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第一章:偶然の紡ぐ絆はシトラスの香り②

last update Veröffentlichungsdatum: 17.08.2026 11:38:19

 カフェからの帰り道。すっかり日は沈み、残照が空の果てに色づくのみとなっていた。

 茉莉の主だった話題は二つ。高校に入ってから仲良くなったという天沢心羽のことと、幼馴染で彼氏の佐倉瑠音のことだ。前者は甘ったるい茶を飲みながらやり過ごしていたが、後者については内心、陽生は面白くなかった。そんなに彼氏のことが好きなら、他の男と茶なんて飲んでるなよ、と。

 駅の改札を通り抜け、ホームに立つと夕方の風が電車とともに駆け抜けていった。次の電車は十分後だ。陽生は茉莉とともにベンチに腰を下ろす。

「貴嶋くんは、ゴールデンウィーク何して過ごすの?」

「勉強だよ。ゴールデンウィーク明けたら中間テストだろ」

「ふうん。どこかわからないところとかあるの?」

「まあまあ全体的に。朔也と同じ高校入ろうとして、偏差値的にちょっと背伸びしたところ入っちゃったから、そのツケが今回ってきてるところ」

「朔也って、氷上ひかみくん? よく貴嶋くんといる、ちょっと軽そうな」

 そう、とため息混じりに陽生は頷いた。すると、いいこと考えた、と茉莉は口元に笑みを乗せる。

「わたしが勉強教えてあげる。明日から、放課後図書室ね。うちの学校、ゴールデンウィークも図書室開放するらしいから、みっちりやろう」

「お手柔らかに頼む……。というか、お前自身の勉強はいいのか?」

「定期試験くらい、教科書に目を通しておけばわたしは余裕だよ? それに、誰かにものを教えるのって、相手の十倍理解していないとできないっていうから、わたしが貴嶋くんに勉強を教えるのはわたしの勉強にもなる」

「さいですか」

「それで、貴嶋くんは何がわからないの?」

「ええと――」

 陽生は自分がだんだんと情けなくなりながらも、自分が勉強で詰まっているところを列挙していく。茉莉の笑顔がだんだんと呆れ顔に変わっていくのを陽生は直視できなかった。

「……失礼だけど、貴嶋くんってよくそれで入試通ったね」

「わからないところは全部鉛筆転がしてた……」

 何それ古典的、と茉莉は吹き出した。彼女は笑いながら目元を指先で拭う。

「やだもう、ここ最近で一番笑った。とりあえず、聞いた感じだと貴嶋くんは基礎からしっかりやり直した方が良さそうだね。今やってる部分って、中学の内容とかぶってるところもあるし。重くなければ、中学の教科書も持ってきてもらってもいい? そっちのほうが詳しい解説書いてあると思うよ」

「了解。明日は何の科目やる?」

 そうだなあ、と茉莉は口元に手をやり、しばし逡巡する。その横顔をぼんやりと眺めていた陽生は、はっと我にかえると視線を逸らす。人の顔をじろじろ見るなど失礼だ。特に相手が女子ならば。

