LOGIN翌朝、鏡に映る自分の顔色が悪い。
目の下に薄いクマができている。昨夜は2時間も眠れなかった。何度も目が覚めて、スマホで『住み込み 家政婦 危険』と検索してしまう。
出てくるのは、詐欺まがいの求人トラブルや、劣悪な労働環境を訴える記事ばかり。
「大丈夫……面接だけなら」
鏡の中の自分に言い聞かせる。
紺色のスーツに白いブラウス。ホテル勤務時代の勝負服に袖を通す。髪は後ろで一つにまとめ、控えめなメイク。
外見だけは、完璧に整えた。でも、胸の中の不安は消えない。
時計を見ると、午前10時。面接は午後2時だから、まだ4時間ある。
その時、スマホが鳴った。親友の
「もしもし、萌花?」
『咲希!今日の面接、本気で行くつもり!?』
開口一番、心配そうな声が響く。
昨夜、全てを話したら、彼女は猛反対してきた。大学時代からの付き合いで、私のことを妹のように心配してくれる姉御肌の女性だ。
「もちろん、行くよ」
『は?何言ってるの!?月給80万の住み込み家政婦なんて、どう考えたって怪しすぎるでしょ!』
萌花の言うことは、もっともだった。私だって、冷静に考えれば怪しいと思う。
「でも、面接だけなら──」
『咲希、聞いて』
萌花の声が、少し低くなった。
『世の中には変な人がたくさんいるんだよ。住み込みって言葉に釣られて、変なことされるかもしれないじゃん』
「……」
『……分かったわ。玄関入った瞬間、違和感あったら即帰る。いい?』
「うん」
『約束して』
萌花の声は、真剣だった。
「……約束する」
『よし。じゃあ、私も近くのカフェで待機してるから。2時間経っても連絡なかったら、警察呼ぶからね』
「そこまでしなくても……」
『するの!咲希は、お人好しすぎるんだから』
胸が熱くなる。こんなに心配してくれる友達がいる。それだけで、少し勇気が出た。
「ありがとう、萌花」
『お礼なんていいから。とにかく、無事に帰ってきてよ』
通話を切って、私は深呼吸をした。大丈夫。きっと、大丈夫。
時計を見ると、午後1時。面接は2時。そろそろ出発しないと。
◇
午後1時45分。
私は、港区某所の高層タワーマンション「スカイレジデンス東京」の前に立っていた。
ガラス張りの外観が、秋の日差しを反射してきらきらと輝いている。エントランスには噴水があり、周囲には手入れの行き届いた植栽。まるで、高級ホテルのようだ。
「すごい……もし受かったら、ここで働くんだ」
呟いた声が震える。
緊張で喉が渇く。現実感がなさすぎて、まるで夢の中を歩いているような気分だった。
エントランスに近づくと、警備員に呼び止められた。
「いらっしゃいませ。ご用件をお伺いしてもよろしいでしょうか」
紺色の制服を着た初老の警備員は、丁寧だが厳格な表情をしていた。
「あの、ペントハウスに面接で伺いました。森川咲希と申します」
「少々お待ちください」
警備員は手元のタブレットを確認した。
数秒の沈黙。私には、永遠のように感じられた。
「確認いたしました。こちらへどうぞ」
ほっと息をつく。
エントランスホールに足を踏み入れた瞬間、空調の効いた冷たい空気が肌を撫でた。ほのかに香る高級なアロマ。床の大理石は、私の靴音を静かに吸い込む。
ここは、私が働いていたグランシエル東京よりも、さらに格上かもしれない。
案内されたのは、専用のエレベーターだった。一般の住人用とは別に、最上階専用のエレベーターがあるらしい。
「最上階のボタンは、こちらで操作いたします」
中に入ると、壁一面が鏡張りになっていた。ボタンは「PH」──ペントハウスの文字だけ。
扉が閉まり、上昇を始める。
10階、20階、30階……。
東京の街並みがどんどん小さくなっていく。東京タワー、お台場の観覧車。
普段は見上げることしかできない風景が、今は眼下に広がっている。
胃がふわりと浮くような感覚。耳がキーンとする。
やがて、エレベーターが止まった。
最上階に着いたんだ……。
扉が開くと、そこは廊下ではなく、直接玄関ホールに繋がっていた。
つまり──この階は1軒しかないということ。
床は磨き上げられた大理石。壁には抽象画が飾られている。本物だろうか。だとしたら、その一枚だけで私の年収を超えるかもしれない。
目の前には、重厚な木製のドア。
私は深呼吸をして、インターホンを押した。
チャイムの音が、ドアの向こうで響く。
数秒後──ドアが開いた。
