Masuk真司の視点俺は仕事に全く集中できなかった。美桜があの男と一緒にいる光景が、頭の中で何度も何度も再生される。水野圭介――その名前を聞くだけで、胸の奥が焼けつく。「鈴木」インターホン越しに呼びかけた。「水野圭介について、調べられるだけ調べてくれ」「あのデザイナーのですか?」凛奈の声は慎重に中立を保っている。「すぐに調べてきます」ネクタイを緩める。空調は効いているはずなのに、やけに暑い。美桜は彼のデザイン事務所で何をするつもりなんだ?二人きりになるのか?一緒に遅くまで働くのか?芸術家なんて人種は、どうせそんなもんだろう?二人が彼のスタジオにいる光景を想像すると、顎に力が入り、歯が軋んだ。まさか手取り足取り教える気か?彼の手が美桜の手に触れるのか?肖像画を描くのか?ああ、まさか美桜が彼のためにポーズを取るのか?俺は苛立ちに任せてネクタイを乱暴に引き剥がした。悪いイメージが止まらない。美桜が昔、俺に向けていたような無垢な笑顔を、あいつに向ける。美桜が彼のスタジオに夜遅くまで残る。美桜が彼に心を許し、近づきすぎるのを許す。「やめろ……」低く呟きながら、自分に強い酒を注ぐ。これは純粋に仕事上の懸念だ。それ以外の何物でもない。美桜は俺の妻だ。たとえ書類上だけだとしても。彼女の職場環境について知る権利が、夫である俺にはある。ノックの音がして、凛奈が分厚いファイルを持って入ってきた。「水野圭介の経歴です」ページをめくるごとに、眉間の皺が深くなっていく。受賞歴のある独立系デザイナー。一流芸術学校のゲスト講師。彼の作品はヨーロッパ中の主要ギャラリーで展示されている。フォーブス誌の「30歳未満の30人」。セレブリティや王族からの個人的な依頼。完璧すぎる経歴。どす黒い感情が、胃の底に沈んだ。「プライベートも洗え」凛奈が躊躇した。「社長?」「結婚してるのか?誰かと付き合ってるのか?」「……調べます」彼女は一度間を置いた。「それに、社長には他に知っておくべきことがあります」顔を上げた。「奥様は大学で美術専攻でした。パリへの全額奨学金のオファーを受けていました」俺は彼女を見つめた。「何だと?」「うちに来るために、断ったそうです」凛奈の声は慎重だった。「先生たちは、彼女が並外れて才能があ
美桜の視点暗いリビングルームに座り、ただ、ぼんやりと過ごしていた。この広い家が、やけに静かだ。オフィスでの事件から三日間、真司は一度も帰ってきていない。彼が私を罰しているのだと分かっていた。それでも私は、愚かにも待ち続けていた。時計の針が十二時を回る……一時。そして二時。真司は、帰って来ない。不意のバイブ音に、心臓が跳ねた。画面を照らすのは、大学時代の古い友人からのメッセージだった。【やあ、久しぶり!明日コーヒーでもどう?】水野圭介(みずの けいすけ)、彼から連絡が来たのは久しぶりだった。大学時代、私たちはアートスタジオで数え切れないほどの時間を共に過ごした。私が自分の才能を信じられずにいた時でさえ、彼だけはいつも私の絵を信じてくれていた。返信する指が少し躊躇した――コーヒーくらい、問題ないわよね?【いいわよ。どこで?】翌朝、私は静かなダウンタウンの一角にあるカフェに身を置いていた。圭介は、変わらない笑顔で私を迎えてくれた。私を見つけると彼は立ち上がり、相変わらずの男前だった。ダークヘアはスタイリッシュに遊ばせ、群青の瞳は私の記憶にあるのと同じくらい、深く優しい色をたたえていた。「佐伯美桜」彼は照れくさそうに笑って右手を差し出し、私の手をしっかりと握り返した。「相変わらず美しいね」ストレートな物言いに、頬が熱くなる。「あなたも素敵よ、圭介」「コーヒーじゃなくてホットチョコレートを頼んでおいたよ」席に着きながら彼が言った。「君は、コーヒーが苦手だっただろう?」