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家族のような午後

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-08-14 10:46:33

リビングから聞こえてくるテレビの音は、低く抑えられたまま流れていた。七菜が何かアニメ番組を見ているのだろう。笑い声や明るい効果音が、障子の隙間から和室へと柔らかく染みこんでくる。

智久は、畳の縁に足を揃えて座っていた。背筋を伸ばすでもなく、崩すでもなく、ただ静かに。その横には、同じように春樹が膝を立てて、クッションを抱えるようにして座っていた。ふたりの間に言葉はなかったが、沈黙は重くはなかった。

窓の外では風が枝を揺らしていた。カーテンは引いていないが、曇り空のせいで部屋の中には淡い灰色の光が広がっている。時間は、午後の三時を少し回った頃。休日の午後の空気は、どこか水のようにゆるやかで、誰もその流れを乱そうとはしなかった。

春樹が、不意に小さく笑った。

「こうしてるとさ、家族みたいだな」

その声は、囁きに近かった。特別な抑揚もなく、何気ない雑談のように投げかけられた言葉。それなのに、智久の耳には、まるで水面に一滴落ちた小石のように、深く響いた。

隣にいる春樹は、目線をテレビの方に向けたまま動かない。智久の顔を見ていたわけではなかった。けれど、そういうところにこそ、彼の本心が宿っていると智久は知っていた。

答えはすぐには返さなかった。返せなかったというよりも、返したくなかったのかもしれない。

智久の視線は、目の前の座卓の端に落ちていた。手の甲の上にもう一方の手をそっと重ねると、ほんのわずかに指先が冷たさを持っていることに気づいた。

(家族)

春樹の口にしたその言葉が、智久の心に不思議な重みを残していた。過去の記憶が浮かぶ。亡き妻と、まだ幼い七菜と、三人で囲んだ食卓。誰かが笑い、誰かがこぼした味噌汁を誰かが拭っていた。そんな些細な日々。幸せは、あのころ確かに形を持ってそこにあった。

だが今、春樹の言葉に心が揺れるのは、あの時の記憶を壊されたからではなかった。むしろ、それを知った上でなお、この今が優しすぎるからだった。

言葉にしてしまえば、何かが変わってしまいそうだった。そんな予感が、胸の奥でしずかに疼いていた。

「……」

口を開かず、智久はただ、小さくうなずいた。

その動作だけで、春樹にはすべて伝わっているようだった。彼も何も言い足さなかった。ただ、抱えていたクッションを少しだけ胸元に引き寄せるように動かした。

和室の空気は変わらない。襖の向こうから、七菜の笑い声がふっと漏れ聞こえてきた。テレビの内容に笑っているのか、それとも何かを思い出したのか、それはわからない。

智久の視線が、春樹の横顔をかすめる。どこか遠くを見るような目だった。春樹のまなざしは、どこかで覚悟をしている人間のものに見えた。淡々としていて、だがどこかで熱を含んでいる。

春樹は、自分が言った言葉の重さをわかっていた。そして、それを智久が受け止めるにはまだ時間がかかることも、承知の上だった。だからこそ、問い返さず、笑いもせず、ただ同じ時間をともに座って過ごしていた。

やがて、障子の向こうで七菜が「お茶、飲む?」と呼ぶ声が聞こえた。

智久が「うん」とだけ返すと、ぱたぱたと足音が近づいてきて、障子が少し開く。七菜が湯呑を手に持ち、二人の間に差し出した。

春樹が「ありがとう」と言って受け取り、七菜がまたぱたぱたとリビングに戻っていく。

その後ろ姿を見送りながら、智久の胸に、ゆるやかな痛みのようなものが広がっていた。

春樹が隣にいる今の空気も、七菜がいる生活も、すべてがあまりに穏やかで、あまりに尊かった。

「家族みたいだな」

その言葉の余韻は、まだ和室の空気の中に漂っていた。

言葉にしなかった返事の重さを、智久の沈黙が物語っていた。春樹には、きっとそれが伝わっていた。

午後の光が、ふたりの膝に静かに落ちていた。気づけば、窓の外の曇り空が少しだけ明るんでいた。

何も変わらないようでいて、何かが、ゆっくりと動き出している気がした。

その変化の名を、まだ誰も知らなかっただけだった。

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