LOGINばしゃりと顔を洗いながら、彼を思い浮かべた。
あの夜は鮮明に今でも思い出すことができる。 後悔しても無駄だからしない。 誰に何と言われようが構わない。 自分で自分を罵るのは止められないけど。 だって、彼を本気で愛してしまった。 普通じゃ考えられないおかしな始まり。 4月28日、ゴールデンウィーク前のできごとだった。あれから一週間が過ぎた。 日に日に彼が心を占める割合が大きくなっている。 きっと二度と会えないかも知れない人なのに。 彼からしたら私なんてほんの子どもに過ぎなくて、 手に入れるのは赤子の手を捻るくらい簡単だったんだわ。 でも何でこんな子どもの私を彼は……。 あの人は女性の扱いにひどく慣れている。 一度きりの夜でそれを理解してしまった。 私の心に消えない面影を刻みつけて。 忘れようと思うほど想いは募るばかり。 だったらいっそのこと忘れずにいよう。 無理に考えまいとすると他に影響してしまう。 心の中に思い出として封じこめておくの。 もっとちゃんと恋をしたい。 あの人の影を消せる人はいるのだろうか……。 鏡に映った自分の顔。 やっぱり幼い感じがする。 化粧をするといささかましになるけれど。 バタンと部屋の扉を閉めて鍵をかけた。 走り出す。 ヒールのかかとを直して、バス停へ。 腕に嵌めた時計がカチカチと鳴っている。 時計を見ながら、バスを待つ。 この場所から乗るのは私しかいない。 頭の中に過ぎる彼のことを消そうと、空を見上げる。 暫くぼんやりと眺めやっていた。 すっきりと晴れている空もいつ雨に変わるか分からない。 バッグの中の折り畳み傘を確認して、ほっと息をつく。バスがやって来る気配がした。
私が、手を上げるとバスが止まる。 乗こんだ車内の一番奥の席に座った。 走り出すバスに揺られてながら、窓の景色を見つめる 考えてはいけない事を掻き消そうと、小さく首を降った。 意地悪……。 早く私の世界からいなくなって。 お願い。今日も無事一日を終えることができた。
伸びをして椅子から立ち上がると、 壁の時計は18時を指している。 ロッカールームへと立ち寄り、自分のロッカーから鞄を取り出す。 それを手に持つと会社を出た。仕事が終った後。
バスが来るのは30分後なのでいつも本屋で時間を潰してバスを待っていた。 たくさんの人でごった返している店の中を奥の方へと歩いてゆく。 きょろきょろと視線を彷徨わせ、本を探す。 ……あった。 買おうと思っていた本を見つけた。 あんな高い場所にあるなんて届かないわ……。 そんなに背小さい方でもないんだけどさすがにあれは。 店員さんに取ってもらおうか。 ちょっと恥ずかしいかな。 躊躇した私は、手を伸ばしてみた。 もしかしたら届くかもしれないじゃない。 必死に背伸びして本を掴もうとした。 くらり。 体が傾ぐ。 やっぱり届かない。 その時、ふいに横から手が伸びた。 すっと差し出されて戸惑う。 「これでいいのか? 」 この声!? 嘘……どうして。 こんな所で会ってしまうなんて。 あの印象的な声を忘れるはずもない。 「……やっぱりいいです。取って頂いたのにごめんなさい」 俯き加減になりながら、彼に本を強引に押し返す。 彼は無表情でただこちらの様子を伺っていた。 端正すぎる顔だから余計冷たく見える。 動揺してしまう。 思い出から脱出したあの人がそこにいたのだ。 私は駆け出した。 早くこの場から立ち去りたかった。 走って店から出て行く客なんて怪しまれたに違いないけど。 冷静に考える余裕なんてなかった。 ここから逃げること以外頭になかった。走って本屋から出た私は見知らぬ道へと迷い込んでいた。
どこをどう来たのかさえ分からない。 どうしよう。夢中だったから……。 私は途方に暮れた。 とぼとぼと歩き出す。 もう走る気になれなかった。 ぼうっと歩いていると、軽い誘いが耳を掠める。 無理矢理腕を引かれたりした。 怖い……。 「や……やめてください」 何とか手を振り払う。 また走り出す。 ヒールで走ると余計足が痛かった。 いちいち動揺して逃げたからこんなことになったのだ。 バカな自分を恨めしく思う。 涙なんて出てもないけれど妙な虚しさが心に降り積もる。 逃げたりしなければ……。どうしようもない気持ちになりながら、何とか明るい場所まで
