INICIAR SESIÓN征司はペットボトルを軽く手に持ったまま、玲衣に何か言おうとした。しかし玲衣はもう椅子に座り直し、澪が料理を終えるのをおとなしく待っている。澪は素早く契約書に目を通した。もちろん内容は慎重に確認したが、とにかく早く征司に帰ってほしい。「特に問題はなさそう。じゃあ、サインするね」彼女はそう言いながら、引き出しからペンを取り出し、すぐに自分の名前を書き入れた。征司は黙ってその手元を見ている。ペンのキャップを閉めると、澪は一応の礼儀として声をかけた。「……夕飯、食べてく?」引き留めるつもりなどさらさらない、断られるだろうと思っての社交辞令だ。これなら、澪のほうもあまり冷たい態度には見えない。征司は契約書の端を指先でなぞりながら顔を上げた。「じゃあ、ご馳走になろうか」澪は一瞬動きを止め、思わず征司を見た。だが彼はもう、ダイニングテーブルに向かっていた。澪は言葉を失った。何なの、この人。契約書を受け取ったら、すぐにでも紗耶のもとへ向かうと思っていたのに。まさか、おざなりな建前を真に受けて、そのまま座り込むとは。だが、口にしてしまった以上、今さら撤回できない。澪は拳をぎゅっと握りしめ、渋々キッチンへ向かい、食器を取り出した。澪がキッチンに入っている間、玲衣は征司をじっと見ている。「おじさんはママと、お友達なんですか?」征司は澪の背中へゆっくり目を向けた。「そう思うなら、それでいい」玲衣はよく分からないという顔をしながらも、そのまま続けた。「でも、あんまり仲よさそうに見えません」前にも、このおじさんはママと知り合いだと言っていた。しかし玲衣には、どうしてもそうは見えない。友達なら、こんなによそよそしく話したりしないはずだ。仲がよくない――征司は玲衣の鋭い指摘に表情ひとつ変えず、代わりに問い返した。「君こそ、どうしてここにいるんだ?」宇一が海外に行ったことは、征司も知っている。少し前、自分と澪の夫婦関係が公になったこともある。蓮の話どおりなら、宇一はその事実を知って、澪と距離を置いたはずだ。それなのに、自分の娘を澪に預けている。それだけ澪を信頼しているということだ。自分にとって何より大切な存在を、安心して任せられるほどに。「家族だから、一
目の前で、征司と玲衣が向かい合っている。その光景を見た瞬間、澪は一気に血の気が引いた。足元から冷え冷えとした恐怖が這い上がってきた。今すぐ二人の間に割って入り、ドアを閉めたい――そんな衝動を、澪は必死に押し殺した。少しでも動揺を見せるわけにはいかない。征司がどれほど勘の鋭い男か、澪は誰よりもよく知っている。征司は目の前の玲衣をじっと見つめていて、その瞳に、一瞬何かがよぎった。先に口を開いたのは玲衣だ。「おじさん、こんばんは」玲衣は愛らしい声で、きちんと挨拶をした。まだ幼いのに、この子はこういう時でも妙に落ち着いている。同い年の子どもより、ずっと物怖じしない。征司はしばらく玲衣から目を離さなかった。やがて視線を上げ、その後ろにいる澪を見る。「どうして穂積さんの娘がここにいる?」声は静かで低く、その意図や感情はまったく読み取れない。澪は二人のもとへ歩み寄ると、玲衣の手を引いて部屋の中へ促した。「何しに来たの?」と、征司の問いには答えずに冷ややかに聞き返した。考えてみれば、征司がここへ来るのはこれが初めてだ。澪が家を出てから、彼は一度も訪ねてきたことはなかった。もっとも、征司がその気になれば、澪がどこで何をしているか調べることなど難しくない。このマンションを突き止めたとしても、不思議ではない。「入ってもいい?」征司もまた、澪の問いには答えない。澪は胸の奥で渦巻く不安と激しい拒絶感を必死に抑え込み、平然とした表情を作った。仮面をかぶって平静を装うことなら、この七年間で嫌というほど身に染みついている。「ここまで上がり込んでおいて、今さら許可を取るの?」澪はそう言って、玲衣の手を引いたまま奥へ向かった。玲衣は振り返り、部屋に入ってくる征司を見た。もちろん、この人のことは覚えている。律樹くんのお姉さんの夫だ。以前、幼稚園で会った時のことも覚えている。律樹くんのお姉さんはママに意地悪だったのに、このおじさんはまるで気づいていないようだった。しかし、そのあと遊園施設で彼はママを助けてくれたこともある。征司は部屋の中を一通り見回し、最後にダイニングテーブルに目を止めた。出来たばかりの料理からはまだ湯気が立っている。並んでいるご飯茶碗は二つ。ちょうどこれから
