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第3話

Author: 霧乃吟
澪と征司の結婚生活は、最初からうまくいかなかった。

征司はほとんど家に帰らなかった。夫婦の営みも、月に二度あれば多いほうで、普段の会話などなおさらない。

結婚して一年が過ぎる頃、征司はA国の支社へ赴任することになった。

森宮家の実権を少しずつ握るための重要な基盤となるものだそうだ。

征司がA国へ出発する前の日の夜、接待で酔った彼は、初めてその晩だけ避妊しなかった。

あの夜の征司は、まるで別人のようだった。

彼はひどく酔っていて、相手が誰かも分からなかった。

普段のように自分を律する余裕もない様子で、歯止めが利かないほど激しかった。

征司が出国して二か月ほど経った頃、澪は自分が妊娠していることに気づいた。

医師である澪は、自分の体の変化にすぐ気づいたが、それでも最初は信じられなかった。

今思えば、あの頃の自分はまだあまりにも甘かった。

子供ができない体質だと思い込んでいる彼に、この子の存在を知らせれば、少しは自分と向き合ってくれるかもしれないと思っていたのだ。

だから澪は、まず征司の反応を確かめようと、すぐN市へ飛んだ。

胸いっぱいの喜びと期待を抱えたまま征司の会社へ向かい、凍えるような風の中で二時間待った末、ようやく彼と顔を合わせた。

征司は、突然現れた澪に明らかに驚いた。

けれど、彼女を妻として周囲に紹介することはなく、ただ秘書に指示して、澪を滞在先へ送らせた。

それでもその頃の澪は、まだ征司への思いだけで動いていた。

彼が人前で澪を妻として扱おうとしないことにも、その冷たさにも気づかなかった。

夜になって戻ってきた征司は、シャワーを浴びるなり澪に近づいた。

長旅で疲れていないかなど、気遣う言葉は一つもなく、ただ当然のように身を寄せて、彼女の耳元に唇を落とした。

けれど、その仕草に甘さはなく、義務のように淡々とした触れ方だった。

まるで澪が、彼に抱かれたくてここまで来たとでも思っているかのようだ。

澪は胸の奥に広がる違和感に耐えきれず、征司をそっと押し返した。

澪は動揺を押し殺し、緊張でこわばる声で尋ねた。

「もし、私に子供ができたら、私たち……少しは変われるかな」

その一言で、征司は一気に興を失ったらしい。

彼はあっさり澪から身を離すと、そのまま目を閉じた。

同じベッドにいながら、二人の間には埋めようのない溝があるような気がした。

「子供ができたくらいで、この結婚がうまくいくって、そんな期待はしない方がいい」

征司の声は最後まで淡々としていた。

その落ち着きが、かえって澪には残酷に響いた。

澪は朝まで起きていた。

泣きたいのに、涙は出なかった。

勝手に期待していたのは自分だ。勝手に夢を見て、勝手に失望しただけだ。

そう考えるほど、澪は余計に惨めになった。

翌日、征司は追い払うように彼女の航空券を手配した。まるで、一分一秒でも早く澪を遠ざけるかのように。

悲しみや失望がないではなかった。

それでも、七年で終わるはずの結婚だった。最初からそう決められていた以上、澪はもう迷わない。

征司が本当に子供に関心がないのか、それとも自分には子供ができないと思い込んでいるのか、そんなことは、もうどうでもいい。

今この瞬間も自分の中で育っているこの子を守れるのは、自分しかいない。

だから、征司にはもう何も知らせるつもりはなかった。

彼の態度に振り回されて、自分の体や子供を傷つけるつもりもなかった。

今思えば、征司に何も知らせず、ひとりでこの子を産むと決めたことは、澪のこれまでの人生で、いちばん大胆で、いちばん正しい決断だった。

玲衣が穂積の姓を名乗っているのは、伊織の戸籍に入っているわけではない。

いずれ穂積家を継ぐことになる伊織の従兄が、玲衣を自分の戸籍に入れてくれたからだ。

彼がいなければ、ここまで玲衣を静かに守ってくることはできなかった。

澪は小さく首を振って考えを切り上げ、玲衣とのLINE画面に目を落とした。

森宮家は誰一人として、玲衣の存在を知らない。

この結婚で澪に残ったものがあるとすれば、それは娘だけだ。

征司が夫として最低だったことは、もう分かりきっている。

澪にとって彼は、玲衣を授かるために必要だっただけの相手だ。

そんな相手に、これ以上何を求めるというのだろう。

