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第862話

Author: 夏目八月
北條守は思い切った措置として、かなりの数の下働きを手放すことを決めた。

将軍家はもはや持ちこたえられる状況ではなかった。兄は官位を失い、次男家は分家し、自身の復職もいつになるか分からない。収入が途絶えた今、支出を抑えるしかなかった。

通常、貴族や勲功家の邸では下働きを手放すようなことはしない。屋敷内には人に知られたくない様々な秘事があり、下働きが良家に仕え直すならまだしも、そうでない場合は恨みを抱いて、内々の醜聞を暴露しかねないからだ。

そのため、名家ではこのような行為を最も忌み嫌った。

だが今や、将軍家に隠し立てすることなど残っているのだろうか。北條守はもはや気にかけなかった。最も酷い呪詛の言葉が日々民衆の口の端に上っている今、何を恐れることがあろう。

家政を任されて初めて、米の貴さを知る。北條守は今、美奈子の立場が痛いほど分かった。まるで自分が美奈子になったかのようだった。

今の彼の親房夕美に対する感情は複雑を極めていた。子を失った彼女を心配する一方で、美奈子との諍いに苛立ちも覚えていた。

流産の件について問いただしたい気持ちはあったが、このような時期に傷口を広げては彼女を更に苦しめることになると懸念し、問うのを控えた。

老夫人の容態は日に日に悪化し、医師の診立てでは年を越すことは難しく、もはや時間の問題だという。

北條守は北條涼子に使いを立て、母の見舞いを促したが、彼女は戻ってこなかった。美奈子が亡くなった時も同様だった。縁起でもないと言って、今や将軍家が非難の的となっているこの混乱に巻き込まれるのを避けたのだ。

北條老夫人の傍らには今や孫橋ばあや以外誰もおらず、まさに四面楚歌の有様だった。死と絶望は金箍のごとく、彼女の心を死への恐怖に縛り付けていた。

冬至の日、一家団欒の食事もままならず、北條老夫人はもはや病床から起き上がることもできなかった。老夫人は孫橋ばあやの手を握りしめ、涙ながらに言った。「北冥親王邸へ行って、上原さくらを呼んでおくれ。私から話があるのだと」

孫橋ばあやはため息をつきながら答えた。「老夫人様、王妃様はお見えにはならないかと......」

「私が間違っていたと伝えておくれ......」老夫人は虚ろな目で、痩せこけて窪んだ顔はより一層酷薄に見えた。「私が、間違っていたと......」

床際に座った孫橋ばあやは涙を
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