ANMELDENカフェからの帰り道。すっかり日は沈み、残照が空の果てに色づくのみとなっていた。
茉莉の主だった話題は二つ。高校に入ってから仲良くなったという天沢心羽のことと、幼馴染で彼氏の佐倉瑠音のことだ。前者は甘ったるい茶を飲みながらやり過ごしていたが、後者については内心、陽生は面白くなかった。そんなに彼氏のことが好きなら、他の男と茶なんて飲んでるなよ、と。 駅の改札を通り抜け、ホームに立つと夕方の風が電車とともに駆け抜けていった。次の電車は十分後だ。陽生は茉莉とともにベンチに腰を下ろす。 「貴嶋くんは、ゴールデンウィーク何して過ごすの?」 「勉強だよ。ゴールデンウィーク明けたら中間テストだろ」 「ふうん。どこかわからないところとかあるの?」 「まあまあ全体的に。朔也と同じ高校入ろうとして、偏差値的にちょっと背伸びしたところ入っちゃったから、そのツケが今回ってきてるところ」 「朔也って、「ああもう、貴嶋くん、そこはそうじゃないでしょ! ここはこっちの公式を使うんだよ」
翌日の放課後、陽生は茉莉に勉強を見てもらっていた。教科書の例題にすら苦戦する陽生は、ことごとく茉莉に指摘を食らっていた。 「ほら、よく見て。ここをこの数字で括った後に、この公式を当てはめれば、綺麗に因数分解できるでしょ」 「あっ……マジだ。ところでさっきから、お前は何をしてるんだ?」 「これは貴嶋くん用の英語の単語帳。英単語とか文法とかいろいろ書いてる」 「あっ……ありがとう」 「どういたしまして。だけど、お礼はテストの結果で返してよね。――あっ、そこまた間違ってるよ」 「あれ、ここはさっきの公式じゃ解けねえの?」 ここはね、と茉莉は自分のバッグから数学の教科書を取り出した。そして、パラパラとページをめくると、そこに記された公式を指で示してみせた。 「似てるけど、ここはエックスが三乗になってるでしょ? だから、ここはこの前授業で習ったこの公式を使うのが正解」 むっず、と陽生は眉根に皺を寄せた。そのとき、ぶーんとスマホのバイブレーションが唸った。陽生はブレザーのポケットからスマホを出すと、通知を確認する。 ――芦屋を連れて、三階の自販機へ行け。十五分経つまで図書室には戻るな。 陽生は目を瞬いた。これまで幾度となくメッセージが送られてきていたが、こんなにはっきりと茉莉のことを言及されたのは初めてだ。 「どうしたの、貴嶋くん。氷上くんから? ――とはいえ、勉強中は余所見厳禁だよ」 「まあそんなとこなんだけど……なあ、ちょっと喉渇かねえ? おれ奢るから自販機行こうぜ」 仕方ないなあ、と茉莉は席を立つ。陽生もパイプ椅子を軋ませて立ち上がると、荷物と勉強道具をそのままにその場を後にした。 「貴嶋くん、どこ行くの? 自販機なんて、そこの体育館前のやつで充分じゃあ……」 「この学校、各階でラインナップ微妙に違うんだよ」 そう嘯くと、陽生は茉莉を連れて階段を上がっていく。二階、三階。何かが陽生をせき立てていた。――何となく、あのメッセージに従わなければ、悪いことが起きるような気がして。 三階の廊下の隅に赤い自販機が鎮座していた。陽生は適当に目についたメロンソーダ緑茶なるものをスマホのQR決済で購入すると「芦屋、何がいい?」茉莉にそう聞いた。 「えーと、わたしはミルクティーで。……貴嶋くん、よくそれチャレンジする気になったね……。わたし、よそでそんな変な飲み物見たことない」 「おれもねえな」 陽生は茉莉の分のミルクティーを買う。ゴトン、と商品取り出し口に落ちてきたペットボトルを彼は茉莉へと渡してやった。「ありがと、貴嶋くん。ご馳走になるね」二人は手に持ったペットボトルの蓋を開ける。 「……」 口の中でぱちぱちと弾ける緑茶に陽生は思わず顔を顰めた。しかも、緑茶と銘打っておきながら、後味はどこか人工物めいた酸味がある。陽生の様子に、ミルクティーを飲んでいた茉莉はくすくすと笑う。 「貴嶋くん、やっぱりそれ美味しくないんでしょ。どんな味なの? 一口ちょうだい」 「ん、ああ……」 陽生はねだられるままにメロンソーダ緑茶のペットボトルを茉莉に渡す。彼女はなんてことのない顔で、陽生が口をつけた後のペットボトルに自分の唇を触れさせる。 