――

伊織に離婚のことを打ち明けると、彼女は数秒言葉を失った。

澪がどれほど征司を愛しているかを、伊織は誰よりもよく知っている。

澪が十代の頃から、十年以上も征司だけを想い続けてきた。その想いを断ち切るのは、身を裂かれるようにつらいはずだ。

それなのに今の澪の声はあまりにも落ち着いていた。

何度も傷つけられるうちに、澪は痛みにさえ鈍くなったと彼女は思った。

伊織にしてみれば、澪が玲衣のことを征司に黙っているのは当然だ。

あれだけ澪を傷つけてきて、今さら父親などできるはずがない。知らされないのは、彼の自業自得だ。

それでも、澪がどれほど苦しんでいるか、伊織も分かっていた。

だから彼女はすぐに同調した。

「男なんて、都合のいいときだけ偉そうにして、肝心なときには何の役にも立たないんだから。クズはクズよ。そんなクズ、さっさと捨てて正解なの」

通話を終えると、澪はすぐに手を動かし、身の回りのものをまとめ始めた。

七年も森宮家の奥様として暮らしてきた。

それなのに、この家から持って出るものはスーツケース二つ分しかない。

ふと、薬指のダイヤの指輪が目に入って、澪はそれを軽くなぞった。

長く身につけていたせいで、指輪はもう肌になじむほど滑らかになった。

それなのに、触れた瞬間、まるで刃物で切られたような痛みが走った。

澪は深く息を吸った。

そして迷いもなく指輪を外し、離婚協議書を入れた封筒に入れた。

荷物を車に積み終えた頃には、すっかり夜も更けていた。

澪は部屋に戻ると、着替えもせずにそのまま眠った。

翌日。

澪は階下の物音で目を覚ました。

階下からは、家具を動かす音や人の話し声が絶えず聞こえてくる。

三時間しか眠っていない澪には、その音が頭の中をがりがり削るようで、吐き気がするほどつらい。

澪は頭を押さえながら身支度を済ませると、離婚協議書を入れた封筒をすっかり片付いたドレッサーの真ん中に置いた。

それは征司が部屋へ入ったら、必ず目に入る場所だ。

彼がきっと待ち望んでいるはずの、最後の贈り物だ。

それを確認して、澪は部屋を出た。

住む場所は、昨日のうちに伊織が手配してくれた。

玲衣と一緒に暮らすことまで考えて、三LDKの部屋を選んでくれたらしい。

階段の上まで来たところ、リビングで作業員たちに指示を出している少年の姿が目に入った。

十二、三歳ほどの少年だ。澪に気づくと、変声期でかすれた声で、偉そうに言い放った。

「さっさと荷物まとめて出てけよ。ここはこれから、本当の義姉さんが住む部屋なんだから。彼女の場所を汚すなよ」

その無礼で、横柄な少年は征司の弟、森宮悠真(もりみや ゆうま)だ。

甘やかされて育ったせいで、わがまま放題に振る舞っていて、征司とは少しも似ていない。

悠真はこれまで、一度も澪を義姉と呼んだことがない。

それなのに今は、別の女を守るような口ぶりをしている。

澪は階段の上から彼を見下ろし、冷たい声で尋ねた。

「誰のこと?」

「紗耶さんに決まってるだろ。紗耶さんこそ、兄さんにふさわしい女なんだよ。お前は何年も兄さんとこの家に居座って、家政婦みたいなこと以外に何ができたんだよ」

悠真は腰に手を当てて、まだ幼さの残る顔いっぱいに隠しもしない軽蔑を浮かべている。

澪はリビングへ運び込まれている物に目を向けた。

新しいドレッサー。

新しいソファ。

新しい姿見。

どれも、紗耶の雰囲気に合いそうなものばかりだ。

「誰が許したの」

澪の声はほとんど凍っている。

その冷たさに、悠真は一瞬ひるんだが、すぐに恥ずかしさをごまかすように怒鳴った。

「兄さんに決まってるだろ!そんなことも分かんないのかよ!

兄さんはもうお前なんか要らないんだよ。気持ち悪いって思ってる。使い古された雑巾みたいな女のくせに。頼むから、さっさと消えろよ!」

澪は唇を引き結んで、胸の奥を鈍器で強く殴られたようだった。

頭の中が、数秒だけ真っ白になった。

征司はもう、紗耶のためにこの部屋を空けるつもりなのか。

昨日、妊娠している紗耶とのあの出来事を知ったばかりなのに、今日はもう隠す気もなく、彼女の家具をこの家へ運び込ませている。

澪と夫婦として暮らしてきたこの家を、征司は別の女のために、こうも簡単に明け渡そうとしていた。

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