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第12話

Author: オレンジ
達哉は革張りの椅子にもたれかかり、目の周りを赤く腫らせていた。

手のひらには、届いたばかりの報告書が握られている。

「麻衣……五年前に俺を救ったのは、お前じゃなかったんだな」

佐伯麻衣は一瞬顔を強張らせたが、すぐに笑顔を作り、彼の手を取ろうとした

「達哉さん、急にどうしたの?疲れてるんじゃ……」

言い終わる前に、達哉はその手を力強く振り払い、低い声で怒鳴った。

「もういい加減にしろ!あの日の監視映像を調べたんだ。

俺を救ってくれたのは――奈々だ。

地獄のような日々から引き上げ、支えてくれたのは彼女だったんだ!」

佐伯麻衣の顔色がみるみる青ざめていく。

五年前、彼女は偶然病室を通りかかり、目を覚ました達哉が自分を恩人だと勘違いしたことを知っていた。

本当ならすぐに訂正すべきだったのに、迷いながらも、そのまま達哉のそばにいることを選んでしまったのだ。

その後、佐伯麻衣は家族に連れられ海外へ行き、達哉との連絡は途絶えた。

再び戻ってきた頃には、彼女は癌を患い、わずかでも思い出を残そうと、達哉に近づいたのだった。

「あの時は……衝動に駆られてしまっただけよ。

あなたのそばにいたかっただけで、嘘をつくつもりじゃなかったの」

慌てて弁解する佐伯麻衣を、達哉は冷たい目で見下ろし、乾いた声で告げた。

「子どもは堕ろせ。今すぐだ!」

佐伯麻衣は目を見開き、顔を引き攣らせた。

「やめて!この子は、私の命そのものなのよ。

家族に残せる最後の希望なの。

それに……達哉さんだって、喜んでくれてたじゃない!」

声は震え、痛みと怒りでにじんでいた。

「奈々さんだって、私の妊娠を知ってたのよ!

二人の結婚式が中止になったのも、きっとこのせいなんでしょ!」

達哉は目を閉じ、決然と告げる。

「麻衣、子どもで俺を縛れると思うな」

そして達哉は、病院にそれらしい理由を告げて、佐伯麻衣の中絶手術を進めた。

佐伯麻衣は泣き叫び、取り乱して暴れたが、達哉の決意は揺るがなかった。

すべてを終えたあと、達哉が唯一求めたのは――奈々だった。

奈々は何も言わず姿を消し、桜子に尋ねても答えは返ってこなかった。

達哉は三日間、桜子の家の前に座り込み続けた。

ついに桜子が根負けして、小さくため息をついて言った。

「奈々は医療研究所に戻ったわ。具体的な場所までは
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