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第1308話

Author: 夏目八月
殿の外に待機していた吉田内侍は、全身から冷や汗が滲み出るのを感じていた。足は震え、さくらが出てきた時でさえ、心臓が宙吊りになったままのようだった。

陛下が烈火のごとく怒り出さなかったことも、内侍の予想外だった。

額の汗を拭いながら、深々と見送りの礼をする。

「ご安心を」とさくらは、二人にしか聞こえない声で囁いた。

吉田内侍は胸が熱くなり、「どうぞお気をつけて」と返した。

さくらが去った後、殿に戻った内侍は、そっと陛下の様子を窺った。意外にも、喜びの色を湛えた表情に、内心驚きを隠せなかった。

今朝、大皇子を慈安殿へ送る際、北冥親王が邪馬台へ向かったとしても、それは何か別の企みがあるに違いないと仰っていたのに。どうしてこんなにも機嫌が良くなられたのだろう。

まさに聖意は、はかり知れぬものだ。

清和天皇は内侍を一瞥し、「食事を運べ」と命じた。

親房甲虎の逃亡の報が届いて以来、一口も召し上がっていなかった。

内侍は膳を運ばせ、新しい茶を差し出した。

清和天皇は口内の渇きと苦さを覚え、一口啜ってようやく気分が和らいだ。

「わからぬか?」天皇の声音は軽やかで、確かに心持ちが好転していた。

陛下の笑みに釣られ、内侍も微笑んで答えた。「私めが理解する必要はございません。陛下がお喜びなら、それだけで」

天皇は口元を緩めた。「確かに嬉しいのだ。上原が今日語ったことが、もし玄武の本心であれば、それは喜ばしい。逆に、玄武が妻に何も打ち明けていないのであれば、二人は心を一つにしていないということ。つまり、さくらは朕の役に立つということだ」

「さすがでございます」内侍は笑みを浮かべながら言った。

「玄武との仲が良かった頃を思い出すと、実に心が和むものだ」

清和天皇は拳を唇に当て、二、三度咳き込んだ。

お茶を一口すすろうとした矢先、不意に喉が痒くなり、飲み込む間もなく激しい咳が込み上げてきた。そのまま吐き気を催し、胃の中のものを吐き出してしまう。

近頃ほとんど口にしていなかったため、吐き出されたのは黄色い胆汁のような液体で、そこに薄く血が混じっていた。

「た、大変でございます!」吉田内侍は顔色を変え、すぐさま御典医を呼びに走らせた。

駆けつけた小林御典医は「肝火と肺火が旺盛になり過ぎ、それが咳を引き起こし、喉を傷めたためでございます」と診断を下した。

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