彼がそんな些細なことを覚えていてくれたという単純な事実に、不意に喉が詰まった。いつからだろう。誰かが私のそんな小さなことに気づき、気遣ってくれたのは。「それで」彼が切り出した。「S.Y.ホールディングスで働いてるって聞いたよ」私は頷き、ホットチョコレートをスプーンでかき混ぜた。「人事部でね」「本当?」彼の眉が上がる。「大学のホールにあの素晴らしい壁画を描いた女の子が、人事部に?」「人は変わるものよ」私は静かに言った。「変わる必要のないものもある」彼は身を乗り出した。「実は、それで会いたかったんだ。僕のデザイン事務所が大きなプロジェクトを取った。新鮮な才能を探していて、すぐに君のことを思い出したん
美桜の視点目覚めと同時に、強烈な吐き気が襲いかかってきた。私は転がるようにベッドを出て、バスルームへと駆け込む。鏡の中の自分は、見るも無残な有様だった。目の下には濃い隈が張り付き、肌は幽霊のように青白い。もっとマシに見せなければ。誰かに悟られるわけにはいかないのだから。オフィスに着くと、琳奈が待ち構えていた。「もう、大丈夫なの?」「ええ、すっかり良くなったわ」私は仮面のような笑みを貼り付ける。琳奈は探るような視線を向けてきたけれど、それ以上追及してくることはなかった。彼女の表情はいつも通り淡々としていたが、差し出された二つのコーヒーカップを見て、その瞳に滲む感情の意味を悟った。「これ、社長から」囁くような声はプロフェッショナルだったが、そこには隠しきれない憐れみの色があった。コーヒーの香りを想像しただけで、胃が不快に波打つ。それでも私は、平静を装って頷いた。「分かったわ」カップを、溢さないように慎重に持つ。二つという事実に、心臓が重く沈んだ。もう一つが誰のためのものかなど、考えるまでもなかった。真司のオフィスのドアを押し開けると、そこには我が物顔でデスクの縁に腰掛ける弥生の姿があった。彼女は燃えるような真紅のタイトドレスに身を包んでいる。おそらく、私の月給など軽く吹き飛ぶような高価な代物だろう。完璧なマニキュアを施された指先が、親しげに真司の肩に置かれていた。「あら、来たわね」弥生の声は、猫なで声で、甘ったるい。「会えて嬉しいわ、美桜」私は震えそうになる指先を必死に抑え込み、カップをそっとデスクに置いた。「コーヒーです、社長」「これ、私の好みじゃないわ」弥生が口を尖らせる。彼女はカップを手に取って一口啜ると、わざとらしく顔をしかめた。「砂糖が多すぎる。悪いけど、もう一杯淹れてきてくれる?」私は拳を強く握りしめた。「コーヒーを淹れたのは私じゃありません、佐伯さん。お好みがあるなら、お店に直接おっしゃってください」弥生の目が一瞬、蛇のように細められた。だが、すぐに鈴を転がすような笑い声を上げる。「ねえ見て真司、可愛いと思わない?たかがコーヒー一杯でこんなに必死になって」彼女は私に向き直った。その唇は弧を描いていたが、笑みは決して目には届いていなかった。
美桜の視点真司がバスルームから戻ってきた。私は慌てて携帯から目を逸らす。心臓が、耳元でうるさいほどに脈打っていた。彼は無造作に端末を手に取ると、私に一言もかけないまま寝室を出ていった。パタン、と静かにドアが閉まる。私はベッドの上で膝を抱え、自分を追い詰めるように腕に力を込めた。閉ざされたドアの向こうから、低く囁くような彼の声が漏れ聞こえてくる。真司は、彼女と話す時だけはいつもあんなに優しい。私には一度も向けられたことのない、甘く、穏やかな響き。私は膝に顔を埋め、溢れ出しそうな涙を必死に堪えた。無意識に、手がお腹へと伸びる。もし弥生が、私の中に真司の子供がいると知ったら、一体どんな顔をするだろう。あの義理の妹は、すでに私から多くのものを奪い去っていった。