陰暦十二月二十六日の夜、予言通り老夫人は幻覚を見始めた。むしろ体調が良くなったかのように見え、起き上がって空中を指差しながら罵った。「出て行きなさい!出ていけ!役立たずめ、みんな何の役にも立たない!」「美奈子、よくも!私の首を絞めるなんて、この不孝者め......」老夫人は自分の首を両手で掴み、必死に何かと格闘しているかのように見えた。顔は紫色に変わっていった。医者が事前に状態を説明していたため、誰も取り憑かれたとは思わなかった。北條守は母の手を引き離そうとしながら、大声で言った。「お母様、誰もいませんよ。美奈子さんも来てはいません」「あの女が......私に復讐しに来たの。私を恨んでいるわ」老夫人は北條守の袖を掴み、凶暴な表情が恐怖に変わった。「あの女に言ってちょうだい。私はあの女を死なせるつもりじゃなかったの。ただ躾けたかっただけ、懲らしめたかっただけなのよ。あっ......来ないで!美奈子、よくも!」老夫人は両手を振り回し、息子の頬を何度も叩いた。北條守はじっと耐え、母の手を止めようとはしなかった。半刻ほどの暴れ様が、ようやく収まった。だが、すでに吐く息の方が、吸う息より多くなっていた。時折意識が戻ると、周りを取り巻く人々を見渡すのだが、そこに北條正樹や孫たちの姿は見えなかった。かすかに唇を動かし、「正樹......」と呼んだ。北條守は寝台の傍らで「お母様、お水はいかがですか?」と声をかけた。「正樹......」長男は、自分の長男はどこに......「兄上は少し出かけております。すぐに戻って参ります」北條守は慰めるように言った。北條森は涙を拭いながら、怒りを露わにした。「兄上は薄情者です。母上があれほど可愛がってくださったのに、最期の時にも来ようとしないなんて」老夫人の目が大きく見開かれた。最期?私は死ぬの?そうか、死ぬのね。長男も来ず、娘も一度も見舞いに来ず、分家からも誰一人来ない。こんなにも憎まれていたというの?諦めきれない、どうしても諦めきれない。将軍家のために心血を注いできたのに。かつての栄光を取り戻そうとしてきたのに。すべては子供たちのためだったのに。老夫人は喉が詰まったように、呼吸がますます困難になっていった。寒い、とても寒い。全身の震えが止まらない。どうしても諦められなかった。本
紫乃は北條守に同情する気になれなかった。「紅羽の話では、北條涼子は葬儀にも戻らず、代わりに葉月琴音があの毒婦のために喪服を着て出てきたそうよ」暗殺未遂以来、琴音は滅多に安寧館を出ることはなく、節季でさえ外出しなかった。老夫人の危篤時にも様子を見に来なかったのに、今になって喪服姿を見せるとは、不自然ではないか。もし誰かが彼女を再び殺そうとするなら、葬儀の混乱に紛れ込むのは難しくないはずだ。とはいえ、琴音にも分別はあるだろう。謀反の捜査が終わっていない今、誰が軽挙妄動に出るだろうか。「葬儀の段取りは誰が?」さくらが尋ねた。親房夕美は早産後、まだ体調が戻っていない。琴音も表立って采配を振るうはずがない。「次男家の第二老夫人よ」と紫乃が答えた。「どれだけ不仲でも、義理の姉妹なのだから。それに正式な分家もしていない。やるべきことはやらなければならないでしょう」「第二老夫人は情に厚い方ね」さくらが言った。「珍しい方だわ」皆が黙って頷いた。善悪をはっきりとさせる第二老夫人の性格に、心から敬服していた。第二老夫人を敬う一方で、心の中では北條老夫人を罵っていた。ただ、玄武だけは罵らなかった。確かに北條老夫人への怒りはあった。しかし、彼女の薄情な性格のおかげで、さくらを妻に迎えることができた。彼女を恨むのは、たださくらを虐げたからに過ぎない。玄武の怪我はほぼ完治していたが、まだ歩き方がやや不自然だった。額の卵大の腫れは今や薄い赤黒い痣となり、一見すると印堂が真っ黒になったかのように見えた。有田先生はその印堂の具合があまりにも縁起が悪いと言い、尾張拓磨に玄武を押さえつけさせ、白粉を塗って隠すよう命じたほどだ。そのため玄武は、よほどのことがない限り外出しないようにしていた。幸い、恵子皇太妃は皇太后に付き添うため宮中に入っており、この印堂を見て延々と小言を言われる心配はなかった。寒さが厳しくなり、皇太后は安寿殿の暖房室に移っていた。妃たちは一日と十五日に参内して安否を伺い、天皇は一日おきに訪れ、どれほど政務が忙しくとも欠かさなかった。謀反事件の最中でさえ、時間を作っては様子を見に来ていた。恵子皇太妃は宮中で数日を過ごし、天皇とも何度か顔を合わせていた。北條老夫人の死を知った太后は、こう言った。「よい潮時での死だこ
