Share

第897話

Author: 夏目八月
北條守は慌ただしく将軍家に戻った。周防からの使者の報せを聞いた時から、胸が締め付けられる思いだった。葉月琴音の性格をあまりにも知り尽くしている。矛盾した性格の持ち主で、強がりながらも死を恐れ、行き詰まっても必ず抗おうとする。

今回も、おとなしく投降するとは思えなかった。

そして今や、二人の間に情は残っていない。生き延びるため、琴音が何をするか、予測もつかない。

この時期、彼女は都を離れたがっていた。しかし、安寧館を出れば暗殺者が待ち構えているのではと恐れていた。あの暗殺未遂は、彼女を本当に震え上がらせたのだ。

おそらく、事が起きた時の対処法を何度も考えていたのだろう。

だからこそ、平安京の使者が来ることを告げなかった。彼女が準備を整えることを警戒してのことだ。

吉祥居に着くと、琴音が自らの喉元に剣を当てているのが目に入った。胸が沈んだ。「葉月琴音、剣を下ろせ!」

琴音の目が凍てついたように冷たく光り、その視線が剣のように彼を射抜いた。歯を噛みしめるように言う。「北條守!」

親房虎鉄も二名の衛士を連れて到着し、すぐさま北條守を制止した。「近づき過ぎないように」

北條守は複雑な眼差しで虎鉄を見た。何を懸念しているのか、分かっていた。

「葉月、周防殿と共に刑部へ行くんだ」虎鉄を挟んで北條守は諭すように言った。「余計なことはするな。調べるべきことは協力して明らかにすれば良い。刑部も無理な取り調べはしない」

「馬鹿な!」琴音の目が炎のように燃えた。「無理な取り調べをしないなら、なぜ将軍家に置いておけないの?北條守、一つだけ聞かせて。今のあなたには、私への情など微塵も残っていないということ?」

北條守は居心地の悪そうな表情を浮かべた。「それは俺たち二人の問題だ。まずは刑部の職務に従ってくれ」

琴音は冷笑を浮かべた。「従う?いいでしょう。こちらへ来て、あなたの手で私を捕らえて。御前侍衛副将なんでしょう?」

北條守は動かない。

琴音の目の中の怒りが徐々に消え、深い悲しみだけが残った。声も虚ろだ。「北條守、私たち一緒に関ヶ原の戦場を駆けて、生死を共にしたわね。鹿背田城に向かう時、あなたが私に何を言ったか、覚えてる?」

その言葉に、守の瞳孔が収縮した。思わず頷く。「覚えている」

「覚えていてくれて良かった」琴音の目に涙が光った。「刑部についていくわ。将
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Related chapters

  • 桜華、戦場に舞う   第898話

    両手を後ろに組まれて立ち上がらされた琴音の顔には、地面の小石で擦り傷がつき、血が滲んでいた。まず北條守に一瞥を投げかけ、その目には深い失望の色が宿っていた。それからさくらを恨めしげに睨みつけた。さくらの着ている官服は、琴音が夢見続けたものだった。しかし、それに触れる機会すら与えられなかったのだ。さくらは鞭を巻き取り、琴音の前に立った。二つの目が向き合う。一方には怨毒が、もう一方には露骨な憎しみが宿っていた。ついにさくらは琴音への憎しみを隠すことをやめた。両親の位牌の前でさえ、その感情を抑え込んでいた。両親や兄夫婦の御霊に、憎しみで歪んだ自分の姿を見せたくなかったのだ。しかし今日、ついに清算の時が来た。心の中の憎しみはもはや抑えられない。琴音は彼女の家族を殺し、祖父までも巻き込んだ。この仇は決して許せない。そのような深い憎しみの前では、琴音の嫉妬や無念さは余りにも薄っぺらく、一瞬の睨み合いで、その気迫は完全に押しつぶされた。琴音は目を逸らし、北條守を見つめた。今度こそ、純粋な救いを求める眼差しだった。守の胸中は言いようのない複雑さに満ちていた。先ほど、意図的に親房虎鉄の制止を受け入れたのは、実は虎鉄を制していたのだ。琴音が守を人質に取っても意味はない。しかし、刑部大輔を人質にすれば、刑部の役人たちは全員退かざるを得なくなる。彼は琴音の意図を読み取っていた。二人の間には今でも阿吽の呼吸が残っている。関ヶ原での一年間、二人は鹿背田城の任務だけでなく、それ以前から共に戦ってきた。この暗黙の了解は、当時の心の通い合いから生まれたものだ。鹿背田城の穀倉を焼く任務の前、琴音は彼に尋ねた。もし彼女が危険な目に遭い、命の危機に瀕したら、どうするのかと。その時、彼は答えた。自分の命を犠牲にしてでも、どんな代価を払ってでも彼女を救うと。先ほど琴音に問われた時、彼の心は揺れた。それでも、その約束は守るつもりだった。たとえ官位を失い、罪に問われることになろうとも。さくらの出現に、北條守は顔向けできない思いに駆られた。琴音との約束は、今でも守ろうとしている。だが、なぜ当時、さくらとの約束は守れなかったのか。一瞬にして、様々な感情が胸中を渦巻いた。足の痛みで我に返り、彼を強く踏みつけた親房虎鉄をじっと見つめた。虎鉄は怒りに満ちた表情