出た私は、とぼとぼとバス停へと向かった。 乗るはずのバスは出てしまい、次を待たなければ 帰ることが出来ない。 振り返ると時計は、7時30分を差していた。 手のひらに滴が落ちてきて、次は肩を濡らした。 「……雨」 慌ててバッグから取り出した折り畳み傘を開いた。 こんな暗い雨の中、ベンチに座っているのは私一人だったが、 他にも立ったまま数人バスを待っている人がいて何だかホッとする。 本買えなかったな。 また明日の帰りに買えばいいけど。 バッグを抱えて座り込む。 座ってバスを待つ人は他にはいなくて、一人座っている 私が何だか目立ってるみたい。 何故か笑ってしまう。 他の人から見ても疲れきっているのが分かるだろう。 湿気のせいで蒸し暑く余計にだるかった。 早く帰りたい。 肘をついて、車の流れを見つめる。クラクションが高い音を鳴らして、止まった。
私の目の前で。 誰かを迎えに来たのかな。 ぼうっとそんなことを考える。 「乗れよ」 低い声と共に助手席のドアが開いた。 白々しかったがあたりを見回す。 誰も関係ないのか、こちらに反応している人はいなかった。 「え……」 彼は煙草を咥え、ハンドルを握っている。 戸惑った。 乗っていいわけがない。 これは罠に決まってる。 極上すぎる罠なのは身に染みている。 けれどこんな様子でいたらおかしい。 周囲の視線が次第に集まってきているのだ。 それに……。 「ありがとう」 私は片道しかない切符を手に彼の車に乗り込んだ。 どうなっても私には何も言えない。カタカタと震える体を抱きしめる。
怖くはないけどでも……。 「何か疲れ切ってる感じだった。それに雨も降り出してきたしな。 実は本屋で気付いてたんだが、声をかける前に走っていったから」 逃げなければって思ったのよ。 捕まっちゃうもの。 「……あの日からあなたの事を一度も忘れたことなんてない」 口が苦味を帯びる。 ルームミラー越しに彼がわたしを見た。 「馬鹿だな」 「忘れられるわけ……ないじゃない」 声が震え途切れ途切れになる。 涙がじわりと瞳に溜まってゆく。 「どうしてあんなことしたの! 」 泣き叫ぶ。 「あなたにとっては簡単なことなんでしょ。 こんな世間知らずな子供を手に入れるくらい」 自分で言っていてみじめになった。 「私なんかのどこが良かったの? 私なんかじゃなくても 大人で綺麗な女の人なんてたくさんいるでしょ」 あなたなら手に入れられるでしょう。 私はどんな言葉が欲しいの? 自分だって拒まなかったのに、彼を責める権利なんて。 寂しくて寂しくて、誰かに側にいて欲しい気持ちと、 退屈な現実から引きずり出してほしい気持ちが あったのではなかったか。 何て身勝手で子供っぽい。 自嘲的な気分になる。 「欲しいと思った」 「無性にお前が欲しかったんだ。 階下で目が合ったあの時、俺の心はかき乱された。 瞬時にがんじがらめにされたんだ」 「……嘘よ」 「誰でも良かったんでしょ? 」 「お前だから欲しいと思った。信じてくれなくてもいいが」 最後が投げやりに聞こえたが、声音が真摯だった。 信じてしまいそう。 「……本当? 」 「ああ」 涙が後から後から零れ落ちる。 胸が熱くて仕方ない。 まだ信じちゃいけない段階なのに……酔わされる。 甘い言葉を簡単に信じてしまう。 彼だからなのかもしれない。 堕ちていく。 加速する心と同時に、車がスピードを上げる。 強がりなんて何の歯止めにもならないことが分かった。「怖かったの」