年が明けても、さして面白みもない。宮中の新年宴会には、年に一度顔を合わせる皇族たちが配偶者を伴って参列する。男たちは一団となり、女たちもまた一団となる。さくらは諸王妃や姫君たちと共に、皇后や宮妃に従って太后に拝謁した。皇太妃たちも一緒で、当然、恵子皇太妃もその中にいた。燕良親王妃の沢村氏と金森側妃は榮乃皇太妃の御殿で老女の相手をしており、こちらには来ていなかった。皆が取り留めもない会話を交わし、おべっかを使い合い、美を競い、装飾品を自慢し合う。天皇の妃たちも揃って参内していたが、さくらには目移りするばかりで、皇后、定子妃、敬妃、徳妃以外は見分けがつかなかった。贵嬪や嬪といった位の者たちは、一人として顔も覚えていない。さらに位の低い者たちは、終始うつむいたまま、時折取り繕った笑みを浮かべたり、恐る恐る顔を上げたりするだけだった。皇后の息子である嫡長子は、幼いながらも落ち着いた様子で、清和天皇そっくりの歩き方をしていた。両手を背に回し、顎を少し上げ、背筋をピンと伸ばして歩く姿は、その小さな背丈さえなければ、まるで大人のようだった。定子妃には娘と息子がいたが、膝元で育てている息子は実子ではなかった。乳母が抱いて太后に拝謁させた後、すぐに連れ戻された。姫君の方は愛らしい子で、髪を二つに結い上げている。三、四歳とまだ物心もつかない年齢だが、しつけが行き届いており、騒ぎ立てることもない。敬妃にも娘がいて、第一皇女として、定子妃の娘より三ヶ月年長だった。德妃には二歳になる第二皇子がいた。清和天皇には子が少なく、それは政務に励むあまり、後宮に足を運ぶ機会が少ないせいかもしれなかった。第二皇子は愛くるしい肥え肥えした体つきで、よちよちと歩く姿に、太后は目を細めた。しばらく抱きしめて可愛がった後、さくらに言った。「あなたも抱いてごらんなさい。来年はきっと大きな男の子が授かるわ」さくらはその愛らしい幼子を見つめ、微笑みながら手を差し伸べた。「第二皇子様、伯母上が抱かせていただいてもよろしいでしょうか?」第二皇子は少し躊躇い、德妃の方を振り返った。「いいのよ」德妃は笑顔で促した。「伯母上は可愛がってくださるわ」やっと第二皇子が両手を広げ、さくらが抱き上げようとした時、一瞥した太后の表情が気になった。笑みは浮かべているも
続いて夜宴となり、燕良親王も正妃、側妃を伴って参上した。太后と帝后に拝謁した後、親族たちとも挨拶を交わした。淡嶋親王家からは淡嶋親王妃だけが参った。淡嶋親王は十二月に風邪を引き、まだ回復していないとのこと。太后は気遣いの言葉をかけ、滋養強壮の貴重な薬材を賜った。年越しの宴は豪勢を極めた。玄武とさくらは並んで座り、さくらの好物を玄武が取り分け、さくらの苦手なものは玄武が引き受けた。その様子を目にした皇后が、ふと微笑んだ。「親王様と王妃様は、本当に仲睦まじいこと」榎井親王と榎井親王妃が顔を上げた。自分たちのことかと思ったが、皇后の視線が玄武とさくらに向けられているのに気付き、彼らの方を見やった。清和天皇は軽く一瞥しただけで何も言わなかったが、酒杯を上げる際、皇后に冷ややかな視線を向けた。さくらは皇后の些細な企みを感じ取り、言葉を添えた。「陛下と皇后様の深い御愛情こそ、私どもの手本でございます」斎藤皇后は微笑むだけで、言葉を返さなかった。胸の内の苦しみは自分だけのものだった。帝后の深い愛情など、人目のためだけのもの。天皇の本当の寵愛を受けているのは定子妃なのだ。天皇が定子妃への愛情の半分でも自分に向けてくれていれば、ここまで息子を追い込む必要もなかったのに。嫡長子による皇位継承に異論などないはずだった。しかし、最も寵愛される定子妃がいつ息子を産んでもおかしくない。実子を持てば、我が子のために動くのは当然ではないか。そんな思いを巡らせている最中、宮人が薬椀を持って定子妃の元へ進み出た。「定子妃様、安胎のお薬の時間でございます」と小声で告げる。皇后の頭の中が轟いた。鋭い光が一瞬、瞳に宿ったが、すぐさま愛らしい笑みを浮かべて言った。「定子妃がお子を?こんな慶事を、なぜ私に知らせてくださらなかったの?」牡丹のように艶やかな定子妃の姿には、確かに妊婦特有の魅力が漂っていた。彼女は軽く目を上げ、微笑んで答えた。「初めは胎の安定が心配で、皇后様にお知らせできませんでした。どうかお許しください」「慶事というものに、許すも許さぬもありませんわ」皇后は笑みを浮かべた。「皇嗣をお宿しになったのですから、むしろ褒美を差し上げねばなりませんね」「恐れ入ります」定子妃は座ったまま、さりげなく応じた。皇后と定子妃の間の微妙な空気は、女性に