  • 桜華、戦場に舞う   第899話

    さくらの前でこのような侮辱を受け、夕美は顔を赤らめながら激怒した。「その口の利き方を改めなさい。衛士統領になったからって調子に乗らないで。その統領の座だって、結局は女に従うしかないんでしょう?」夕美は虎鉄の高慢な性格を知っていた。以前、上原さくらに従うことを潔しとしなかったことも知っている。故意にさくらの前で二人の不和を掻き立て、虎鉄を辱めようとしたのだ。しかし、夕美の理解は表面的なものに過ぎなかった。沢村紫乃を師と仰いでから、虎鉄は師の武術を目の当たりにしていた。さらに、師が梅月山での出来事を何度も語るのを聞き、さくらに全く太刀打ちできなかった話を聞かされていた。それに加えて、自身もさくらと手合わせをしたことで、かつての傲慢さがいかに滑稽なものだったかを知っていた。虎鉄はせせら笑い、皮肉めいた口調で言った。「衛士統領になれば、それは偉いさ。お前に務まるものなら、やってみろよ。女性には無理だなんて言うな。ほら、上原殿だってお前の夫を指揮していたじゃないか。今じゃ俺の上官だ。俺の実力は大したことないから、従うのは当然だ。だがお前はどうだ?女性に従うのが何か恥ずかしいとでも?どの家だって奥方の采配の下にあるもんだ。それとも、お前には北條守すら束ねられないってことか?」夕美は顔を青ざめさせた。虎鉄との言い争いには勝てないと悟りながらも、まだ放心状態の北條守に向かって怒鳴った。「何をぼんやりしているの?告げ口されているのに、一言も弁解しないつもり?」北條守はさくらを見つめ、「私は......」「少し、お話してもよろしいでしょうか」さくらが彼の言葉を遮って尋ねた。北條守は顔を僅かに蒼白にしながら頷いた。「はい、別室へご案内いたします」「二人きりで?」夕美は身構えた。「ここで話せない理由でも?私に聞かせられないことでも?」さくらは夕美を見据えた。「あなたには聞かせられませんが、親房虎鉄には同席してもらいます」二人きりではないと聞いて、夕美はやや安堵した。少なくとも私的な話ではないという証だった。将軍家の別室は、もはやさくらが知っていた頃の面影はなかった。かつてここには彼女の持参した調度品が置かれ、高価な木材で精巧な彫刻が施されていた。今では普通の家具ばかりで、屏風にさえ亀裂が入っていた。別室に入ると、虎鉄はなおも言い立てた

  • 桜華、戦場に舞う   第900話

    北條守は回想に浸りながら話し始めた。「鹿背田城の穀倉を焼く計画は、私が提案しました。当時、平安京軍は連戦連敗で、撤退の気配を見せていました。佐藤六郎殿は言いました。平安京との戦いは長年こうだった、小規模な衝突は絶えないが、大規模戦になれば互いに抑制的になる。だから平安京が退くと、我々も警戒を緩める。しかし平安京は突如、猛烈な攻勢に出た。佐藤大将が負傷したのも、その戦いでした......」「違うわ」さくらは再び彼の言葉を遮った。「あなたが関ヶ原に着任した直後、私の叔父は戦乱で片腕を失った。当時から戦況は激しかったはず。それに、もし両軍が抑制的な戦いを続けていたのなら、援軍など必要なかったはずよ」「確かに、通常は抑制的な戦いでした」北條守は説明を続けた。「突如として戦況が激化したのは、スーランジーが前線から退き、弟のスーランキーが戦場指揮を執ったからです。彼は兄とは違い、凶暴で勇猛な将でした。兄の戦術を一変させ、一気に我々を押し返して新たな境界線を引こうとしたのです」「当時、邪馬台での戦いが緊迫し、関ヶ原から兵を抽出せざるを得なかった。スーランキーはその隙を突いた。だからこそ陛下は私に援軍を率いるよう命じられた。これらは記録で確認できます」さくらはそれらの事実を承知していた。北條守を見据えながら問う。「では、平安京軍が退くと思われた時、スーランジーが戦場指揮に戻っていたのかしら?」「はい」北條守は、大将軍らと共に陣営で協議した記憶を辿った。「当時、叔父......佐藤六郎将軍は、スーランジーの戦術はいつもこうだと言いました。大規模な戦闘は避け、多くの死傷者も出したくない。我々も一歩も譲らない姿勢でしたから、互いに損失もなく、このまま対峙していれば良いと。しかし、後にスーランジーが突如としてスーランキーと交代し、彼らは猛攻を仕掛けてきた。我々は完全に不意を突かれました」さくらは彼の話を聞きながら分析を進めていた。スーランキーが戦場を仕切っていた時期は、おそらくスーランジーが平安京の皇太子の出陣を止めるため戻ったのだろう。当時、平安京の皇帝は重病に臥していた。そんな時期に皇太子が朝廷の安定を図らず戦場に赴くのは、極めて危険だった。だがスーランジーが離れると、臨時元帥となったスーランキーは猛烈な進撃を開始した。その後、スーランジーが戻り、平