今、私は彼が定宿にしているホテルの部屋にいる。 家へ帰らなければいけないと、言ったのだが、 聞き入れてもらえず連れて来られてしまった。 心配してくれたのもあるのだろう。 元々私も車に乗ってしまったのだけれど。 私は何を不安に思っているのか。 嫌ではない。 こうなってよかったと思っている。 引き返せなくなることが分かって怖いだけ。 私は彼に本屋を出た後のことについてぽつぽつと語った。 肩を震わせて泣き出した私を見て、『慰めて欲しい』 勝手に彼はそう解釈したのだろう。 気分よくなるからと備え付けの冷蔵庫から、お茶を取り出し、グラスに注いでくれる。 優しいんだ。 これじゃあ簡単に懐柔されてしまう。 「それもこれも俺が原因か」 彼は煙草を口に咥え、火をつける。 「ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの」 いくらなんでも彼を見て逃げたなんて私は 酷いことを。やっぱり子供だ。 「冗談だよ。辛かったな」 彼は頭を撫でてくれた。 柔らかい仕草に安心する。 「今夜は側にいてやるよ」 そのつもりで連れて来てくれたんでしょ? 「お風呂入ってもいい? 汗で気持ち悪くて」 隣に座る彼を見つめる。 「ゆっくり入れよ」 彼は淡く微笑んで、口づけを落とした。 「うん」お風呂を使わせてもらった。
大胆なこと言っちゃったかな。 湯船に浸かり、明日どうしようかと考える。 送ってくれるかしら。 温かいお湯に疲れが癒されてゆくのを感じながら、 ああ明日が休みでよかったと単純に思った。カチャリ。
彼が用意してくれたのか、バスタオルがさりげなく置いてあった。 髪を拭くための物と2枚。 髪を拭いていると、鏡に自分の姿が映る。 赤い痕の消えた白い体。 顔とアンバランスだと友達にも言われるけれど、 ……どういう意味? そっか。もしかしなくても彼はこれが欲しいんだ。 ははは。よかった彼に気に入ってもらえるもの 持ってるじゃない……。 乾いた笑いを浮かべる。 髪を拭き終えたら、体にタオルを巻きつけ部屋へと戻った。 「あなたは? 」 「今朝入ったからな。いいんだ」 煙草の匂いに混じったコロンの香り。 あれ、さっきは気づかなかったのに。 甘くて苦い香りに惑わされてしまう。 色っぽくこちらを見つめる彼と見つめ合う。 刺激という渦の中に吸い込まれる。 彼に誘われ、私の世界が色を失くす。 優しく重ねられた口づけ。 それきり、瞳を閉じた。 床に落ちたバスタオルの音。 折り重なるようにベッドの中へと沈む。 エアコンが効いた室内に別の熱気が籠もるのはすぐだろう。窓をたたく雨音が、微かに耳に届いた。
私は彼の肩に腕を回し、啼く。 寂しさを埋めてくれる彼。 瞳から零れ落ちる涙が止まらない。 体全部が熱い……。 どこまでも彼を感じている。 お互い求めているものが別であったとしても、いいの。 こうして寂しさを重ね合わせることができることが、 何よりも幸せなことだから。 時計の音がやけにリアルに響く。 今だけ、聞こえなくなればいい。 粉々に砕いても時間の理がなくなることはない。 手で耳を塞げない代わりに首を振る。 怪訝な顔で彼が、私を凝視した。 どうかしたのかとでも言いたげな顔。 「時計の音を聞きたくないの」 彼はくすりと笑い、 「俺だけ感じていればそれでいい」 傲慢に告げた。 私は答えの代わりに微笑んだ。 愛情で私を包んでくれてるわけはないのに、 どうしてこんなに温かいの? 彼の温度は何故。 愛してくれてると希望持ってもいいのかな。 たとえこのひとときだけだとしても。 今はそんなことどうでもいい。 こんなにも満たされているんだもの。首筋をたどる唇も、肌を辿る長い指にもときめいてしまう。
色んな女性を知っているであろう彼は、 慣れた仕草で私を翻弄する。 夢の中でまどろむ。 否、夢か現か分からなくなっていた。 私を現実に引き戻したのは、彼の呟き。 「……い」 掠れた小さな声だったから、ちゃんと聞き取れなかったけれど、 それで良かったと思った。 怖い……。 ぎゅっと彼にしがみ付いた。 こんなに温もりを感じていても、すごく辛い。 お願い。朝なんて来ないで! 甘い時間に酔わされていても、別のところで不安が巻き起こる。 しがみつくと抱き寄せられた。 青は、狂おしい表情で私を力強く抱く。 今だけ、酔いしれさせて。 朝が来るまででいいから 眩しい朝の光。 いつもと違うのは、誰かの腕の中だということ。 それに煙草の紫煙もぼやけた視界に映っている。 気だるい気分のままに、体を起こす。 