには、スカイツリーも見える。秋晴れの空の下、東京という巨大都市が、まるでミニチュアのように広がっていた。「こちらへどうぞ」神崎さんに促されて、私はリビングのソファに座る。革張りのソファは、座った瞬間に体が沈み込むほど柔らかかった。高級ホテルのスイートルームでさえ、ここまでの質感はない。「お飲み物は何がよろしいですか?コーヒー、紅茶、お水、何でもご用意できますが」「お水をいただけますか」喉がカラカラだった。「かしこまりました」神崎さんは、キッチンへと向かった。その間、私はリビングを見回す。インテリアは、全てが洗練されている。無駄なものは一切なく、それでいて温かみがある。壁には、現代アートの絵画が飾られていた。どれも、美術館で見るような作品ばかり。一体どんな人が、ここに住んでいるのだろう。そして、なぜ月給80万円も出して、家政婦を雇おうとしているのだろう。神崎さんが、グラスに入った水を持って戻ってきた。氷が入っていて、グラスの表面には細かい水滴がついている。「どうぞ」「ありがとうございます」一口飲む。冷たい水が、緊張した喉を潤した。神崎さんは、向かいのソファに座り、手元のタブレットを開いた。「それでは、面接を始めさせていただきます」彼の口調は丁寧だったけれど、どこか探
翌朝、鏡に映る自分の顔色が悪い。目の下に薄いクマができている。昨夜は2時間も眠れなかった。何度も目が覚めて、スマホで『住み込み 家政婦 危険』と検索してしまう。出てくるのは、詐欺まがいの求人トラブルや、劣悪な労働環境を訴える記事ばかり。「大丈夫……面接だけなら」鏡の中の自分に言い聞かせる。紺色のスーツに白いブラウス。ホテル勤務時代の勝負服に袖を通す。髪は後ろで一つにまとめ、控えめなメイク。外見だけは、完璧に整えた。でも、胸の中の不安は消えない。時計を見ると、午前10時。面接は午後2時だから、まだ4時間ある。その時、スマホが鳴った。親友の西園寺萌花からの着信だ。「もしもし、萌花?」『咲希!今日の面接、本気で行くつもり!?』開口一番、心配そうな声が響く。昨夜、全てを話したら、彼女は猛反対してきた。大学時代からの付き合いで、私のことを妹のように心配してくれる姉御肌の女性だ。「もちろん、行くよ」『は?何言ってるの!?月給80万の住み込み家政婦なんて、どう考えたって怪しすぎるでしょ!』萌花の言うことは、もっともだった。私だって、冷静に考えれば怪しいと思う。「でも、面接だけなら──」『咲希、聞いて』萌花の声が、少し低くなった。『世の中には変な人がたくさんいるんだよ。住み込みって言葉に釣られて、変なことされるかもしれないじゃん』「……」『……分かったわ。玄関入った瞬間、違和感あったら即帰る。いい?』「うん」『約束して』萌花の声は、真剣だった。「……約束する」『よし。じゃあ、私も近くのカフェで待機してるから。2時間経っても連絡なかったら、警察呼ぶからね』「そこまでしなくても……」『するの!咲希は、お人好しすぎるんだから』胸が熱くなる。こんなに心配してくれる友達がいる。それだけで、少し勇気が出た。「ありがとう、萌花」『お礼なんていいから。とにかく、無事に帰ってきてよ』通話を切って、私は深呼吸をした。大丈夫。きっと、大丈夫。時計を見ると、午後1時。面接は2時。そろそろ出発しないと。◇午後1時45分。私は、港区某所の高層タワーマンション「スカイレジデンス東京」の前に立っていた。ガラス張りの外観が、秋の日差しを反射してきらきらと輝いている。エントランスには噴水があり、周囲には手入れの行き
