台所に立つ午後の空気は、思った以上に静かだった。
換気扇も止まっていて、外からの音も聞こえない。時計の秒針が、壁の高いところでひとつずつ、時間を刻んでいる。そのたびに、智久の中で何かがわずかに軋んだ。
包丁の先で切りそろえた野菜の断面を、まな板の上に並べながら、ふと視線を持ち上げると、春樹がリビングのテーブルへ皿を運んでいく後ろ姿が見えた。ゆっくりとした歩調、慣れたような手つきで、湯気の立つ小鉢を置いていくその動作。
それが、どこかで見覚えのあるものだったと気づくまでに、時間はかからなかった。
同じように、あの人もそうだった。
夕方になると、キッチンに立つ智久の背中に向かって、「これ、先に運ぶね」と言いながら皿を抱えてリビングへと歩いていった。細い肩を軽く揺らしながら、湯気に包まれた香りのなかで笑っていた顔。それが、いまの春樹の後ろ姿と一瞬重なって、智久は動きを止めた。
手の中の菜箸が、トマトの切りくずを掴んだまま宙に浮いていた。
(…何をやってるんだ、俺は)
自分で自分を嗤いながらも、胸のどこかが冷たく凍りつくようだった。失ったはずの風景が、日常のなかで不意に蘇る。そんなことが、こんなにもささやかな瞬間に訪れるとは思わなかった。
春樹が再びキッチンに戻ってきた。空いた手で食器棚からコップを取り出し、水を注ごうとしている。
ガラスのコップとシンクの縁が触れた瞬間、カチンという小さな音が鳴った。それだけのことだったのに、智久の背筋を冷たい感覚が走り抜けた。
音が、静かすぎた。
何も話さないまま、ただ日が傾いてゆく午後の台所で、二人分の食器が置かれている。湯気はもう薄れて、壁の時計の針が音だけを残して進んでいく。
(あの頃の幸福を、なかったことにしたくない)
そう思っているはずだった。忘れることが怖かった。けれど、それ以上に、いまこの静けさのなかにいる自分が、もっと怖かった。
幸福とは違う、でも不幸でもない。
張り詰めてもいないし、誰も泣いていない。ただ、音が少ないのだ。人がいなくなったということは、こんなにも空間から音を奪っていくものなのかと、智久は改めて思い知らされる。
春樹は、いつものように穏やかな顔をしていた。手の中のコップをそっと置くと、キッチンの端にあるふきんを取って、流し台を軽く拭いた。その仕草さえも、妻と似ていた。似ていたのではなく、智久の記憶がそうさせていたのかもしれない。
それでも、胸の奥がきゅうと痛んだ。
喉の奥が渇いていた。湯を沸かしていたのは、たしか智久自身だった。だが、何のために湯を沸かしたのかさえ、わからなくなっていた。
「…春樹」
呼びかけた自分の声が、思いのほか小さかった。春樹は、振り返ると同時に少し首をかしげるような顔をした。
「お茶…飲むか?」
そう続けようとして、声がかすかに震えた。
春樹はその微細な揺れを感じ取ったのか、返事をすぐには返さなかった。ただ、ゆっくりとうなずいてから、
「うん、もらおうかな」
と言った。
その声が、まるで体温を持っているかのように、智久の胸に落ちてきた。落ちて、静かに染みていくような感覚だった。
急須に茶葉を入れる手が、わずかに震えた。ポットから注ぐお湯の音が、やけにやわらかく響いた。湯気があがる。その輪郭がふわりと揺れて、過去の風景を洗い流していくようだった。
春樹は何も聞かない。問い詰めることも、慰めることもせず、ただそこにいた。それがどれだけ救いになるのかを、智久はこの年齢になってようやく知った気がした。
ふたり分の湯飲みに、湯気が立つ。
それをそっと差し出すと、春樹は静かに受け取って、小さく笑った。その笑みは、亡き妻のものではなかった。春樹という人の、確かな今の表情だった。
智久は、ほっと息を吐いた。
過去と、いま。その境界は、いつもこんなふうに曖昧で、記憶の水面がゆらいでは、戻っていく。誰かを失ったからといって、すべてが止まるわけではない。ただ、静かに、重なっていくだけだ。
そして、春樹の声と湯気と、差し出された湯飲みが、いまここにあるという事実だけが、少しだけ智久の心をあたためていた。