さくらでさえ湛輝親王を見やった。今になって孝行者だと分かったということは、つまり、以前はそれほど孝行とは思えなかったということか。少なくとも、そういう印象だったのだろう。ところが、皇族たちは首を傾げるばかりだった。燕良親王はずっと孝行な人物として知られていたはずだ。毎年、母妃の安否を気遣う上奏文を提出し、帰京を願い出ていた。時に許可され、時に却下されながらも、先帝の時代からそうしてきた。その孝心は誰もが感動するものではなかったか。しかし、今日はめでたい席。その言葉の真意を深く考える者は少なかった。ただ、清和天皇は意味深な眼差しで燕良親王を見つめた。燕良親王は一瞬顔色を変えたものの、すぐに平静を装って微笑んだ。「先祖は仁と孝を以て国を治められました。この甥が不孝であってよいはずがございません」玄武は湛輝親王を一瞥したが、何も言わず、さくらとの食事を続けた。宮宴の後、女たちは芝居見物に向かった。年越しの劇団は休むことなく、正月八日の朝廷開きまで公演を続けるのだ。芝居を見ながらの年越しは悪くない。少なくとも、時間が早く過ぎていく。定子妃は身重のため、既に自室に戻っていた。太后は皆と共に夜を過ごしていた。さくらは公務で多忙なため、滅多に参内できない。この貴重な機会に、自然と彼女の手を取って話に花を咲かせたいと思った。淑徳貴太妃も傍らに座り、「婚儀から随分経ちますのに、まだ懐勢なさらないのですか?」と尋ねた。さくらはこの手の質問への対応を最も煩わしく感じていた。子を持つか持たぬか、いつ持つかは、玄武と二人で決めることだった。さくらが答える前に、太后が口を開いた。「今やっと玄甲軍の大将となったところよ。何を急ぐことがありましょう。男が出世と仕途を重んじるように、女もそうあるべきではありませんか」さくらは常々、太后の考えの斬新さに感心していた。太后は女性の自己研鑽を強く奨励していた。以前、葉月琴音が軍に身を投じ、匪賊討伐で功を立てた時も、太后は喜び、琴音を高く評価し、天下の女性の模範と称賛したほどだ。今の「女も仕途を重んじるべき」という言葉に、さくらは深い感銘を受けた。もし他の誰かがこう言えば、玄武の子孫を望まないのだろうと疑われただろう。しかし、これは太后の言葉。さくらには、その真摯な信念が伝わってきた。芝
宮を辞して馬車に乗ると、さくらは早速玄武にその件について話を切り出した。玄武は有田先生の報告を思い出した。謀反事件以降、淡嶋親王邸は終始穏やかで、淡嶋親王自身もめったに外出しないという。有田先生は常に燕良親王邸と淡嶋親王邸を見張らせていた。淡嶋親王は二、三度ほど外出したが、いずれも酒宴に出かけただけで、その後は足が途絶えていた。「淡嶋親王は病気ではなく、都を離れた可能性もある」玄武は眉をひそめた。「我々の部下が常に監視してはいるものの、これだけ長く続けていれば油断も生じる。淡嶋親王が変装でもすれば、見破れないかもしれない」「この時期に都を離れるとすれば、どこへ?」さくらが尋ねた。「屋敷に戻ってから話そう」玄武は現在の情勢を頭の中で整理しながら、ある推測を巡らせていた。今夜の親王邸も賑やかで、太政大臣家の人々も集まって年越しの宴を共にしていた。しかし沖田家は潤を戻さなかった。宮中の宴会に参加すると知っているので、親王邸より沖田家で過ごさせた方が良いだろうとのことだった。親王邸に戻ると、そこでも賑やかな宴が催された。屋敷中の者たちが年玉をもらいに来て、さくらは気前よく配り、皆が喜んで満足げだった。玄武は有田先生と深水青葉と共に書斎へ入った。さくらは同行せず、彼らに討議を任せた。親王家の出し物は宮中よりずっと面白かった。棒太郎が拳法と剑法を披露し、二十両の賞金を手にした。道枝執事も興を添えようと歌を披露したが、皆は笑いながら耳を押さえ、「ひどい歌声だ!耳の損害賠償を要求する」と冗談を飛ばした。道枝執事にはこの癖があった。下手だと言われても気にせず、自分が良いと思えば歌うのだ。賠償金を払わされても構わないという勢いだった。一曲のつもりが、皆にはやし立てられ、勢い込んで三曲も歌った。音程も外れ、声も割れ、紫乃とさくらは涙が出るほど笑った。使用人たちもそれぞれの芸を披露した。投壺、手裏剣投げ、木登り、切り絵、さらには掃除係の者までが早業の掃除を見せた。紫乃は頬を押さえながら、「もう無理、これ以上笑えない。ご褒美目当てにここまでやるなんて」棒太郎は胸を張って、「もう一つ難しい技を見せてもいいか?」難しい技は十両、普通の出し物は一両の褒美だった。「どんな難しい技?」紫乃は笑い声が掠れ気味だった。棒太郎は目を輝か
書斎では、三人の男たちが一刻以上も話し合いを続けていた。もし本当に淡嶋親王が都にいないとすれば、行き先として三つの可能性があった。一つ目は関ヶ原。彼らはそこに回し者を潜入させているはずだ。二つ目は牟婁郡。私兵がそこに駐屯している。三つ目は都の外れにある駐屯地の衛所だ。おそらく淡嶋親王はこの数年、そこにも密かに手を回していたはずだった。どこに向かったにせよ、それは彼らが行動を起こすということを意味していた。しかし、これまで淡嶋親王は最も冷静さを保てる人物だと考えていた。なぜ今になって最初に動きを見せたのか。有田先生が言った。「恐らく背水の陣を敷いたのでしょう。結局、影森茨子はまだ生きている。怯えて暮らすくらいなら、一か八かに賭けてみようということかもしれません」「単なる捨て身の策とは思えん」玄武は首を振った。「これほど長く謀ってきた者たちだ。