  • 桜華、戦場に舞う   第901話

    さくらが立ち去ると、虎鉄も後に続いた。虎鉄は口が軽い男だった。今日、上原さくらと北條守の間で交わされた葉月琴音による民間人虐殺の件は、既に公になっていた事実ではあったが。しかし、この事件には佐藤大将が関わっていた。虎鉄は佐藤大将の無実を知っていた。当時、佐藤大将は致命的な重傷を負い、死の淵をさまよっていたのだ。和約に署名したのが葉月琴音だったのも、なるほど納得がいった。佐藤大将の無念を感じた虎鉄は、衛士の衛所に戻るやいなや、この件について話し始めた。衛士で上原洋平大将と佐藤大将を敬慕していない者などいるはずもない。虎鉄の話を聞いた者たちの間で、佐藤大将への同情の声が広がっていった。もちろん、衛士が正式に異議を申し立てることはできなかったが、噂は自然と外へと広がっていった。これこそがさくらの第一手だった。まずは外祖父への民衆の信頼と尊敬を固め、さらには都の武官たちからの支持を得る。物事を徐々に進めていく上で、これらは不可欠な要素だった。幸いなことに、かつての関ヶ原での大勝利の際、陛下は北條守と葉月琴音を重用し、若い武将たちの忠誠心を育もうとしていた。そのため、葉月琴音に大功を与え、外祖父や叔父たちへの褒賞は控えめなものに留められていた。元帥を飛び越えて配下の武将を抜擢するという前例がなかったわけではない。さくらの父もそうして出世したのだが、父の場合は確かな軍功があってのことで、葉月琴音のような偽りの功績とは全く異なるものだった。葉月琴音が投獄されると、刑部での審問が始まった。これは当然ながら密かに行われたが、陛下は北條守と樋口信也を立ち会わせることを命じた。樋口信也は皇太子の侍衛長として、清和天皇が皇太子であった頃から仕えており、密かに配下も育てていた。しかし陛下は、それらの配下を表に出すことは決して許さなかった。一度表に出れば、手駒がすべて露見することになるからだ。清和天皇が皇太子であった頃は、先帝の意向に忠実に従って行動していた。樋口もまた目立った行動は控えていたため、陛下の即位後、多くの者が樋口の存在すら忘れていた。しかし最近、彼の動きが活発化している。陛下は彼を御前侍衛輔に任命し、北條守の配下に置いた。これは絶妙な采配で、北條守を樋口の盾として利用する陛下の保護策であった。今回の刑部での審問に北條守と樋口を立

  • 桜華、戦場に舞う   第902話

    玄武はさくらの側に寄り、その手を優しく握った。「そんなに心配するな。最悪の事態には絶対にさせない」しかしさくらには分かっていた。玄武の断固とした言葉の裏には、さほどの確信があるわけではないことを。人の心は最も掌握し難いものだ。特に平安京の新皇帝は、皇太子の時から鹿背田城の事件を民衆に触れ回り、民意を扇動してきた。今や即位を果たした以上、思いのままに振る舞うことだろう。有田先生は集めた情報を整理しながら、要点を述べた。「定遠皇帝は帝位そのものにはさほどの執着を見せていない。むしろ、その絶大な権力を、皇太子であった兄上と虐殺された民衆の復讐のために使おうとしている。我々に国境線の譲歩を迫り、戦争さえも辞さない構えです。ただし、以前羅刹国を支援した際に大きな損害を被り、我が国との長年の対立や関ヶ原での大戦で疲弊している。国力の回復が必要なため、朝廷内には反戦派も少なくない。その中心となっているのがレイギョク長公主です。今回、長公主が使節団を率いてこられたのは、定遠皇帝の譲歩——恐らく最初で最後の譲歩でしょう。もし今回の交渉が決裂すれば、反戦派も完全に押さえ込まれることになるでしょう」レイギョク姫は平安京の先帝の嫡長女であり、先の皇太子と現定遠皇帝の姉でもあった。定遠皇帝の即位後、彼女は長公主の位に就いた。実は、定遠皇帝の即位も彼女の支持があってこそのものだった。かつて平安京の先帝が重篤な病に伏した際、彼女は父に代わって政務を取り仕切り、平安京での影響力は絶大なものとなっていた。平安京では「長公主が男子であれば、必ずや皇太子に立てられていただろう」との言葉が囁かれていた。しかし、平安京は女性の政治参加や官職就任は認めても、女帝を立てることだけは許さなかった。突然、深水青葉が口を開いた。「私は彼女と何度か顔を合わせたことがある。手腕も気概もある方だ」有田先生は即座に食いついた。「深水先生、レイギョク長公主をご存知だったのですか?彼女に何か弱みはございますか?」深水は少し考えてから答えた。「親族を大切にし、国を想い、民を愛する方だ」「それは弱みであると同時に、彼女の鎧でもあるな」玄武が言った。「少なくとも彼女が来たということは、一時的にでも反戦派が主戦派を抑え込んだということ。これが私たちの好機よ」さくらが言葉を継いだ。有田先

  • 桜華、戦場に舞う   第903話

    玄武は夜になると、静かにさくらを抱きしめたまま横たわった。彼女の呼吸は穏やかで、眠りについたかのようだった。しかし玄武には分かっていた。彼女は眠れていないのだと。余計な動きひとつせず、ただ彼の腕の中で身を丸め、まるで計算されたかのように規則正しい呼吸を繰り返している。彼に心配をかけまいとしているのだ。関ヶ原、佐藤将軍邸にて。勅命が届いた。邪馬台への伝達役として選ばれたのは、七瀬四郎偵察隊の斎藤芳辰と日比野綱吉であった。もちろん、御前侍衛と衛士も同行している。斎藤芳辰と日比野綱吉は今や従四位の武官となっていたが、陛下は未だ彼らを重用していなかった。今回の関ヶ原での勅命伝達が初めての任務となる。うまく遂行できれば、陛下の信用を得られるはずだった。だが、この任務は彼らにとって余りにも辛いものだった。ほとんどの武将と兵士たちにとって、佐藤承と上原洋平は憧れの存在だった。今回の任務は表向き勅命伝達であっても、実質的には護送であり、芳辰と綱吉の胸は痛んでいた。本来なら、御前侍衛の安倍貴守は即日出立するつもりだったが、斎藤芳辰と日比野綱吉が衆議を押し切り、佐藤大将が家族との別れを惜しむ時間を設けることを主張した。出立は明日となった。この夜の将軍邸では、普段と変わらぬ時刻に夕餉が供された。いつもの献立から一品も増やすことはなかった。この日が来ることは誰もが覚悟していた。しかし、この最後の食事で、佐藤大将以外の誰もが喉を通らなかった。「父上!」佐藤三郎は箸を置き、年老いた父の顔を見上げた。目は赤く潤んでいる。「私がお供いたします」佐藤承は整然と食事を続けながら、淡々と言った。「必要ない」「陛下は八郎に軍の指揮を任されました。この不具となった体の私がお供するのが相応しいでしょう。何かあれば、すべて私が背負います」「馬鹿を言うな!」佐藤承は鋭い眼差しを向けた。「何が不具だ。片腕を失っただけで、まだ刀は握れるではないか。お前は依然として関ヶ原の若将軍だ。陛下が八郎に軍を任せたとはいえ、奴はお前ほどの経験はない。平安京が今にも動き出そうとしている。お前はここを守らねばならん」「父上」八郎も箸を置き、涙をこらえきれない様子だった。この一年余り、兄弟たちは幾度となく密かに話し合い、父をこの災難から救い出す方法を探ってきた。だが、有効な手立て

