LOGIN1億6000万円の大型案件が、新人のミスで白紙になった。 高瀬颯真(たかせ そうま)が私に声を荒らげたのは、7年間付き合ってきて初めてのことだった。 ほかの社員の前で、私の仕事ぶりを徹底的に否定した。 その夜、家に戻っても態度は変わらなかった。 「仕事に私情は持ち込まない。大型案件を失注した責任は、上司のお前にある」 直後、彼の大学の後輩で、新人の水野莉奈(みずの りな)からメッセージが届いた。 【林晴香(はやし はるか)さん、ごめんなさい。商談、私のせいでダメになっちゃったのに、颯真先輩がケーキを買って慰めてくれたんです。すごくおいしかったから、晴香さんの分も冷蔵庫に入れておきました】 翌朝、颯真は私が作った朝食を、迷いもせずゴミ箱へ捨てた。 「朝は食べないって、何度言えばわかるんだ」 出社したら、隣の席の佐藤美紀(さとう みき)が声を潜めて話しかけてきた。 「あの新人、やるわね。さっき社長にコーヒーとサンドイッチを差し入れたのよ。高瀬社長、断るどころか、ぺろっと食べたんだって」 もう、どうでもよかった。 スマホには、以前から私を口説き続けていた男から、またメッセージが来ていた。 【俺と付き合ってくれない?ダメならそばに置いてくれるだけでもいいよ】 私は少しだけ考え、返信した。 【私の彼氏になって】
View Moreさらに、美紀は退職後、あの日会社でこっそりスマホで撮影していた動画をSNSに投稿した。颯真が社員たちに、私を叩くよう迫る様子がはっきり映っていた。会社には批判や抗議が殺到した。信用を失い、経営は一気に傾いていった。颯真が会社の立て直しに追われる一方、莉奈は離れていこうとする彼に必死ですがりついた。だが颯真は莉奈を避けるようになり、能力不足を理由にインターン契約を打ち切った。すると莉奈は、交際中に撮影した颯真の私的な性的画像をネットへ流した。2人の泥沼の争いは、ネットで面白半分に取り上げられた。やがて颯真が警察へ被害届を出し、莉奈はリベンジポルノ防止法違反の疑いで逮捕された。労働審判の期日に現れた颯真は、頬がこけ、目も充血していた。それでも、困ったように笑いながら私に言った。「晴香、直接言ってくれれば、賞与くらい払ったのに。どうして、わざわざ裁判沙汰にしたんだ?」彼が気にしているのは、金のことではない。私が黙って従わず、法的手段に出たことが許せないのだ。相変わらず傲慢だった。自分がしたことを、今でも些細な行き違いだと思っている。颯真は幼い頃から何をしても人より優れ、周囲から持ち上げられて育った。大学でも目立つ存在で、いつも人に囲まれていた。私はそんな彼を4年間思い続け、ようやく恋人になった。だから颯真は、私がいつまでも自分を追いかける側だと思っていたのだ。数百万なんて、自分の一言で決められると思っている。その金を得るために、私がどれほど働いたかなど、考えたこともないのだろう。労働審判で調停が成立し、会社は未払いの業績賞与と解決金を支払うことになった。入金を確認した日、ようやくすべてに区切りをつけられた気がした。ところがその日の帰り、マンションの近くで颯真が待ち伏せしていた。「金、受け取ったか?」私はただうなずき、そのまま横を通り過ぎようとした。だが、背後から呼び止められた。「本当は、莉奈に渡すつもりなんてなかった。お前を従わせるために、少し脅しただけだ。あのとき素直に謝っていれば、俺だって考え直した。晴香は意地を張りすぎなんだ」やがて、その口調は私を責めるものへ変わった。「どうして俺を捨てた?7年も一緒にいたのに、全部なかったことにするのか?莉奈とは何もないって
颯真は、隣に莉奈がいることも忘れ、こちらへ駆け出した。颯真の腕に自分の腕を絡めていた莉奈は、バランスを崩してその場に転んだ。それでも颯真は振り返らず私へ手を伸ばしてきたが、すぐに湊が間へ入り、私をかばった。湊は、待ってましたとばかりに笑った。「来たな、颯真。紹介するよ。俺の婚約者、林晴香」颯真は顔をこわばらせ、低い声で問い詰めた。「俺の彼女が、いつからお前の婚約者になった?」私はたしなめるように、湊の腕を軽くつねった。湊は不満そうに私を見たが、得意げな笑みを引っ込めた。「勝手なことを言わないで。私たちはもう別れたの。私はもう、あなたの彼女じゃない」颯真は何も言い返せなかった。その後ろでは、起き上がった莉奈が私をにらみつけている。莉奈が颯真の腕にすがろうとすると、彼はさりげなく身を引いた。そして私に向かって、早口で弁解を始めた。「莉奈が、こういう場所へ来たことがないから見てみたいって言うんで、連れてきただけだ。俺たちの間には何もない」その言葉を聞いた途端、莉奈は涙をこぼし、人目もはばからず叫んだ。「何もないって、どういうことですか?パリでは、私のことは責任を取るって言ったじゃないですか!ベッドでだって、晴香さんにはもううんざりしたって言ってたでしょ!先輩の家で私と寝たときだって、晴香さんより私とのほうが燃えるって喜んでたじゃないですか!今さら知らないふりするんですか?」会場が一瞬で静まり返った。招待客の中には、私と颯真の共通の友人や、大学時代の同級生も大勢いた。7年付き合った颯真ではなく、なぜ私が湊と婚約したのか、不思議に思っていた人もいただろう。莉奈が自分からすべて話してくれたおかげで、私が説明する必要はなくなった。颯真はそこで初めて、莉奈をにらみつけた。それから私へ向き直り、何か言おうとする。けれど、私が冷ややかに見返すと、急に口ごもった。「違うんだ。説明させてくれ、晴香……」湊の顔から笑みが消えた。「よくもまだ、晴香の名前を呼べるな」湊が拳を振り上げたため、私は慌ててその腕をつかんだ。すぐに会場のスタッフが2人の間へ入り、颯真と莉奈を外へ連れ出した。騒ぎはあったものの、パーティーは予定どおり進んだ。深夜、私と湊が車で地下駐車場を出ようとしたとき