痛みはないけれど力が出ない。 いたる所に無数に刻まれた赤い印がうっすらと浮かんでいて、 ゆうべの出来事をまざまざと思い出させる。 途端に顔が赤くなった。 「……はずかしい」 両手で頬を押さえる。 「何を今更」 冷たい一瞥が浴びせられた。 やはり、彼は起きていた。 「だって……」 「可愛かった」 「……! 」 ぼっと顔に火が灯る。 「嬉しいけどそんなこと言われると……」 ドキドキする。 「また会えるか? 」 「私は会いたいけど」 「俺は、ちょっと厄介な仕事をしてるから、 そんなにしょっちゅう暇なんてできない。 それでもよかったらまた会おう」 「会えるなら待つわ」 胸が微かな痛みを訴えた。 また彼の呟きを聞いてしまうのはとっても怖いけど、 ……会えるんだからいい。 にっこりと彼に笑いかけた。 優しく髪を梳いてくれる手は、 まるで本当の恋人みたい。 ふと髪を梳いていた手が止まる。 がさごそと床に置かれた袋を探ろうと手を伸ばした。 私は彼をそっと見つめる。 彼は袋から箱を取り出す。 と思ったら、髪の毛を掻き分ける。 首筋にひんやりとした手が触れた。 「……青? 」 次の瞬間、耳たぶがチクリとした。 左右の耳交互に同じ感覚。 「似合ってる」 指先でピアスを揺らして彼は笑った。 「え……あ、ありがとう」 「いつか落としてしまったからな、そのお詫びも兼ねて」 至近距離にいる彼の吐息が頬を撫ぜる。 また胸が高鳴った。 真紅の石がついたピアス。 こんな大人っぽい物をくれたことに嬉しくなった。 「別に無理することないんじゃないか。そのままで充分だと思うぞ」 全て見抜かれていた。 「……でも」 「外見だけ取り繕ってもな」 彼は大人だ。 たとえどんな人だとしても。 「もう無理しない。そのままの私でいる」 「そうだな」 とろけるような微笑にうっとりとしてしまう。 「送っていってやるから準備しろ」 「わかった」朝来ちゃったんだ。
ちょっと悲しいな。 甘えることは許されないから、このまま従うしかない。 いつか一言「帰りたくない」なんてわがままいってみたいな。 冷たく突き放されるかしら。 それでもいいから、言ってみたい。 ノーでもイエスでも彼の答えが聞ければ。 私は、肌に移った彼のコロンの香りを 確かめるように、自らを掻き抱いた。 髪をくすぐる煙草の苦い匂いと、肌から香る甘いコロン。 彼と一緒に過ごしたことを実感した。 名残惜しいけれど、急いで衣服を身に纏う。 耳元で揺れるピアスに指で触れる。 ドアの前で髪を掻き上げる彼。 私は衣服を整えて走ってゆく。 次の約束の日はいつだろう。 待ち遠しくてたまらない。ちゃんと彼は避妊してくれるから、安心してゆだねられるけれど、
もっと彼を感じたいって思う。 体の先に見える心を、私はきっと求めている。シーツに残る温もりに微笑んだ。 朝まで共に過ごせたことを改めて実感する。誘われて旅行に来てよかった。 嬉しすぎて、じんわりと心に温かい気持ちが広がる。 温もりを確かめたくて頬を寄せると 力強い腕がそこにはあった。 こうして抱きしめられていると安心する。 いつもはベッドから離れて衣服を身につける青をぼんやりと見ているだけだった。「沙矢」 名を呼ばれる。「……どうしたの?」 恐る恐る聞く。 一緒に帰るのだと分かっていても置いて行かれそうな恐怖がある。一度ホテルの部屋に放って置かれたのはトラウマだった。「カーテンを開けてくれないか?」 昨夜は彼が閉めたカーテンを今度は私が開ける……。「ええ」 するりとシーツを肌に巻きつけると寝台から立ち上がる。 カーテンを開けると朝焼けに照らされた海が見えた。 眩しくて、目を細めて景色を眺める。 彼を振り返ると、サイドテーブルに置かれたシガーケースから 煙草を取り出しているようだ。 私と視線を交わし、煙草に火をつける。 この姿を見るのは別れの瞬間と決まっていた。 眠ったフリをして薄い瞼であなたの仕草を見つめていたの。 今日はそうではない。 共に朝を迎え、一緒にいるということを実感している。 彼は煙草を口にくわえ、シーツを巻つけて立ち上がる。 