  • 桜華、戦場に舞う   第904話

    日南子の胸中は怒りと悲しみが渦巻いていた。夫は北條守を救うために片腕を失い、武芸の腕前は半減してしまった。幸い戦がないため、片手での刀術の鍛錬に励むことはできたが、もはや長槍を扱うことは叶わない。命を救ってやったというのに、まさに恩を仇で返すとはこのこと。目の前で葉月琴音と密通していたとは。当時の自分たちがどれほど目が曇っていたのか、どうして見抜けなかったのか。もっと注意深く見ていれば、関ヶ原にいる間に懲らしめることもできた。そうすれば、さくらを傷つけることもなかったはずなのに。日南子はさくらを溺愛していた。さくらが生まれた時、都にいた彼女は、これほど愛らしく可愛らしい赤子を見たことがなかった。まるで白玉のように美しく、この世で最も愛おしい宝物だった。さくらが三歳になるまで、日南子は数日おきに北平侯爵邸を訪れては、その愛らしい子を抱きしめていた。後に夫と共に関ヶ原へ移ったが、当初は二年に一度は都に戻っていた。しかし子供たちも大きくなり、学問や武芸の稽古が始まり、さらに関ヶ原と平安京の軋轢が絶えなかったため、離れることも難しくなっていった。上原洋平父子七人が命を落とした時、夫と共に都へ戻ったものの、その時さくらは梅月山で武芸の修行中で、呼び戻すことはしなかったため、会うことは叶わなかった。その後の出来事は、すべて手紙を通して知ることとなった。さくらが離縁して実家に戻った時、彼らは都へ戻りたいと思った。しかしほどなくして、彼女が邪馬台の戦場へ赴いたと聞く。その後、功を立てて戻り、北冥親王である影森玄武に嫁いだと知った時には、もはや戻ることは叶わなくなっていた。鹿背田城での出来事が、どのような災いを引き起こすか分からない。さくらに累が及ぶことを恐れ、戻ることはできなかった。日南子はさくらのことを思い出すたびに、涙が止まらなかった。北條守と葉月琴音を骨まで砕いて灰にしてやりたい思いと同時に、さくらへの痛ましい思いで胸が締め付けられた。あの子は、どんなに苦しい思いをしてきたことか。日南子が泣き出すと、他の女たちも涙を流し始めた。日南子は涙を拭うと立ち上がった。「お義父様、もう何も考えません。私がお供いたします」佐藤承は溜息をつきながら、日南子のさくらを案じる気持ちを理解していた。「戻りたいのなら戻るがいい。さくらに会って、数

  • 桜華、戦場に舞う   第905話

    佐藤承の配下の将軍たちは、斎藤芳辰と日比野綱吉が滞在する客舎を訪れ、事情を説明したいと申し出た。日に焼けた肌の将軍たちが、切迫した面持ちで鹿背田城の件について語るのを見て、二人の胸は締め付けられた。「間違いございません。佐藤大将は何も知らなかったのです。あの時、大将は矢傷を負い、軍医も見放した程でした。まさに奇跡的に一命を取り留め、三ヶ月近く寝台に伏せっていたのです。やっと歩けるようになりましたが、今では体力も衰え、これ以上の苦労には耐えられません」「その通りです。北條守を鹿背田城へ向かわせたのは私の判断でした。佐藤大将とは無関係です。私を都へ連行し、どのような処分でも構いません。首を望むなら、都に着き次第差し出しましょう」「斎藤殿、日比野殿。お二方は以前、上原元帥と共に邪馬台で戦われました。同じ軍人として腹を割って申します。この件に関して、何か余地はございませんか?陛下は本当のところ、どのようにお考えなのでしょう。正直にお答えください。もし誰かが責任を取ればよいのなら、この余田が引き受けましょう」次々と、将軍たちは自ら罪を引き受けようと名乗り出た。佐藤大将を都へ戻したくないという思いは、皆同じだった。芳辰は溜息をつきながら答えた。「皆様、申し訳ありませんが、私も日比野も決定権はございません。私たちは勅命を伝えるために参っただけです。しかし、そう心配なさらずとも。北冥親王様が必ず何か良い手立てを考えてくださるはずです」「どうして心配せずにおられましょうか。勅命の伝達がこのような形で行われるはずがない。お二方が遣わされたということは、護送が目的なのです。そうでなければ、なぜ早馬で勅書を届けなかったのですか」余田は目を赤く染めながら、声を詰まらせた。「もうすぐ古稀を迎えられるのです。七十という年齢になっても関ヶ原を守り続け、一生を辺境に捧げてこられた。大和国の領土と民を守るために。他人の過ちを、どうして大将の責任にできるというのです」加藤は焦りのあまり足を踏み鳴らした。「そうです。そもそも彼らは我らが関ヶ原の兵でも将でもない。責任を問うのであれば、北條守か、さもなければ......陛下です。陛下が彼らを遣わされたのですから」芳辰と綱吉は顔色を変え、同時に戸口を見やった。御前侍衛の装束の者が通り過ぎるのが見えた。この距離では間違いな

