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第一章:偶然の紡ぐ絆はシトラスの香り③

Penulis: 七森香歌
last update Tanggal publikasi: 2026-08-17 11:38:24

「あーあ……」

 茉莉は自分の荷物の惨状を見ながら苦笑した。雑に破られたノートが辺りに散乱している。彼女が財布の中を確認すると、千円札が何枚か抜き取られていた。――しかし、これもいつものことだ。慣れている。

「芦屋……お前、もしかして誰かにいじめられてんのか?」

 そんなんじゃないよ、と茉莉は否定する。しかし、陽生はその言葉に説得力が感じられなかった。

「けど、そんな嫌がらせされてるのって、普通じゃねえだろ。自分で言いたくねえって言うなら、おれから先生に――」

「そんなんじゃないって言ってるでしょ!」

 不意に茉莉が大声を上げた。耳を劈くその声に、陽生は何も言えなかった。――茉莉のその言葉は、まるで彼女自身にそう言い聞かせているようで。

 周囲の注意が自分に向いたことに気がついた茉莉ははっとしたような顔をした。そして、彼女は小声でこう言った。――その顔はどこか悲しそうに陽生の目には映った。

「わたしが悪いの。こんなところに場所取りみたいに荷物置きっぱなしにしたのもよくなかったし……荒らされたりとかしたって文句は言えないよ」

「それは……」

 陽生が二の句を継げずにいるうちに、茉莉は破られたノートをかき集めてバッグへとしまっていく。そそくさと帰り支度を済ますと、彼女は陽生にこう言った。

「勉強教えるって約束だったのにごめんね。わたし、今日はもう帰るね。今日教えたところ、ちゃんと復習しておいて」

 そう言い置くと、彼女は陽生に背を向けた。今、彼女を一人にしたくない気がするのに、陽生はその背中を追いかけることができなかった。――今の彼女に、何て言葉をかけてあげればいいのかわからなくて。

 どうしてあげるのが正解だったんだろう。その日の晩、夕飯を済ませた後の陽生はベッドに横になりながら、図書室での一件に思いを馳せていた。

 茉莉の見せたあの表情。あれは決して大丈夫といっていいものではなかったように思う。

 せめて、彼女を気遣う言葉をかけてあげたいと、陽生はずっとメッセージアプリのチャット画面を開いたり閉じたりしていた。何を言ってもきっと、茉莉は「ありがとう。大丈夫」としか言わないだろう。それを言わせるために、何か言葉をかけるのは偽善でしかないような気がしていた。

 ふいにスマホがぶうんと唸った。ちょうど茉莉とのチャット画面を開いていたせいで、すぐに既読がついてしまう。なんだかこれでは茉莉からの連絡を待ち構えていたみたいでバツが悪い。

「貴嶋くん、ちゃんと勉強してる? ゴールデンウィークなんだけどさ、一日くらい息抜きにどこか遊びに行かない?」

 何も気にしていなさそうな茉莉の言葉に陽生は拍子抜けした。彼女の言葉からは図書室で大声を上げたときのことなど、微塵も感じられなかった。

「別にいいけど……どこ行くんだ? っていうか、天沢とか佐倉じゃなくて、何でおれ?」

「心羽とは別の日に遊ぶからいいの。瑠音は大体毎日うちに出入りしてるから、しょっちゅう顔合わせるし。というか、貴嶋くんだって、わたしの友達でしょ? 遊ぶのがわたしじゃ不満?」

「そんなことはねえけど……佐倉が気を悪くしねえか?」

「瑠音だって、ガールズバンドの子たちとよく遊びに行ってるし、そこはお互い様でしょ。わたしだって、友達と自由に遊ぶくらいの権利はあるよ」

「ああそう……それで、どっか行きたいところとかあるのか?」

 すると、茉莉からチャットで何かのリンクが送られてきた。指先でリンクをタップすると、先週末に封切られたばかりの映画のサイトが開かれた。

「これ、観に行きたいって思ってたの! 泣けるって噂だし!」

 サイトのあらすじを読んだだけでも砂糖を吐きそうなくらい甘ったるいラブストーリーのようだが、茉莉が行きたいというなら付き合うほかない。それが今日何もできなかった自分ができる、唯一の贖罪であるような気がした。了解、と陽生の指がスマホの液晶の上を滑る。

