ログイン澪は知之に目を向け、すぐにその意図を察した。澪が皆に問い詰められず、征司の正体を自ら口にして彼の怒りを買うこともないよう、知之は皆の質問をあえて征司本人へ向けたのだ。とはいえ、征司がどう答えるかまでは分からない。「そんなことまで、俺が気にする必要がありますか」男の冷淡な声には何の起伏もなく、その場にいる人々には、それぞれ異なる意味に受け取られた。K大の人々は顔を見合わせ、すぐに納得したようにうなずいた。「そりゃそうですね。森宮社長ほどの立場の方が、自分と関係のない人のことまで気にしているはずがないでしょう」しかし、澪には分かっている。征司は、澪との関係を認める気がないことをはっきり示した。そのうえで、澪が紗耶との関係を明かす前に、話の流れそのものを断ち切ったのだ。それに、征司自身が澪の夫なのだから、答える必要などないという意味もある。彼はいつだって抜かりなく言葉を選ぶ。征司がこの手の話に興味を示さないと察した人々は、それ以上踏み込まず、気まずさを繕うように話題を切り替えた。知之は痛ましげにそっと澪に視線を送った。ここまで惨めな裏切られ方をする妻も、そうはいないだろう。澪は思わず自嘲した。今になってようやく、征司がなぜ家族との年越しに自分を誘い、なぜ大金を出してこれほど大勢の人をここまで呼び寄せたのか、すべて分かった。彼はただ、紗耶と一緒に年越しをしたいのだ。片時も離れたくないからこそ、まずは澪を連れてこようとした。澪を盾にしておけば、美佐子も征司を責め立てられない。その陰で、紗耶とは人目を忍んで甘い時間を過ごすつもりなのだろう。結局、また征司に利用されたのだ。澪はうつむき、自分の手のひらを見つめた。そこには爪が深く食い込み、血がにじみそうなほど赤い痕が残っている。ここまで都合よく使える、離婚間近の妻も珍しいだろう。そう思うと、澪は自嘲するしかない。紗耶は知之へ向き直って話題を変えた。「榊社長。WAKANナビを開発されたフェイに、ぜひ一度お会いして、じっくりお話を伺いたいのです。ご紹介いただけませんか?」その名が出た途端、何人もの目が輝いた。「私も指導教員のもとで、WAKANナビのデータベースを研究したことがあるんです。内容があまりに充実していて、驚きました。フェイはどこまで携
K大の人々は紗耶の姿を認めると、顔を輝かせて声をかけた。「紗耶先輩、全然大丈夫ですよ。今回のことだって、森宮社長が支援してくださったんですから」「そうですよ。先輩のおかげで、私たちがあんなに手厚い手当をいただけるんですから」「もう、森宮社長の奥様みたいなものですものね」征司は彼らにとって、資金を出してくれる後ろ盾そのものだ。ならば紗耶を「社長の奥様」と呼んでもおかしくないだろう。紗耶は口元に手を添えて笑った。目の奥に浮かんだ喜びは隠しようもない。「皆さん、そんな。水臭いこと言わないで」澪は椅子の背にもたれ、見ず知らずの他人のような顔で、皆に称賛されるこの不倫劇を眺めていた。何気なく目をやった先には、紗耶のそばで、彼女のためならどこまでも尽くし、あらゆることから守ろうとする征司がいる。彼の口元には微かな笑みが浮かんでおり、「奥様」という呼び名を否定する気配もない。一人の女を大切にする男は、あれほどまでに目を引くのだ。征司の妻として七年もそばにいながら、自分は透明人間も同然だというのに。生理痛で腹部がえぐられるように痛み、その痛みが全身の神経へとビリビリ伝わっていく。その痛みのせいで、彼女の頭はますます冴え渡った。澪は目を伏せ、瞳の奥の皮肉を隠した。「皆さん、今何のお話ですか?ずいぶん楽しそうですね」紗耶は澪に目も向けず、征司と並んで向かいの席に腰を下ろした。その一言で話題はまた澪へ戻った。K大の数人が笑いを浮かべて、意味ありげに言った。「ご存じないんでしょうけど。澪さんは昨夜、素敵な出会いがあったそうで、でもその相手がご主人らしいんです。今、どんな方なのか聞いていたところです」「そうそう。せっかくですからぜひ紹介していただきたいって。一緒に食事でもすれば、もっと賑やかになるじゃないですか」その言葉が落ちた瞬間、澪は向かいに座る男からの感情の読めない視線をはっきりと感じ取った。しかし、彼女はそちらを見なかった。自分から言いふらしたわけではない。自分が電話に出た時に、彼が勝手に人を間違えてイチャイチャしてきたのが原因なのだから。紗耶の笑みが少しずつ消え、その瞳に一瞬、怒りがにじんだ。澪が昨夜のことをあちこちで吹聴して回るとは予想していなかった。今、自分と征司こそが誰の目