邪馬台の戦いの際が最善の好機だったはずだが、その時も兵を動かさなかった。今更、正面から謀反を起こすはずもない。必ず正当な理由が必要なはずだ。むしろ今は、関ヶ原の佐藤大将の方が心配だ」「平安京!」有田先生の目が険しくなった。関ヶ原で最大の不確定要素は平安京だった。恐らく淡嶋親王も平安京の皇帝が重篤だという情報を掴んでいるのだろう。もし本当に平安京を目指しているのなら、そこにも既に手駒を配置していたはずだ。しかも、その人物は新たな皇太子の側近である可能性が高い。関ヶ原、鹿背田城、平安京――これらが組み合わされば、いずれ爆発する火薬のようなものだ。予め対策は講じていたものの、実際に事が起これば、うまく対処できるかどうか。なぜなら、どう考えても変えられない事実がある。関ヶ原の総兵元帅は佐藤大将だということだ。これこそが、皆が最も懸念している点だった。さくらには残された親族が少ない。外祖父の一族は何としても守らねばならない。深水青葉が言った。「まずは穏やかに新年を過ごそう。水無月師妹に手紙を出して、あちらの様子に注意を払うよう伝えておく。動きがあれば、すぐに報告が来るはずだ」「ありがとう、大師兄」玄武は答えた。この年は、やはりしっかりと祝わねばならない。この静けさも、そう長くは続かないのだから。夜更けの丑の刻まで過ごした後、寝台に入ってからも、脚の傷が治った玄武は受けの
三姫子の今回の来訪目的は明確だった。刺繍工房と女学校の件について探りを入れるためで、もし北冥親王家で本当に女学校を創設するのであれば、自分の娘のために入学枠を確保したいという魂胆だった。本来なら娘を同伴すべきところだったが、そうすれば目的があからさまになりすぎる。さくらに娘の入学を強要するような印象を与えかねず、却って良くない。そこで娘は連れてこず、まずは入学条件などを聞き出して、準備に取り掛かろうという算段だった。「どうぞ御遠慮なく。奥の間でゆっくりとお話いたしましょう」さくらは微笑みながら三姫子たちを案内し、まだ眠そうな顔をしている玄武を、あくびを連発する清家本宗と共に残していった。「あのー」清家本宗は口を押さえながら、またしてもあくびをかみ殺すように言った。「親王様のところで、横になりながら話せる場所とかございませんかな?」玄武は目を丸くして「......はぁ?」という表情を浮かべた。この年でまだ夜更かしとは。ふしだらな爺めが――伊織屋の立ち上げに紫乃が重要な役割を果たしていることを知っていた清家夫人は、「沢村お嬢様のお姿が見えませんが、伊織屋のことでご相談したいことがございまして」と尋ねた。さくらは紫乃のことを気遣い、もう少し休ませてあげたいと思ったものの、清家夫人から直接問われた以上、使いを立てて起こしてもらうしかなかった。清家夫人には周到な計画があった。伊織屋は工房として機能するものの、場所が辺鄙なため、手工芸品を販売するには別に店舗が必要だという。彼女は店舗を一軒提供し、そこで作品を専門的に販売する意向を示した。売り上げは全て刺繍工房のものとし、制作者それぞれに応じた配分を行うという提案だった。「店の賃料は頂戴いたしません。これも善行の一助とさせていただきたく」清家夫人は続けた。「販売員の丁稚の給金も、収益が出るまでは私が負担いたしましょう。収益が出始めましたら、その中から支払うという形では、いかがでございましょうか」紫乃は少し考えてから口を開いた。「とりあえずはそのような形で進めさせていただければと存じます。まだ刺繍工房に何人の方が集まるかも定かではございませんので。もし順調に運営できるようでしたら、彼女たちの中から話の上手な方を選んで販売を任せるのも一案かと。すでに自活の道を選ばれた方々なのですから、人前に出
さくらも忠告を欠かさなかった。「気を付けて。慎重に行動してね。道中、きれいな花を見かけても、見るだけにして。決して持ち帰らないでよ?」そのような焼きもちやきな響きに、玄武は心を躍らせ、馬に跨りながら満面の笑みを浮かべた。「見ることすらしないさ」「はて?」棒太郎は首を傾げた。「真冬に花なんてありますかね?仮にあったところで、大切に育てられてる花でしょう。摘んで帰れるわけないじゃないですか。見るぐらいいいと思うんですが……」その言葉に、有田先生も深水も思わず吹き出した。「かわいそうに」紫乃は溜め息交じりに言った。「黙っときなさい。まったく話が噛み合ってないわ。まるで『お茶』って言ってるのに『お車』って答えてるようなもんよ」棒太郎は顎に手を当てて考え込んだまま、尾張が「出発するぞ」と声をかけても、まだ意味を理解していないようだった。恵子皇太妃は息子が馬に跨るのを見るなり屋敷へ戻っていった。門前は寒風が吹き荒び、体が震える。馬上の姿を見送るだけで十分、これから何度も振り返る息子の視線は自分ではなく別の人に向けられるのだから、ここで風に当たる必要もない。