「わあ……これは、随分と味がぐちゃぐちゃしてるね。メロンソーダなのか緑茶なのかはっきりしろーって感じ」 茉莉は感想を述べながら、陽生にペットボトルを返した。そして、陽生は再びペットボトルを傾けようとして、固まった。 「……お前が口つけた後のやつをどうやって飲めと?」 自分の声がわずかに裏返ったのを、陽生は誤魔化すように咳払いした。ペットボトルの口に残る色付きリップクリームの跡が妙に艶かしく見えた。 「普通に飲めばいいでしょ? 友達同士の回し飲みなんて普通にやるじゃない」 意に介したふうのない茉莉の言葉に陽生は深々と溜息をついた。女子との間接キスなど、恋愛経験のない自分が意識せずにいるのは無理だ。むしろ何で茉莉は気にならないんだ。彼氏がいるからか。 「お前は頭いいんだから、恋愛経験ゼロのいたいけな青少年の心情をちょっとは考えてくれ……」 「貴嶋くんはお子様だなあ。そんなんじゃ、ファーストキスなんかもまだなんでしょ?」 「わりぃかよ……どうせおれはモテねえよ……」 「じゃあ――わたしでファーストキスの練習してみる?」 へ、と間の抜けた声が陽生の喉の奥から漏れた。悪戯っぽい光を宿した茉莉の目が自分の顔を見上げてくる。彼女は息がかかるほどに自分の顔を近づけてくると――ふっ、と破顔した。 「なあんてね。貴嶋くん、ちょっと期待してたでしょ?」 「お前なあ……そうやって男からかってるといつか痛い目見るぞ。というか、自分をそうやって安売りすんなよ」 はあい、と少し不服そうに頬を膨らませてみせながら、茉莉はその場でくるりと一回転してみせた。チェックのスカートが翻る。スカートの裾から覗く脚を見ないように、陽生は目を逸らすと、やけくそのようにメロンソーダ緑茶を一気に飲み干した。――ペットボトルの口に残った、茉莉の色付きリップクリームの淡いサーモンピンクをなるべく意識しないようにしながら。 「……っと、そろそろ戻るか」 空になったペットボトルを自販機横のゴミ箱に投げ捨てると、陽生はそう言った。スマホをちらりと見ると、あのメッセージを受信してから十五分以上が経過している。未来の自分は、茉莉を一体何から遠ざけたかったのか知らないが、もう図書室に戻っても大丈夫だろう。 うん、と頷くと、飲みかけのペットボトルを手にしたまま、茉莉は踵を返した。陽生は頭ひとつ分低いその背中を追いかけて、階段を降りていった。 「なっ……」 図書室に戻ると、茉莉の荷物が荒らされていて、陽生は絶句した。自分の荷物は荒らされた形跡もなく、そのままにされていた。おそらく未来の自分はこれをやった人物と茉莉を出会わせたくなかったのだろうと陽生は悟る。窓から四月の柔らかな春の日差しが差し込んでいた。白いタキシードに身を包んだ陽生は、何かおかしなところはないかと、控え室の鏡を見ながらネクタイや髪をいじったりしていた。 今日の日を迎えるまでのことを思い起こすと、ふいに苦笑が漏れる。茉莉のドレスやブーケ選びに始まり、参列者の選定や席次の決定、式や披露宴で使う曲選びなどやることが盛りだくさんだったからだ。ここ数ヶ月の間、その準備に追われ、休日もろくに休めなかった。 (それもきっと……いつかいい思い出に変わるんだろうな。あのときは大変だったな、って笑って話せる日がきっと来る) 高校一年生の文化祭の日に付き合い始めてから今日まで、自分は茉莉とともに歩んできた。そして、この先の人生も彼女とともに歩んでいくつもりだ。――たとえ、いつか遠い未来に死が二人を別つことがあろうとも。 ふいに、こんこんと控え室の扉がノックされた。陽生はすっと居住まいを糺すと、どうぞと返した。 「茉莉様のお支度が整いました。――どうぞ、こちらへ」 はい、と答えた自分の声が歓喜に震えるのを陽生は感じた。陽生は式場のスタッフに連れられて、部屋を出る。一歩床を踏み締める度に、胸が期待で溢れていく。 「――茉莉様。陽生様をお連れいたしました」 アップスタイルにまとめた髪の上でふわふわと靡くヴェール。レースが何枚も重なり合い、繊細な刺繍が施されたドレスの裾はAライン状に大きく広がっている。