征司がなぜ自分と同じベッドで眠れるのか――そんなことを考える余裕もなかった。ただただ頭に浮かんだ光景があまりにもおぞましく、澪は寝返りを打つなりゴミ箱へ向かって二、三回えずいた。征司と紗耶が何度も体を重ねてきたのだと思うだけで、澪は込み上げる吐き気を抑えきれない。バスルームを出てきた征司は、澪の姿を見て足を止めた。黒い瞳には何の感情も浮かばず、やがて視線を澪の腹部へ落とした。「妊娠でもしたのか」澪はまだ頬を火照らせたまま身を起こし、「違う」と答えた。まさか、あの二人が体を重ねる場面を思い浮かべて吐き気がした、などと言えるはずもない。征司は何も言わずに目を伏せ、袖口のエメラルドのカフスを留めながら言った。「検査の予約を入れとく」澪は返す言葉に詰まった。離婚の話をする前までは、二人だって夫婦としてベッドを共にしていたから、征司が疑うのも無理はない。「私も医者なんだから、心配はいらない」澪は征司の目をまっすぐ見て、安心させるように微笑んだ。「私たちに子どもができることはないから」だから、そんなことで征司が心配する必要はない。もちろん、彼が子どもを望んでいるのだなどとは思わなかった。征司が気にしているのは、澪に子どもができれば紗耶との仲にひびが入るかもしれない、そのことだけだ。澪がバスルームに入ると、征司はしばらく閉じた扉を見つめており、やがてコートを手に取ると、そのまま部屋を出ていった。眠り薬でも飲まされたのではないかと疑うほど、澪は夢ひとつ見ずに十時間以上も眠り込んでいた。ホテルには会議用の部屋が用意されている。澪は慌てて階下へ降り、会議室の扉を開けた。すでに集まっている数十人の視線が一斉に澪へ向いた。その視線には、好奇心とからかいが入り混じっている。知之までが意味ありげに目配せしてきたため、澪ははっとして芹奈のほうを見た。芹奈は好奇心を隠そうともせず、澪をじっと見つめている。「澪さん……会議まであと十分ありますが、その前に、少しだけ教えてください」「今朝の電話で、澪さんのことをベイビーって呼んでいたあの男、誰なんですか?」会議室にいる全員が、興味津々といった顔で澪を見た。昨日は皆一緒に到着したのに、澪は誰も連れていなかった。なのに翌朝には、誰かと同じベッドで一夜を過ごし
征司は革張りのソファに腰を下ろし、絨毯の上に置かれた澪のスーツケースへ目をやった。「お前は何のために来たんだ」「研究センターの出張で」澪は唇をきゅっと結んだ。征司は目を上げ、うっすらと笑った。「仕事で来たんだろ。俺が仕組んだって、何を?」「……」澪は言葉に詰まった。澪は征司とほとんど言い争ったことがない。それでも、彼が本気で口を開くと厄介なことは知っている。必要なときほど、相手が返す言葉を失うようなことを平然と言ってのける男だ。そもそも、なぜ征司が自分を森宮家の人たちとともにここで新年を過ごさせることにこだわったのか、その意図すら分からない。二人はそもそも、いつも一緒にいなければならないほど仲が良かったわけでもないだろう。芝居にしても、やりすぎだ。「それで、どこ寝るの?」澪はここ数日、体調がよくなかった。生理痛のせいで、征司と言い合う気力もなく、思わずそう聞いてしまった。征司は手元のスマートフォンに目を落としてメッセージを返信している。口元にはかすかな笑みが浮かんでいる。ふっと力の抜けた眼差しを再び澪に向けると、ずいぶん余裕のある顔で言った。「どこで寝ると思う?」その問いは軽い調子で、どこか嘲るような響きを含んでいる。彼がスマホの向こうの相手と楽しげにやり取りしていることに、澪は嫌でも気づかされた。