有田先生と梅田ばあやも珠たちを連れて戻り、門前にはさくらと紫乃だけが残って、ゆっくりと馬を進める一行を見送っていた。紫乃はさくらの肩を軽く突いた。「寂しい?」「ちょっとね」さくらは一行の姿が見えなくなってようやく視線を戻し、空虚感が胸に広がるのを感じた。結婚後も互いに忙しい日々だったが、夜は共に過ごし、昼も顔を合わせる時間はあった。これからの二ヶ月は、まったく会えない。「二ヶ月か……長いわね」さくらは深いため息をついた。「そんなに長いかしら?二年じゃあるまいし」紫乃は首を傾げた。さくらの肩を抱きながら中へ戻りながら、「むしろ自由を楽しむべきよ。男がいない今こそ、したいことができるじゃない。私が美味しいものに連れていってあげる」紫乃は続けた。「五郎さんから聞いたんだけど、都にすごく良い店があるんですって。ずっと行ってみたかったの。玄武様がいらっしゃる時は誘いづらかったけど、二ヶ月も戻って来ないなら、私たちで見物に行きましょう」「どんなお店なの?夫がいる時に行けないなんて。都景楼より美味しいの?」さくらは手を振った。「でも、今は食欲もないわ」「違うわ!」紫乃は艶や
哉年は執務室を出る時、背筋を伸ばし、目は力強く輝いていた。これまでの憔悴した面影は消え、生気に満ちた表情に変わっていた。最後に玄武が告げた言葉が、彼の心を奮い立たせていた。「今中から聞いているが、司獄としての務めぶりは立派だ。一年ほどの経験を積めば、昇進を考えてもいい」その時、思わず目に熱いものが込み上げてきた。母上以外に、彼の能力を認めてくれた者はいなかった。誰一人、心からの褒め言葉をくれなかった。母上は確かに褒めてくれた。だが、それは慰めの言葉に過ぎなかった。文武ともに不器用な幼い自分に「よくやっているわ。大きくなったら素晴らしい人になれるわ」と。それは励ましであって、認めではなかった。今、初めて真の認知を得た。その言葉に建前が含まれているかどうかなど、考えたくもなかった。この瞬間の喜びがあまりにも尊く、深く追究する気にもなれなかった。この道を歩み続けられるのなら、全てを懸けて努力しよう。幼い頃から父上の愛情を得られなかった。女中の子として嫡母の下で育てられても、父上は卑しい血筋を軽蔑し続けた。屋敷の老女たちの噂で聞いた。父上は実母に避妊薬を飲ませたが、それでも身籠ってしまい、さらに堕胎薬まで用意させたという。母上が必死で阻止し、実母を別荘に匿って密かに養わせた。そして出産後、あえて公然と抱き戻ってきたのだと。面子を重んじる父上のことだ。公然と連れ戻されては認めないわけにはいかない。認知した以上、評判のために存命も保証された。それが母上と父上の確執の始まりだった。老女たちは母上を愚かだと噂した。そうだろう。命がけで守ったのは、結局取るに足らない男だったのだから。過去を振り返りながら、哉年の足取りは軽やかになっていった。このような父親を裏切ることに、負い目も後ろめたさも感じる必要はないのだと。後悔があるとすれば、青木寺が青木庵に送られた時、付き添って看病しなかったことだけだ。憎むべきは、父と呼ばれる男だ。息子である自分への仕打ちだけでなく、母上の死期が近いというのに離縁状まで突きつけたあの残虐さ。胸の重荷は完全には消えないものの、以前よりは随分と軽くなっていた。北冥親王邸の議事堂の灯火は、その夜、夜明けまで消えることはなかった。哉年の証言によれば、飛騨だけではない。しかも、江良県、美川県、羅浮
哉年は長い間沈黙を保っていた。袖の中で両手を強く握りしめ、寒い日だというのに、手のひらは汗ばんでいた。選択を迫られているのだと、彼にはわかっていた。刑部の司獄となってから、幾度となく考えを巡らせた。しかし、どうすべきか答えは出なかった。そんな彼の様子を見た今中は「何も考えずに目の前の仕事に専念しなさい」と諭してくれた。考えないことで答えを先送りにしていたが、今、玄武の鋭い眼差しの前で、頭が真っ白になった。そして、ほとんど無意識のように言葉が漏れた。「飛騨には兵が……ですが、数までは存じません」「その情報はどこで得た?」玄武が問いかけた。兵の存在を口にした直後、一瞬の動揺が走ったが、むしろその後は落ち着きを取り戻していた。選択というのは、案外簡単なものなのかもしれない。「燕良州の親王邸で」哉年は率直に語り始めた。「書斎は二階建てで、私はいつも二階で読書をしていました。丸一日そこで過ごすこともあり、下階での会話が時折聞こえてきました。書斎が広すぎて、多くは聞き取れませんでしたが……飛騨の名は何度も出てきました。他にも牟婁郡、江良県、羅浮県、美川県など。まだいくつかありましたが、名前は覚えていません。ある時は、飛騨への兵糧の輸送についても話していました」玄武は眉を寄せた。何かがおかしい。燕良親王がそれほど多くの地域に兵を抱えているはずがない。その影響力はどれほどのものになるのか。