それでいて、胸元はすっきりとまとめられ、清楚な美しさが引き立てられている。 式場の入り口の前にウエディングドレス姿の茉莉が父親と共に立っていた。吹き抜けの天井から差し込む日差しを浴びて佇む彼女は、まるで絵画の中から抜け出してきたかのようだった。その美しさに陽生の目は釘付けとなる。 「茉莉――綺麗だ」 そんな言葉が思わず口をついて出た。くす、と茉莉は嬉しそうに笑みを溢す。 「陽生くんもとっても素敵。よく似合ってるよ」 「……まあ、馬子にも衣装って言うからな」 「もう、照れちゃって。素直になれないところはいつになったら治るのかな」 「うるせえ。言ってろ」 陽生が緊張しのぎに軽口を叩いていると、茉莉のそばに立つ彼女の父親が彼の名を呼んだ。陽生は軽口をひっこめると、神妙な面持ちで茉莉の父親へと向き直る。 「――はい」 「陽生さん。娘を
「まったく実行委員長の奴……おれたちに後処理押し付けて美味しいところだけ持っていきやがって……」 十月の空は紺青に色を変え、校庭では後夜祭が始まっていた。実行委員長が表彰を行なう声が窓の外から聞こえてくる。優秀賞、最優秀賞、と該当のクラスが呼ばれる度に歓声が上がる。 陽生と茉莉は多目的室で文化祭の後処理に奔走していた。一般公開時間が終わってから、出し物の内容について後申請してきたクラスが山ほどあったからだ。 「貴嶋くん、SJ放送へのお礼メール終わったよ。そっちの申請書捌くの手伝おうか?」 「わりぃ、頼む……」 陽生は申請書の束を半分、茉莉へと渡した。彼女はブレザーの胸ポケットからシャーペンを抜くと、申請書に目を走らせ始める。 「ねえ、貴嶋くん。文化祭、楽しかったね」 「お前にとっては色々あっただろうけど……楽しかったんだったらよかったよ」 「……うん」 ドン、と音が響き、窓の外の空に光の花が咲いた。陽生は席を立つと、多目的室の電気を消す。 「……貴嶋くん? どうしたの、電気なんて消して」 「このほうが綺麗に見えるだろ、花火。まだやることたくさんあるけど、花火くらいは見ようぜ」 そうだね、と茉莉は微笑むと、シャーペンを置いた。そして、席を立つと彼女は窓辺へと歩いていく。 窓の外を眺める茉莉の隣に陽生は立つ。そして、なあ、と彼は緊張で掠れた声でこう言った。 「――芦屋。前にも言った通り、おれはお前のことが好きだ。もし、お前の気持ちが変わっていないなら、これからもおれと一緒にいてくれないか。――付き合おう、茉莉」 「貴嶋くん……」 茉莉は目を見開くと、陽生を見つめた。暗い教室の中で視線が絡まり合う。 「佐倉と別れたばっかりだっていうのもわかってる。おれは不器用で、こういうことも初めてだから、お前のことを傷つけない保証もない。だけど……お前が笑っていられるように、努力はしたい。こんなに危なっかしくて、放っておけなくて、可愛くて――大事な奴は他にはいねえから」 「わたしで……いいの?」 「お前だからいいんだよ――茉莉」 戸惑う茉莉に陽生は真正面からそう言った。茉莉の目が揺れる。やがて、彼女は心を決めたのか、小さく息を吐いた。 「わたしも、貴嶋くんの――陽生くんの、そばにいたい。一緒にいたい。これから未来(さき)を一緒
「なあ、芦屋。おれたちのシフトって、確かこのまま休憩だったよな。何か軽く見ていかねえか?」 瑠音たちのステージが終わり、取材に来ていたSJ放送のスタッフを見送った後、陽生はそう茉莉に声をかけた。いいよ、と茉莉は微笑んだ。 「どこのクラスがどんなことをしてるのかも確認したかったし。申請書の内容だけじゃわからないことも多いから」 「お前、本当に真面目だよな……」 休憩時間くらい肩の力を抜けばいいのに。そう思いながら、陽生は溜息をついた。束の間の間だけでも、お遊びめいたデートを茉莉と楽しみたかった。 校門から戻ってきた陽生たちは校庭の方へと足を向けた。文化祭実行委員会に提出された書類によれば、校庭では各クラスや部活動有志による飲食系の屋台が出ているはずだった。 「……」 校庭をぐるりと見回すと、陽生は頭が痛いと言わんばかりにこめかみを押さえた。なんだこれは。揃いも揃ってトンチキな屋台しかない。 