父を、家を、遺産を――そして今、ようやく手に入れたはずの真司さえも、彼女は取り戻そうとしている。忌まわしい記憶が脳裏を掠め、吐き気がした。十五歳の時、母が昏睡状態に陥った。父ならは側にいてくれると信じていた。けれど、それは残酷な思い込みに過ぎなかった。母が倒れたわずか一週間後、父は新しい妻と、その連れ子である弥生をこの家に連れてきた。私の世界が音を立てて崩れ落ちた、あの日。父は何年も前に母を裏切り、彼女たちと密会を重ねていたのだ。母との結婚は単なる金目当て。弥生の母こそが、父が人生で唯一愛した女性だった。私はベッドから立ち上がった。じっとしていられなかった。寝室が急に狭く、呼吸さえままならないほど息苦しく感じられる。窓辺までふらふらと歩き、冷たいガラスに額を押し当てた。外では、無機質な街の灯りが何事もないようにきらめいている。真司の声が近づいてくる。寝室の前を通り過ぎようとしているようだった。「……ああ、木曜日でいい。君のお気に入りのレストランを予約しておくよ」ガラスに押し当てた指先に、ぎりりと力がこもる。木曜日。私が彼の子供を宿して震えているというのに、真司は彼女とのデートを心待ちにしている。真司はこの子を望まない。この子はただ契約に違反する、招かれざる命に過ぎなかった。弥生が初めて家に来た日のことが、昨日のことのように思い出される。当時十三歳だった彼女は、二つ年上の私を差し置いて、まるで自分の家のように振る舞った。実際、その通り
美桜の視点「おめでとうございます」医師の高橋礼香(たかはし れいか)が、慈しむような柔らかな微笑みを浮かべて告げた。「妊娠していますよ」私は何度も瞬きを繰り返した。それでも、視界の端で微笑む彼女の表情は変わらない。礼香に導かれるままモニターへ視線を移すと、そこにはシンクロして脈打つ、二つの小さな小さな光が映し出されていた。「双子ですね。二つの命を授かっています」――双子?妊娠したという事実すら、まだ現実感を伴わずに霧の向こうにあるというのに。あんなに気をつけていた。浅木真司(あさぎ しんじ)に命じられるまま、毎日欠かさず飲んでいたあの薬は、まさにこの事態を拒むためのものだったはずだ。私たちには、契約書があった――妊娠を明確に禁じた、血も通わぬあの契約書。それが二人の、唯一の繋がりだったはずなのに。「でも……ちゃんと、薬は飲んでいたんです」か細い、囁くような声しか出なかった。指先が微かに震える。私は診察台の縁を強く握りしめ、必死に自分を繋ぎ止めようとした。礼香が、わずかに眉をひそめる。「……本当に、飲み忘れはありませんでしたか?」答えに詰まった。記憶の断片が、頼りなく揺れる。何かに気を取られていた日があっただろうか。「えっと、その……」声が震え、私は力なく首を振った。「自信が、ありません」礼香の瞳に、真剣な色が混じる。「避妊をしていても、絶対ということはありません。ですが……」そこで一度言葉を切り、彼女は心配そうに私を見つめた。「この子は……望んでいなかったのですか?」「いえ」独り言のように、唇が動いた。「ただ……私に、新しい命を宿す資格なんて、ないと思っていましたから」礼香は、私のお腹についた冷たいゲルを丁寧に拭き取ってくれた。「今大切なのは、あなたと赤ちゃんたちの健康です。ですが美桜さん、一つだけ伝えておかなければならないことが」礼香の表情が、さらに険しさを増した。「あなたの子宮の状態では、人一倍の注意が必要です。栄養と休息、それから頻繁な検診。どれが欠けてもいけません」私は、機械的に頷くことしかできなかった。震える手が、まだ平らなままのお腹へと伸びる。二つの命。この瞬間も、私の中で確かに鼓動を刻んでいる、小さな存在。真司の子供。私たちの、子供……礼香に礼を告げ、私







