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第一章:偶然の紡ぐ絆はシトラスの香り④

last update Veröffentlichungsdatum: 17.08.2026 13:30:17

 陽生はパニーニを食べ切ると、紙ナプキンで口元の照り焼きソースを拭った。茉莉の言っていた通り、見た目に反して意外とボリュームがある。

 目の前に座る茉莉はグレープフルーツとキウイが沈んだティーソーダなるものを機嫌良さげに啜っていた。今日の茉莉はうっすらとメイクをしているようで、陽生は彼女を直視できないでいた。――ともすれば、丁寧にマスカラを塗られた長い睫毛も、瞼を彩るシャンパンベージュのアイシャドウも、まるで陽生自身のためであるかのように錯覚してしまいそうで。

 どうしたの、とストローから唇を離すと茉莉は小首を傾げてそう問うた。その仕草がいちいち可愛らしくて、恋愛耐性のない陽生は悶絶してしまいそうになる。――茉莉は他人の彼女だと理解しているのに。

「べ、別に……それよりさ、一個頼みがあんだけど。おれのってわけじゃねえんだけどさ……」

「なあに?」

「芦屋も朔也って知ってるだろ? 氷上朔也」

「貴嶋くんの友達だよね。よく一緒にいる。氷上くんがどうかしたの?」

「朔也が天沢を紹介してほしいってうるせえんだよ」

「心羽を氷上くんにねえ……」

 茉莉は逡巡した様子を見せる。一見軽そうに見える朔也に友人を紹介していいか迷っているのだろう。そう察した陽生は朔也のための援護射撃を試みる。そのくらいの借りはある。

「ちょっと軽そうに見えるけど、別に悪い奴じゃねえよ。十年来の付き合いのおれが保証する。何やかんやで友達思いだし、おれも何かとあいつには世話になってる」

 ふうん、と茉莉は長いスプーンでグラスの中からキウイを掬い出した。フレッシュな味わいのそれを思いとともに咀嚼すると、彼女はこう言った。

「いいよ。氷上くんが心羽のこと、泣かしたりしないなら」

――泣かしたりしないなら。

 その何気ない一言が陽生の胸にはやけに重く響いた。きっと、茉莉が瑠音に泣かされたのは体育館裏で出会ったあのときだけじゃない。だからこそ、出た言葉なのだろうと思った。――せめて、友人には幸せな恋愛をしてほしくて。

「……わかった。朔也にそう伝えとく」

 うん、と茉莉は頷く。彼女の目には羨望と諦観が入り混ざって浮かんでいた。その目を見ていられなくて、陽生は咄嗟に話題を逸らした。

「それより、それ飲んだらさっさと行くぞ。何か、買い物したいんだろ?」

「うん、夏物見たいなって思ってて。ゴールデンウィークだからセールもやってるしね」

「もう夏物か? まだ五月だぞ」

「そんなこと言うけど、今日真夏日だよ。さすがに春物じゃそろそろ暑いよ」

 茉莉がティーソーダの中のフルーツと格闘しているのを視界の端に捉えながら、陽生はズボンのポケットからスマホを取り出した。そして、メッセージアプリを立ち上げると、先ほどの茉莉の言葉を朔也へと送った。――自分は、茉莉が泣かないで済むために、何ができるのだろうと思いながら。

「ねえ、貴嶋くん。これとこれ、どっちがいいと思う?」

 向日葵を思わせる大判の花柄が施されたクリームイエローのスカート。細かな銀の刺繍が刻まれた白いレースのスカート。その二つを手にもった茉莉にそう問われ、陽生はうーんと唸った。この場合、なんて答えるのが正解なんだろうか。