暗雲わたあめだとか海賊が作った山賊焼なんていうのはまだ序の口だ。チョコきゅうりだとか桜姫が愛したタピオカコーンポタージュなどという、正気を疑いたくなるものもある。恋するフォーチュンたこやきに至っては、異物混入がないかどうか、文化祭実行委員として心配になってくる。 「芦屋……これ、どっから突っ込んだらいいと思う?」 「突っ込むも何も、文化祭実行委員なのに貴嶋くん知らなかったの? この学校の文化祭の出し物は、伝統的に変わり種が多いんだよ」 「変わり種って……とりあえず、チョコときゅうりって合うのか? しかも、ミルクとホワイトとビターから選べるとか無駄に凝ってるし……」 「きゅうり自体がそんなに主張が強い野菜じゃないから、意外と大丈夫なんじゃないかな?」 「だとしても……何でこんな企画通したんだよ……」 「だって、きゅうりは桜島市の特産品でしょ? 今回のコンセプト的に、地産地消ができるのはいいことだと思うけど」 きょとんとして茉莉は陽生の顔を見上げた。優等生め、と思わず陽生は毒づいた。 「じゃあ桜姫が愛したタピオカコーンポタージュっていうのはどうなんだよ? 桜姫の時代にタピオカもコーンポタージュもねえだろ」 「どうだろう? 桜姫は舶来品が好きだったし、城下町を潤すために南蛮貿易を先頭に立って旗振りしてたって記録が残っていたから、案外近いもの
どうしてこうなったんだ。茉莉が縫ってくれたピンク色の魔法少女の衣装に身を包んで、陽生は呆然と立ち尽くした。 彼女持ちの男子たちがこぞって女子を裏方仕事に回したせいで、文字通りの正しい意味での魔法”少女”は数人しかいない。魔法少女姿を他の男の目に晒すくらいならと、漢気を見せた女装姿の男子たちばかりが教室内を動き回っている。 頭頂部を彩る大きなリボン。胸元にも同じ色のリボンがあしらわれ、袖は大きく膨らんでいる。パニエを何枚重ねにもして、膨らませた衣装の裾にはフリルがこれでもかというくらいに縫い付けられている。そんな愛らしいスカートの裾の下から覗いているのはすね毛まみれの男子の足ばかりで、ここが地獄かと陽生はうんざりとしていた。 「まじかる☆さくや、お客様ご案内ー! あなたのハートをごりごりずどーん!」 他校の制服姿の女子二人組がやってくると、水色の魔法少女の衣装に身を包んだ朔也が画用紙で作ったステッキをハートの形に振ってみせた。客の女子二人は爆笑しながらスマホを取り出すと、ノリノリで決めポーズを取る朔也を撮影する。 「ごりごりずどーんって……」 確か自分たちのクラスは魔法少女カフェであって、間違っても工事現場とかの類ではなかったはずだ。台詞の前半はコンセプトを考えれば辛うじて理解できるが、後半の物騒な擬音は何なんだ。 この謎のセリフを考案したのはノリノリで接客している、クラスの出し物係でもある朔也だ。普段はセンスのいい彼が、どうして今回に限ってはそのセンスの良さを発揮できなかったのか謎すぎる。 担任の岸野が金と銀の魔法少女衣装で呼び込みをしているのが功を奏したのか、客足は途絶えることはない。ひっきりなしにまじかるなんとかという延べ口上が教室内に響き渡っている。――但し、声変わり後の男子高校生の低音ボイスで。 「魔法少女まじかる☆さくや、愛と希望とオレンジジュースをおっとどけー!」 朔也は裏方仕事をしている女子からオレンジジュースの乗ったトレイを受け取ると、そんなことを宣いながらくるりと回ってみせる。ふわりとスカートの裾が広がり、朔也はウィンクを決めた。 ふいに客と思しきこの学校の制服姿の女子が戸口に姿を現した。他の男子たちは接客をしているか、グロッキーな目でキラキラとしたモールのぶら下がる天井を見つめているかしている。自分が行く
