ANMELDEN陽生はパニーニを食べ切ると、紙ナプキンで口元の照り焼きソースを拭った。茉莉の言っていた通り、見た目に反して意外とボリュームがある。
目の前に座る茉莉はグレープフルーツとキウイが沈んだティーソーダなるものを機嫌良さげに啜っていた。今日の茉莉はうっすらとメイクをしているようで、陽生は彼女を直視できないでいた。――ともすれば、丁寧にマスカラを塗られた長い睫毛も、瞼を彩るシャンパンベージュのアイシャドウも、まるで陽生自身のためであるかのように錯覚してしまいそうで。 どうしたの、とストローから唇を離すと茉莉は小首を傾げてそう問うた。その仕草がいちいち可愛らしくて、恋愛耐性のない陽生は悶絶してしまいそうになる。――茉莉は他人の彼女だと理解しているのに。 「べ、別に……それよりさ、一個頼みがあんだけど。おれのってわけじゃねえんだけどさ……」 「なあに?」 「芦屋も朔也って知ってるだろ? 氷上朔也」 「貴嶋くんの友達だよね。よく一緒にいる。氷上くんがどうかしたの?」 「朔也が天沢を紹介してほしいってうるせえんだよ」 「心羽を氷上くんにねえ……」 茉莉は逡巡した様子を見せる。一見軽そうに見える朔也に友人を紹介していいか迷っているのだろう。そう察した陽生は朔也のための援護射撃を試みる。そのくらいの借りはある。 「ちょっと軽そうに見えるけど、別に悪い奴じゃねえよ。十年来の付き合いのおれが保証する。何やかんやで友達思いだし、おれも何かとあいつには世話になってる」 ふうん、と茉莉は長いスプーンでグラスの中からキウイを掬い出した。フレッシュな味わいのそれを思いとともに咀嚼すると、彼女はこう言った。 「いいよ。氷上くんが心羽のこと、泣かしたりしないなら」 ――泣かしたりしないなら。 その何気ない一言が陽生の胸にはやけに重く響いた。きっと、茉莉が瑠音に泣かされたのは体育館裏で出会ったあのときだけじゃない。だからこそ、出た言葉なのだろうと思った。――せめて、友人には幸せな恋愛をしてほしくて。 「……わかった。朔也にそう伝えとく」 うん、と茉莉は頷く。彼女の目には羨望と諦観が入り混ざって浮かんでいた。その目を見ていられなくて、陽生は咄嗟に話題を逸らした。 「それより、それ飲んだらさっさと行くぞ。何か、買い物したいんだろ?」 「うん、夏物見たいなって思ってて。ゴールデンウィークだからセールもやってるしね」 「もう夏物か? まだ五月だぞ」 「そんなこと言うけど、今日真夏日だよ。さすがに春物じゃそろそろ暑いよ」 茉莉がティーソーダの中のフルーツと格闘しているのを視界の端に捉えながら、陽生はズボンのポケットからスマホを取り出した。そして、メッセージアプリを立ち上げると、先ほどの茉莉の言葉を朔也へと送った。――自分は、茉莉が泣かないで済むために、何ができるのだろうと思いながら。「ねえ、貴嶋くん。これとこれ、どっちがいいと思う?」
向日葵を思わせる大判の花柄が施されたクリームイエローのスカート。細かな銀の刺繍が刻まれた白いレースのスカート。その二つを手にもった茉莉にそう問われ、陽生はうーんと唸った。この場合、なんて答えるのが正解なんだろうか。 「えーと、どっちもいいんじゃないか……?」 「もう、貴嶋くんってばさっきからそればっかりじゃない!」 それに、と不服そうに茉莉は陽生を見る。 「わたし、まだ今日、一回も貴嶋くんに可愛いって言ってもらえてないんだよねえ。こういう感じ、貴嶋くんの好みじゃない?」 「いや、そういうんじゃねえけど……けど、おれがそういうのを言うのは何か違うんじゃねえか? そういうのは天沢か佐倉にでも言ってもらえよ」 「ええー、わたしは貴嶋くんに言ってもらいたいのに」 そう言って頬を膨らませると、茉莉は試着室へと消えていった。茉莉が着替えるのを待っていると、女性の店員がにこやかに話しかけてきた。 「今日はデートですか? 可愛らしい彼女さんですね」 「いや、そういうんじゃ……あいつはただの友達ですし」 友達。その言葉をしっかりと陽生は自分に言い聞かせる。