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第3話

Author: Artemis Z.Y.
美桜の視点

目覚めと同時に、強烈な吐き気が襲いかかってきた。

私は転がるようにベッドを出て、バスルームへと駆け込む。鏡の中の自分は、見るも無残な有様だった。目の下には濃い隈が張り付き、肌は幽霊のように青白い。

もっとマシに見せなければ。誰かに悟られるわけにはいかないのだから。

オフィスに着くと、琳奈が待ち構えていた。

「もう、大丈夫なの?」

「ええ、すっかり良くなったわ」

私は仮面のような笑みを貼り付ける。琳奈は探るような視線を向けてきたけれど、それ以上追及してくることはなかった。

彼女の表情はいつも通り淡々としていたが、差し出された二つのコーヒーカップを見て、その瞳に滲む感情の意味を悟った。

「これ、社長から」

囁くような声はプロフェッショナルだったが、そこには隠しきれない憐れみの色があった。

コーヒーの香りを想像しただけで、胃が不快に波打つ。それでも私は、平静を装って頷いた。

「分かったわ」

カップを、溢さないように慎重に持つ。

二つという事実に、心臓が重く沈んだ。もう一つが誰のためのものかなど、考えるまでもなかった。

真司のオフィスのドアを押し開けると、そこには我が物顔でデスクの縁に腰掛ける弥生の姿があった。

彼女は燃えるような真紅のタイトドレスに身を包んでいる。おそらく、私の月給など軽く吹き飛ぶような高価な代物だろう。完璧なマニキュアを施された指先が、親しげに真司の肩に置かれていた。

「あら、来たわね」

弥生の声は、猫なで声で、甘ったるい。

「会えて嬉しいわ、美桜」

私は震えそうになる指先を必死に抑え込み、カップをそっとデスクに置いた。

「コーヒーです、社長」

「これ、私の好みじゃないわ」

弥生が口を尖らせる。彼女はカップを手に取って一口啜ると、わざとらしく顔をしかめた。

「砂糖が多すぎる。悪いけど、もう一杯淹れてきてくれる?」

私は拳を強く握りしめた。

「コーヒーを淹れたのは私じゃありません、佐伯さん。お好みがあるなら、お店に直接おっしゃってください」

弥生の目が一瞬、蛇のように細められた。だが、すぐに鈴を転がすような笑い声を上げる。

「ねえ見て真司、可愛いと思わない?たかがコーヒー一杯でこんなに必死になって」

彼女は私に向き直った。その唇は弧を描いていたが、笑みは決して目には届いていなかった。

「ねえ美桜、そういう態度だから、あなたはいつまで経っても秘書のままなのよ」

真司はパソコンの画面から目も上げなかった。

「もういい、美桜。下がれ」

背を向けかけた私を、弥生の声が引き留める。

「待って、美桜」

彼女は立ち上がり、ドレスの皺を優雅に伸ばした。

「お手洗いの場所、教えてくれない?ここ広すぎて、いつも迷うのよ」

罠だと分かっていた。でも真司が目の前にいる以上、断る権利など私にはない。

「……もちろんです」

お手洗いのドアが閉まった途端、弥生の甘い仮面が剥がれ落ちた。

彼女は念入りにすべての個室が無人であることを確認してから、ゆっくりと私を振り返る。その瞳は、氷のように冷たく凍てついていた。

「あなたが何をしてるか、全部お見通しよ」

彼女が毒々しく囁く。

「完璧な社員を演じて、健気に尽くして……必死で彼の気を引こうとしてる。誰だって知ってるわ、あなたがいつも彼の関心を引こうと躍起になってることなんて。あなたの母とそっくりね――いつだって、自分のものじゃないものを欲しがって」

私は怒りで手が震えた。

「母のことを口にしないで」

「どうして?誰だって知ってたでしょう、あの人が何者だったか。お金で私の父を罠にかけた、薄汚い遺産目当ての女。そして今、見てごらんなさい。あなたも全く同じことをしてるじゃない」

「そんなの嘘よ」

声が震えるのを止められなかった。

「母は父を愛してたわ。何も知らなかったの――」

「父がすでに私の母に恋していたことを知らなかった?」

弥生が鼻で笑った。

「馬鹿なこと言わないで。完全に分かっててやったでしょう。あなたが真司にしてることはあなたの母がしたのと全く同じだから」

「何を言ってるのか分からないわ」

弥生が一歩、私に詰め寄る。

「白々しいわね。あなたが彼をどんな目で見てるか、この目でずっと見てきたのよ。昔からね。本当に哀れだわ。彼があなたのことを、今の『便利な道具』以上の何かだと思ってくれるとでも? 都合よく使える従業員としか見てないのに」

「やめて」

胃が激しく波打ち、吐き気が込み上げる。つわりなのか、ストレスなのか、もう判断がつかない。

「何が傑作か教えてあげる」

弥生が嗜虐的な響きを込めて続ける。

「全部聞いてるわよ。あの『契約』のこと。あのスキャンダルの後、取締役会に急いで妻を見つけろって迫られたこと。で、誰がいたと思う?彼が差し出した契約書に尻尾を振ってサインする、あんなに従順で都合のいい女が」

全身の血の気が引いていくのを感じた。

真司が、私たちの結婚の秘密を、契約のことを、彼女に話したというの?

