LOGIN静まり返ったリビングに、神崎さんの問いが重く響いた。
「もし、雇用主が法に触れることをしていると知ったら、あなたはどうしますか?」
「え……?」
予想外の質問に、言葉が詰まる。
「あくまでも、これは仮定の話です。あなたが守秘義務を守れるか、確認しておきたい」
神崎さんの目は、笑っていなかった。
私は、喉の奥が渇くのを感じた。この質問には、何か裏がある。まるで、この家に何か秘密があるかのような……。
だが、ここで曖昧に答えたら、この面接は終わる。
私は、真っ直ぐ彼の目を見て答えた。
「私は……守秘義務を守ります。ただし、人命に関わる場合は別です」
「人命、ですか」
「はい。ホテルで学んだ最優先事項は、お客様の安全です。それ以外であれば、どんなことがあっても口外しません」
神崎さんは数秒間、私を見つめていた。
やがて、小さく頷いた。
「……賢明な答えです」
彼は再びメガネをかけ、タブレットに何かを記入した。
「森川さん、住み込みでのお仕事になりますが、大丈夫ですか?こちらには個室を用意しますが、基本的には24時間体制での勤務となります」
「はい。住み込みでも問題ありません」
正直に言えば、今のアパートを引き払えるなら、むしろ好都合だった。
「料理は?」
「得意です。和食、洋食、中華、基本的なものは一通り作れます」
両親が旅館を経営していたこともあり、子どもの頃から厨房に立っていた。
「掃除や洗濯も、ホテルで学んだ技術があります」
「それは心強い」
神崎さんは頷いた。
「ただ、一つだけ──」
彼の表情が、急に真剣になった。先ほどまでの穏やかな笑顔が消え、厳しいビジネスマンの顔になる。
「絶対に守っていただきたいことがあります」
空気が、ピンと張り詰めた。
「この家で見たこと、聞いたこと、全て外部に漏らしてはいけません。ご家族にも、親しい友人にも、誰にも話さないでください」
神崎さんの声には、有無を言わさぬ強さがあった。
「SNSへの投稿も厳禁。写真撮影も禁止。氷室様のプライバシーは、絶対に守っていただきます」
「承知しました」
「もし、守秘義務を破った場合……」
神崎さんは、一拍置いてから続けた。
「法的措置を取らせていただくことになります。損害賠償請求も含めて」
背筋がゾクリとした。
やっぱり、この月給80万円の裏には、何か隠された事情があるのだろうか。
だけど、今更引き返せない。
「承知しました。ホテルの機密保持と同等、それ以上に徹底いたします」
私は、はっきりと答えた。ここで怖気づいては、家族を救えない。
「ありがとうございます」
神崎さんは、再び穏やかな表情に戻った。
「それでは、森川さん──」
彼は立ち上がり、リビングの奥にある黒い重厚なドアに向かって歩いていく。
「氷室様をお呼びします」
その瞬間、私の全身の緊張が一気に高まった。
いよいよ、この面接の核心だ。
神崎さんが扉をノックした。
「氷室様、森川さんがお見えです」
中から、低い声が聞こえた。冷たく、一切の感情を排した、威圧的な響き。
「入れ」
その一言を聞いた瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。
体が硬直し、わずかに震える。
神崎さんが、ゆっくりと重い扉を開ける。
扉が開いた瞬間、空気が変わった。リビングの温度が、一気に下がった気がした。
そして、奥から現れたのは……黒いスーツに身を包んだ長身の男性。鋭い眼光が、まるでレーザーのように私を貫く。
年齢は30代前半だろうか。黒髪は綺麗に整えられ、彫刻のように整った顔立ちだが──その顔には、驚くほど感情がない。笑顔も、怒りも、好奇心さえも。
まるで、完璧に作られた人形のようだ。
彼が一歩、こちらに近づいてくる。その瞬間、私の体が本能的に警告を発した。
──この人は、危険だ。
「初めまして、森川さん」
低く、冷たい声。まるで冬の湖のような、凍てついた響き。
「俺は、氷室蓮だ」
氷室……蓮。
その名前が、脳裏に刻まれた。
彼は私をじっと見つめたまま、一切表情を変えずに言った。
「君が、俺の家政婦として適任かどうか……」
そこで一度、言葉を切る。そして──
「今から、試させてもらう」
試す?面接ではなく、試験?
「え、あの……」
私の心臓が、バクバクと激しく鳴り始める。
うそでしょ。いきなり試験なんて、いったい何をするの?