Latest chapter

  • 桜華、戦場に舞う   第1189話

    紫乃は今、師範の務めの傍ら、石鎖姉さんたちと小さな捜査班を組んで、女性を狙う悪漢たちの取り締まりに当たっていた。最初は簡単だと思っていた。犯人を見つけ出し、痛めつけて自白を取り、役所に突き出せばよい……だが、役所では「拷問による自白」と一蹴されるだけだった。石鎖姉さんが密かに被害者たちを訪ねても、誰もが被害を否認した。よくて否認、酷い時は門前払いだった。結局、証拠不十分で釈放される。その度に紫乃の胸の内で殺意が湧き上がった。武芸界の掟なら、さっさと始末をつけて逐電すればよかったのに。だが、今の彼女は武芸界の人間ではない。親王様は刑部の長、さくらは玄甲軍を率いている。人殺しなど許されるはずもない。これが精一杯考えついた方法だったが、まるで効果がない。徒労に終わり、一人も投獄できていない。だから紫乃の瞳の奥には、常に憤りと憂いが渦巻いていた。二人はしばらく言葉を交わし、さくらは慰めるように言った。「気を落とすことないわ。少なくとも痛い目に遭わせて溜飲は下がったでしょう。あなたの監視の目があると分かれば、そう簡単には悪事は働けないはず」「殴っただけじゃ足りないの」紫乃はこめかみに拳を当て、頭を傾げて苦々しげに言った。「法の裁きを受けさせたいのよ」「被害に遭った娘たちが声を上げられないのよ。むしろ、できるだけ深く隠しておきたいんでしょう」「じゃあ、このまま野放しにするしかないの?本当に手立てはないの?」紫乃の声には焦りが滲んでいた。さくらは静かに提案した。「次も証拠が集まらないなら、役所に突き出す必要はないわ。思い切り痛めつけて、手か足を折るか……もしくは二度と女性に手出しできないようにしてしまえば」紫乃の表情が明るくなった。「それ、いい考えね」「でも、よく調べてるの?」「もちろん」紫乃は即座に答えた。「安心して。慎重に調査してるわ。冤罪は絶対に避けてる。ただ、被害者が証言を拒むし、私たちの調査方法も正式なものじゃないから、役所では取り上げてもらえないのよ」最初は自白さえ取れば役所が処罰してくれると思っていたのに。証拠や被害者の証言が必要だとは知らなかった。この件に関して、さくらにも手の施しようがなかった。法の厳格さは守られねばならない。姉妹のように親しい二人は顔を見合わせ、互いの瞳に励ましの色

  • 桜華、戦場に舞う   第1188話

    十二月十五日、清和天皇は春長殿を訪れられた。皇后は目を真っ赤に腫らし、斎藤礼子の退学の件を申し上げた。この一件で既に斎藤家を諭されていた陛下は、皇后までもがこの話を持ち出すとは思いもよらず、心中穏やかならざるものがあった。されど、それを表には出されなかった。天皇の不快な様子を察した皇后は、すかさず話題を変え、「この頃、都の名だたる貴婦人方が、こぞって上原さくらを持ち上げ、女性の鑑だの手本だのと申しておりますわ」と申し上げた。「なるほど、面白い話だな」清和天皇は意味深な笑みを浮かべながら言った。「皇后への賛辞はどこへ消えたというのか。朕の皇后となる前から、都一番の才媛と謳われていたはずだ。むしろ手本とすべきは皇后、そう思わんか」皇后は一瞬たじろいだ。陛下の言葉が褒め言葉なのか、それとも皮肉なのか。真に自分のために憤っておられるのか、皆目見当もつかなかった。最近では、陛下のお心が益々掴めなくなっていた。觴を差し出しながら、しばし躊躇った後、おそるおそる申し上げた。「北冥親王妃の勢いが、いささか目に余るように存じます。女学校に伊織屋に……以前は非難していた者までもが、今では賛辞を惜しまず。それに北冥親王様も、陛下の深い信頼を得ておられ……これはいかがなものかと」清和天皇は眉を寄せられたが、何もお答えにはならなかった。皇后は天皇の表情を窺い、わずかに安堵の息を漏らした。やはり陛下も北冥親王夫妻の台頭を警戒なさっているのだ。あの夫婦への称賛があまりにも大きすぎる。朝廷の重臣たちは心服し、民も賛辞を惜しまない。陛下がお気に召さないのも当然だろう。勢力を広げすぎた二人は、いずれ禍根を残すことになるはず。まずは上原さくらに痛い目を見せてやろう。上原さくらは紅羽や粉蝶たちに女学校の見張りを命じた。斎藤家が以前のままなら心配はいらなかったのだが、今は各分家がそれぞれの思惑を持ち、礼子の退学騒動で皇后様の怒りは頂点に達しているはず。あの日の四夫人の振る舞いは、まるで無頼の徒のよう。警戒するに越したことはない。最近、紫乃は二人の師姉と共に多忙を極めており、さくらと言葉を交わす機会も減っていた。この日は珍しく早めの屋敷帰りで、皇太妃様への挨拶に誘うことができた。皇太妃の居室は心地よい暖かさに包まれていた。嫁と紫乃の姿を認めると、