こんなごっこ遊びのようなやりとりは、自分が知らないだけで、きっと世の中には溢れかえっているものなのだ。 シャラリと音が響き、試着室のカーテンが開かれた。そこには白いノースリーブのブラウスに、花柄のクリームイエローのスカート姿の茉莉が立っていた。麦わら帽子とカゴバッグが映えそうだ。 「貴嶋くん、どう?」 「まあ、悪くねえんじゃねえの。――似合ってる」 もごもごとそう口にすると、陽生は視線をそらした。真正面から茉莉を見ると、余計な言葉まで零れそうだった。 「どうしても、可愛いって言ってくれないんだね。……でも、貴嶋くんにしては上出来かな?」 くすっと笑うと彼女はいたずらっぽくウィンクをした。その様は光る夏の海のように眩しく見えた。 着替えてくる、と茉莉は再び試着室のカーテンの向こう側へと姿を消した。陽生はその場にしゃがみ込むと、茉莉に翻弄され続けている自分に対して深々と溜息をつく。――それは反則だろ、と思いながら。映画が終わると、十八時を回っていた。辺りが暗くなり始めていたこともあり、陽生は茉莉を送っていくことにした。――それが彼女のために、自分がぎりぎりしてやれることだったから。
「貴嶋くん、今日付き合ってくれてありがとね。楽しかった」 帰りの電車に揺られながら、茉莉は隣に立つ陽生へとそう言った。その楽しかった、は誰と比べてのものなのだろうと思うと、少し複雑だった。 ぶぶっとズボンのポケットの中でスマホが唸った。しかし、夕方の混雑した電車の中では、スマホを取り出すのは難しそうだった。 「今日、色々、わたしのわがままに付き合ってくれてありがとう。こんなに自分のしたいことが全部叶ったのは久しぶり」 「……そうか」 やけに晴々としたふうにそう口にする茉莉の横顔を見ながら、彼女は瑠音に普段どういうふうに接されているのだろうかと思った。もしかして、彼女は普段、自分の行きたいところにも行けず、したいこともできないようなデートしかできていないのではないだろうか。 (芦屋と佐倉の関係性が歪なものであったとしても、他人のおれが介入するべきことじゃない) けれど、体育館裏で出会ったときのようなことが日常的に起きているのであれば、友達として看過できない気がした。友達が傷ついて泣いているのを見過ごしていられるような人間にはなりたくない。 「――次は新南雲台、新南雲台でございます」 電車内のアナウンスが茉莉の最寄りの駅名を告げた。降りる準備をするべく、陽生は網棚の上からアパレルショップのロゴが入った紙袋を下ろしてやる。 新南雲台駅の一番線に速度を落とした電車が入線し、やがて動きを止めた。ドアが開くと電車内の人波が動き始める。陽生は茉莉の手首を掴むと、彼女とともに電車を降りた。 そのまま、二人はホームの階段を降り、改札を抜ける。改札を出ると、陽生は茉莉の手首を離した。――そのぬくもりが離れていくのを、何故か少し名残惜しく感じながら。 陽生はここ何日かですっかり覚えてしまった道を茉莉とともに歩いた。何となくまだ今日を終わらせてしまいたくなくて、普段よりもゆっくりとした速度で、茉莉の家までの道を辿る。 「ねえ、貴嶋くん。――また、わたしと出掛けてくれる?」 「わざわざおれなんかとだなんて、お前も物好きだな。――まあ、おれでいいなら」 すると、茉莉の顔がぱっと花が咲いたように華やいだ。それくらいでこの笑顔が見られるなら安いものかもしれない。 茉莉の家が視界に入り始めたとき、二人の背に冷たく鋭い声が投げかけられた。黒のメッシュTシャツに同じ色のスキニージーンズ。耳のピアスと同じように、腰にはシルバーのチェーンがじゃらじゃらと幾重にも吊るされている。――瑠音だった。 「おい、茉莉。俺の許可もなく、どこほっつき歩いてやがった? そんな冴えねえ芋男といちゃつきやがってこの腐れビッチが」 「佐倉、お前、仮にも自分の彼女をそんなふうに――」 茉莉を庇おうと陽生が口を挟もうとすると、ふんと瑠音は鼻を鳴らす。そして、彼はこう吐き捨てた。 「外野はすっこんでろよ。クソが」 「なっ……!」 陽生が絶句していると、茉莉が間に割って入った。