氷室蓮……氷室様の冷たい視線が、私を射抜く。
そして、彼は静かに告げた。
「さあ、始めよう」
これは、私が「氷室咲希」になる前の話だ。◇森川咲希として働いていた4ヶ月間、私は毎月80万円を受け取っていた。最初の給与が振り込まれた日のことを、今でも覚えている。スマホの通帳アプリの残高を見て、画面を二度見した。「本当に入っている」思わず、声に出してしまった。自室で、一人で画面を見つめた。前のホテルの月給の、約3倍。実家への仕送りを除いても、手元にまとまったお金が残った。でも、何に使えばいいか分からなかった。◇3ヶ月目の給与が入った頃、私はある決心をした。蓮さんに、何かを贈りたい。ただの家政婦として贈るのではない。彼の恋人として。この人が私に仕事をくれた。居場所をくれた。尊厳を守ってくれた。その感謝を、形にしたかった。問題は、何を贈るかだった。蓮さんに必要なものは、何もない。欲しいものは、自分で手に入れられる人だ。私は一週間、考え続けた。◇答えが出たのは、書斎を掃除している時だった。蓮さんの机の上に、万年筆があった。年季の入った、細身の万年筆。インクが切れかけていたので、新しいカートリッジを補充しようとしてよく見ると、軸に細かな傷がついていた。「この傷……」「父のものだ」振り返ると、蓮さんが書斎の入り口に立っていた。「亡くなった時に、唯一もらったものだ」「……そうなんですね」「もう廃番になっているモデルだ。インクも合うものを探すのが面倒でな」蓮さんが、万年筆を手に取った。その手つきが、いつもより少しだけ丁寧だった。私は、答えを見つけた気がした。◇翌週の休日、私は一人で銀座に出た。老舗の万年筆専門店を、事前に
陽を寝かしつけた後、私たちはリビングのソファに並んで座った。部屋は静かだった。ベビーベッドから、穏やかな寝息が聞こえてくる。窓の外、東京の夜景が広がっている。「ねえ、蓮さん」「ん?」「あの観察力テスト、覚えてますか?」蓮さんが、少し目を細めた。「もちろん。30秒で俺の好みを当てろ、というやつだろう」「今なら、もっと当てられます」蓮さんが、面白そうに私を見た。「やってみろ」「好きな色は黒。最近は、陽の服を選ぶとき、明るい色も手に取るようになりましたね」蓮さんの眉が、わずかに上がった。「……よく見てるな」「嫌いな食べ物は甘いもの。でも、私が作ったアップルパイだけは、毎回おかわりしています」「……バレていたか」「最初から」蓮さんが、小さく笑った。「続けろ」「趣味は、読書とピアノと……」「と?」「家族と過ごす時間」蓮さんが、静かに私を見た。しばらく間があって、告げた。「……正解だ。100点」「やった!」私が笑うと、蓮さんも笑った。「それじゃあ、次は君のことも当ててみようか」「え?」「面接の日、俺は君のことを観察した。今も、ずっと見ている」蓮さんが、少し前傾みになった。あの日と同じ目をしていた。でも、あの日よりずっと温かかった。「君の好きな色は、淡いピンク」「正解です」「好きな食べ物は、君のお母さんの煮物。そして……」蓮さんが、少し間を置いた。「俺の作ったオムレツ」私の顔が、一気に熱くなった。「バレてたんですか」「ああ。嬉しそうに食べるからな。毎回」「恥ずかしい……」「恥ずかしくない。嬉しかった」蓮さんが、静か
出産から3ヶ月。4月のある日曜日。公園の桜が、ピンクに染まっていた。花びらが、風に乗ってゆっくりと舞い降りてくる。蓮さんがベビーカーを押し、私は隣を歩いた。「あう」ベビーカーの中から、声がした。陽が、空を見上げて笑っていた。「桜が見えるのか?」蓮さんが覗き込んだ。陽が「ああー!」と言って、小さな手を動かした。「気に入ったのかもしれません」「そうか」蓮さんが、陽の頬にそっと触れた。陽が蓮さんを見て、にっこりと笑った。蓮さんの顔が、ほころぶ。その笑顔を、私はじっと見つめた。1年半前には、存在しなかった笑顔。人混みを避けて、静かな一角のベンチに座った。蓮さんが陽を抱き上げる。まだ少し不慣れな抱き方だが、陽は嫌がらない。蓮さんの胸の中で、満足そうに声を上げている。「蓮さん、良いパパですね」私が言うと、蓮さんは少し間を置いた。「まだまだだ」蓮さんはそう言いながら、陽の背中の蒸れをチェックし、日差しが直接当たらないようベビーカーのシェードを調整した。かつて経営戦略書を読み解いていたその指先が、今は育児書の知識を実践している。「十分ですよ」「そうは思わない。でも」蓮さんが、陽を見た。「頑張る」その一言が、静かに胸に落ちた。◇しばらく並んで座っていると、蓮さんがふと言った。「あの日のこと、覚えているか」「あの日……?」「1年半前の11月。君が面接に来た日」私は少し笑った。「もちろんです。忘れるわけないですよ」「俺もだ」「私、あの日すごく緊張していました」「顔に出ていた」「蓮さん、冷たくて怖い人だと思って」