縁側の硝子戸を隔てて、夜の庭が静かに息をしていた。雨上がりの草木は、月の光を吸い込んだかのようにしっとりと艶めき、葉の先から滴る水音だけが、時折、静寂を揺らしていた。昭江は、膝に薄手のひざ掛けをかけて、黙ってその風景を見ていた。縁側の木の床はすこしひんやりとしていて、季節の変わり目を足元から知らせてくる。湯気の立つ湯呑が傍らにあっても、その温もりは、どこか遠く感じられた。足音は、ふいに後ろから静かに届いた。戸を開ける音も、声もない。ただ気配だけがすうっと傍に寄り添ってくる。「…ありがとう」昭江の横に、もうひとつ湯呑が置かれた。智久だった。彼もまた言葉少なに、昭江の隣に腰を下ろした。二人の間には、湯気の立つ湯呑がひとつずつ。そして、庭の夜気。しばらく、何も言わなかった。昭江は視線を落としたまま、庭先にある紫陽花の葉の先に溜まった水滴を見つめていた。それが風に揺れ、ひとつ、またひとつ、静かに落ちていく。「春樹くん…今日は、よく弾いてくれてたね」昭江がぽつりとこぼした言葉は、雨のしずくよりも穏やかだった。智久は小さく頷いた。顔は上げず、庭の奥の黒い影に目をやったままだった。「…あいつがいて、七菜が笑ってくれる」湯呑に手を添えながら、そう呟いた声は、かすかに震えていた。喜びなのか、戸惑いなのか、自分でもはっきりしないまま言葉にしたようだった。昭江は、ふっと笑った。それは声にはならず、唇の端がごくわずかに持ち上がるだけの、微かな表情だった。「それでいいと思うよ」その言葉は、湯気とともに空気に溶け、智久の胸の中に静かに染みていった。風が、軒先の竹をかすかに揺らした。その音も、夜の静けさを際立たせるようだった。「…なんだか、まだ信じられないんだ。俺がまた、こうして誰かと一緒に日々を過ごしてるっていうことが」智久は言葉を絞り出すように続けた。「時間って、本当に勝手に進むんだなって思う。あの日から止まってたのに…七菜が笑った瞬間とか、春樹がふ
茶碗を洗う水音が、ゆるやかに流れる空気の中に響いていた。窓の外では、日が傾き始めていて、台所の壁に夕陽がうっすらと影を描いている。静かな午後の余韻のなか、昭江は流しに向かって立ち、春樹はその横で皿を布巾で拭いていた。会話があるわけでもない。けれど、それが不自然ではなかった。少し前までなら、春樹はこうした“家族のような場”に居る自分にどこか戸惑いを覚えていた。しかし今は、身体の奥に染みこむような落ち着きがあった。智久がこの台所に立ち、娘の好きな味を覚え、夕飯を作っていた時間。ここには、静かな積み重ねのようなものが、確かに流れていた。「智久ね」不意に、昭江が水を止めた。少しだけ背中を丸めていた肩が、わずかに動いた。「最近、顔が柔らかくなったと思わない?」春樹は手を止めて、ゆっくりと昭江の横顔を見た。その目元は笑っていたが、どこか遠くを見つめるような静けさがあった。「…そうですね」「昔は、あの子、頑固だったから。笑うのも、どこかぎこちなくてね。あの子の奥さん…明日香さんと結婚してから、少しずつ変わったんだけど」「……」「でも、彼女がいなくなってからは、また前みたいに閉じてしまってた。あの子の心、きっと、ずっと凍ってたんだと思うの」春樹は返事をしなかった。けれど、昭江の言葉は、春樹の胸の奥に、静かに沁みていった。「でも、最近ね…あなたと七菜ちゃんがいるときだけ、智久の顔に、昔の…その、明日香さんと一緒だった頃のあたたかさが戻るのよ」春樹は、指先に持っていた皿をそっと布巾の上に置いた。深く息をつきながら、ほんの少しだけ、視線を落とす。「それは…彼が、彼女のことをちゃんと忘れていないから、なんでしょうね」その言葉は、春樹自身の胸にも突き刺さるものだった。忘れられないものを抱えたまま、誰かと向き合うということ。その苦しさと、誠実さ。その両方が、いまの智久に確かに宿っていることを、春樹は知っていた。「そうかもしれないわね