表向きの平静を装うことさえ、もう限界だった。とはいえ、彼女はどうしようもない。森宮家の人たちもおそらくもう来ている。それに、離婚のことを隠すと美佐子に約束しているから、逃げ場はどこにもない。「好きにすれば」澪はもう揉める気力もなかった。征司が今回の費用を全額負担した時点で、自分の逃げ道がすべて塞がれていたのは明らかなのだ。破格の手当が支給されるとなれば、皆が年末年始の出張を喜んで引き受けた。そうなれば、彼女が断れるはずもない。そしてひとたび森宮家の人々の目に触れる場所に身を置けば、自分の意志だけで勝手な振る舞いをすることは許されない。澪はスーツケースを引いて空いている寝室へ入り、寝間着を取り出すと、そのまま浴室へ向かった。すでに夜も更けている。明日は朝からチームの会議が控えており、早く休まなければならない。髪を半分ほど乾かしたところで、澪は眠気に耐えられ
紗耶が澪を相手にしなかったからまだいい。もし紗耶が本気で騒いでいたら、彼女のネット上での影響力を考えれば、澪は世間から叩かれ、社会的に抹殺されるかもしれない。聡祐はたしかに澪に一目惚れしたことがあったのかもしれない。しかし、今は違う。もう、あの女に惑わされることはない。―澪はアカリ製薬に戻ると、研究室にこもって薬理分析に没頭した。余計な雑念を、すべて頭から締め出すために。K大との共同研究はすでに動き出しており、澪はチーム全体の方針を取りまとめる立場にある。創薬のプロセスからスケジュールの進行、開発におけるリスク管理、さらには臨床試験や申請手続きの調整に至るまで、すべてを把握しなければならない。それは彼女を忙殺するに十分な業務量で、征司に心を乱される暇などない。澪が森宮家と一緒に年越しすることを断ってから、征司から連絡は一度もなかった。それでも澪の心には、あの翡翠の帯留を取り戻したいという思いがずっとわだかまっている。年の瀬が迫り、多くの企業は少しずつ休みに入り始めている。澪は本来、隆一の家で年を越すつもりだったが、そこへ突然知之がやってきて声をかけてきた。「年末年始の出張、大丈夫か」澪は少し迷った。「何の出張?」「国内でも有数の生薬研究センターで、数日後に希少な生薬の競売がある。K大との共同研究に使いたい原料もいくつか出るらしい。品質もかなり期待できるから、現地で確認しておきたい」ちょうど大晦日から正月にかけての時期と重なった。澪は少し考えた。「私は構わないけど、ほかの人は大丈夫なの?」知之は皮肉っぽく口元を歪めた。「嫌がるわけないだろ?スポンサー様が本気を出したんだよ。飛行機もホテルも食事も、費用は全部征司持ち。そのうえ一人二百万円の特別手当まで出る。みんな二つ返事だったよ」澪はすぐに理解した。紗耶がK大で関わる最初のプロジェクトを、何としても滞りなく進めたいのだろう。本当に、紗耶のためなら惜しみなく動く男だ。澪は肩をすくめた。「それなら、こちらの開発予算が浮くから助かるわね」「ずいぶんと割り切っているんだね」知之はため息を漏らした。澪は冗談めかして言った。「割り切れなかったら、今ごろ森宮グループ本社の屋上から飛んでるわ。ついでに株価も落としてやるところ
美術館には人々が行き交い、賑わっている。征司は帯留を買い取ると、そのまま下へ降りていった。澪は何も考えずに彼を追いかけた。「征司、待って」澪はヒールの音を響かせながら足早に追ったが、それでも征司の歩調にはなかなか追いつけなかった。征司は出口のところで足を止めて振り返った。すでに彼の前には車が停まっており、健太が降りてきてドアを開けた。紗耶の姿が見当たらないのを確認すると、澪はなりふり構っていられなくなり、彼の深みのある瞳をじっと見つめて言った。「あの帯留は朝比奈家のものよ。おばあちゃんの嫁入り道具だった」「そうか。それで?」征司の声には何の揺らぎもない。澪の祖母の嫁入り道具を紗耶に渡すことに、彼は何の問題も感じていない。そのあまりにも当然のような態度が澪の胸を深く刺した。彼女は感情のままに言い返したくなるが、征司の冷たい目を見た瞬間、そんなことをしても無駄だと分かった。