「えーと、どっちもいいんじゃないか……?」

「もう、貴嶋くんってばさっきからそればっかりじゃない!」

 それに、と不服そうに茉莉は陽生を見る。

「わたし、まだ今日、一回も貴嶋くんに可愛いって言ってもらえてないんだよねえ。こういう感じ、貴嶋くんの好みじゃない?」

「いや、そういうんじゃねえけど……けど、おれがそういうのを言うのは何か違うんじゃねえか? そういうのは天沢か佐倉にでも言ってもらえよ」

「ええー、わたしは貴嶋くんに言ってもらいたいのに」

 そう言って頬を膨らませると、茉莉は試着室へと消えていった。茉莉が着替えるのを待っていると、女性の店員がにこやかに話しかけてきた。

「今日はデートですか? 可愛らしい彼女さんですね」

「いや、そういうんじゃ……あいつはただの友達ですし」

 友達。その言葉をしっかりと陽生は自分に言い聞かせる。こんなごっこ遊びのようなやりとりは、自分が知らないだけで、きっと世の中には溢れかえっているものなのだ。

 シャラリと音が響き、試着室のカーテンが開かれた。そこには白いノースリーブのブラウスに、花柄のクリームイエローのスカート姿の茉莉が立っていた。麦わら帽子とカゴバッグが映えそうだ。

「貴嶋くん、どう?」

「まあ、悪くねえんじゃねえの。――似合ってる」

 もごもごとそう口にすると、陽生は視線をそらした。真正面から茉莉を見ると、余計な言葉まで零れそうだった。

「どうしても、可愛いって言ってくれないんだね。……でも、貴嶋くんにしては上出来かな?」

 くすっと笑うと彼女はいたずらっぽくウィンクをした。その様は光る夏の海のように眩しく見えた。

 着替えてくる、と茉莉は再び試着室のカーテンの向こう側へと姿を消した。陽生はその場にしゃがみ込むと、茉莉に翻弄され続けている自分に対して深々と溜息をつく。――それは反則だろ、と思いながら。

 映画が終わると、十八時を回っていた。辺りが暗くなり始めていたこともあり、陽生は茉莉を送っていくことにした。――それが彼女のために、自分がぎりぎりしてやれることだったから。

「貴嶋くん、今日付き合ってくれてありがとね。楽しかった」

 帰りの電車に揺られながら、茉莉は隣に立つ陽生へとそう言った。その楽しかった、は誰と比べてのものなのだろうと思うと、少し複雑だった。

 ぶぶっとズボンのポケットの中でスマホが唸った。しかし、夕方の混雑した電車の中では、スマホを取り出すのは難しそうだった。

「今日、色々、わたしのわがままに付き合ってくれてありがとう。こんなに自分のしたいことが全部叶ったのは久しぶり」

「……そうか」

 やけに晴々としたふうにそう口にする茉莉の横顔を見ながら、彼女は瑠音に普段どういうふうに接されているのだろうかと思った。もしかして、彼女は普段、自分の行きたいところにも行けず、したいこともできないようなデートしかできていないのではないだろうか。

(芦屋と佐倉の関係性が歪なものであったとしても、他人のおれが介入するべきことじゃない)

 けれど、体育館裏で出会ったときのようなことが日常的に起きているのであれば、友達として看過できない気がした。友達が傷ついて泣いているのを見過ごしていられるような人間にはなりたくない。

「――次は新南雲台、新南雲台でございます」

 電車内のアナウンスが茉莉の最寄りの駅名を告げた。降りる準備をするべく、陽生は網棚の上からアパレルショップのロゴが入った紙袋を下ろしてやる。

 新南雲台駅の一番線に速度を落とした電車が入線し、やがて動きを止めた。ドアが開くと電車内の人波が動き始める。陽生は茉莉の手首を掴むと、彼女とともに電車を降りた。

 そのまま、二人はホームの階段を降り、改札を抜ける。改札を出ると、陽生は茉莉の手首を離した。――そのぬくもりが離れていくのを、何故か少し名残惜しく感じながら。

 陽生はここ何日かですっかり覚えてしまった道を茉莉とともに歩いた。何となくまだ今日を終わらせてしまいたくなくて、普段よりもゆっくりとした速度で、茉莉の家までの道を辿る。

