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第4話

Author: 一葉静秋
康英の顔には、甘やかすような微笑みが浮かんでいる。「千絵子、欲しいものがあれば遠慮なく選べ。僕が全部買ってあげる」

千絵子の頬はほんのり紅潮し、はにかみながら答えた。「康英、私はあなたのセンスを信じるわ。あなたが選んで」

「わかった」康英の視線が店内の棚を一巡し、すぐに一つの限定バッグに止まった。

「店員、あのバッグを取ってきてくれ。

千絵子、これは今年の新作だ。小ぶりで上品で、君の雰囲気にぴったりだ」

次に服を選ぶ。

「千絵子、この藍染め調のドレスは清楚で気品がある。君の肌をより美しく引き立てるだろう」

さらに靴。

「千絵子、この靴はデザインが美しく、ヒールも高すぎない。履き心地が良く、それでいて高級感もある」

傍らにいた店員たちが小声で驚き合っている。

「信じられない……男の人でここまで女性やファッションに詳しいなんて初めて見た」

「だからこそ、彼は完璧な男って言われるのよ。稼ぐだけじゃなく、センスも一流。選んだものはどれも人気の定番品だわ」

「私もあんな男性に出会いたい……羨ましすぎる」

……

角に隠れていた桜良は、呼吸さえも苦しくなった。

――そうか。彼はわからなかったわけではない。ただ、自分の前では「わかる気がなかった」だけだ。

康英が金を持つようになった頃、桜良は必死に彼に釣り合うため、服やバッグを買い揃えた。

「どう?似合う?」と嬉しそうに彼に見せても、彼は書類から目を上げなかった。

返ってくるのは決まって平静な一言――「女物なんてわからない。君が好きならそれでいい」

だが今、彼は流暢にファッションについて語っている。その姿は、鋭い刃のように桜良の胸を抉った。

やがて千絵子は試着を終え、姿を現した。康英が選んだドレスはまるで誂えたかのように彼女の魅力を引き立て、一層艶やかに見せている。

康英はうっとりとした眼差しで彼女を見つめ、溢れんばかりの愛情を注いだ。「千絵子、会社が上場するその日にこのドレスを着れば、君は必ず会場全体を魅了する。その時、僕から君へのサプライズを用意している」

――その言葉に、桜良の心臓は大きく揺さぶられた。体がふらつき、目の前にあった棚をガタンと倒してしまった。

ボディーガードが即座に反応し、桜良を引きずり出して彼女の頬を強く打ち据えた。

「誰の許可を得てここに潜んでいたんだ!覗きなんて、図々しい真似をするな!」

「君たちは何をしてる?貸切の命令はすでに出してあったはずだ。なぜまだ人が残っているのか!」康英の声は氷のように冷たく響いた。

ボディーガード隊長が頭を下げて言った。「申し訳ございません、社長。すぐに対処いたします」

桜良が康英を呼ぼうとした瞬間、口を塞がれ、そのまま力任せに外へ引きずり出された。

人気のない路地に放り出されると、ボディーガード隊長が怒声を浴びせた。

「ちっ、縁起でもない女め!俺たちの仕事を潰すつもりか!やれ、思い知らせてやれ!」

数人が一斉に取り囲み、拳や蹴りを浴びせかけた。

「やめて……!もし私に手を出したら、康英が黙ってないわ!」桜良は震えながら怯えている。

だが彼らは嘲笑した。「お前が?法岡社長の女?妄想も大概にしろ!」

次の瞬間、無数の拳と足が彼女の体を襲った。頭も足も、全身に容赦なく。彼女は悲鳴すら喉に詰まり、力なく消えていった。

意識を失う直前に見えたのは――

康英は千絵子を抱き寄せ、彼女の手に複数のショッピングバッグを提げさせながら、豪華なマイバッハに乗り込んだ。

……心臓をえぐられたような痛みが、突然、不思議なほどに消えていった。

彼女の思考は遠い昔へと飛んだ。まだ二人が寄り添っていた頃、康英は毎朝彼女を送り、夜には必ず迎えに来てくれた。

「そんなに毎日見張るみたいに……私、逃げたりしないよ?」と冗談を言うと、彼は照れ笑いを浮かべた。

「当たり前だ。こんなに可愛い嫁なんだから、絶対に守らなきゃ。君を一瞬たりとも危険に晒したりはしない」

若き日に愛し合った二人を乗せた自転車は、街角を曲がり、ゆっくりと消えていった――

……桜良が次に目を開けた時、そこは病院のベッドだ。康英は暗い表情で椅子に座り、彼女のそばで見守っている。

桜良が目を覚ますと、彼はわずかに顔色を変え、低い声で問いかけた。「桜良……誰にやられた?どうしてこんなひどい目に?言ってみろ。必ず僕が仇を討つ」

桜良が必死に唇を開き、答えようとしたその瞬間、康英のスマホが鳴り響いた。

「……ああ、わかった。すぐに行く」

短く返答すると、彼は立ち上がりざまに言い捨てた。「戻ったら話を聞く。待ってろ」

だが、彼は帰ってこなかった。二度と。

退院の日、桜良の心は驚くほど軽やかだ。

期待しなければ、失望もない。

彼女はもう、康英の愛を望んでいない。

家に戻ると、荷造りを始めた。

部屋のあちこちには、彼女が丁寧に収納した二人の思い出が散りばめられている。

リビングの壁には、彼がこの数年の間に贈ってくれた花を乾燥させて作ったドライフラワー。テーブルの上には、昔二人で手作りしたペアカップ。ソファの上のクッションは、旅行先で一緒に買った記念品。さらに、ベッドの上のテディベアは、彼が初任給で贈ってくれた最初の誕生日プレゼント。

だが今となっては、それら全てが康英にとって「惨めな過去の象徴」に過ぎない。桜良の胸は綿で詰められたかのように重苦しく、息が詰まりそうだ。

広大なこの別荘は、まるで豪華な檻。そこに閉じ込められていたのは、ただ一人、愚かにも一途に愛し続けた自分自身だった。

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