昨日から二人で泊まっているホテルの部屋は。 互いの部屋にいるよりも、二人きりに感じる。 ここには誰もいないから。 私達を邪魔する人なんて誰一人として……。 他には誰もいないと知っはているけれど、 彼がどこを見つめているのは分からないままだ。 隣に立つ彼にもたれかかると、抱きすくめられた。 もうすぐで、この時は終る。帰ったらまた一人に戻る。 儚い泡沫の夢は、あっという間に消えてなくなるのだ。 時間を止めて共にいられたら。 悲しみを抑え、願いをかけるように彼の手を握る。 心のどこかでは危険な恋とわかっていた。 手を引かれ甘い罠の中に引きずり込まれ、 這いずりだす事もかなわないけれど。 痛む胸は、治まることを知らず、 行き場のない想いを持て余し、これからどこへゆけばいい? 彷徨った先には何があるの。 瞳の奥が熱くなる。(泣いては駄目。折角の二人の旅行なのよ) 言い聞かせても、涙は溢れ出す。 彼に抱きしめられ
初めての一泊二日の二人の旅行。 彼と一緒というだけで心が躍り、ときめく。 私たちは少しずつ変り始めてる。 いつも朝になれば切ない別れが来る。 穏やかにそばを離れられたことなんて一度もなかった。 一泊二日とはいえ時間を気にせず一日中一緒にいられることは、とても幸せだ。 心はまだ届かなくても私はまだ彼に見切りをつけられてはいない。 普段は言ってくれなくてもベッドにいる時は愛してると言ってくれる。 赤い花をたくさん咲かせてくれる。 私は青と会うまで、何も知らなかった。 結婚するまで誰かと体の関係を持つことはないと思ってた。 周囲の友達にも固いとか古風とかよく言われたほどだ。 助手席から運転している彼の横顔を見つめ、微笑む。 海も夜景もたくさん見たい。 想い出は消えることなく胸に残る。 首にかけたネックレスをぎゅっと握り締めた。 彼がくれたプレゼントが力をくれる。 車はトンネルを抜け、海が見え始める。 窓を開け、無邪気に身を乗り出した。「きれい」 ルームミラーに映る彼は、笑っている。「ホテルに荷物置いたらすぐに海を見に行こうか」 涼しげな声音が頬を撫でる。 こんな瞬間がとてもかけがえなくて愛しい。 そう感じていた。 海鳥達の鳴き声。 車はスピードを上げて、真っ直ぐ進んでゆく。 彼の器用なハンドルさばきにもみとれてしまう。 車をバックさせる時の真剣な眼差しも何もかも好きだった。 洗練された身のこなしと、女性扱いの上手さ。 何もかもできすぎている男性。 一ミリの隙も見せなくて、こちらに何かを気取らせるようなミスは 犯さない。計算なのかもしれない。 何も悟らせない彼は常に完璧だった。 聞かれたら答えてはくれるが、彼から教えてくれることは無い。 悲しみで押しつぶされそうになる胸を手のひらで押さえ景色を眺めた。 何て美しいのか。 海の青はとても心をくすぐる景色だ。 その時、車が停まった。 目の前には大きなホテル。 こんな立派な所に止まるのは初めてだった。 ガチャリ。 彼が、車を降りて助手席の扉を開ける。「ありがとう」 トランクから二人分の荷物を降ろすと、「いこうか」 彼の後ろをついて歩き、ホテルに入っていく。 立派な高級ホテルだが、個人経営で従業員の数が 少な目のホテル。俺は宿泊先を選
彼女は帰ろうかと思った矢先、階段で足を踏み外した。 普段はしないようなことをするなんてよほど 疲れていたんだと結論づけたかったのだけれど、 そこで終わることはできなかった。 彼女を助けようと階段を上ってきた青年も巻き込んで 共に堕ちたのだ。 どこまでも。 この出会いが永遠となることをまだこの時二人は、知らなかったのだけれど、 非現実的な出会いはまさしく運命だった。 彼女が忘れ物を取りに来なければ彼と出会うことはなかったのだから。 どうやら痛みは無いようだ。 身じろぎしても起き上がれないのは強い力で 抱え込まれているからだと動転した意識の中でやっと気づく。 起き上がろうと体を動かせばまた腕の力が強くなったようだ。 体が強張る。 きっとこの腕の持ち主が助けてくれたんだ。 広い腕の中は気が狂いそうなくらい温かくて。