兵の養成は商店を開くようなわけにはいかない。官界の上から下まで根回しが必要で、兵糧や武器の補給も欠かせない。これまでの調査では、燕良親王にそれほどの勢力も財力もないはずだった。牟婁郡や江良県はまだしも、羅浮県と美川県は南越に近く、関西からは千里の距離がある。いざ事が起これば、その兵がどれほどの援軍となるというのか。途中、幾度もの妨害に遭うことは必至だ。「飛騨への兵糧の話だけで、他の地域への補給は聞かなかったのか?」「はっきりとは聞き取れませんでしたが……無関係な地名が出るはずはありません」確かにその通りだ。「他にどんな地名が出てきた?」哉年は真剣に考え込んだが、首を振った。「覚えていません。あったかもしれませんし、なかったかもしれません」「他に思い出せることはないか?誰と頻繁に行き来があったとか」「やり取りは書状が主で、会合は外
北冥親王家には、護衛以外の隠密は置いていなかった。せいぜい外回りの用を果たす者が数人。武芸は確かだが、それぞれ任務があり、半月か一月に一度の報告を寄越すだけだった。密偵もいたが、それは敵情探索用で、私用には使わない決まりだった。人員を増やさなかった理由は二つあった。まず、玄武が邪馬台へ赴く前から戦功があり、都では玄甲軍を率いていた。先帝は余計な私兵、特に隠密の養成を強く禁じていた。次に、邪馬台での戦いの最中はそうした余裕もなく、凱旋後は現帝の疑念を買わぬよう、そのような考えは頭から消し去っていた。もちろん、検討はしていた。護衛隊と規定内の親王家付きの兵は、緊急時には一族の安全な退避を確保できる程度には揃えていた。今回、陛下が公然と任務を命じるなら、玄甲軍から人員を抜くことも可能だった。だが密命となれば、玄甲軍の動員は避けねばならず、自前の人員で賄うしかなかった。「私も一緒に行こうか?」さくらが提案した。「いや」玄武は微笑みながら、彼女の髪を優しく撫でた。「危険な任務じゃない。ただの偵察だ。本格的な行動になれば、こんな少人数では行かない。それに年末は京衛の警備を緩めるわけにはいかない。お前はここで目を光らせていてくれ」確かに年末年始は禁衛府と御城番が最も忙しい時期で、騒動も起きやすい。公職にある身として、軽々しく都を離れるわけにもいかないと、さくらも理解していた。それでも、あの少人数での出立が気がかりでならなかった。翌日、深水青葉がこの話を聞くと、「どうせ十日ほどで書院も冬休みになる。残りの授業もわずかだ。私が同行しよう」と申し出た。深水師兄が加われば安心できる。だが、これは国太夫人たちとも相談すべき事案だった。深水が書院に戻って相談すると、皆が賛同した。残り三日で試験を終え、採点の話し合いは済ませられる。水墨画の授業は省いて、安心して梅月山で正月を迎えるようにと言われた。もちろん、深水は真の目的は明かさず、ただ梅月山への帰省と告げるだけだった。こうして予定が固まり、今日は試験日となった。試験は文章と算術が主で、水墨画は副次的なものとされた。文章は形式を問わず、対句も不要。学んだ知識を活かしつつ、時事評論から日常の情景まで、題材は自由。要は文才と見識、そして記憶力を試すものだった。刑部の内堂で、今中具
紫乃は今、師範の務めの傍ら、石鎖姉さんたちと小さな捜査班を組んで、女性を狙う悪漢たちの取り締まりに当たっていた。最初は簡単だと思っていた。犯人を見つけ出し、痛めつけて自白を取り、役所に突き出せばよい……だが、役所では「拷問による自白」と一蹴されるだけだった。石鎖姉さんが密かに被害者たちを訪ねても、誰もが被害を否認した。よくて否認、酷い時は門前払いだった。結局、証拠不十分で釈放される。その度に紫乃の胸の内で殺意が湧き上がった。武芸界の掟なら、さっさと始末をつけて逐電すればよかったのに。だが、今の彼女は武芸界の人間ではない。親王様は刑部の長、さくらは玄甲軍を率いている。人殺しなど許されるはずもない。これが精一杯考えついた方法だったが、まるで効果がない。徒労に終わり、一人も投獄できていない。だから紫乃の瞳の奥には、常に憤りと憂いが渦巻いていた。二人はしばらく言葉を交わし、さくらは慰めるように言った。「気を落とすことないわ。少なくとも痛い目に遭わせて溜飲は下がったでしょう。あなたの監視の目があると分かれば、そう簡単には悪事は働けないはず」「殴っただけじゃ足りないの」紫乃はこめかみに拳を当て、頭を傾げて苦々しげに言った。「法の裁きを受けさせたいのよ」「被害に遭った娘たちが声を上げられないのよ。むしろ、できるだけ深く隠しておきたいんでしょう」「じゃあ、このまま野放しにするしかないの?本当に手立てはないの?」紫乃の声には焦りが滲んでいた。さくらは静かに提案した。「次も証拠が集まらないなら、役所に突き出す必要はないわ。思い切り痛めつけて、手か足を折るか……もしくは二度と女性に手出しできないようにしてしまえば」紫乃の表情が明るくなった。「それ、いい考えね」「でも、よく調べてるの?」「もちろん」紫乃は即座に答えた。「安心して。慎重に調査してるわ。冤罪は絶対に避けてる。ただ、被害者が証言を拒むし、私たちの調査方法も正式なものじゃないから、役所では取り上げてもらえないのよ」最初は自白さえ取れば役所が処罰してくれると思っていたのに。証拠や被害者の証言が必要だとは知らなかった。この件に関して、さくらにも手の施しようがなかった。法の厳格さは守られねばならない。姉妹のように親しい二人は顔を見合わせ、互いの瞳に励ましの色