現れたのは、30代前半くらいの男性。落ち着いたネイビーのスーツに、シルバーフレームの眼鏡。穏やかな笑顔で、どこか図書館の司書のような雰囲気がある。「森川咲希さんですね。お待ちしておりました」その声は、落ち着いていて丁寧だった。「初めまして。私、神崎柊吾と申します。氷室様の秘書を務めております」秘書?それじゃあ、この人は雇い主ではないのか。そして、氷室──それが雇用主の名前?「森川です。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」私は深く頭を下げた。「どうぞ、お入りください」神崎さんに案内されて、ペントハウスの中に足を踏み入れる。その瞬間──息を呑んだ。広い。とにかく、広い。玄関を抜けると、天井高5メートルはあろうかというリビングが広がっていた。白を基調とした内装に、モダンな家具が配置されている。そして、壁一面がガラス張りで、東京の街が一望できる。東京タワーが、まるで手を伸ばせば届きそうな距離に見えた。遠くには、スカイツリーも見える。秋晴れの空の下、東京という巨大都市が、まるでミニチュアのように広がっていた。「こちらへどうぞ」神崎さんに促されて、私はリビングのソファに座る。革張りのソファは、座った瞬間に体が沈み込むほど柔らかかった。高級ホテルのスイートルームでさえ、ここまでの質感はない。「お飲み物は何がよろしいですか?コーヒー、紅茶、お水、何でもご用意できますが」「お水をいただけますか」喉がカラカラだった。「かしこまりました」神崎さんは、キッチンへと向かった。その間、私はリビングを見回す。インテリアは、全てが洗練されている。無駄なものは一切なく、それでいて温かみがある。壁には、現代アートの絵画が飾られていた。どれも、美術館で見るような作品ばかり。一体どんな人が、ここに住んでいるのだろう。そして、なぜ月給80万円も出して、家政婦を雇おうとしているのだろう。神崎さんが、グラスに入った水を持って戻ってきた。氷が入っていて、グラスの表面には細かい水滴がついている。「どうぞ」「ありがとうございます」一口飲む。冷たい水が、緊張した喉を潤した。神崎さんは、向かいのソファに座り、手元のタブレットを開いた。「それでは、面接を始めさせていただきます」彼の口調は丁寧だったけれど、どこか探
翌朝、鏡に映る自分の顔色が悪い。目の下に薄いクマができている。昨夜は2時間も眠れなかった。何度も目が覚めて、スマホで『住み込み 家政婦 危険』と検索してしまう。出てくるのは、詐欺まがいの求人トラブルや、劣悪な労働環境を訴える記事ばかり。「大丈夫……面接だけなら」鏡の中の自分に言い聞かせる。紺色のスーツに白いブラウス。ホテル勤務時代の勝負服に袖を通す。髪は後ろで一つにまとめ、控えめなメイク。外見だけは、完璧に整えた。でも、胸の中の不安は消えない。時計を見ると、午前10時。面接は午後2時だから、まだ4時間ある。その時、スマホが鳴った。親友の西園寺萌花からの着信だ。「もしもし、萌花?」『咲希!今日の面接、本気で行くつもり!?』開口一番、心配そうな声が響く。昨夜、全てを話したら、彼女は猛反対してきた。大学時代からの付き合いで、私のことを妹のように心配してくれる姉御肌の女性だ。「もちろん、行くよ」『は?何言ってるの!?月給80万の住み込み家政婦なんて、どう考えたって怪しすぎるでしょ!』萌花の言うことは、もっともだった。私だって、冷静に考えれば怪しいと思う。「でも、面接だけなら──」『咲希、聞いて』萌花の声が、少し低くなった。『世の中には変な人がたくさんいるんだよ。住み込みって言葉に釣られて、変なことされるかもしれないじゃん』「……」『……分かったわ。玄関入った瞬間、違和感あったら即帰る。いい?』「うん」『約束して』萌花の声は、真剣だった。「……約束する」『よし。じゃあ、私も近くのカフェで待機してるから。2時間経っても連絡なかったら、警察呼ぶからね』「そこまでしなくても……」『するの!咲希は、お人好しすぎるんだから』胸が熱くなる。こんなに心配してくれる友達がいる。それだけで、少し勇気が出た。「ありがとう、萌花」『お礼なんていいから。とにかく、無事に帰ってきてよ』通話を切って、私は深呼吸をした。大丈夫。きっと、大丈夫。時計を見ると、午後1時。面接は2時。そろそろ出発しないと。◇午後1時45分。私は、港区某所の高層タワーマンション「スカイレジデンス東京」の前に立っていた。ガラス張りの外観が、秋の日差しを反射してきらきらと輝いている。エントランスには噴水があり、周囲には手入れの行き