  • 桜華、戦場に舞う   第1187話

    式部卿は屋敷に戻るなり、景子を呼びつけ、激しい怒りをぶちまけた。「お義兄様」景子も憤然として言い返した。「私どもは皇后様のご意向に従っただけです。本来なら礼子を広陵侯爵の三郎様に薦めようと考えておりましたが、皇后様が武将方の支持がないとおっしゃって」皇后が縁談を持ちかけようとしたものの、太后様に阻止されたことを語り、憤りを隠さない。「天方家は傲慢すぎます。私ども斎藤家の娘が釣り合わないとでも?義兄様、彼らは斎藤家を眼中にも入れていないのです」「なぜ天方家が我々を重んじる必要があろう?我々が天方家を重んじたことがあったか?」式部卿は鋭く問い返した。問題はまさにそこにある。いつからか、一族の者たちは誰もが斎藤家に敬意を払うべきだと思い込むようになっていた。恐怖が背筋を這い上がった。知らぬ間に、斎藤家は朝廷の権力を掌握していると世間に見られ、一族もそう思い込んでいる。なぜそう思うようになったのか。周囲が持ち上げすぎたからに他ならない。「でも、私たちは斎藤家なのに……」景子は言葉を濁らせた。この一件を機に、式部卿は一族を集めた。言動を慎み、軽々しい振る舞いを控え、謙虚に、控えめに。無用な交際は避け、党派を結ぶなどという嫌疑を招かぬよう、厳しく諭した。側室の件は、一族内の女たちの間で噂になっただけだった。男たちは表向き非難しながらも、内心では理解を示していた。そう、男は常に同じ男の過ちを許す。それは過ちとは呼べないものだからだ。今日の訓戒は、族人たちも守るだろう。式部卿の胸中には不安が渦巻いていた。大皇子の粗暴さと愚かさが露呈する前まで、特別な策を講じる必要はないと考えていた。天の寵児として、皇位は自然と彼のものになるはずだった。だが、大皇子の凡庸さが次第に明らかになってきた。それも単なる平凡さではない。性格も徳も欠けていた。陛下もそれを見抜いているに違いない。こんな時期に何か画策すれば、必ず疑念を招くことになる。せめてもの救いは、大皇子がまだ幼いことだ。まだ教育の余地がある。今は目立たぬよう、大皇子の教育に専念する。それこそが正しい道筋だった。しかし、この考えを耳にした皇后は、父の臆病さを責めた。今こそ人脈を広げるべき時だと。特に武将たちと、なかでも兵部大臣の清家本宗との親交を深めるべきだと。使いを通じて父に伝言を送り

  • 桜華、戦場に舞う   第1186話

    式部卿は茫然と立ち尽くしていた。平手打ちを食らったわけでもないのに、頬が火照ったように痛んだ。そしてようやく、自分の軽率さに気付いた。たかが書院の生徒同士の諍いごときで、朝廷を巻き込むことになってしまった。朝議終了まで、彼はただそこに立っていた。清和天皇は彼を御書院に残すよう命じた。しかし、御書院の外で立って待つように、との仰せだった。寒風が刃物のように肌を切り裂く厳寒の中、丸二時間、陛下は彼を中へ招くことはなかった。胸の内は複雑な思いが渦巻き、怒りの炎が胸腔の中を暴れ回った。自分は陛下の義父ではないか。たとえ今回の件で非があったにせよ、こんな寒さの中に放置されるいわれはない。二時間も経つと、体は凍えて硬直しかけていた。吉田内侍は耐え難そうな様子を見かねて、手焙りを持ってきてくれた。極寒の中、わずかな温もりですら救いだった。樋口信也が慌ただしく御書院に入り、しばらくして戻ってくると、式部卿の前に立った。「斎藤様、なぜここに?」「陛下のお召しを待っております」歯の根が寒さで震えながら答えた。「陛下は先ほど、どこへ行かれたのかと探すようにと仰せでした。お待ちかねですぞ、早くお入りください」式部卿は無表情のまま礼を言い、こわばった足を引きずるように中へ入った。拝礼、着座の許可、すべては普段通りだった。だが式部卿にはわかっていた。陛下の心中には怒りがある。先ほどの二時間は明らかな懲らしめだ。しかし、たかが女学校のことで、と腹の中で反発を覚えずにはいられなかった。御書院の暖かさが身に染みわたり、ようやく体の震えが収まってきた頃、吉田内侍が熱い茶と共に一枚の調書を差し出した。式部卿は不審そうに手に取り、目を通した途端、血の気が引いた。そして次の瞬間、怒りが込み上げてきた。景子母娘に欺かれていたのだ。発端は礼子が、天方十一郎が自分に求婚したと吹聴し、「年寄りが若い娘に手を出す」と嘲り、周りの生徒たちを煽り立てたことだった。「斎藤家は天方家との縁組みをお望みなのですか」清和天皇は淡い笑みを浮かべた。「義父上よ、都の権貴や文官たちは皆、婚姻で繋がりを持とうとしている。今や天方十一郎までも目を付けられるとは。朕が彼を重用したのは間違いではなかったようですな。義父上までがそれほど評価されているのですから」「陛下」式部