「どうしたの? 貴嶋くん、もしかしてわたしまだクリームついてた?」

「いや、そんなことはない。目と鼻と口以外特に何もついてない」

「何それ、貴嶋くんって面白いね。――それはそうと、明日は数学にしよう」

「わかった。何年のときの教科書持ってきたらいい?」

「中三のときので」

 陽生は頷いた。そのとき、ホームにピンポンパンポンと短いメロディが鳴り響いた。二番線に下り列車が来る旨のアナウンスが録音された男性の声で告げられる。

「それじゃあ、帰るか。そういや、お前、家どこ? おれんちは南雲野なぐものが最寄りなんだけど、前に市営図書館で会ったってことは結構近所?」

「わたしは新南雲台しんなぐもだいだから一駅先かな」

 南雲野と新南雲台は電車で二、三分の距離だ。少し寄り道をしたところで、十九時半には家に着くだろう。

「もう遅いし、送っていってやるよ」

「大丈夫だよ。一人で帰れるよ」

「さっき、帰りのHRで変質者が相次いでるって言ってただろ。もう暗いのに、女子ひとりで帰せるか」

「じゃあ……お言葉に甘えようかな。でも、わたしを送っていったら貴嶋くんが遠回りにならない?」

「どうせ、おれんちは国道挟んでどっちかっていうと南雲野が近い、くらいのところだからな。大した遠回りじゃねえよ」

「ありがと。……ところで、貴嶋くんは相手が女子だったら、わたし以外にもそんなことをするの? たとえば、心羽とか」

「さあな。……っていうか、お前以外に女子の友達いないからわかんねえ」

 春宵の空気を裂いて、電車がホームに滑り込んできた。行くぞ、と茉莉を促すと、陽生はベンチから立ち上がる。

 プシューっと、ドアが開くと、電車の中から人が吐き出される。仕事帰りの人々と入れ替わるようにして、陽生たちと同じ制服の学生たちが電車へと乗り込んだ。

 ドアが閉まると、列車は揺れを伴いながら、ベッドタウンのほうへと走り始めた。窓の外では、この地に暮らす人々の営みが明かりを灯していた。

 陽生はドアの脇にリュックごと背中を預けると、腕を組んだ。視界では脱毛サロンの広告がちらちらと空調で揺れている。

 茉莉の最寄り駅までは五駅。その十五分間が、時空が歪んでもう少しだけ長くなればいいのに、と陽生はなんとはなしに思った。

「ああもう、貴嶋くん、そこはそうじゃないでしょ! ここはこっちの公式を使うんだよ」

 翌日の放課後、陽生は茉莉に勉強を見てもらっていた。教科書の例題にすら苦戦する陽生は、ことごとく茉莉に指摘を食らっていた。

「ほら、よく見て。ここをこの数字で括った後に、この公式を当てはめれば、綺麗に因数分解できるでしょ」

「あっ……マジだ。ところでさっきから、お前は何をしてるんだ?」

「これは貴嶋くん用の英語の単語帳。英単語とか文法とかいろいろ書いてる」

「あっ……ありがとう」

「どういたしまして。だけど、お礼はテストの結果で返してよね。――あっ、そこまた間違ってるよ」

「あれ、ここはさっきの公式じゃ解けねえの?」

 ここはね、と茉莉は自分のバッグから数学の教科書を取り出した。そして、パラパラとページをめくると、そこに記された公式を指で示してみせた。

「似てるけど、ここはエックスが三乗になってるでしょ? だから、ここはこの前授業で習ったこの公式を使うのが正解」

 むっず、と陽生は眉根に皺を寄せた。そのとき、ぶーんとスマホのバイブレーションが唸った。陽生はブレザーのポケットからスマホを出すと、通知を確認する。

――芦屋を連れて、三階の自販機へ行け。十五分経つまで図書室には戻るな。

 陽生は目を瞬いた。これまで幾度となくメッセージが送られてきていたが、こんなにはっきりと茉莉のことを言及されたのは初めてだ。

「どうしたの、貴嶋くん。氷上くんから? ――とはいえ、勉強中は余所見厳禁だよ」

「まあそんなとこなんだけど……なあ、ちょっと喉渇かねえ? おれ奢るから自販機行こうぜ」

 仕方ないなあ、と茉莉は席を立つ。陽生もパイプ椅子を軋ませて立ち上がると、荷物と勉強道具をそのままにその場を後にした。

「貴嶋くん、どこ行くの? 自販機なんて、そこの体育館前のやつで充分じゃあ……」

「この学校、各階でラインナップ微妙に違うんだよ」

 そう嘯くと、陽生は茉莉を連れて階段を上がっていく。二階、三階。何かが陽生をせき立てていた。――何となく、あのメッセージに従わなければ、悪いことが起きるような気がして。