玲衣は、澪の部屋にあるものすべてが珍しいらしく、目を輝かせながらあちこち見て回っている。「ママ。これから玲衣も、ここでママと一緒に暮らすの?」ぱたぱたと駆け寄ってきた玲衣の頬は、興奮でほんのり赤く染まっている。その愛らしい姿に、澪の表情も思わず緩んだ。彼女は腰をかがめ、その柔らかな頬を優しくつまんだ。「こんなに狭い部屋でもいいの?」ここは、玲衣が今まで暮らしてきた広い一戸建てとは比べものにならない。玲衣は幼い頃から何不自由なく育ち、衣食住のすべてにおいて恵まれた環境で暮らしてきた。それなのに、こんな小さなマンションで澪と暮らすことを心から楽しみにしている。「ママと一緒なら、どこでもいい!」玲衣は顔を上げ、大きな目をぱちぱちさせた。「橋の下でもいいよ!」澪は思わず吹き出した。「それはだめ。ママ、もっと頑張って働かなきゃね。玲衣を橋の下に住ませるわけにはいかないもん」しかし玲衣は、冗談のつもりなどない。本気でそう思っている。ママがお金を稼ぐのが大変なのも知っている。だから早く大人になって、ママのためにお金を稼げるようになりたい。お金があれば、それだけ安心して暮らせるとママはいつも言っているからだ。澪は料理が特別得意なわけではない。レシピを見ながら、子どもが喜びそうな料理を何品か作れる程度だ。玲衣がリビングでアニメを見始めた頃、澪のスマホが鳴った。今日は気分がよかったこともあり、相手を確認せずそのまま電話に出た。「もしもし?」一瞬、向こうが黙った。「俺の番号、登録してないのか?」その冷ややかな声に、澪の背筋が反射的に強張り、野菜を洗う手も止まった。「……何か用?」征司の声は相変わらず淡々としている。「いつ帰るんだ?この前話した契約書ができた。お前の署名が必要だ。それが済めば、こっちから送金する」澪は反射的にリビングへ目をやった。玲衣がソファに寝転がり、タブレットを見ながら楽しそうに笑っている。彼女は思わず悪態をつきたくなった。よりによって今日なのか。玲衣とようやく一緒に過ごせる日に限って、征司は紗耶を瑞穂メディカルから切り離すための手続きを済ませたようだ。「今日は帰らない。話は明日にして。待たなくていいから」紗耶の件を片づけることと、玲衣
何人かの大学関係者と連絡先を交換し、会食はお開きとなった。外に出ると、知之が澪を迎えに来ていた。二人が進めているプロジェクトは、最近のテストでもかなりいい結果が出ている。このまま順調に進めば、今年後半には正式に稼働させ、まずは三か月間の実証試験に入る予定だ。それまでに、やることは山ほどある。製品の事前PRを始め、市場への投入準備やプロモーション、提携先との調整も、すべて同時に進めていかなければならない。「これからは、どれだけ早く導入先を広げられるかが鍵になる。病院や医療機関の責任者にも会って、実際に使ってもらえるよう話を進めていかないとな」知之の頭の中では、すでに具体的な段取りが組まれている。今のうちにできるだけ多くの医療機関と話をつけておけば、手術支援ロボットが正式に稼働した時、スムーズに導入につなげられる。「まずは優先度の高い病院をいくつかピックアップして、面談のアポを入れておこう」ここをしっかり固めておけば、あとの展開はずっと楽になる。どれだけいい製品を作っても、実際に使ってもらえなければ意味がないのだから。ー夕方。澪がちょうど原料の抽出作業を終えたところで、玲衣からメッセージが届いた。送られてきたのは、「いる?」と顔をのぞかせる可愛らしいスタンプだ。澪はクリーンウェアを脱ぐと、すぐに玲衣に電話をかけた。「どうしたの、玲衣?」電話の向こうで、玲衣がくすくす笑った。