救急車のサイレンが、ホテル・グランシエル東京の静寂を切り裂いた。「レイラ!レイラ、しっかりして!」母親の悲鳴にも似た声が、レストラン中に響き渡る。某国財務大臣の娘、8歳のレイラちゃんが、母親に抱きかかえられて担架に乗せられていく。腫れ上がった顔、荒い呼吸。エピペンを打たれた跡が、小さな腕に残っていた。私── 森川咲希・26歳は、その光景を呆然と見つめることしかできなかった。「どういうことだ!娘は、ナッツアレルギーだと伝えたはずだろう!」大臣の怒号が、レストラン中に響き渡る。「申し訳ございません……!」支配人が深々と頭を下げる横で、私もまた、床に額がつくほど深く謝罪していた。でも──どうして?私は何度も、何度も確認したはずなのに。◇11月10日、午後11時。ホテル・グランシエル東京、従業員用の会議室。蛍光灯の冷たい光の下、私は上司の前に立っていた。「森川さん、あなたには責任を取ってもらいます」総支配人の冷たい声が、会議室に響く。「しかし、私は事前に厨房へ3部作成した伝達メモを……」「あなたが推薦したシェフです。田中くんの管理責任も、あなたにある」言葉が、喉の奥で詰まった。田中くん。3ヶ月前、私が「この子は将来有望です」と推薦した、22歳の新人シェフ。彼が、特製ソースに「アレンジ」としてヘーゼルナッツペーストを加えてしまった。伝達メモを見落として。「国際問題になりかけたんですよ、分かっていますか?」上司の言葉が、胸に突き刺さる。分かっている。分かっているけれど──。「田中くんは、まだ新人で……私の指導が不足していました。全て、私の責任です」私は、そう答えるしかなかった。彼のキャリアを、ここで終わらせたくなかった。5年前、新人だった私も大きなミスをした。その時、先輩が庇ってくれたから、今がある。だから──。「自主退職という形にします。退職金は出ませんが、経歴には傷をつけないよう配慮します」差し出された退職届に、震える手でサインをした。インクが紙に滲む。私の名前が、まるで他人のもののように見えた。その瞬間、私の5年間のキャリアは……夢も、誇りも、全てが──終わった。◇11月11日。従業員用ロッカールームで、私は荷物をまとめていた。予備の制服、お客様からの感謝のカード、同僚との記念
嘘だ──この『愛してる』は、全部嘘。なのに、どうしてこんなに胸が苦しいの?耳元で囁かれた瞬間、心臓が止まりそうになった。振り向かなくても、誰だか分かる。氷室蓮──氷室グループの若き社長で、私の雇い主。そして、偽りの“婚約者”。昼は彼に仕える完璧な家政婦。夜は契約妻として、腕を組んでパーティーに立つ。これが、私たちの関係だ。シャンデリアの光が揺れるパーティー会場で、数百もの視線が私たちに注がれていた。「っ……」胸の奥が、強く掴まれたように跳ねる。甘く、苦しく、体の芯まで震える感覚。氷室様は、私の腰にそっと手を添える。触れ方は丁寧なのに、拒めないほどの強さを秘めている。雇用主と家政婦──本来なら、決して触れることのない距離のはずなのに。今、私たちは、誰よりも近い場所にいる。「……あなたが望むなら、どこまででも演じます」震えた声で返すと、氷室様はほんのわずか、驚いたように目を細めた。その黒い瞳は冷たく見えるのに、奥底に熱がある。“演技”だと分かっていても、吸い寄せられてしまいそうだった。氷室様の手が、私の背に滑り、そっと抱き寄せる。体温が触れ合った瞬間、息が止まりそうになった。「咲希」「はい」自分の名前を呼ばれるだけで、こんなにも胸が揺れるなんて。彼の顔がゆっくりと近づき、呼吸のひんやりした温度が頬をかすめる。──キスされる。そんな予感が、私の鼓動を乱した。周囲のざわめきが遠ざかる。世界に、氷室様と私だけが残ったような錯覚。そして……氷室様の唇が、私の額にそっと触れた。ほんの一瞬の、温かさ。「……っ」「よくやった。今日は、それで十分だ」耳元に低く落とされた声は、甘さを押し殺したような優しい響き。雇い主が従業員にかける労いの言葉なのに、どうしようもなく胸が熱くなる。これが“偽物”なら、本物はどうなってしまうのだろう。そう思った、瞬間だった。「久しぶりね、蓮」氷を撫でるような声が、空気を凍らせた。振り返ると──深紅のドレスをまとった美女が、そこに立っていた。白い肌に、赤い色が映えて妖艶なほど美しい。会場の空気が、わずかにざわめく。……誰、この人?まさか……。女性は一歩進み、まっすぐ氷室様を見つめる。その眼差しには──私が決して向けることのできない、灼けるような熱があった。「……椿