「ごめんなさい……」 自分の不注意で巻き込んでしまったことが申し訳なかった。「支えてもらってありがとうございます。お怪我ありませんか? 」「ううっ」 聞こえた呻き声にびくっとした。 どこか痛いのだろうか。どうしよう。「胸が痛い」「う……本当にごめんなさい」 頭を動かして彼の方を見つめる。 きっと今泣き出しそうな顔してる。 悪いのは私で彼は助けてくれたのに。「君こそ大丈夫か?」 いい人だ。 ふっと微笑を浮かべてこちらを安心させてくれようとしてる。 起き上がれないまま、背中から腕が回ってきて抱きしめられる。 決して強引ではない柔らかい仕草。 公衆の面前で地面に横たわったまま抱きしめられてるなんて。 今更ながら恥ずかしい。「ええ。もう大丈夫です」 彼の腕を剥がし立ち上がろうとした時強く抱きすくめられた。 再び彼に寄りかかった状態になる。「えっ……」「送っていこうか? 」「……バスで帰りますから」 高鳴る鼓動。 間近に見た彼の顔が信じられないくらい綺麗だったから驚いて、 一瞬これが現実ではないような錯覚を起こす。「気にしなくていい」「……じゃあ」「私の家でお茶でも飲んでいきますか? 」「ええ」 私はその時、彼の口の端が上がったことに気づかなかった。 駐車場まで二人で歩く。 高い背を時折見上げては、息を吐いた。 無言で誘導する人は私の手をぎゅっと握っていた。 指先
受話器越しに聞こえてきた声音に、ぞくりと身を震わせた。 息を飲みこんで、呼吸を整える。 彼が漏らした呟きを頭の中で繰り返す。『……来週まで待てない。今すぐ会いたい』 平静を保つのに必死になった。 切羽詰まった声音が、心の琴線を掻きたてる。『沙矢…… ? 』 どうやら、思案する時間が長かったようだ。 怪訝そうに聞き返す声に、『私も会いたい……』 どうにか告げた。涙声になっているのは気づかれたかな。『今から、迎えに行く』 ぷつり、途切れた電話。 ツー、ツーという音だけが響いている。 呆然と立ち尽くしていた。 あんな風に求められるなんて、これが現実かどうか分からなくなる。 この部屋で、抱かれてから、まだ日は経ってはいない。 再会してから、未来も見えないまま関係を重ねていた。 さっさと着替えることにした。 シフォン生地の白いワンピースをクローゼットから取り出し、鏡の前で体にあてる。 こんな私が白い服を着るなんてと苦笑する。 青への純潔を守っている証。何色にも染まらない意思表示だった。スカートの部分にフリルがついていて可愛らしい服だ。 この間見せたら気に入ってくれたので、これにしようと思った。 ハンドバッグを手に、そわそわと部屋を歩き始めた。 約束は破らないと思うが、二人の関係のせいで、完全に信じきることはできなかった。 チャイムの音がし、慌てて開けると彼がいた。 どこか疲れた表情をしているが、衣服の乱れなどは何一つない。 すっきりとダークグレーのスーツを着こなし、同系色のネクタイをしめている。 童顔というわけではなく、年相応に大人びているのだが、 歳の差を意識させない人だと、今更ながら気づく。 会社にいる彼と同じ年齢くらいの男性と比べても、若々しい。独特の雰囲気を醸し出していた。「……どうかしたのか。行くぞ」 手を差し出され、掴むと引っ張られるように外へ出た。 慌てて鍵をかけると、青の側に立つ。 掴まれた手首に少し力がこもっていた。 それでも歩幅は合わせてくれていて、ゆっくりと隣りを歩くことができた。 横顔はとても切なくて、見ていると胸がしめつけられる。 車に乗り込んで、一息つくと、青が唐突に話しかけてきた。「……今日は、あまり気づかってやれないかもしれない」 どういう意味か分かってしまい、