「あら、心配しないで」弥生がにやりと笑った。

「あなたの秘密は守ってあげる。バラして台無しにするには、面白すぎるもの。真司の偽物の妻が、彼が私と夜を過ごしてる間、一人で悶々と彼に焦がれてるなんて」

「嘘よ……」

否定しようとしたが、自分の耳にさえ、その声はあまりに弱々しく響いた。

「そう?じゃあ、あなたたちの愛の巣にいない時、彼がどこに行ってると思う?誰と一緒にいると思う?」

彼女は携帯を取り出し、画面を突きつけてきた。指先が写真をスクロールしていく。

「見て。昨晩、あなたの元を去った後のこと。その前の夜も」

写っていたのは、高級レストランやクラブで、真司と寄り添う弥生の姿。幸せそうに。まるで、本物の恋人同士のように。

「やめて」声が裏返った。

「あなたは彼にとって何者にもなれないのよ、美桜。言ったでしょう、あなたはお母さんと同じ、自分のものじゃないものにしがみついてるだけ。でも覚えておいた方がいいわ、あなたの母が結局何を手に入れたか」

何かが、私の中でプツリと音を立てて切れた。

もう、耐えられない。

パンッという音が、タイル張りのお手洗いに響き渡った。

怒りが内側で爆発し、考えるより先に、私の手は彼女の頬に強烈な一撃を食らわせていた。鋭い音が、誰もいない廊下にまで響き渡った。

弥生の頭が横に振れた。

一瞬、完全な静寂がその場を支配した。やがて、彼女は喉の奥でくつくつと笑い始めた。

「フフフ、美桜」

彼女は低く、楽しげに言った。

「そんなこと、しない方が良かったのに」

次の瞬間、彼女は自分の腕を強く掴み、爪を立てて赤い痕をつけた。それから髪をわざとらしく乱し、一瞬にして瞳に涙を溢れさせる。

お手洗いのドアが、勢いよく開かれた。

真司がそこに立っていた。その端正な顔は、怒りで暗く染まっていた。

「真司!」

弥生が悲鳴のような声を上げ、彼に駆け寄ってしがみつく。

「何が起きたのか分からないの!ただ親しくしようと話しかけただけなのに、いきなり彼女が襲いかかってきて!」

「嘘よ!」私は叫んだ。「真司、聞いて、彼女は――」

「もういい」

真司が冷たく遮る。その声は絶対零度のように冷え切っていた。

「弥生、大丈夫か?」

彼女は彼の胸に顔を埋め、完璧なタイミングで華奢な肩を震わせて見せた。

「ただ話がしたかっただけなの。友達になろうとしたのよ。私たちの過去が複雑なのは分かってるけど、それでも……」

真司が彼女を守るように、その腕で包み込んだ。

その光景に、私は込み上げる吐き気を必死に飲み込んだ。

「お願い」私は掠れた声で言った。「真司、説明させて」

弥生が自分の頬に触れる。その表情は瞬時に、傷ついた無垢な被害者のものへと変わっていた。

「真司、私……彼女を不快にさせるつもりはなかったの」

彼女は柔らかく、懇願するような声で言った。

「お願い、彼女を責めないであげて」

真司の視線が、私を射抜く。そこには慈悲の欠片もなかった。

「謝れ、美桜」

彼は判決を下す裁判官のように、冷酷に命じた。

私は彼の視線を真っ向から受け止め、引き下がることを拒んだ。心がまた一つ、音を立てて砕け散る。

「いいえ」

私は震える唇で囁いた。

「絶対に、謝らない」

真司の顎にぐっと力が入り、一瞬、彼の瞳の奥に何かが揺らめいた気がした――失望か、それとも苛立ちか。だがそれは、現れたのと同じくらいの速さで消え失せた。

「分かった」

彼は氷のような声で言った。

「明日から顔を見せるな。追って通知があるまで、お前の仕事はすべて琳奈に任せる」

その言葉は、胸に突き刺さるナイフだった。それでも私は顎を上げ、どれほど深く傷ついたかを彼に悟られることだけは拒んだ。

「……わかった」

私は何も言わず、踵を返した。

胸の奥が張り裂けそうで、まるで自分の一部を、あの冷たい空間に置き去りにしてきたような気がした。
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