「ママ、明日お休みなの。明日一日、玲衣と一緒にいてくれる?」その声は、どこか遠慮がちに聞こえる。仕事が忙しいからと断られるかもしれない。以前のように、「今はまだだめなの」と言われるかもしれない――そんな不安を抱いているのだろう。澪は胸がぎゅっと締めつけられた。玲衣には、ずっと寂しい思いをさせてきた。もうすぐ六歳になるというのに、これまで一緒に過ごした時間はあまりにも少ない。今年、玲衣がこちらの幼稚園に転校してきていなければ、今だってほとんど会えないままだったかもしれない。「もちろん。ママは明日、大丈夫だよ。玲衣が一番大事だから」これ以上玲衣をがっかりさせたくなくて、澪は仕事の予定を後ろに回すことにした。すると案の定、玲衣の声が一気に弾んだ。「じゃあママ、今夜、会いに行ってもいい?ママと一緒に寝た
今日を過ぎれば、澪はそう簡単にK医科大学に入れないだろうと蓮は思っていた。蓮の言葉の裏にある意味を察し、紗耶は口元を押さえてくすりと笑った。要するに、澪は自分の背中すら追えない存在で、最初から同じ土俵にすら立っていないということだ。征司はスマホに目を落とし、仕事のメッセージに返信している。こちらで澪の話をしていることなど、まるで耳に入っていないかのように、どこまでも無関心を貫いている。蓮は今度は彰人に目を向けた。「それにしても、穂積社長もどうしてよりによって澪なんかを気に入ったんだろうな」優秀な女など、探せばいくらでもいる。澪には、少し顔がいい以外に取り柄などないはずだ。その話になると、紗耶はわずかに口元を歪めた。「穂積さんも、今頃自分が騙されてたって分かってるんじゃない?」少し前、森宮家の記念パーティーで、征司は紗耶を庇うために自ら澪とは夫婦だと公にした。宇一なら、澪が既婚者だと隠したまま自分に期待を持たせていたことにも気づいたはずだ。夫のいる女だと分かって、それでも以前と変わらず受け入れてもらえると澪は思っているのだろうか。「まあ、そうだろうな。最近、穂積社長は海外に行ったって聞いてた。澪のことはもう完全に見切ったんじゃないか?その後、何も音沙汰がないみたいだしな」蓮は鼻で笑った。宇一ほどの立場にいる男なら、プライドも高い。澪が既婚者で、しかも森宮家の嫁だと知った以上、わざわざ面倒を背負い込んでまで関わるはずがない。紗耶はこれ見よがしに眉を上げた。結局のところ、澪だって大した女ではない。まだ森宮家に身を置きながら、外では別の男に色目を使い、あろうことか相手に宇一を選んだ。征司に捨てられた時に備えて、宇一を次の相手として確保しておきたいだけだろう。だが、その目論見も完全に外れた。こんな時期に宇一が海外に行ったとなれば、澪を見限ったのは明らかだ。その時、征司がふいに顔を上げ、底知れない眼差しを彰人へ向けた。「穂積さんの娘の件だけど……その子の母は、見つかりそうなのか?」征司は彰人にそう尋ねた。宇一に一杯食わされたままでは気が済まない彰人は、何としても玲衣の母を探し出し、この状況をかき乱すつもりでいる。彰人は目を細めた。「ああ。少し手がかりは出てきた。五年前、穂積さんが
紗耶は言いたいことだけ言うと、口元に笑みを浮かべたまま化粧室を出ていった。優越感に浸りきっているのか、その笑みは最後まで消えることがなかった。それがまるで鋭い刃のように澪の神経を逆なでし、澪は思わず眉をひそめた。しかも紗耶はさっさと立ち去ってしまい、澪が言い返す隙すら与えなかった。澪は思わず鼻で息を吐き、呆れ果てて乾いた笑いを漏らした。よくもまあ、ここまで恥知らずになれるものだ。人の道から外れたことをしておきながら、もっともらしい理屈を並べ立て、自分たちこそ「真実の愛」を貫いているのだと、厚顔無恥に言い張るのだから。化粧室を出ると、紗耶がまっすぐ征司のもとに向かっていくのが見えた。まるで自分こそが、彼の隣にいるべき当然の存在だと言わんばかりの足取りだ。知之がやって来て、少し険しい顔をしている澪を見た。「どうした?」澪は紗耶から視線を外し、唇を軽く結んだ。「何でもない。