彼女はアスファルトの上に膝をつくと、額を地面に押し付ける。 「瑠音、わたしが悪いの! 瑠音を不快にさせるようなことをして、ごめんなさい……! この人は――貴嶋くんは何も悪くないの! だから、責めるならわたし一人を責めて……!」 貴嶋? 、と瑠音は眉間の皺を深くする。しかし、陽生の存在に心当たりがなかったのか、彼は小さく肩をすくめる。学年一目立つ男に対して、陽生はその他大勢の地味な非モテ男子だ。無理もない。 「誰だか知んねーけど、次はねえと思えよ。茉莉は俺のもんだ」 「そんな、自分の彼女をモノみたいに……!」 「貴嶋くん! 貴嶋くんは黙ってて! これはわたしと瑠音の問題だから……」 憤慨しかけた陽生を茉莉は鋭く制した。その叫ぶような、懇願するような声に、それ以上陽生は言葉を重ねることはできなかった。――自分がこれ以上口を挟めば、茉莉の首を絞めるだけだとわかったから。 「貴嶋だっけ? さっさと消えてくんない? 目障りなんだけど。俺、このビッチの躾しねーといけねえから忙しいんだよね」 瑠音の言葉に陽生は彼を睨みつけた。「貴嶋くん! いいから行って! 帰って!」茉莉の悲鳴のような声に背を押され、陽生は渋々ながらも踵を返した。 茉莉の家のそばを離れると、陽生はスマホを出した。すると、ロック画面に通知が一件表示されていた。 ――新南雲台駅に着いた後、コンビニに寄れ。 それは未来の自分からのメッセージだった。きっと、それは瑠音から茉莉を守るために必要なことだった。 このメッセージに気づいていれば。陽生はきつく唇を噛む。 (未来のおれは、芦屋を佐倉から守ろうとしている……?) 初めて会ったときのこと。そして、今日のこと。点と点を繋ぎ合わせれば、ぼんやりとそんな像が浮かび上がってくる。 十年後の未来では彼女はどうなっているのだろうか。二十六歳の自分がここまで心を砕いているということは、彼女の未来はよいものではないのかもしれない。 友人として、茉莉があんな目にあっているのは見たくない。茉莉と瑠音の関係性は、端から見れば異常なものだ。――その異常性に茉莉が気づいていなさそうなのが問題だが。 (たぶん……おれがやるべきことは、芦屋を佐倉から引き離すことだ) 未来の自分の茉莉の関係性がどうなっているのかはわからなかったが、それだけは確信できた。茉莉のために何もできなかったことを情けなく思いながら、陽生は昼と夜のあわいに滲む空を睨んだ。窓から四月の柔らかな春の日差しが差し込んでいた。白いタキシードに身を包んだ陽生は、何かおかしなところはないかと、控え室の鏡を見ながらネクタイや髪をいじったりしていた。 今日の日を迎えるまでのことを思い起こすと、ふいに苦笑が漏れる。茉莉のドレスやブーケ選びに始まり、参列者の選定や席次の決定、式や披露宴で使う曲選びなどやることが盛りだくさんだったからだ。ここ数ヶ月の間、その準備に追われ、休日もろくに休めなかった。 (それもきっと……いつかいい思い出に変わるんだろうな。あのときは大変だったな、って笑って話せる日がきっと来る) 高校一年生の文化祭の日に付き合い始めてから今日まで、自分は茉莉とともに歩んできた。そして、この先の人生も彼女とともに歩んでいくつもりだ。――たとえ、いつか遠い未来に死が二人を別つことがあろうとも。 ふいに、こんこんと控え室の扉がノックされた。陽生はすっと居住まいを糺すと、どうぞと返した。 「茉莉様のお支度が整いました。――どうぞ、こちらへ」 はい、と答えた自分の声が歓喜に震えるのを陽生は感じた。陽生は式場のスタッフに連れられて、部屋を出る。一歩床を踏み締める度に、胸が期待で溢れていく。 「――茉莉様。陽生様をお連れいたしました」 アップスタイルにまとめた髪の上でふわふわと靡くヴェール。レースが何枚も重なり合い、繊細な刺繍が施されたドレスの裾はAライン状に大きく広がっている。それでいて、胸元はすっきりとまとめられ、清楚な美しさが引き立てられている。 式場の入り口の前にウエディングドレス姿の茉莉が父親と共に立っていた。