2月の末。夜明け前から、旅館に明かりが灯っていた。キッチンから、包丁の音が聞こえてくる。昨夜も遅くまで仕込みをしていた源さんの音だ。私は陽を抱いて、廊下に出た。冬の終わりの朝の空気が、鼻をくすぐる。「今日だよ、陽」陽が、私を見て声を上げた。「あうー」「そう。旅館が、生まれ変わる日」◇午前9時。玄関に、父が立った。作務衣を着て、背筋を伸ばして。リノベーションで新しくなった玄関の引き戸の前に、静かに立っている。いつもの父だったが、今日だけは違って見えた。「お父さん」父が振り返った。「咲希……泣いてるのか」「泣いていません」「目が赤い」「……朝の光が、まぶしくて」父が、小さく笑った。「そうか」父が、また玄関の方を向いた。「俺は、諦めかけていた」父の声が、少し低くなった。「お前が連絡してきた時、正直、もう遅いかもしれないと思った」「お父さん……」「でも蓮さんが来て、源さんが動いて、お前が毎日投稿を続けて」父が、私を振り返った。「諦めなくて、良かった」その一言が、胸に落ちた。◇最初のお客様が到着したのは、午前10時を少し過ぎた頃だった。60代の女性が二人、小さなバッグを持って玄関をくぐった。「森川荘さんですか。SNSを見て来ました。懐かしいと思って」「いらっしゃいませ」母が、深々と頭を下げた。「ここ、30年前に主人と来たことがあって。まだあったのか、と思って」「ありがとうございます。どうぞ、お上がりください」お客様が、廊下をゆっくりと歩いた。「変わってる。でも……雰囲気はそのままだ」その一言に、母が目を潤ませた
2月の末。森川荘のオープン前日。蓮さん、私、そして陽の三人で山梨へ向かった。高速を降りると、山が近くなった。空の青が、東京より深い。「陽、初めての山梨だよ」チャイルドシートの陽に話しかけると、陽は窓の外を見ていた。「あー」「気に入ったか?」蓮さんが前を向いたまま言った。「気に入ったんだと思います」「そうだな」◇「森川荘」の門をくぐると、玄関に父と母の姿があった。「おかえり、咲希。蓮さんも」「お邪魔します」蓮さんが深く頭を下げた。母が、すぐに陽に駆け寄った。「陽ちゃん、会いたかったよ」陽が母の顔を見て、声を上げた。「あー!」「覚えてくれてる?おばあちゃんよ」父が、旅館を見回した。リノベーションが終わった廊下は、古い木の骨格はそのままに、清潔に磨かれていた。「変わったでしょう」「良くなりました。でも、ちゃんとここの匂いがします」「そうか」父が、少し照れくさそうに笑った。◇夕方、廊下を歩いていると、厨房から出汁の香りが漂ってきた。昆布と鰹の、深くて静かな香り。「源さん」扉を開けると、源さんが鍋の前に立っていた。振り返った源さんが、私を見た。それから、腕の中の陽を見た。「こいつが、陽か」「はい。会ってもらいたくて」源さんが、陽に近づいた。値踏みするような、鋭い目で陽を見る。陽が、源さんを見た。大きな目で、じっと。それから、にっこりと笑った。源さんが、おたまを持ったまま、少しだけ目を細めた。「……はは、笑いやがった」「笑いましたね」「可愛くはない」「絶対に可愛いと思ってますよね」
入院3日目。私は昼間、陽を連れて病室に来た。蓮さんが、陽を見て目を細めた。「連れてきたのか」「陽が、パパに会いたそうでした」「……そんなことが分かるのか」「なんとなく、分かります」私が陽を蓮さんの隣に寝かせると、陽が蓮さんの方を向いた。「あー」「……俺が分かるのか」「パパの声が好きなんだと思います」蓮さんが、陽に小指を差し伸べた。陽が、ぎゅっと掴んだ。「力が強いな」「蓮さん似ですよ」蓮さんが、陽の顔を見たまま、しばらく黙っていた。「……情けないな」「何がですか」「こんな姿を、見せたくなかった」私は、蓮さんの隣に椅子を引いた。「見せてくれて、良かったです」「良かった?」「はい。蓮さんが弱いところを見せてくれる人だと、分かったので」「俺は弱くなんか……」「弱くてもいいんです」蓮さんが、口を閉じた。「人間なんですから、倒れることだってあります。……だから私がいます」蓮さんが、私を見た。「蓮さんがずっと私のそばにいてくれたように、今度は私の番です。それだけです」蓮さんの目が、静かに滲んだ。「ありがとう」「どういたしまして」蓮さんの手を、両手でそっと包んだ。ひんやりとした指先が、少しずつ温もりを取り戻していく。「ずっと一緒です」蓮さんが、目を閉じた。陽も蓮さんの指を握ったまま、穏やかになった。三人で、しばらくそのままでいた。◇翌朝、神崎さんが病室を訪ねてきた。「氷室様、少し話があります」蓮さんが、点滴を繋いだまま頷いた。神崎さんが、封筒を取り出した。「グループの件、動かせます。今がその時です」「……経緯を話せ」