十二月十五日、清和天皇は春長殿を訪れられた。皇后は目を真っ赤に腫らし、斎藤礼子の退学の件を申し上げた。この一件で既に斎藤家を諭されていた陛下は、皇后までもがこの話を持ち出すとは思いもよらず、心中穏やかならざるものがあった。されど、それを表には出されなかった。天皇の不快な様子を察した皇后は、すかさず話題を変え、「この頃、都の名だたる貴婦人方が、こぞって上原さくらを持ち上げ、女性の鑑だの手本だのと申しておりますわ」と申し上げた。「なるほど、面白い話だな」清和天皇は意味深な笑みを浮かべながら言った。「皇后への賛辞はどこへ消えたというのか。朕の皇后となる前から、都一番の才媛と謳われていたはずだ。むしろ手本とすべきは皇后、そう思わんか」皇后は一瞬たじろいだ。陛下の言葉が褒め言葉なのか、それとも皮肉なのか。真に自分のために憤っておられるのか、皆目見当もつかなかった。最近では、陛下のお心が益々掴めなくなっていた。觴を差し出しながら、しばし躊躇った後、おそるおそる申し上げた。「北冥親王妃の勢いが、いささか目に余るように存じます。女学校に伊織屋に……以前は非難していた者までもが、今では賛辞を惜しまず。それに北冥親王様も、陛下の深い信頼を得ておられ……これはいかがなものかと」清和天皇は眉を寄せられたが、何もお答えにはならなかった。皇后は天皇の表情を窺い、わずかに安堵の息を漏らした。やはり陛下も北冥親王夫妻の台頭を警戒なさっているのだ。あの夫婦への称賛があまりにも大きすぎる。朝廷の重臣たちは心服し、民も賛辞を惜しまない。陛下がお気に召さないのも当然だろう。勢力を広げすぎた二人は、いずれ禍根を残すことになるはず。まずは上原さくらに痛い目を見せてやろう。上原さくらは紅羽や粉蝶たちに女学校の見張りを命じた。斎藤家が以前のままなら心配はいらなかったのだが、今は各分家がそれぞれの思惑を持ち、礼子の退学騒動で皇后様の怒りは頂点に達しているはず。あの日の四夫人の振る舞いは、まるで無頼の徒のよう。警戒するに越したことはない。最近、紫乃は二人の師姉と共に多忙を極めており、さくらと言葉を交わす機会も減っていた。この日は珍しく早めの屋敷帰りで、皇太妃様への挨拶に誘うことができた。皇太妃の居室は心地よい暖かさに包まれていた。嫁と紫乃の姿を認めると、
式部卿は屋敷に戻るなり、景子を呼びつけ、激しい怒りをぶちまけた。「お義兄様」景子も憤然として言い返した。「私どもは皇后様のご意向に従っただけです。本来なら礼子を広陵侯爵の三郎様に薦めようと考えておりましたが、皇后様が武将方の支持がないとおっしゃって」皇后が縁談を持ちかけようとしたものの、太后様に阻止されたことを語り、憤りを隠さない。「天方家は傲慢すぎます。私ども斎藤家の娘が釣り合わないとでも?義兄様、彼らは斎藤家を眼中にも入れていないのです」「なぜ天方家が我々を重んじる必要があろう?我々が天方家を重んじたことがあったか?」式部卿は鋭く問い返した。問題はまさにそこにある。いつからか、一族の者たちは誰もが斎藤家に敬意を払うべきだと思い込むようになっていた。恐怖が背筋を這い上がった。知らぬ間に、斎藤家は朝廷の権力を掌握していると世間に見られ、一族もそう思い込んでいる。なぜそう思うようになったのか。周囲が持ち上げすぎたからに他ならない。「でも、私たちは斎藤家なのに……」景子は言葉を濁らせた。この一件を機に、式部卿は一族を集めた。言動を慎み、軽々しい振る舞いを控え、謙虚に、控えめに。無用な交際は避け、党派を結ぶなどという嫌疑を招かぬよう、厳しく諭した。側室の件は、一族内の女たちの間で噂になっただけだった。男たちは表向き非難しながらも、内心では理解を示していた。そう、男は常に同じ男の過ちを許す。それは過ちとは呼べないものだからだ。今日の訓戒は、族人たちも守るだろう。式部卿の胸中には不安が渦巻いていた。大皇子の粗暴さと愚かさが露呈する前まで、特別な策を講じる必要はないと考えていた。天の寵児として、皇位は自然と彼のものになるはずだった。だが、大皇子の凡庸さが次第に明らかになってきた。それも単なる平凡さではない。性格も徳も欠けていた。陛下もそれを見抜いているに違いない。こんな時期に何か画策すれば、必ず疑念を招くことになる。せめてもの救いは、大皇子がまだ幼いことだ。まだ教育の余地がある。今は目立たぬよう、大皇子の教育に専念する。それこそが正しい道筋だった。しかし、この考えを耳にした皇后は、父の臆病さを責めた。今こそ人脈を広げるべき時だと。特に武将たちと、なかでも兵部大臣の清家本宗との親交を深めるべきだと。使いを通じて父に伝言を送り