「何日の何時の回にするんだ? おれのほうで予約取るよ」

「じゃあ、四日の十五時半の回で! 早めに集合して、映画の時間まで、ご飯食べたりショッピングしたりしよ」

 わかった、と打ってしまってから、陽生は固まった。それは最早デートではないだろうか。物心ついてから、母親以外の女性と出かけた覚えなんて全くない。

(え、おれ、まともな服とか持ってたっけ)

 陽生はベッドの上にスマホを放り投げると、部屋の隅に積まれた衣装ケースの引き出しを開ける。母親が買ってきた謎の英字ロゴのTシャツ。袖が伸びてよれたパーカー。履き古したチノパン。衣装ケースから出てくるのはそんな服ばかりだ。

 陽生はベッドの上に放り投げたままだったスマホを拾い上げると、朔也へと電話をかけた。ツーコールの後に、不審げな様子の朔也が電話に出る。

「何、陽生。いきなり電話とか……」 

「朔也! 頼む! 明日買い物付き合ってくれ!」

「……はあ?」

「おれにそこそこイケてる服を見繕ってくれ!」

 陽生は電話口で思わず叫んだ。うるさい、という母親の声が階下から聞こえてきた。なるほど、と朔也が得心したように言う。

「芦屋関連か……お前ら付き合ってんの?」

「いや、芦屋とは普通に友達だけど、何か四日に出かけることになった! まともな服がないからどうにかしてくれ!」

「へいへい……ただ、交換条件としてひとつ。オレに天沢ちゃん紹介しろよ」

「紹介って、おれは天沢のことなんてよく知らねえぞ?」

「天沢ちゃん、芦屋と仲いいだろ。芦屋経由で紹介してもらってよ」

「芦屋がいいって言ったらな」

 よっしゃ、と電話の向こう側で朔也の声が弾む。やれやれと肩をすくめると、陽生は朔也と待ち合わせ時間の相談を始めた。

 陽生は改札の前で、茉莉が来るのをそわそわとしながら待ち合わせ時間の一時間前から待っていた。駅ビルのショーウィンドウのガラスに映り込む自分の姿を見ては、どこかおかしなところはないかと髪をいじくり回してばかりいる。端から見たら完全なるナルシシストだ。

 ライトグレーの無地のクルーネックのTシャツ。薄手のブラックのカーディガン。黒のテーパードチノに無地のローテクスニーカー。先日一緒に買い物に行った親友の朔也によって、今日の陽生はぎりぎり茉莉と歩ける程度にはアップグレードさせられていた。持つべきものは友だ。

 もっとイケイケなコーデも組めると朔也は豪語していたが、敢えて陽生はこのはしゃぎすぎていないラインで留めてもらっていた。”友達”と出かけるのに気合いを入れすぎていては、何だか茉莉のことを意識しているようで気恥ずかしかった。

 電車がついたのか、改札を抜ける人の数が一気に膨れ上がった。スマホの時計を確認すると、待ち合わせ時間の十分前を指している。

 陽生がショーウィンドウ相手に身だしなみの最終確認をしていると、ふいに聞き慣れた声が彼のことを呼んだ。みっともないところを見られた気がしてぎょっとしながら、背後を振り返ると、茉莉がそこに立っていた。

 スカートのプリーツが美しい、淡いミントグリーンのワンピース。ウエストを細い茶のベルトがぐるりと囲み、その細い腰を際立たせていた。ワンピースの上から羽織った七分丈のレースのカーディガンは白で、足元も同じ色のストラップパンプスだ。香水によるものなのか、シトラスのいい匂いがふわりと彼女から漂っている。この季節に住まう妖精のような愛らしさに、陽生は思わず息を呑む。

「貴嶋くん、今日暑いね。いつ来たの?」

「えっと、一本前の電車で」

 陽生の舌はたどたどしく嘘をつく。本当のことを茉莉に知られるのは何だか格好がつかない気がした。ふうん、と疑うように茉莉は目を細める。

「それじゃあ、貴嶋くん。行こっか。ちょっと早いけどお昼にしちゃおう」

「おう、どっか行きたい店とかあんのか?」

「ネットで見たパニーニの専門店気になってたの! そこ行こうかと思ってて……いいかな?」

「別にいいけど……パニーニってなんだ?」

「サンドウィッチみたいなやつ! 見た目よりもお腹膨れるから、男子でも満足できるはずだよ」

 そんなことを言いながら、二人は歩き出した。陽生は茉莉のヒールの生えた足元にちらりと視線を落とすと、歩く速度をほんの少しだけ落とした。――その変化に気づかれないように、いつもと同じ歩幅を装いながら。

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