演奏を終えた春樹は、鍵盤の上からゆっくりと手を下ろした。最後の音が和室の空気に溶けていき、静寂が戻る。風が障子の隙間を抜ける音と、庭の木の葉が揺れるかすかなざわめきが、それに取って代わった。彼の肩がわずかに上下し、息をひとつ、深く吸う。それは緊張からの解放ではなかった。むしろ、何か懐かしいものと向き合い、見つめ合ったあとの、静かな整理の呼吸だった。しばらくして、背後から気配が近づく。「…変わっていないね」その声は、とても小さく、しかしはっきりと耳に届いた。わずかにかすれていたが、声の芯にはゆるぎのない温かさがあった。春樹は驚いたように振り返った。昭江が、和室の縁に立っていた。掃除道具はすでに片づけたのだろう。両手を前に重ね、まるで来訪者を迎えるような穏やかな姿勢でそこにいた。「先生…」言葉がすぐには出なかった。春樹は、座っていた椅子を静かに引き、立ち上がると、ゆっくりと一礼した。頭を下げるその動作には、照れも、誇示も、何もなかった。ただ素直に、その言葉に心を差し出すように。「ありがとうございます」彼の声は、胸の奥に何かを噛みしめるような柔らかさを帯びていた。昭江はふと微笑んだ。目の端に刻まれた皺が少し深くなり、その笑みは、言葉よりも多くを語っていた。春樹がこの家にいた時間、その音、その心。母親として見ていたものは、決して色あせていないと伝えるように。「音のことじゃないよ」と、昭江はふと目を細めた。「…音ももちろん、素敵だったけどね。そうじゃなくて…」少しだけ言葉を探すように間をおき、再び彼を見た。「あなたの音の出し方。きっと、誰かのために弾いてるときの、あの感じ」春樹は目を伏せ、軽く息を吐いた。笑ったのか、切なさが混じったような表情だった。「…そう、ですかね」「うん。昔から、そうだった」春樹はもう一度、今度は深く頭を下げた。敬意でも礼儀でもない。それは、胸の奥にぽつりと落とされた言葉の温度に応
和室の障子を通して差し込む光は、まるで音の余韻のように、薄く、柔らかく床を照らしていた。午後の気配はゆっくりと流れ、外では遠くで誰かの洗濯物を叩く音が小さく聞こえる。春樹は、一人、静かにピアノの前に座っていた。七菜は、今日は友達と図書館に行くと出かけていた。智久は仕事部屋で何やら資料を広げており、家の中は珍しく静けさに包まれている。和室に置かれた黒いアップライトピアノの前で、春樹はしばらくのあいだ鍵盤に触れずにいた。指先は膝の上に軽く置かれたまま、肩の力も抜けているのに、心のどこかがまだ整わないまま、時間だけが過ぎていく。そして、ふいに。指先が白鍵に落ちる。薄く響いたのは、ほんの一音。次いで、ゆるやかに旋律が重なり始める。懐かしい旋律だった。春樹が中学生のころ、練習曲の合間にしばしば弾いていた、ドビュッシーの「アラベスク」。複雑ではないが、呼吸のようなやさしい曲線が続く音の連なり。彼は、一音一音をたしかめるように鳴らしていく。左手の動きはごく自然で、右手のメロディも、まるで誰かの言葉をなぞるような気配を含んでいる。それは、誰のためでもない音だった。ただ、誰にも見られていないと思える時間に、ようやく自分自身に戻ることができる、そんなささやかな解放のような。だが、実際には見られていた。廊下を掃いていた昭江は、玄関の土間を終え、掃除用具を抱えたままふと足を止めていた。和室からかすかに流れてくる音に、目を細め、立ち尽くしている。昭江の表情には驚きはなかった。むしろ、それは「懐かしさ」に近いものだった。春樹が、この家に入りびたりだった少年の頃も、ピアノの音は日常の一部だった。彼が弾くとき、音の端々に、誰かの心の奥をそっとなぞるような優しさがあった。それは今も変わっていない。廊下から和室を見ると、春樹はピアノの前で背を少し丸めながらも、音に身体を預けていた。首筋にかかる髪が、午後の日差しに照らされて薄く金を帯びて見える。その背中から、力んだところが見当たらなかった。障子の外、庭の紫陽花が風に揺れている。昨夜の雨のしずくがまだ花弁に残っており、それが風に吹かれて、ぽつりと地面に落ちる音が微かに聞こえた気がした。和室に響くピアノの旋律