 三階の廊下の隅に赤い自販機が鎮座していた。陽生は適当に目についたメロンソーダ緑茶なるものをスマホのQR決済で購入すると「芦屋、何がいい?」茉莉にそう聞いた。

「えーと、わたしはミルクティーで。……貴嶋くん、よくそれチャレンジする気になったね……。わたし、よそでそんな変な飲み物見たことない」

「おれもねえな」

 陽生は茉莉の分のミルクティーを買う。ゴトン、と商品取り出し口に落ちてきたペットボトルを彼は茉莉へと渡してやった。「ありがと、貴嶋くん。ご馳走になるね」二人は手に持ったペットボトルの蓋を開ける。

「……」

 口の中でぱちぱちと弾ける緑茶に陽生は思わず顔を顰めた。しかも、緑茶と銘打っておきながら、後味はどこか人工物めいた酸味がある。陽生の様子に、ミルクティーを飲んでいた茉莉はくすくすと笑う。

「貴嶋くん、やっぱりそれ美味しくないんでしょ。どんな味なの? 一口ちょうだい」

「ん、ああ……」

 陽生はねだられるままにメロンソーダ緑茶のペットボトルを茉莉に渡す。彼女はなんてことのない顔で、陽生が口をつけた後のペットボトルに自分の唇を触れさせる。

「わあ……これは、随分と味がぐちゃぐちゃしてるね。メロンソーダなのか緑茶なのかはっきりしろーって感じ」

 茉莉は感想を述べながら、陽生にペットボトルを返した。そして、陽生は再びペットボトルを傾けようとして、固まった。

「……お前が口つけた後のやつをどうやって飲めと?」

 自分の声がわずかに裏返ったのを、陽生は誤魔化すように咳払いした。ペットボトルの口に残る色付きリップクリームの跡が妙に艶かしく見えた。

「普通に飲めばいいでしょ? 友達同士の回し飲みなんて普通にやるじゃない」

 意に介したふうのない茉莉の言葉に陽生は深々と溜息をついた。女子との間接キスなど、恋愛経験のない自分が意識せずにいるのは無理だ。むしろ何で茉莉は気にならないんだ。彼氏がいるからか。

「お前は頭いいんだから、恋愛経験ゼロのいたいけな青少年の心情をちょっとは考えてくれ……」

「貴嶋くんはお子様だなあ。そんなんじゃ、ファーストキスなんかもまだなんでしょ?」

「わりぃかよ……どうせおれはモテねえよ……」

「じゃあ――わたしでファーストキスの練習してみる?」

 へ、と間の抜けた声が陽生の喉の奥から漏れた。悪戯っぽい光を宿した茉莉の目が自分の顔を見上げてくる。彼女は息がかかるほどに自分の顔を近づけてくると――ふっ、と破顔した。

「なあんてね。貴嶋くん、ちょっと期待してたでしょ?」

「お前なあ……そうやって男からかってるといつか痛い目見るぞ。というか、自分をそうやって安売りすんなよ」

 はあい、と少し不服そうに頬を膨らませてみせながら、茉莉はその場でくるりと一回転してみせた。チェックのスカートが翻る。スカートの裾から覗く脚を見ないように、陽生は目を逸らすと、やけくそのようにメロンソーダ緑茶を一気に飲み干した。――ペットボトルの口に残った、茉莉の色付きリップクリームの淡いサーモンピンクをなるべく意識しないようにしながら。

「……っと、そろそろ戻るか」

 空になったペットボトルを自販機横のゴミ箱に投げ捨てると、陽生はそう言った。スマホをちらりと見ると、あのメッセージを受信してから十五分以上が経過している。未来の自分は、茉莉を一体何から遠ざけたかったのか知らないが、もう図書室に戻っても大丈夫だろう。

 うん、と頷くと、飲みかけのペットボトルを手にしたまま、茉莉は踵を返した。陽生は頭ひとつ分低いその背中を追いかけて、階段を降りていった。

「なっ……」

 図書室に戻ると、茉莉の荷物が荒らされていて、陽生は絶句した。自分の荷物は荒らされた形跡もなく、そのままにされていた。おそらく未来の自分はこれをやった人物と茉莉を出会わせたくなかったのだろうと陽生は悟る。

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