「ほかのものなら何でもいい。紗耶のためにどれだけ高価なものを贈ろうと、私には関係ない。でも、朝比奈家のものだけは無理なの」澪は深く息を吸い、少しでも声を落ち着かせようとした。「征司、今まであなたに何かを頼んだことなんてないでしょ。今回だけは……」征司に強く出ても意味がない。自分を愛していない男の前で泣こうが脅そうが、望みが通るはずもない。征司もまた、澪がこれほどまでに必死な姿を見せるのは滅多にないことだ。彼女の手は体の横に下りている。彼女の体の脇に垂らされた手は、無意識のうちに自分の指の腹に爪を食い込ませ、そこだけ血の気が引いたように白くなっている。あれは彼女が緊張した時や、感情が激しく揺れ動く時に出る癖だ。征司は澪の表情を見つめたまま、ゆっくりと言った。「それは紗耶が決めることだ。もう贈ったものだからな」澪は一瞬で全身の力が抜けていくのを感じ、喉の奥から体の芯まで一気に冷えていくような感覚に襲われた。つまり、紗耶に頭を下げろということか。我が家のものを取り戻すために、紗耶の気まぐれにすがれというのか。澪には、目の前の征司がひどく遠い人間のように見えた。昔は、二人でちゃんとやっていこうと話したこともあって、征司が気遣ってくれたことも確かにあった。いったい何が、彼をここまで変えてしまっ
澪と征司の結婚生活は、最初からうまくいかなかった。征司はほとんど家に帰らなかった。夫婦の営みも、月に二度あれば多いほうで、普段の会話などなおさらない。結婚して一年が過ぎる頃、征司はA国の支社へ赴任することになった。森宮家の実権を少しずつ握るための重要な基盤となるものだそうだ。征司がA国へ出発する前の日の夜、接待で酔った彼は、初めてその晩だけ避妊しなかった。あの夜の征司は、まるで別人のようだった。彼はひどく酔っていて、相手が誰かも分からなかった。普段のように自分を律する余裕もない様子で、歯止めが利かないほど激しかった。征司が出国して二か月ほど経った頃、澪は自分が妊
若い看護師ははっと口をつぐみ、気まずそうな顔をした。まさか澪が、夫の弱みをあんなに平然と口にするとは思わなかったのだ。けれど同時に、それは本当なのだろうとも思った。そうでなければ、結婚して七年も経つのに子供がいないなんて、どう考えてもおかしい。そのせいで、彼女の澪を見る目にはさらに同情が増した。澪は、本当の理由までは口にしなかった。征司は最初から澪との間に子供を持つつもりなどない。結婚した最初の夜、彼は氷のように冷めた声で、澪にこう告げた。「仕事が忙しい。子供のことまで考える余裕はないし、持つつもりもない。だから、期待するな。相談しようとしても無駄だ」あの頃
結婚して七年。朝比奈澪(あさひな みお)は夫の森宮征司(もりみや せいじ)に知られずに、ひそかに娘を産み育ててきた。娘の穂積玲衣(ほづみ れい)は今年五歳になるが、征司はその存在さえ知らない。父親になる機会を、澪が最初から与えなかったからだ。夜勤の休憩に入ると、澪は隣のS県でひっそり育てている娘から届いたボイスメッセージを再生した。「ねえママ、私、なんでパパに会ったことないの?私のパパって、もう死んじゃったの?」まだ舌足らずな、甘えた声が流れてくる。澪は一瞬、本気で考えた。生きてはいる。でも、父親としては死んだも同然だった。最近、玲衣は少しずつ自分なりの考えを持つよ
そばにいる征司の友人、佐伯蓮(さえき れん)も笑いながら口を挟んだ。「ほんとだ。何、その顔。ずいぶん機嫌悪そうじゃん」彰人は席に着くと、向かいに座る紗耶をちらりと見た。紗耶はいつも通り落ち着いていて、彼らとの距離の取り方も心得ている。振る舞いにも隙がなく、人としても申し分ない。それなのに、澪は陰であんなふうに彼女を悪く言っているのだ。「さっき下で誰を見たと思う?澪だ」それを聞いても、征司の表情は少しも変わらなかった。冷ややかに整った顔に感情はなく、テーブルに置いた指先で、気のないように軽く卓を叩いている。妻である澪のことなど、まるで興味がないようだ。紗耶は彰