リビングから聞こえてくるテレビの音は、低く抑えられたまま流れていた。七菜が何かアニメ番組を見ているのだろう。笑い声や明るい効果音が、障子の隙間から和室へと柔らかく染みこんでくる。智久は、畳の縁に足を揃えて座っていた。背筋を伸ばすでもなく、崩すでもなく、ただ静かに。その横には、同じように春樹が膝を立てて、クッションを抱えるようにして座っていた。ふたりの間に言葉はなかったが、沈黙は重くはなかった。窓の外では風が枝を揺らしていた。カーテンは引いていないが、曇り空のせいで部屋の中には淡い灰色の光が広がっている。時間は、午後の三時を少し回った頃。休日の午後の空気は、どこか水のようにゆるやかで、誰もその流れを乱そうとはしなかった。春樹が、不意に小さく笑った。「こうしてるとさ、家族みたいだな」その声は、囁きに近かった。特別な抑揚もなく、何気ない雑談のように投げかけられた言葉。それなのに、智久の耳には、まるで水面に一滴落ちた小石のように、深く響いた。隣にいる春樹は、目線をテレビの方に向けたまま動かない。智久の顔を見ていたわけではなかった。けれど、そういうところにこそ、彼の本心が宿っていると智久は知っていた。答えはすぐには返さなかった。返せなかったというよりも、返したくなかったのかもしれない。智久の視線は、目の前の座卓の端に落ちていた。手の甲の上にもう一方の手をそっと重ねると、ほんのわずかに指先が冷たさを持っていることに気づいた。(家族)春樹の口にしたその言葉が、智久の心に不思議な重みを残していた。過去の記憶が浮かぶ。亡き妻と、まだ幼い七菜と、三人で囲んだ食卓。誰かが笑い、誰かがこぼした味噌汁を誰かが拭っていた。そんな些細な日々。幸せは、あのころ確かに形を持ってそこにあった。だが今、春樹の言葉に心が揺れるのは、あの時の記憶を壊されたからではなかった。むしろ、それを知った上でなお、この今が優しすぎるからだった。言葉にしてしまえば、何かが変わってしまいそうだった。そんな予感が、胸の奥でしずかに疼いていた。「……」口を開かず、智久はただ
台所に立つ午後の空気は、思った以上に静かだった。換気扇も止まっていて、外からの音も聞こえない。時計の秒針が、壁の高いところでひとつずつ、時間を刻んでいる。そのたびに、智久の中で何かがわずかに軋んだ。包丁の先で切りそろえた野菜の断面を、まな板の上に並べながら、ふと視線を持ち上げると、春樹がリビングのテーブルへ皿を運んでいく後ろ姿が見えた。ゆっくりとした歩調、慣れたような手つきで、湯気の立つ小鉢を置いていくその動作。それが、どこかで見覚えのあるものだったと気づくまでに、時間はかからなかった。同じように、あの人もそうだった。夕方になると、キッチンに立つ智久の背中に向かって、「これ、先に運ぶね」と言いながら皿を抱えてリビングへと歩いていった。細い肩を軽く揺らしながら、湯気に包まれた香りのなかで笑っていた顔。それが、いまの春樹の後ろ姿と一瞬重なって、智久は動きを止めた。手の中の菜箸が、トマトの切りくずを掴んだまま宙に浮いていた。(…何をやってるんだ、俺は)自分で自分を嗤いながらも、胸のどこかが冷たく凍りつくようだった。失ったはずの風景が、日常のなかで不意に蘇る。そんなことが、こんなにもささやかな瞬間に訪れるとは思わなかった。春樹が再びキッチンに戻ってきた。空いた手で食器棚からコップを取り出し、水を注ごうとしている。ガラスのコップとシンクの縁が触れた瞬間、カチンという小さな音が鳴った。それだけのことだったのに、智久の背筋を冷たい感覚が走り抜けた。音が、静かすぎた。何も話さないまま、ただ日が傾いてゆく午後の台所で、二人分の食器が置かれている。湯気はもう薄れて、壁の時計の針が音だけを残して進んでいく。(あの頃の幸福を、なかったことにしたくない)そう思っているはずだった。忘れることが怖かった。けれど、それ以上に、いまこの静けさのなかにいる自分が、もっと怖かった。幸福とは違う、でも不幸でもない。張り詰めてもいないし、誰も泣いていない。ただ、音が少ないのだ。人がいなくなったということは、こんなにも空間から音を奪ってい