吹き抜けの天井から差し込む日差しを浴びて佇む彼女は、まるで絵画の中から抜け出してきたかのようだった。その美しさに陽生の目は釘付けとなる。 「茉莉――綺麗だ」 そんな言葉が思わず口をついて出た。くす、と茉莉は嬉しそうに笑みを溢す。 「陽生くんもとっても素敵。よく似合ってるよ」 「……まあ、馬子にも衣装って言うからな」 「もう、照れちゃって。素直になれないところはいつになったら治るのかな」 「うるせえ。言ってろ」 陽生が緊張しのぎに軽口を叩いていると、茉莉のそばに立つ彼女の父親が彼の名を呼んだ。陽生は軽口をひっこめると、神妙な面持ちで茉莉の父親へと向き直る。 「――はい」 「陽生さん。娘を
「まったく実行委員長の奴……おれたちに後処理押し付けて美味しいところだけ持っていきやがって……」 十月の空は紺青に色を変え、校庭では後夜祭が始まっていた。実行委員長が表彰を行なう声が窓の外から聞こえてくる。優秀賞、最優秀賞、と該当のクラスが呼ばれる度に歓声が上がる。 陽生と茉莉は多目的室で文化祭の後処理に奔走していた。一般公開時間が終わってから、出し物の内容について後申請してきたクラスが山ほどあったからだ。 「貴嶋くん、SJ放送へのお礼メール終わったよ。そっちの申請書捌くの手伝おうか?」 「わりぃ、頼む……」 陽生は申請書の束を半分、茉莉へと渡した。彼女はブレザーの胸ポケットからシャーペンを抜くと、申請書に目を走らせ始める。 「ねえ、貴嶋くん。文化祭、楽しかったね」 「お前にとっては色々あっただろうけど……楽しかったんだったらよかったよ」 「……うん」 ドン、と音が響き、窓の外の空に光の花が咲いた。陽生は席を立つと、多目的室の電気を消す。 「……貴嶋くん? どうしたの、電気なんて消して」 「このほうが綺麗に見えるだろ、花火。まだやることたくさんあるけど、花火くらいは見ようぜ」 そうだね、と茉莉は微笑むと、シャーペンを置いた。そして、席を立つと彼女は窓辺へと歩いていく。 窓の外を眺める茉莉の隣に陽生は立つ。そして、なあ、と彼は緊張で掠れた声でこう言った。 「――芦屋。前にも言った通り、おれはお前のことが好きだ。もし、お前の気持ちが変わっていないなら、これからもおれと一緒にいてくれないか。――付き合おう、茉莉」 「貴嶋くん……」 茉莉は目を見開くと、陽生を見つめた。暗い教室の中で視線が絡まり合う。 「佐倉と別れたばっかりだっていうのもわかってる。おれは不器用で、こういうことも初めてだから、お前のことを傷つけない保証もない。だけど……お前が笑っていられるように、努力はしたい。こんなに危なっかしくて、放っておけなくて、可愛くて――大事な奴は他にはいねえから」 「わたしで……いいの?」 「お前だからいいんだよ――茉莉」 戸惑う茉莉に陽生は真正面からそう言った。茉莉の目が揺れる。やがて、彼女は心を決めたのか、小さく息を吐いた。 「わたしも、貴嶋くんの――陽生くんの、そばにいたい。一緒にいたい。これから未来(さき)を一緒
「なあ、芦屋。おれたちのシフトって、確かこのまま休憩だったよな。何か軽く見ていかねえか?」 瑠音たちのステージが終わり、取材に来ていたSJ放送のスタッフを見送った後、陽生はそう茉莉に声をかけた。いいよ、と茉莉は微笑んだ。 「どこのクラスがどんなことをしてるのかも確認したかったし。申請書の内容だけじゃわからないことも多いから」 「お前、本当に真面目だよな……」 休憩時間くらい肩の力を抜けばいいのに。そう思いながら、陽生は溜息をついた。束の間の間だけでも、お遊びめいたデートを茉莉と楽しみたかった。 校門から戻ってきた陽生たちは校庭の方へと足を向けた。文化祭実行委員会に提出された書類によれば、校庭では各クラスや部活動有志による飲食系の屋台が出ているはずだった。 「……」 校庭をぐるりと見回すと、陽生は頭が痛いと言わんばかりにこめかみを押さえた。なんだこれは。揃いも揃ってトンチキな屋台しかない。 暗雲わたあめだとか海賊が作った山賊焼なんていうのはまだ序の口だ。チョコきゅうりだとか桜姫が愛したタピオカコーンポタージュなどという、正気を疑いたくなるものもある。