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調律師の訪問

作者: 中岡 始
last update 最終更新日: 2025-08-03 10:34:50

和室に夕方の光が差し始めていた。障子を透かして届く光は、白ではなく、やや赤みを帯びたやわらかな色をしていた。日が落ちかけているのだとわかるが、まだ空は晴れきらず、雲が陽射しを拡散しているせいで、部屋の中はほのかにぼやけた明るさに包まれていた。

古びたアップライトピアノの前で、男がひとり膝をついていた。灰色の作業服を着た初老の調律師で、髪は短く刈られ、白が混じっていた。声は少なく、表情も乏しいが、道具を扱う指の動きは驚くほど丁寧だった。蓋を外されたピアノの中身が、むき出しになっていた。ハンマーや弦の並びが美しく整っていて、だがどこか埃の匂いが残っていた。

「こっちは随分、下がってますね」

「…やっぱり、長く使ってなかったですから」

春樹がうなずいて答えた。

彼は調律師の隣に座り、軽く手を差し伸べて、ハンマーの動きに合わせてペダルを押している。その動作は、まるで呼吸のように自然だった。

智久は、少し離れた場所に腰を下ろし、その様子を黙って見ていた。背筋を伸ばしているつもりだったが、肩に力が入っていることにふと気づく。手のひらが、膝の上で汗ばんでいた。

ピアノの奥から、調律師の叩く音が断続的に響いた。単調に聞こえるはずのその音が、なぜか妙に耳に残った。弦をたたくたびに、部屋の空気がわずかに震えるのが感じられた。小さな音のひとつひとつが、部屋の静けさを削るようだった。

七菜がピアノの横で静かに座っていた。春樹の肩に視線を向けたまま、言葉を発することもなく、ただその手の動きを追っていた。小さな身体がじっとしているその様子が、今朝の和室の空気とは違って、何かに惹かれているように見えた。

「このあたり、調子悪いところ全部、触れておきます。ちょっと時間がかかりますけど」

「お願いします」

春樹が頭を下げたとき、智久の胸の奥に、微かに疼くような記憶が浮かび上がった。

昔、母の膝の上に座って、同じように調律の様子を見ていたことがある。鍵盤の蓋を開けたピアノの中身が、初めて機械のように見えたときの驚き。音がただ出るのではなく、重なり、震え、微妙な力加減でまったく違う響きを生むことを知った日のこと。

そして、そのすぐ横に、もうひとりの少年がいた。

春樹だ。

今よりもずっと小さくて、でも目だけは今と同じだった。真っ直ぐで、余計な感情を載せず、ただ音に向かって開かれていた。

智久は、現在の春樹の動きに、あのときの面影を重ねていた。手の形。指先の角度。何かに触れるときの、あのゆっくりとした重み。

音を聴いているのではなく、音と話しているような仕草。

そのとき、春樹がふと振り向いた。

ほんの一瞬だったが、智久と目が合った。

春樹はすぐに視線を戻したが、智久はその一瞬に、何かが通り抜けたのを感じた。呼吸が止まりそうになる感覚だった。

昔のことなど思い出すはずもない、ただの偶然の視線だと、そう思おうとしたが、心はそれを否定していた。

「音、聴いてみてください」

調律師が言った。

春樹が鍵盤に手を置き、軽く指を動かした。ドの音から順に、ゆっくりと弾いていく。音の響きが、和室の空気のなかを揺らしていく。何の変哲もない音階だ。だが、それを聴いているあいだ、智久の中で、昨日までの現実が少しずつ遠のいていった。

春樹の身体が鍵盤に向かって傾く。その動きに無駄がない。音を出すことが目的なのではなく、その響きを空気の中に運ぶために、彼の身体はそこにあるように見えた。

七菜が微かに目を見開いて、息を止めた。まるで、何か神聖な儀式を前にしたような、そんな静けさが生まれていた。

「きれい…」

ぽつりと七菜がつぶやいた。

春樹はそれに応えず、ただ鍵盤の上で指を止めたまま、音が消えるのを待っていた。残響が部屋の壁に吸い込まれていき、それでもまだ空気のどこかに残っているような気がした。

「これで、だいぶ弾きやすくなるはずです」

調律師が立ち上がり、工具を丁寧に片づけはじめた。春樹もまた、蓋を閉じる手をゆっくりと動かす。最後に、鍵盤の端を軽く撫でるようにして、そっと手を離した。

智久は、その手の動きを見つめていた。

思い出ではなく、今の春樹がそこにいた。少年のままではなく、大人になった彼が、変わらずに音とともに生きているという事実が、胸にずしりと落ちてきた。

何かが戻ってきたような気がした。

かつて、自分の中にあった感情。それが何だったのかは思い出せない。けれど、それが今、目の前で再び輪郭を得て、ゆっくりと形を変えながら息を吹き返している気がした。

春樹が顔を上げた。

今度は、視線がまっすぐに智久に向けられていた。

「また、次回からはレッスンですね。よろしくお願いします」

「……ああ」

智久の声はかすれていたが、春樹はうなずいた。

窓の外には、まだ雲が残っていたが、薄くなった空から夕日がにじみ始めていた。

その光は、まだ何も語らない和室の奥を、静かに照らしていた。

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