犬に噛まれただけ」こちらが相手にしていなくても、向こうから勝手に追いかけてきて噛みついてくる。そういう厄介な犬もいるものだ。知之は反射的に紗耶のほうを見た。「……あいつ?」「このあと、まだ何か予定ある?」澪は紗耶の話にこれ以上時間を使いたくない。知之もそれ以上は追及せず、本題に入った。「このあと会食がある。そこで大学側の人たちと、着任後のことを正式に話すことになってる」今の澪は大学側にとっても注目の的であり、極めて重要な人材として扱われている。澪は困ったように、指先で軽く鼻の頭を掻いた。「え……それ、絶対出なきゃだめ?」知之は呆れたように、澪の額を指で軽く弾いた。「俺も行くんだから、何をそんなに構えてるんだよ。これから一緒に働く人たちに、きちんと挨拶しておかなきゃ。まだ正式な手続きが全部終わってないから公にはできないけど、内々に一度きちんと会って、顔合わせしておく必要があるんだよ」知之は笑いながら首を振った。澪のこういうところは、まだ妙に幼い。普段はあれだけ堂々としているくせに、こういう場になると途端に心細くなるらしい。少し離れたところにいる彰人は、その二人のやり取りをじっと見つめている。知之と澪の間には気負いがなく、自然な親しさがある。澪が知之を心から信頼していて、彼の前では普段とは違い、少し甘えた
結婚して七年。朝比奈澪(あさひな みお)は夫の森宮征司(もりみや せいじ)に知られずに、ひそかに娘を産み育ててきた。娘の穂積玲衣(ほづみ れい)は今年五歳になるが、征司はその存在さえ知らない。父親になる機会を、澪が最初から与えなかったからだ。夜勤の休憩に入ると、澪は隣のS県でひっそり育てている娘から届いたボイスメッセージを再生した。「ねえママ、私、なんでパパに会ったことないの?私のパパって、もう死んじゃったの?」まだ舌足らずな、甘えた声が流れてくる。澪は一瞬、本気で考えた。生きてはいる。でも、父親としては死んだも同然だった。最近、玲衣は少しずつ自分なりの考えを持つよ
そばにいる征司の友人、佐伯蓮(さえき れん)も笑いながら口を挟んだ。「ほんとだ。何、その顔。ずいぶん機嫌悪そうじゃん」彰人は席に着くと、向かいに座る紗耶をちらりと見た。紗耶はいつも通り落ち着いていて、彼らとの距離の取り方も心得ている。振る舞いにも隙がなく、人としても申し分ない。それなのに、澪は陰であんなふうに彼女を悪く言っているのだ。「さっき下で誰を見たと思う?澪だ」それを聞いても、征司の表情は少しも変わらなかった。冷ややかに整った顔に感情はなく、テーブルに置いた指先で、気のないように軽く卓を叩いている。妻である澪のことなど、まるで興味がないようだ。紗耶は彰
征司は紗耶のものをこの家へ運び込むことを許した。それは、森宮家の妻である澪がどれほど惨めに敗れたのかを、家中の者に見せつけるのと同じだ。離婚するつもりでいるとはいえ、澪はまだ征司の妻だった。征司がどれほど急いで紗耶を表に出したがっていようと、離婚も成立していないうちから、自分がここまで踏みにじられる筋合いはない。澪は作業員たちを静かに見渡し、運び込まれた家具を一つずつ指さして言った。「どれも高いものですよね。全部譲りますよ。中古で売っても、いい値段になると思いますから。お手数ですが、外へ運び出してください」作業員たちは、ただ雇われて来ただけの人間だ。そんなうまい話を聞か
澪と征司の結婚生活は、最初からうまくいかなかった。征司はほとんど家に帰らなかった。夫婦の営みも、月に二度あれば多いほうで、普段の会話などなおさらない。結婚して一年が過ぎる頃、征司はA国の支社へ赴任することになった。森宮家の実権を少しずつ握るための重要な基盤となるものだそうだ。征司がA国へ出発する前の日の夜、接待で酔った彼は、初めてその晩だけ避妊しなかった。あの夜の征司は、まるで別人のようだった。彼はひどく酔っていて、相手が誰かも分からなかった。普段のように自分を律する余裕もない様子で、歯止めが利かないほど激しかった。征司が出国して二か月ほど経った頃、澪は自分が妊