救急車のサイレンが、ホテル・グランシエル東京の静寂を切り裂いた。「レイラ!レイラ、しっかりして!」母親の悲鳴にも似た声が、レストラン中に響き渡る。某国財務大臣の娘、8歳のレイラちゃんが、母親に抱きかかえられて担架に乗せられていく。腫れ上がった顔、荒い呼吸。エピペンを打たれた跡が、小さな腕に残っていた。私── 森川咲希・26歳は、その光景を呆然と見つめることしかできなかった。「どういうことだ!娘は、ナッツアレルギーだと伝えたはずだろう!」大臣の怒号が、レストラン中に響き渡る。「申し訳ございません……!」支配人が深々と頭を下げる横で、私もまた、床に額がつくほど深く謝罪していた。でも──どうして?私は何度も、何度も確認したはずなのに。◇11月10日、午後11時。ホテル・グランシエル東京、従業員用の会議室。蛍光灯の冷たい光の下、私は上司の前に立っていた。「森川さん、あなたには責任を取ってもらいます」総支配人の冷たい声が、会議室に響く。「しかし、私は事前に厨房へ3部作成した伝達メモを……」「あなたが推薦したシェフです。田中くんの管理責任も、あなたにある」言葉が、喉の奥で詰まった。田中くん。3ヶ月前、私が「この子は将来有望です」と推薦した、22歳の新人シェフ。彼が、特製ソースに「アレンジ」としてヘーゼルナッツペーストを加えてしまった。伝達メモを見落として。「国際問題になりかけたんですよ、分かっていますか?」上司の言葉が、胸に突き刺さる。分かっている。分かっているけれど──。「田中くんは、まだ新人で……私の指導が不足していました。全て、私の責任です」私は、そう答えるしかなかった。彼のキャリアを、ここで終わらせたくなかった。5年前、新人だった私も大きなミスをした。その時、先輩が庇ってくれたから、今がある。だから──。「自主退職という形にします。退職金は出ませんが、経歴には傷をつけないよう配慮します」差し出された退職届に、震える手でサインをした。インクが紙に滲む。私の名前が、まるで他人のもののように見えた。その瞬間、私の5年間のキャリアは……夢も、誇りも、全てが──終わった。◇11月11日。従業員用ロッカールームで、私は荷物をまとめていた。予備の制服、お客様からの感謝のカード、同僚との記念
嘘だ──この『愛してる』は、全部嘘。なのに、どうしてこんなに胸が苦しいの?耳元で囁かれた瞬間、心臓が止まりそうになった。振り向かなくても、誰だか分かる。氷室蓮──氷室グループの若き社長で、私の雇い主。そして、偽りの“婚約者”。昼は彼に仕える完璧な家政婦。夜は契約妻として、腕を組んでパーティーに立つ。これが、私たちの関係だ。シャンデリアの光が揺れるパーティー会場で、数百もの視線が私たちに注がれていた。「っ……」胸の奥が、強く掴まれたように跳ねる。甘く、苦しく、体の芯まで震える感覚。氷室様は、私の腰にそっと手を添える。触れ方は丁寧なのに、拒めないほどの強さを秘めている。雇用主と家政婦──本来なら、決して触れることのない距離のはずなのに。今、私たちは、誰よりも近い場所にいる。「……あなたが望むなら、どこまででも演じます」震えた声で返すと、氷室様はほんのわずか、驚いたように目を細めた。その黒い瞳は冷たく見えるのに、奥底に熱がある。“演技”だと分かっていても、吸い寄せられてしまいそうだった。氷室様の手が、私の背に滑り、そっと抱き寄せる。体温が触れ合った瞬間、息が止まりそうになった。「咲希」「はい」自分の名前を呼ばれるだけで、こんなにも胸が揺れるなんて。彼の顔がゆっくりと近づき、呼吸のひんやりした温度が頬をかすめる。──キスされる。そんな予感が、私の鼓動を乱した。周囲のざわめきが遠ざかる。世界に、氷室様と私だけが残ったような錯覚。そして……氷室様の唇が、私の額にそっと触れた。ほんの一瞬の、温かさ。「……っ」「よくやった。今日は、それで十分だ」耳元に低く落とされた声は、甘さを押し殺したような優しい響き。雇い主が従業員にかける労いの言葉なのに、どうしようもなく胸が熱くなる。これが“偽物”なら、本物はどうなってしまうのだろう。そう思った、瞬間だった。「久しぶりね、蓮」氷を撫でるような声が、空気を凍らせた。振り返ると──深紅のドレスをまとった美女が、そこに立っていた。白い肌に、赤い色が映えて妖艶なほど美しい。会場の空気が、わずかにざわめく。……誰、この人?まさか……。女性は一歩進み、まっすぐ氷室様を見つめる。その眼差しには──私が決して向けることのできない、灼けるような熱があった。「……椿