恋するフォーチュンたこやきに至っては、異物混入がないかどうか、文化祭実行委員として心配になってくる。 「芦屋……これ、どっから突っ込んだらいいと思う?」 「突っ込むも何も、文化祭実行委員なのに貴嶋くん知らなかったの? この学校の文化祭の出し物は、伝統的に変わり種が多いんだよ」 「変わり種って……とりあえず、チョコときゅうりって合うのか? しかも、ミルクとホワイトとビターから選べるとか無駄に凝ってるし……」 「きゅうり自体がそんなに主張が強い野菜じゃないから、意外と大丈夫なんじゃないかな?」 「だとしても……何でこんな企画通したんだよ……」 「だって、きゅうりは桜島市の特産品でしょ? 今回のコンセプト的に、地産地消ができるのはいいことだと思うけど」 きょとんとして茉莉は陽生の顔を見上げた。優等生め、と思わず陽生は毒づいた。 「じゃあ桜姫が愛したタピオカコーンポタージュっていうのはどうなんだよ? 桜姫の時代にタピオカもコーンポタージュもねえだろ」 「どうだろう? 桜姫は舶来品が好きだったし、城下町を潤すために南蛮貿易を先頭に立って旗振りしてたって記録が残っていたから、案外近いもの
どうしてこうなったんだ。茉莉が縫ってくれたピンク色の魔法少女の衣装に身を包んで、陽生は呆然と立ち尽くした。 彼女持ちの男子たちがこぞって女子を裏方仕事に回したせいで、文字通りの正しい意味での魔法”少女”は数人しかいない。魔法少女姿を他の男の目に晒すくらいならと、漢気を見せた女装姿の男子たちばかりが教室内を動き回っている。 頭頂部を彩る大きなリボン。胸元にも同じ色のリボンがあしらわれ、袖は大きく膨らんでいる。パニエを何枚重ねにもして、膨らませた衣装の裾にはフリルがこれでもかというくらいに縫い付けられている。そんな愛らしいスカートの裾の下から覗いているのはすね毛まみれの男子の足ばかりで、ここが地獄かと陽生はうんざりとしていた。 「まじかる☆さくや、お客様ご案内ー! あなたのハートをごりごりずどーん!」 他校の制服姿の女子二人組がやってくると、水色の魔法少女の衣装に身を包んだ朔也が画用紙で作ったステッキをハートの形に振ってみせた。客の女子二人は爆笑しながらスマホを取り出すと、ノリノリで決めポーズを取る朔也を撮影する。 「ごりごりずどーんって……」 確か自分たちのクラスは魔法少女カフェであって、間違っても工事現場とかの類ではなかったはずだ。台詞の前半はコンセプトを考えれば辛うじて理解できるが、後半の物騒な擬音は何なんだ。 この謎のセリフを考案したのはノリノリで接客している、クラスの出し物係でもある朔也だ。普段はセンスのいい彼が、どうして今回に限ってはそのセンスの良さを発揮できなかったのか謎すぎる。 担任の岸野が金と銀の魔法少女衣装で呼び込みをしているのが功を奏したのか、客足は途絶えることはない。ひっきりなしにまじかるなんとかという延べ口上が教室内に響き渡っている。――但し、声変わり後の男子高校生の低音ボイスで。 「魔法少女まじかる☆さくや、愛と希望とオレンジジュースをおっとどけー!」 朔也は裏方仕事をしている女子からオレンジジュースの乗ったトレイを受け取ると、そんなことを宣いながらくるりと回ってみせる。ふわりとスカートの裾が広がり、朔也はウィンクを決めた。 ふいに客と思しきこの学校の制服姿の女子が戸口に姿を現した。他の男子たちは接客をしているか、グロッキーな目でキラキラとしたモールのぶら下がる天井を見つめているかしている。自分が行く