西の空を染める残照を見つめながら、陽生は朔也とともに校舎の屋上から垂れ幕を吊るしていた。屋上のフェンスに紐を結わえながら、随分日が落ちるのも早くなったものだと陽生は感じていた。 明日はもう文化祭当日だ。どこからか金木犀が香り、頬を撫でる夕風は秋の冷涼さを帯び始めている。空の端に残る朱色には夏の烈しさはもう残されてはいない。 そのとき、ずるりと垂れ幕の逆の端が重力に従って、下がるのを感じた。陽生は朔也を振り返ると、文句を口にする。 「おい、朔也。ちゃんと支えとけよ。そっちだけ下がってるじゃねえか」 「ごめんって。ちょっと心羽ちゃんから通話きたから出るわ」 朔也は悪びれたふうもなくスマホを取り出すと、もしもしと通話に応じる。「さっくん、今すぐ来て!」離れた位置にいる陽生の耳にも届くほどの音量で切迫した心羽の声が朔也のスピーカーを劈いた。陽生と朔也は思わず顔を見合わせる。 「心羽ちゃん、どうしたんだ?」 朔也が聞くと、スピーカーの向こう側で心羽が早口に何かを説明する。わかった、と朔也は通話を切る。 「陽生、体育館行くぞ。心羽ちゃんが言うには、体育館ステージのリハでトラブルがあって、芦屋が佐倉に因縁つけられてるって」 なんだって、と陽生は顔色を変える。設置途中の垂れ幕を放り出すと、彼は踵を返した。 「朔也、早く来い!」 そう叫ぶと、陽生は錆びかけた屋上の扉を押し開ける。ズボンのポケットの中でスマホが震えた。おそらく、未来の自分が先ほどの心羽と同じ用件でメッセージを送ってきたに違いない。階段を足早に駆け降りていく彼の背中を追いかけながら、朔也はやれやれと肩をすくめた。 「陽生、お前は本当に芦屋のことになると人が変わるな……」 「お前だって、天沢に何かあったら放っておけないだろ?」 「そりゃまあ、当然そうだけどさ」 二人は一気に一階まで階段を駆け降りると、全力で廊下を走る。各クラスから漏れ出してくる話し声に混じるようにして、上履きの底が奏でる靴音が響いた。 渡り廊下を駆け抜けると、陽生は体育館の扉を開いた。「――芦屋!」茉莉の名前を叫びながら、陽生は体育館の中へと飛び込んでいく。その場にいた全員の視線が陽生へと向けられた。 「――さっくん! 貴嶋くん!」 心羽の声が響く。彼女はステージの上で、茉莉を庇うようにして瑠音と対
「茉莉ー、また糸からまっちゃったあ」 人気のない多目的室に心羽の情けない声が響いた。見せて、と茉莉は作業の手を止めると、心羽の手元を覗き込む。 多目的室にいるのは文化祭実行委員の陽生と茉莉、陽生たちのクラスの出し物係である朔也と心羽だけだった。朔也と心羽は新学期になってから陽生たちの手伝いとして多目的室に入り浸るようになっていたが、気がつけば半分自分たちのクラスの作業部屋と化していた。他の実行委員たちが陽生と茉莉に準備を押し付けて、ろくに顔を出さないからこそ成し得たことだった。 陽生はぺたぺたとハケでベニヤ板にペンキを塗っていく。朔也は陽生の作業を横から覗き込むと、うわっと声を上げた。 「何お前その超前衛的なカラーリング」 「洒落ていると言えよ」 「いやでも、その蛍光ピンクはマジでないわ。何で蛍光ピンク?」 「今年のテーマに沿って、桜姫のイメージで……」 陽生がそう答えると、朔也は芦屋ー! と叫んだ。 「芦屋、陽生ほったらかしにしたらやばいって! 看板すげーことになりかけてるから! 早く止めてこい!」 心羽の代わりに魔法少女の衣装を縫っていた茉莉は布と針をその場に置くと、陽生のそばへと戻る。あの形のまま、茉莉の口が固まる。 「……貴嶋くん、ちょっとこれ、真っ白に塗りつぶしてやり直そう?」 「芦屋、何でだ? 今年のテーマに沿ったカラーリングだと思ったんだけど……」 「なんていうか……ちょっと独特すぎるかな。文化祭には地域の人とかもたくさん来るんだから、もう少し万人受けする感じにしないと」 「……」 憮然として陽生は黙り込んだ。そんな彼をよそに、茉莉は塗り掛けのベニヤ板とペンキの缶をどけて、作業スペースを確保していく。ついでに窓を開けるとペンキの匂いが充満した部屋を彼女は換気する。 「看板の塗り直しはペンキが乾いてからじゃないとできないから、今日はきらりん作りしよう。校内のいろんなところに飾るから、量が必要なの」 そう言うと、茉莉は積まれた段ボールの中から、黄色の画用紙の束を取り出した。床に転がっていたハサミを拾い上げると、茉莉はそれを陽生に渡す。 「……なあ、芦屋」 教卓の中から出してきたハサミで画用紙を切る茉莉へと、陽生は話しかける。何、と彼女は作業の手を止めないまま応じた。 「お前、大変じゃねえの? 実行委