  • 桜華、戦場に舞う   第1185話

    さくらは自分の馬を従者に任せ、三姫子の馬車に同乗した。伝えるべき事柄が二つあった。「五郎師兄が、あまり良くない不動産や田地をいくつか売却しました。代金は藩札に換えず、全て都景楼の地下倉庫に保管してあるそうです」「西平大名家が彼に申し訳が立たないのですから」三姫子は小声で答えた。「好きなように使えばよろしい。私も別に幾らか蓄えてありますから」「使いはしないでしょう。五郎師兄は銀子に困っていませんから」さくらは次の話題に移った。「椎名青舞の身元について、陛下の調査で確認が取れました。飛騨のある夫人を義母として認めているとのこと。沢村の姓については、関西の沢村家の分家で、飛騨で商いを営んでいる家からとったものだそうです。以前、夫人がお調べになった密会の相手も、恐らくはその沢村家の者でしょう。今なら陛下も穏便に処理してくださるでしょうが、もし陛下が動かれないとなると、甲虎様は深みにはまることになりかねません」さくらは飛騨での私兵調査など、重要な情報は意図的に伏せた。それらは決して口外できない。今の情報だけでも、三姫子への警告としては十分なはずだった。今なら親房甲虎が翻意すれば、西平大名家にもまだ逃げ道はある。爵位は失うかもしれないが、最悪の事態は避けられる。後は三姫子が甲虎を説得できるかどうかだった。しかし三姫子は黙って頷くだけで、何も語らなかった。その様子を見て、さくらは悟った。三姫子は既に全力を尽くしたのだ。しかし、甲虎は耳を貸さなかったのだろう。さくらは三姫子の手を軽く握り、慰めの言葉は何も口にせずに、途中で馬車を降り、自分の馬で屋敷へと戻った。世の中には、知らず知らずのうちに人々が受け入れていくことがある。以前は、さくらが官服姿で馬を走らせていると、様々な視線を向けられた。だが今では誰もが慣れた様子で、中には笑顔で会釈を送る者さえいる。人々は異端とも言える親王妃を受け入れたのだ。しかし、異端な女性そのものを受け入れたわけではなかった。斎藤礼子の退学は、その日の夕刻には式部卿の耳に入った。しかし景子と礼子は事の真相を語らなかった。ただの少女同士の諍いで、上原さくらが裁定を下した結果、礼子だけが退学になったと説明した。式部卿は普段なら緻密な思考の持ち主だが、近年は増長していた。斎藤家の教育に自信があり、一族から無作

  • 桜華、戦場に舞う   第1184話

    庭の石の腰掛けに、三姫子と文絵が腰を下ろした。庭には花木が植えられているものの、どれも元気がない。冬の寒さに萎れ、一層寂しげな景色を作り出していた。「どうして天方将軍のことを弁護したの?」三姫子は手巾で娘の頬の傷周りを優しく拭った。軽く押してみても血は滲まない。幸い傷は深くなく、醜い傷跡になる心配はなさそうだった。ただ、その平手打ちの跡があまりにくっきりと残っているのを見ると、母としての胸が締め付けられた。娘が十一郎の味方をするとは不思議だった。あの一件については、子供たちには一切話していないはずなのに。これまで、こういった厄介な事柄は徹底して子供たちから隠してきたつもりだった。最近の噂が子供たちの耳にも入っているのだろうか。彼らがどこまで知っているのか、確かめておく必要があった。文絵が腫れた頬を上げた。その瞳は純真そのものでありながら、年齢不相応な落ち着きを湛えていた。「お母様、覚えていらっしゃいますか?十一郎様が叔母様を連れて里帰りした時、私に何をくださったか」三姫子は記憶を辿った。「そうね、側仕えのばあやが、あなたと賢一くんにそれぞれ金の瓜の種と金の鍵をくれたわ。随分と気前の良い贈り物だったわね」文絵は首を横に振り、瞳に強い意志を宿して言った。「国太夫人の『山河志』でした。十一郎様は私にこうおっしゃいました。この世では、女性は嫁ぐ以外に生まれた土地を離れる機会は少ない。けれど、外の世界は広大で美しい。たとえ自分の目では見られなくても、我が大和国の素晴らしい景色を知っておくべきだと。空がどれほど広く、どれほど高いかを知れば、目先のつまらないことにとらわれず、他人の機嫌を取るために自分を卑下することもなくなるはずだと」三姫子は息を呑んだ。そうだったのか。あの時の自分は、金銀の装飾品にばかり目が行っていた。何と庸俗な自分だったのだろう。里帰りの際も、贈り物の品々から夕美の天方家での立場を推し量ることばかり気にしていた。「あれから今まで、十一郎様は私たちや叔母様を責めることは一度もありませんでした。でも、お母様」文絵の声が震えた。「十一郎様は本当は悔しくないのでしょうか?怒りを感じないのでしょうか?あんなことがあっても、本当に何事もなかったかのように過ごせるのでしょうか?きっと傷ついて、苦しんでいるはず。だから縁談の話にも積

  • 桜華、戦場に舞う   第1183話

    礼子は母の手を振り払い、三姫子に向かって怒鳴った。「謝りません!私をどうにかできるとでも?殴り返せるものなら殴ってみなさい!」礼子は涙を浮かべた赤い顔を、三姫子の目の前に突き出した。その表情には、言いようのない屈辱が滲んでいた。そうですか」三姫子は冷笑を浮かべた。「では斎藤帝師様に、斎藤家のしつけについてお尋ねするとしましょう」そう言うと、さくらの方を向いて続けた。「塾長、その折には証人としてお力添えいただけませんでしょうか」「帝師様にお会いする際は、事の次第を余すところなくお伝えいたします」さくらは答えた。景子は帝師の耳に入れば大変なことになると悟った。自分たちは間違いなく厳しい叱責を受けることになる。歯を食いしばりながら、景子は礼子に命じた。「謝りなさい」「嫌です!」礼子は涙を流しながら足を踏み鳴らした。「私が悪いんじゃありません。いじめられて、書院も追い出されそうなのに、なぜ私が謝らなければならないの?」三姫子とさくらの冷ややかな視線を感じ、四夫人は厳しい表情で言い放った。「過ちを犯したのだから、謝罪は当然のことです」この数日間の屈辱に耐えかねていた礼子は、母までもが自分を助けず謝罪を強要することに、激しい憤りを覚えた。「絶対に謝りません!好きにすればいいです。死んでも謝らない!」そう叫ぶと、礼子は外へ駆け出した。だがさくらがいる以上、逃げ切れるはずもない。数歩で追いつかれ、三姫子の前に連れ戻された。さくらは三姫子に向かって言った。「この事態は雅君書院の管轄内で起きたこと。書院にも責任があります。こうしましょう。文絵様の顔に傷を負わせた以上、役所に届け出て、しかるべき処置を仰ぎましょう。書院として負うべき責任は、私どもも当然引き受けます」「では王妃様のおっしゃる通り、役所へ参りましょう」三姫子は毅然とした態度で娘の手を握った。「いやっ!役所なんて行きません!」礼子は悲鳴のような声を上げた。良家の娘が役所に引き立てられるなど、これからの人生はどうなってしまうのか。「早く謝りなさい!」景子は焦りと怒りの混じった声で叱責した。「さっさと謝って、この呪われた場所から出て行くのです」しばらくの沈黙の後、礼子は不承不承と文絵と三姫子の前に進み出た。口を尖らせながら、「申し訳ございません。私が悪うございました」