西の空を染める残照を見つめながら、陽生は朔也とともに校舎の屋上から垂れ幕を吊るしていた。屋上のフェンスに紐を結わえながら、随分日が落ちるのも早くなったものだと陽生は感じていた。 明日はもう文化祭当日だ。どこからか金木犀が香り、頬を撫でる夕風は秋の冷涼さを帯び始めている。空の端に残る朱色には夏の烈しさはもう残されてはいない。 そのとき、ずるりと垂れ幕の逆の端が重力に従って、下がるのを感じた。陽生は朔也を振り返ると、文句を口にする。 「おい、朔也。ちゃんと支えとけよ。そっちだけ下がってるじゃねえか」 「ごめんって。ちょっと心羽ちゃんから通話きたから出るわ」 朔也は悪びれたふうもなくスマホを取り出すと、もしもしと通話に応じる。「さっくん、今すぐ来て!」離れた位置にいる陽生の耳にも届くほどの音量で切迫した心羽の声が朔也のスピーカーを劈いた。陽生と朔也は思わず顔を見合わせる。 「心羽ちゃん、どうしたんだ?」 朔也が聞くと、スピーカーの向こう側で心羽が早口に何かを説明する。わかった、と朔也は通話を切る。 「陽生、体育館行くぞ。心羽ちゃんが言うには、体育館ステージのリハでトラブルがあって、芦屋が佐倉に因縁つけられてるって」 なんだって、と陽生は顔色を変える。設置途中の垂れ幕を放り出すと、彼は踵を返した。 「朔也、早く来い!」 そう叫ぶと、陽生は錆びかけた屋上の扉を押し開ける。ズボンのポケットの中でスマホが震えた。おそらく、未来の自分が先ほどの心羽と同じ用件でメッセージを送ってきたに違いない。階段を足早に駆け降りていく彼の背中を追いかけながら、朔也はやれやれと肩をすくめた。 「陽生、お前は本当に芦屋のことになると人が変わるな……」 「お前だって、天沢に何かあったら放っておけないだろ?」 「そりゃまあ、当然そうだけどさ」 二人は一気に一階まで階段を駆け降りると、全力で廊下を走る。各クラスから漏れ出してくる話し声に混じるようにして、上履きの底が奏でる靴音が響いた。 渡り廊下を駆け抜けると、陽生は体育館の扉を開いた。「――芦屋!」茉莉の名前を叫びながら、陽生は体育館の中へと飛び込んでいく。その場にいた全員の視線が陽生へと向けられた。 「――さっくん! 貴嶋くん!」 心羽の声が響く。彼女はステージの上で、茉莉を庇うようにして瑠音と対
「茉莉ー、また糸からまっちゃったあ」 人気のない多目的室に心羽の情けない声が響いた。見せて、と茉莉は作業の手を止めると、心羽の手元を覗き込む。 多目的室にいるのは文化祭実行委員の陽生と茉莉、陽生たちのクラスの出し物係である朔也と心羽だけだった。朔也と心羽は新学期になってから陽生たちの手伝いとして多目的室に入り浸るようになっていたが、気がつけば半分自分たちのクラスの作業部屋と化していた。他の実行委員たちが陽生と茉莉に準備を押し付けて、ろくに顔を出さないからこそ成し得たことだった。 陽生はぺたぺたとハケでベニヤ板にペンキを塗っていく。朔也は陽生の作業を横から覗き込むと、うわっと声を上げた。 「何お前その超前衛的なカラーリング」 「洒落ていると言えよ」 「いやでも、その蛍光ピンクはマジでないわ。何で蛍光ピンク?」 「今年のテーマに沿って、桜姫のイメージで……」 陽生がそう答えると、朔也は芦屋ー! と叫んだ。 「芦屋、陽生ほったらかしにしたらやばいって! 看板すげーことになりかけてるから! 早く止めてこい!」 心羽の代わりに魔法少女の衣装を縫っていた茉莉は布と針をその場に置くと、陽生のそばへと戻る。あの形のまま、茉莉の口が固まる。 「……貴嶋くん、ちょっとこれ、真っ白に塗りつぶしてやり直そう?」 「芦屋、何でだ? 今年のテーマに沿ったカラーリングだと思ったんだけど……」 「なんていうか……ちょっと独特すぎるかな。文化祭には地域の人とかもたくさん来るんだから、もう少し万人受けする感じにしないと」 「……」 憮然として陽生は黙り込んだ。そんな彼をよそに、茉莉は塗り掛けのベニヤ板とペンキの缶をどけて、作業スペースを確保していく。ついでに窓を開けるとペンキの匂いが充満した部屋を彼女は換気する。 「看板の塗り直しはペンキが乾いてからじゃないとできないから、今日はきらりん作りしよう。校内のいろんなところに飾るから、量が必要なの」 そう言うと、茉莉は積まれた段ボールの中から、黄色の画用紙の束を取り出した。床に転がっていたハサミを拾い上げると、茉莉はそれを陽生に渡す。 「……なあ、芦屋」 教卓の中から出してきたハサミで画用紙を切る茉莉へと、陽生は話しかける。何、と彼女は作業の手を止めないまま応じた。 「お前、大変じゃねえの? 実行委