式部卿は茫然と立ち尽くしていた。平手打ちを食らったわけでもないのに、頬が火照ったように痛んだ。そしてようやく、自分の軽率さに気付いた。たかが書院の生徒同士の諍いごときで、朝廷を巻き込むことになってしまった。朝議終了まで、彼はただそこに立っていた。清和天皇は彼を御書院に残すよう命じた。しかし、御書院の外で立って待つように、との仰せだった。寒風が刃物のように肌を切り裂く厳寒の中、丸二時間、陛下は彼を中へ招くことはなかった。胸の内は複雑な思いが渦巻き、怒りの炎が胸腔の中を暴れ回った。自分は陛下の義父ではないか。たとえ今回の件で非があったにせよ、こんな寒さの中に放置されるいわれはない。二時間も経つと、体は凍えて硬直しかけていた。吉田内侍は耐え難そうな様子を見かねて、手焙りを持ってきてくれた。極寒の中、わずかな温もりですら救いだった。樋口信也が慌ただしく御書院に入り、しばらくして戻ってくると、式部卿の前に立った。「斎藤様、なぜここに?」「陛下のお召しを待っております」歯の根が寒さで震えながら答えた。「陛下は先ほど、どこへ行かれたのかと探すようにと仰せでした。お待ちかねですぞ、早くお入りください」式部卿は無表情のまま礼を言い、こわばった足を引きずるように中へ入った。拝礼、着座の許可、すべては普段通りだった。だが式部卿にはわかっていた。陛下の心中には怒りがある。先ほどの二時間は明らかな懲らしめだ。しかし、たかが女学校のことで、と腹の中で反発を覚えずにはいられなかった。御書院の暖かさが身に染みわたり、ようやく体の震えが収まってきた頃、吉田内侍が熱い茶と共に一枚の調書を差し出した。式部卿は不審そうに手に取り、目を通した途端、血の気が引いた。そして次の瞬間、怒りが込み上げてきた。景子母娘に欺かれていたのだ。発端は礼子が、天方十一郎が自分に求婚したと吹聴し、「年寄りが若い娘に手を出す」と嘲り、周りの生徒たちを煽り立てたことだった。「斎藤家は天方家との縁組みをお望みなのですか」清和天皇は淡い笑みを浮かべた。「義父上よ、都の権貴や文官たちは皆、婚姻で繋がりを持とうとしている。今や天方十一郎までも目を付けられるとは。朕が彼を重用したのは間違いではなかったようですな。義父上までがそれほど評価されているのですから」「陛下」式部
さくらは自分の馬を従者に任せ、三姫子の馬車に同乗した。伝えるべき事柄が二つあった。「五郎師兄が、あまり良くない不動産や田地をいくつか売却しました。代金は藩札に換えず、全て都景楼の地下倉庫に保管してあるそうです」「西平大名家が彼に申し訳が立たないのですから」三姫子は小声で答えた。「好きなように使えばよろしい。私も別に幾らか蓄えてありますから」「使いはしないでしょう。五郎師兄は銀子に困っていませんから」さくらは次の話題に移った。「椎名青舞の身元について、陛下の調査で確認が取れました。飛騨のある夫人を義母として認めているとのこと。沢村の姓については、関西の沢村家の分家で、飛騨で商いを営んでいる家からとったものだそうです。以前、夫人がお調べになった密会の相手も、恐らくはその沢村家の者でしょう。今なら陛下も穏便に処理してくださるでしょうが、もし陛下が動かれないとなると、甲虎様は深みにはまることになりかねません」さくらは飛騨での私兵調査など、重要な情報は意図的に伏せた。それらは決して口外できない。今の情報だけでも、三姫子への警告としては十分なはずだった。今なら親房甲虎が翻意すれば、西平大名家にもまだ逃げ道はある。爵位は失うかもしれないが、最悪の事態は避けられる。後は三姫子が甲虎を説得できるかどうかだった。しかし三姫子は黙って頷くだけで、何も語らなかった。その様子を見て、さくらは悟った。三姫子は既に全力を尽くしたのだ。しかし、甲虎は耳を貸さなかったのだろう。さくらは三姫子の手を軽く握り、慰めの言葉は何も口にせずに、途中で馬車を降り、自分の馬で屋敷へと戻った。世の中には、知らず知らずのうちに人々が受け入れていくことがある。以前は、さくらが官服姿で馬を走らせていると、様々な視線を向けられた。だが今では誰もが慣れた様子で、中には笑顔で会釈を送る者さえいる。人々は異端とも言える親王妃を受け入れたのだ。しかし、異端な女性そのものを受け入れたわけではなかった。斎藤礼子の退学は、その日の夕刻には式部卿の耳に入った。しかし景子と礼子は事の真相を語らなかった。ただの少女同士の諍いで、上原さくらが裁定を下した結果、礼子だけが退学になったと説明した。式部卿は普段なら緻密な思考の持ち主だが、近年は増長していた。斎藤家の教育に自信があり、一族から無作