  • 桜華、戦場に舞う   第1182話

    景子の顔色が一層険しくなった。自分の言外の意味が通じなかったはずはない。「大げさに騒ぎ立てる必要などございません」景子は強い口調で言った。「謝罪なら構いませんが、退学というのは行き過ぎでしょう。所詮は子供同士の些細な揉め事。こんなことで退学させれば、雅君女学が融通の利かない学び舎だと噂されかねません。ご令嬢のためだけでなく、学院の評判もお考えください。私の娘が退学した後、もし変な噂でも立てば、傷つくのは書院の名声ですよ」先ほどまでは三姫子への脅しだったが、今度は書院までも脅そうというわけだ。「暴力を振るった生徒を退学させないほうが、よほど書院の評判を損なうでしょう」さくらは冷ややかに微笑んだ。「景子様にお越しいただいたのは、双方の体面を保ちながら、謝罪なり賠償なりを済ませ、子供たちの諍いで両家に確執が生まれることを避けたかったからです。ですが、退学は避けられません。自主退学を拒むのでしたら、私の権限で退学処分とさせていただきます」景子ははさくらには逆らえず、他の教師たちに向かって言った。「先生方、教育者として生徒の些細な過ちくらい、お許しになれないのですか?」「本来なら即刻の退学処分でした」相良玉葉も強い態度で返した。「国太夫人と塾長が礼子様の体面を考慮して、自主退学という形を提案なさったのです」「もう十分でしょう」国太夫人が手を上げて制した。「自主退学を選びなさい。これ以上言い募っても、皆の気を損ねるだけですよ」景子は玉葉を鋭く睨みつけた。生徒たちの証言によれば、退学処分を最初に提案したのは玉葉だった。他の教師はただ同調しただけ。相良家と天方家の過去の因縁など、誰もが知っているというのに。まだ隠せると思っているのだろうか。十一郎が相良家を見向きもしないのは当然のこと。今や相良家を支える者など誰もいない。名声だけが残った没落貴族に過ぎない。式部を掌握する斎藤家なのだ。もし太后様が一言発せられ、上原さくらが宮中に駆け込んで阻止していなければ、十一郎はとっくに斎藤家に縁談を持ちかけていたはずだ。景子は確信していた。以前の婉曲な断りは、村松裕子という女の政治的慧眼の欠如によるものだ。十一郎なら分かっているはず。武将が権勢を振るうには、朝廷の後ろ盾が不可欠なのだから。婚姻による同盟こそが、最も確実な結びつきなのだ。「相良先

  • 桜華、戦場に舞う   第1181話

    三姫子も侍女の織世を連れて姿を見せた。娘が平手打ちを食らったと聞き、まず娘の様子を見に行った。頬は腫れ上がり、細い傷まで付いていたが、国太夫人が既に薬を塗ってくださったと知る。娘を二言三言なだめた後、急いで書雅館へ戻り、国太夫人にお礼を述べた両夫人が席に着くと、さくらが仲介役として事の経緯を詳しく説明した。説明を終えると、斎藤礼子と親房文絵、そして証人となる数名の学生たちを呼び寄せ、両夫人からの問いただしに備えた。景子夫人の表情は明らかに険しかった。一つには、分別のない娘が書院でこのような話を持ち出したことへの憤り。もう一つには、天方十一郎が礼子など眼中にないなどと、親房文絵が放った言葉への腹立ちだった。そんな噂が広まれば、娘の評判に関わる。とはいえ、娘の斎藤礼子が手を上げた以上、口論とは訳が違う。景子は仕方なく頭を下げ、そっけない謝罪の言葉を三姫子に向けた。「確かに、若い娘たちの言い争いとはいえ、不覚にも娘が手を出してしまい申し訳ございません。どうか寛大なお心で」三姫子は礼子を一瞥した。まるで自分が被害者であるかのように、礼子の顔には今なお不満げな表情と、理不尽な扱いを受けたような悔しさが浮かんでいた。「もう元服も済ませた娘です。子どもではないのですから、自分の行動には責任を持つべきでしょう。手を上げたのは礼子様なのですから、謝罪するのもまた礼子様自身であるべき。その後、許すか許さないかは私の判断にお任せください」景子は内心、西平大名家が斎藤家の立場を考慮するはずだと踏んでいた。上原さくらがこうして両家を呼び寄せたのも、穏便に解決を図りたいという配慮からに違いない。しかし、自分が譲歩したにもかかわらず、三姫子がこれほど頑なとは。他の生徒たちの前で面目を潰されたも同然だ。生徒たちは必ずや家に帰って今日の出来事を話すだろう。景子は背筋を伸ばした。事を荒立てたいというのなら、とことんまで話し合おうではないか。事情は承知していたものの、威厳ある態度で生徒たちに尋ねた。発端は何だったのか、なぜ口論になり、どうして暴力に発展したのか。生徒たちは塾長の前で、たとえ斎藤礼子の味方であっても贔屓はできず、事の次第を最初から順を追って説明するしかなかった。「まあ」景子は文絵の発言に食いつき、冷笑を浮かべた。「文絵お嬢様、天方十一郎様の弁護と

Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status