不安、焦燥、ひたすら愛しいという気持ち。 全部が彼の為のもの。 藤城青、年上の美丈夫。 不条理な関係しか二人の間には存在しなくても、私は自分の気持ちを捨てるつもりはない。 言葉にして伝えることは、できないけれど。 二人で出掛ける機会がまたあるなんて夢のようだ。 忙しい彼は私なんかのために時間を割いてくれている。 これから、二人で紅茶の専門店に行く予定なのだ。「……青」 名を呟くと切なさで胸が苦くなる。 誕生日でもないのに贈ってくれたプレゼント。 青のマンションの部屋で、思い出がまたひとつ紡がれた。 中央に三連のピンクベージュ色のパールがついたネックレスは 洗練された大人の女性がつけるものだ。 嬉しくて心が跳ね躍った。 今日は鎖骨がのぞくブラウスを着て、ネックレスをつけている。 ドアのノックの音が微かに聞こえ、ぱたぱたと走っていく。「……迎えに来てくれてありがとう」 恐る恐る見上げたら、指が伸びてきた。 髪に触れられて、どきどきと心臓が暴れ始めた。「ネックレスつけてくれているんだな」「うん……私にはもったいないくらいだけど」 あなたがくれたものだから。 最後の言葉は胸にしまい、はにかんだ。「そんなことない。今日の服装にも似合っている」 つくりものめいた無表情に淡々とした言葉。 瞳がやさしく細められたのは気のせいだろうか。「行こう」 差し出された手に、手を重ね、後ろに続いた。 駐車場につくと、先に彼が車に乗り込み中から助手席のドアを開けてくれた。 喜々として微笑んだ私は、 隣りに座る彼が緩く眼を伏せたのを見て表情を変えた。 シートベルトをつけたのを確認すると、ゆっくりと車が動き出した。 車窓から流れる風景を眺め、沈黙の時間をやり過ごした。 一人ではしゃいで、興醒めさせてしまったら嫌だ。 あの日から一週間後の休日に会えたことは、何にも代えがたい僥倖。 それを台無しにしたくはない。スムーズに駐車スペースに止まった車に、もう着いてしまったのかと愕然とする。 バッグを握りしめていると、外からドアが開けられた。 彼が先を歩き、ついていく。 隣を歩いたって誰に見とがめられるわけではないのに自然と背中を見るのを選んでいた。 広くて逞しい背中。長身痩躯でスタイルも抜群だと思う。 薄茶色の髪は日が当た
今日は彼のマンションへ行く。「うちへ来ないか」 彼に誘われ、驚いた。 まさか青の家に連れて行ってくれるとは思わなくて。 驚きを隠せないで呆けている私に彼は言った。「プレゼント受け取ってくれ」「うん。嬉しい」 さり気ない心遣いが胸に染み渡るようだった。 外での食事を終え、車に乗り込む。 白のスポーツカーは彼に良く似合っているけど どこか不釣合いに感じる。 私にとって彼は黒か藍のイメージなのだ。 纏う色も去ることながら、雰囲気そのものも。 煙草を銜え、ハンドルを操作している彼は、本当に格好いい。 いつもそう思う。 助手席のシートに腕を置いて軽やかにバックする時なんて 腕の中に閉じ込められている気分になってしまう。 流れる景色を見ていると、そわそわする。 彼の部屋へ行くなんて初めての事で、期待で胸が膨らんでいた。 彼は私に何をくれるのだろう。 情熱の欠片だけでも私は十分幸せなの。「せ……い? 」 こわごわ話しかける。「今日、泊ってもいいの? 」「当たり前だろう」「カクテル作ってやるよ。お前をイメージした物を」「うん」 頬が綻ぶ。 本当に祝ってくれるんだ。 車が左へ合図を出し、左折する。 目の前には、大きなマンションがそびえ建っていた。 最上階の最奥が彼の家だ。 彼が助手席のドアを開けてくれる。 車を降り、彼の後ろを歩く。 広い背中を見るのが好きで、私は常に彼の後ろを歩いている。 3歩後ろをゆくなど意識しているつもりはない。 背中を見つめていれば確かにそこにいる彼を感じられる 気がするから後ろを歩いている。 こんなに近くにいても遠くに感じるから、 私にはこうすることしかできない。 細く長い指がエレベーターのスイッチを押す。 あっという間に最上階へと運ぶ機械。 彼はオートロックの部屋の鍵を開ける。 ホテルの部屋以外で、カードキーを見たのは 初めてで少し感動してしまう。 次いで、部屋に入ると、広さに圧倒された。 3LDKだ。私の部屋と比べてどれだけ広いんだろう。 何より驚いたのは、目立たない閉鎖された空間だということ。 こんな所に彼は一人で……。「ねえ」「何だ」「随分寂しい場所ね」「こういう所じゃないと駄目なんだ」「……そうね」「掛けてくれ」 広いリビングで黒い革張