「ねえ、貴嶋くん。――また、わたしと出掛けてくれる?」

「わざわざおれなんかとだなんて、お前も物好きだな。――まあ、おれでいいなら」

 すると、茉莉の顔がぱっと花が咲いたように華やいだ。それくらいでこの笑顔が見られるなら安いものかもしれない。

 茉莉の家が視界に入り始めたとき、二人の背に冷たく鋭い声が投げかけられた。黒のメッシュTシャツに同じ色のスキニージーンズ。耳のピアスと同じように、腰にはシルバーのチェーンがじゃらじゃらと幾重にも吊るされている。――瑠音だった。

「おい、茉莉。俺の許可もなく、どこほっつき歩いてやがった? そんな冴えねえ芋男といちゃつきやがってこの腐れビッチが」

「佐倉、お前、仮にも自分の彼女をそんなふうに――」

 茉莉を庇おうと陽生が口を挟もうとすると、ふんと瑠音は鼻を鳴らす。そして、彼はこう吐き捨てた。

「外野はすっこんでろよ。クソが」

「なっ……!」

 陽生が絶句していると、茉莉が間に割って入った。彼女はアスファルトの上に膝をつくと、額を地面に押し付ける。

「瑠音、わたしが悪いの! 瑠音を不快にさせるようなことをして、ごめんなさい……! この人は――貴嶋くんは何も悪くないの! だから、責めるならわたし一人を責めて……!」

 貴嶋? 、と瑠音は眉間の皺を深くする。しかし、陽生の存在に心当たりがなかったのか、彼は小さく肩をすくめる。学年一目立つ男に対して、陽生はその他大勢の地味な非モテ男子だ。無理もない。

「誰だか知んねーけど、次はねえと思えよ。茉莉は俺のもんだ」

「そんな、自分の彼女をモノみたいに……!」

「貴嶋くん! 貴嶋くんは黙ってて! これはわたしと瑠音の問題だから……」

 憤慨しかけた陽生を茉莉は鋭く制した。その叫ぶような、懇願するような声に、それ以上陽生は言葉を重ねることはできなかった。――自分がこれ以上口を挟めば、茉莉の首を絞めるだけだとわかったから。

「貴嶋だっけ? さっさと消えてくんない? 目障りなんだけど。俺、このビッチの躾しねーといけねえから忙しいんだよね」

 瑠音の言葉に陽生は彼を睨みつけた。「貴嶋くん! いいから行って! 帰って!」茉莉の悲鳴のような声に背を押され、陽生は渋々ながらも踵を返した。

 茉莉の家のそばを離れると、陽生はスマホを出した。すると、ロック画面に通知が一件表示されていた。

――新南雲台駅に着いた後、コンビニに寄れ。

 それは未来の自分からのメッセージだった。きっと、それは瑠音から茉莉を守るために必要なことだった。

 このメッセージに気づいていれば。陽生はきつく唇を噛む。

(未来のおれは、芦屋を佐倉から守ろうとしている……?)

 初めて会ったときのこと。そして、今日のこと。点と点を繋ぎ合わせれば、ぼんやりとそんな像が浮かび上がってくる。

 十年後の未来では彼女はどうなっているのだろうか。二十六歳の自分がここまで心を砕いているということは、彼女の未来はよいものではないのかもしれない。

 友人として、茉莉があんな目にあっているのは見たくない。茉莉と瑠音の関係性は、端から見れば異常なものだ。――その異常性に茉莉が気づいていなさそうなのが問題だが。

(たぶん……おれがやるべきことは、芦屋を佐倉から引き離すことだ)

 未来の自分の茉莉の関係性がどうなっているのかはわからなかったが、それだけは確信できた。茉莉のために何もできなかったことを情けなく思いながら、陽生は昼と夜のあわいに滲む空を睨んだ。

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