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第3話

Penulis: 無文
しかし、啓太はそのことをすっかり忘れてしまっているらしい。

私は込み上げる涙と絶望を押し殺し、「うん」とだけ答えた。

啓太が一瞬、呆然とした。これほど容易く聞き入れられるとは、思ってもみなかったのだろう。

部屋へ戻ろうとする彼を呼び止め、私は医療費の請求書に離婚届を紛れ込ませ、彼に渡した。

「これは入院費の精算書。確認して、不備がなければサインをしてほしいの」

「わかった!」

啓太は内容を確かめもしないまま、淀みのない手つきで自分の名をそこに書き込んでゆく。

サインを終えたその遠ざかる背中を見つめながら、私はただただ心が冷えていくのを感じた。

私の父と兄は、このような男を救うために命を落としたなんて……

7年前、極秘の海外任務中に敵に包囲された啓太を救い出すために、父は盾となり、泥沼の中で絶命した。

兄は啓太の撤退を援護している時に捕らえられ、その後、炎天下の中、城壁に3日3晩吊るされたのだった。

敵は父の亡骸を盾に兄を脅したが、兄は舌を噛み切ってまで沈黙を貫き、啓太の情報を一切漏らさなかった。

そして妹は、啓太への報復のために拉致され、15歳の誕生日に命を落とした。

発見された遺体はそれはそれは無惨な状態で、その細い手足の骨がことごとく砕かれていたのだった。

これらのことを知らされた時、私は死を願った。

しかし啓太は私の前に跪き、生きてくれと泣いて縋ってきたのだ。

そして、盛大な結婚式を挙げ、「一生大切にする」と誓ってくれたはずだったのに。

睦月が現れてからのわずか2ヶ月で、私たちの7年の月日を重ねた愛が、これほどあっさりと崩れていくとは。

愛しているか否か。それは、残酷なほどに明白だった。

私は喉元まで込み上げてきた鉄臭い味を飲み込み、先ほどの書類の束から、啓太が署名した離婚届を抜き出す。

彼は少しページを捲りさえすれば、それが離婚届であったことに気づけたはずなのに。

まだ乾き切っていないサインを指でなぞりながら、看護師の言葉を思い出す。

「松田さん、移植した心臓の拒絶反応が強すぎて、このままでは、あと3日も持たないそうです……」

私は紙を触りながら、自嘲気味に笑った。

それでいいよね、啓太?あと3日だって。

それだけで、私はようやくあなたから解放される。

ここを去る前に、庭で育てていた野菜をすべて近所の人々に譲った。

それから大きめの鞄を手に、局内にある小さなデパートのようなところへと向かう。

その時、ショーケースに飾られた赤いコートに、思わず目が留まった。

結婚して7年、買うのをずっとためらっていたこのコート。

そのブティックのオーナーである二宮綾(にのみや あや)が、親しげに話しかけてきた。

「松田局長は、先日もコートと香水を買っていかれましたよ。今日も新作を取り置きするように言われているんです。

若葉さん、本当に愛されているみたいですね。羨ましい限りですよ!」

鞄を持つ手が、微かに震える。

私は質素な暮らしを心がけてきたし、啓太がこんな高価な贈り物を私にくれたことなども、一度だってなかった。

すると、その赤いコートから、嗅いだことのある香りが漂ってきた。それは、彼の服から漂っていたあの匂いと同じ……つまりは、睦月の香水の香りだ。

その瞬間、全てを察した。どうやらこれは、啓太が睦月のために選んだものらしい。

妻として7年間、献身的に啓太を支えてきた私には、香水一つ、コート一着すら贈ってくれなかったのに。

睦月は何もしなくても、すべてを手に入れることができるみたいだ。

ここまでくると、胸の中を渦巻く感情が悲しみなのか、それとも絶望なのか、もう判別はつかなかった。

私は微笑んで綾に言った。「その香水と赤いコートをください。自分へのプレゼントにするんです」

命の灯火が消える前に、最後くらい自分を甘やかしたい。

家に戻っても、啓太の姿はなかった。

テーブルの上に飾ってある家族写真が、ふと目に入り、胸の奥が締め付けられるように痛む。

子供の頃、体が弱かった私に、母はいつも野菜がたっぷりと入ったスープを作ってくれた。

「若葉は世界で一番愛されるべき子なんだから、しっかり食べて、元気に育つのよ」

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