「まさか……本当に出ていったのか」急に不安がこみ上げた。颯真は、晴香が自分をどれほど愛しているか、わかっているつもりだった。彼女は何度も、結婚したいと口にしてきた。あれほど結婚したがっていた晴香が、自分から離れていくはずはない。何をしても、最後には自分のもとへ戻ってくる。いつの間にか、そう思い込んでいた。自分が「結婚しよう」と言えば、晴香はどんな予定も後回しにして、一緒に婚姻届を出しに行くはずだった。自分のもと以外に、晴香が帰れる場所はない。晴香は両親とは疎遠で、叔父とは時折連絡を取っているものの、叔母との折り合いが悪く、頼るはずもなかった。そこで、彼女が市内の西側にマンションを買ったと言っていたことを思い出した。颯真はバッグを手に、すぐ車へ乗り込んだ。颯真は、以前晴香から聞いた市内西部のエリアまで車を走らせた。だが、そこで立ち往生した。肝心のマンションがどこにあるのか、知らなかったのだ。まさか晴香が本当にそこへ移り、自分のもとを離れるとは考えもしなかった。だから、候補の物件について相談されたとき、資料もろくに見ず、「好きにすれば」と答えただけだった。ラインを開き、何通かメッセージを送った。だが、いつまで待っても既読がつかない。いつから拒まれていたのかもわからなかった。この1週間、晴香へ一度も連絡していなかったからだ。莉奈をフランスへ連れていったことに、腹を立てているだけだろう。そう自分に言い聞かせながら電話をかけたが、何度試してもつながらない。どうやら、ラインも電話もブロックされている。社長室で別れを告げたとき、晴香はあまりにも静かだった。今になって、あの言葉が本気だったのだとわかった。急に焦りがこみ上げてくる。颯真はハンドルを握ったまま、うつむいた。「晴香……」晴香の居場所に心当たりがないか、共通の知人へ尋ねようとしたとき、スマホが鳴った。電話に出ると、神谷湊の明るい声が聞こえた。「颯真、俺、婚約することになった。彼女がプロポーズを受けてくれたんだ。今夜、身内や友人を集めて婚約のお披露目をする。お前も来いよ」颯真はこめかみを押さえた。自慢したいだけなのだろうが、今はパーティーに出る気分ではない。「悪い。今、ちょっと取り込んでて……」湊は
颯真は人事担当者へ命じた。「退職届は受理するな。自己都合退職ではなく、懲戒解雇扱いにしろ。今期の業績賞与も支給を止めて、莉奈への補償金に回せ」本人が退職を申し出ているのに、それを無視して懲戒解雇扱いにし、支給が決まっている業績賞与まで別の社員へ回す。法的に通るはずがない。それでもこの会社では、社内規則より颯真の命令が優先された。あまりの横暴さに、黙っていられなかった。「颯真、あの賞与は私の実績に対して支払われるものよ。あなたが勝手に取り上げていいお金じゃない!」社内規定では、獲得した案件の実績に応じて業績賞与の額が決まる。あの案件は、取引先への提案から企画書の作成、条件交渉、契約締結まで、すべて私が担当した。少しでも利益を上げるため、何度も取引先へ足を運び、夜遅くまで会食にも付き合った。数百万を超えるその業績賞与で、マンションのローンを完済するつもりだった。両親が離婚したのは、私がまだ幼い頃だった。どちらも私を引き取ろうとせず、親戚の家を転々とした末、ようやく叔父夫婦の家に落ち着いた。だが、叔母には、言うことを聞かないなら家から出ていけと、何度も言われた。そのせいか、大人になってからも、帰る場所を失うのが怖かった。颯真から離れられなかったのも、いつか捨てられるのではないかと不安だったからだ。傷つけられるたびに、彼への気持ちは少しずつ冷めていった。その一方で、誰にも追い出されない、自分だけの家が欲しいと思うようになった。家さえあれば、誰かに見放されても行き場を失わずに済む。必死に働いて頭金を貯め、マンションを買った。生活を切り詰めながらローンを返し、睡眠時間まで削って働き続けた。目の下にクマができ、白髪も増えた。颯真は、そのすべてを知っている。私が今回の業績賞与をどれだけ必要としているかも。それでも、冷たく言い放った。「この会社は俺のものだ。莉奈を傷つけたんだから、その金で償うのは当然だろ」その身勝手な言い分に、吐き気がした。私が頑張って働き、ようやく手にするはずだった私の賞与を、入社したばかりのインターンへ回すというのだ。私は歯を食いしばり、ふらつく足でどうにか立ち上がった。だが、颯真が呼んだ警備員に腕をつかまれ、そのまま会社の外へ連れ出された。すぐに颯真から
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